二十二話-マッサージ
トオルの一日はリーリーエの日課と共に始まる。彼女が中庭で剣の素振りをする時間にトオルも起床し、中庭の端に座って観察するのだ。
一週間ほど、トオルはリーリエ・イノの情報収集に徹していた。彼には屋敷の仕事というのが別段なかった。むしろ、使用人にもてなされる身分である。そのため、朝から中庭で座っていても咎められることはない。
新米の従者とは思えない待遇だ。普通の場合、従者の献身度合いを試すために無理難題を振られるとよく耳にしていただけに、トオルは拍子抜けしていた。
従者として雇われても、永遠に従者で居続けるケースは少ないらしい。トオルも調べて知ったことだったが、従者から護衛だったり、事業を任せたり、出資して何かをさせたりと、職を与えるのだ。
そのケースは気が合わないが有用だから、従者としてではなく普通に雇用するそうだ。
つまり、従者で居続けられるのは気が合って有用、両方を兼ね備えた者である。
主人に一生付き従う者。主人が繋ぎ止めたいと強く思う相手。それが従者である。学生のうちの従者は見習いに近いものなのだろう。
その篩にかけるのは雇う側だ。なのに、リーリエは嘘つきでこれといった取り柄のないトオルを手元に置いている。何がしたいのだ?
とはいえ、ありがたいものはありがたい。トオルにとってメリドで生を受けてから、初めて訪れた至福のひと時だ。が、彼はさらに、と望む。なぜなら、従者は所詮使い捨てだ。中には複数雇う者もいる。悪魔の子と知られたら簡単に切られてしまう。
だが、焦りはしない。リーリエの従者にさえなれば、ひとまず生活は保障される。急いで行動する必要はなかった。最善の準備を済ませ、機を見て切り込むべきである。これからの余生を賭けた一世一代の大勝負なんだから。
「おはようございます」
「おはよう」
歩いていたクロがトオルに気づいて挨拶してきた。相変わらず愛想はない。
世間話もせず、彼女は去って行く。
外堀から埋める。トオルはリーリエの前にクロとニクルからと考えていた。
それでも、クロの方は一週間で全く進んでいない。
元々、ニクルからと狙いはつけているが、進みがここまでないと落ち込む。
手入れされた芝生を踏む気配を察知し、気落ちしていたトオルは姿勢を正した。
「トオルは今日も日光浴かい?」
リーリエがニコニコした顔で言った。
観察しているとは言えないので、日光浴が好きということにしていた。
「朝が弱くて日光を浴びると、一日しっかり動けるのです」
リーリエはトオルと仲良くしたいと言ってきた。
そうとも、ご要望には従うさ。トオルはそう決めた。
リーリエの事を目の前で疑わない。主人として信頼する。
演技とはまた違う。仲良くなろうと本気で行動しているのだ。
言われたからというのもあるが、キスのためにも仲良くするのはステップアップになる。
「それは一理あるね」
リーリエは小さく笑うと、トオルに木剣を差し出した。
「朝の目覚めついでに剣の訓練に付き合ってくれるか?」
「文官志望でよければ」
メリドは他国と戦争したことがある。そのため、登用の際、武官と文官を選ぶようになっていた。
貴族は配下の武官や文官を使って戦争をなさるわけだ。
「本当に文官志望なのかい? あんなにうまい剣裁きだったのに」
刀剣の腕は前世で土台があった。古武術にのめり込んでいた祖父の影響である。もちろん、こちらに来てからも利用してきたので、我流ではあるが磨かれている。
そのため、武道に優れたリーリエ相手でもそこまで劣らない。リーリーエは純粋に剣技を追求している。相手をいたぶる事が目的ではないから安心だ。
体を動かすのは嫌いではない。トオルは快諾した。
十数分打ち合い、日課は終了した。
「いい試合だった。湯あみをしよう」
リーリエは爽やかな笑みを浮かべてそう言った。彼女の所作には星が見える。王子という称号がこれほど相応しい女の子はいないだろう。
トオルが使用人を呼ぼうとするとリーリエに引き止められた。
「流すだけだ。彼女らの手を煩わせる必要はない。それより、トオルも入ろう」
「いえ、清掃も兼ねて後で入ります」
む、と零しリーリエは表情を硬くする。学園では華やかで凛々しい少女であるが、屋敷では多彩な表情を見せた。無論、王子様のイメージを崩さぬ程度の愛嬌だ。
リーリエは貴族としてはあまりにも珍しい使用人の手を煩わせようとしない主人だった。彼女には階級だとか身分のような差別意識がない。使用人を雇ってはいるから家事は任せるが、何でもやってもらおうとは思っていないのだ。出来る事はして、出来ない事を助けてもらう。あくまで奴隷ではない、と。
だから、トオルの言い分を却下できない。クロとニクルの仕事量を減らそうとする行動を邪魔できないのだ。身分という考えがないから、従者だからしなくていいなどと言わない。
それ以前に、建前がなくとも、リーリエはトオルの意思を尊重しようとするので、断っても強引に迫ることはなかっただろう。
リーリエにとって、トオルに意見されたことは些細な問題のはずだ。
それよりも、トオルを何度も湯あみに誘っているのに断られるので、リーリエは表情が硬くなるのだ。恐らく彼女はトオルと親交を深めるために湯あみをしたがっていた。
そのことをトオルもわかってきたので、すぐ言葉を付け足す。
「その後、リーリエ様のお時間があれば、お部屋に行ってよろしいでしょうか?」
様という呼称に眉をひそめたリーリエだったが、トオルの提案は嬉しいようで曇っていた顔が輝いた。
トオルは、リーリエが自分との距離を感じていて、それに不満を募らせていたことに気づいていた。仲良くしたいというのは口先だけでなく、また湾曲した意味でもなかったのだ。身分のない友人、彼女はそれを求めている。
だてにスラムで生きていない。顔色を窺えて当たり前の世界だ。気配に敏感でなくてはならない。
それに元々、菊池トオルであったころから得意な方であった。だから、彼は前世でニートとして実家に置いてもらえていた。
リーリエはわかりやすく表情を変えるので、わからない方が難しい。あまりにも素直だった。
本来、主人と新米の従者は距離があるべきものなのだが、この屋敷では違うのである。トオルも一週間経って、そのことを確認したから軽いジャブから行動に移し始めたのだ。
様付けもわざとである。いきなり全てを出し切れば、残るはカスだ。手札が悪いからこそ、切るタイミングは選ばねば。
部屋に行って何をするかは決まっている。ガールズトークなどではなく、マッサージだ。
トオルはマッサージが得意だった。
その理由を彼女はこう考えている。人の顔色を窺うのが得意だから、だと。
身につけたのはニートでいるためだ。家事はしていたが、それだけでは弱いので、ネットで学んだマッサージを家族にしていた。今思えば、この努力を違う方向に使うべきだった。
日本ではマッサージは医療術の一つとして認識されていたが、メリド大陸ではポピュラーなものではなかった。なぜなら、加護の一つに癒しというものがある。気力を回復させるようなファンタジーならではの効能が主流で、前世で言う所の医術は発達していない。
そこを狙って、トオルはマッサージで相手との距離を詰めてきた。皆、効能とマッサージの物珍しさに惹かれるのだろう。ステラに出会うまで、マッサージの方が武器であった。
彼女にとってマッサージとは、いつもながらの手口なのだ。
「失礼します」
トオルは汗を流したあと約束通り、リーリエの部屋に向かった。
リーリエは昼にもなっていないのに、寝間着を着ている。
可愛いらしい寝間着だった。ネグリジェという種類になるだろう。しかし、シンプルなデザインで扇情的なものではない。しかし、美しい者が着れば、見る者によからぬ感情を抱かせてしまう。
いつもパンツ姿だからというのもあるだろう。
「服の準備を忘れていて、これしかなかったんだ」
「そういうわけですか」
「それで、何をするんだい?」
「マッサージです」
「まっさーじ?」
書物をよく読むリーリエもマッサージを知らないらしい。違う名称で知られているのかもしれないが。
「あれこれと説明するより、体験した方が早いので」
「それもそうだな」
リーリエはトオルの指示に従いベットにうつ伏せで寝た。
文武両道を地で行くリーリエだからか、肉付きがいい。出ているところは出ていてへこむところはへこんでいる。顔だけでなく、体も恵まれた少女だ。なので、寝転んでいるだけで絵になる。
トオルは理性をわざわざ働かす必要があった。体の一部が主張しないように、意図的に意識を飛ばす。そう、トオルは一見すると女性だが、厳密に言うと違う。両性というのが正しいのだろう。胸は小振りながらもしっかり隆起しているが、股間には男性器がついていた。
だから、合法的に女性と風呂に入る、という機会を逃したわけである。遠慮していたわけではないのだ。
事情を知っているステラなら問題ないが、リーリエ相手ではそうはいかない。
悪魔の子だとバレるわけにはいかない。
「ん、気持ちいいな。そういうものなのか?」
「はい。癒しの加護が無い者でも行える治療の一種です」
トオルはリーリエの反応を窺いながら、力加減を調節していく。
リーリエも初めは緊張していたが、今ではすっかり弛緩しきっていた。
「どこか辛いところはありませんか?」
「そうだな。最近は椅子に座りすぎて腰が」
「腰が辛いんですね。わかりました」
リーリエの肌は健康的でみずみずしい感触だった。指圧に合わせて艶めかし声を出すから、トオルは一層集中しなければならなかった。
「近頃、剣の稽古を怠っていたからな。座ってばかりでは鈍ってしまう」
「それだけ座学に励んでいたということじゃないですか」
リーリエはクスクスと笑った。
「どうかなさいましたか?」
「いや、トオルに褒められるのは悪い気がしない。同じことを色んな人に言われてきたが、心がこもってなかったからな」
この世界には人の思考が大雑把にわかるという加護もあるらしい。それをリーリエが持っていても不思議ではない。
だが、それでも問題はなかった。トオルは世辞などではなく、素直に褒めていた。リーリエは本当に勤勉なのだ。
もし、トオルの転生先がリーリエだったなら、自分は怠けに怠けていたという確信があった。元々ニートである怠ける才能は持てあましている。
イノ家の身分に驕ることなく研鑽を重ねているリーリエは、トオルの理想像であった。
そう、あまりに綺麗すぎる。
生まれ持っての強者のみが持つ清廉さ。あまりに胡散臭い存在が、目の前にいる。
どこか醜い感情を見せてくれればいいのに、リーリエは一向に隙を見せない。
トオルにとって、リーリエは暗い感情を抱かせる存在だった。
トオルは小一時間ほど念入りにマッサージをした。初回サービスだ。リピートしてもらう必要がある。
「ありがとう。トオルにはよくしてもらってばかりだ」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。満足してもらえたようで何よりです」
ゲームみたく好感度が見えれば、プラス値になったのだろう、と手ごたえを感じるトオルだった。
お待たせしました。そろそろ更新ペースを上げていきます。まずは週一から五日に一回に……。
ですので、次回は七月の七日か八日に更新を予定しています。
誤字脱字の報告、ありがとうございます。
小説家になろうさんにこんな機能があったとは知りませんでした。
とても便利ですね。