ニ十一話-リーリエ・イノ(内)
トオルがリーリエの屋敷に着き門を抜け、扉を開けようとした所でニクルが出てきた。
「おかえりなさいませ」
茶髪を揺らすほど速く深くお辞儀をして出迎えてくれる。
綺麗なつむじを見せられると、つい悪戯しそうになるがトオルは思い留まった。まだ二日の付き合いだ。まともに話もしていない。
「ただいま。よく気づいたね」
「門の音がしたので」
ニクルは顔を上げて歯を見せた。笑顔と言うには硬い。まだ緊張しているようだった。
とはいえ、その硬さも可愛らしい。小柄なこともあるが、オドオドしていてもどこか人懐っこい雰囲気がある。悪く言えば隙がある雰囲気だ。
「こんな可愛らしい子に出迎えてもらえるなんて感激だよ」
トオルが笑うと、ニクルが唇を尖らせて頬を包むように手で顔を隠した。
「そう畏まらないでよ。これから一緒に過ごすんだ。仲良くやろう。ね?」
隠した手にトオルは顔を寄せて微笑む。
ニクルはコクコクと頷いて、トオルから鞄を受け取ると屋敷に入っていった。
トオルも後を追いながら、話しかける。
「リーリエ様は?」
「いつもの、えっと、学園からのご帰宅後は中庭で汗を流してます。必ず」
「そうなんだ。ありがとう」
トオルがウインクを飛ばすと、ニクルは鞄で顔を隠して小走りで去って行った。
悪くない手応えだ。こういう気さくさとは縁がなかったらしい。
そんな分析をしつつトオルが中庭に向かっていると、廊下でクロを見かけた。
「おかえりなさいませ」
クロの方が先に挨拶をしてきた。
ニクルと違って、ゆったりとした所作だが遅くはない速度で頭を浅く下げる。すぐに顔を上げ、そのまま歩き出した。
怒っているわけではなく、あれがクロのデフォルトらしかった。リーリエの前でもああだったし、そのことにリーリエが腹を立てている様子もない。
トオル以外に接するステラを彷彿とさせる。態度が似ているのもあるが、彼女もクロと同じく背が高いのも大きい。
ニクルと違って隙が無い。この屋敷でまず狙うのはニクルだ。いきなりリーリエをとはトオルも考えていない。
トオルが中庭に近づくと、ブンブンと何かを振る音がした。
音の方に近づいていくとニクルが言ったように、リーリエが剣を振っていた。彼女は上は制服のままだったが、下はズボンを履いていた。ちょうど、リーリエは背を向けていて、剣を真っ直ぐ振り下ろしている。ストレッチをするみたいにゆっくりとしていた。
「おかえり、トオル」
手を止め、リーリエが声をかけてきた。
トオルは苦笑する。リーリエは自分に背を向けていたし、距離はまだずいぶんあった。物を投げるのに狙って力を込めなくてはならない距離だ。百メートルは離れているだろう。
後ろに目がついているかのようなという表現がぴったりだ。
だが、リーリエの鋭さは気配だけに留まらない。二日で嫌と言うほど理解している。
「すみません、鍛錬を中断させて」
「そんなこと言わないでくれ。君に話しかけてもらえるのはすごく嬉しい事なんだ。それにこんなもの鍛錬とは呼ばない。ただの癖だよ」
当たり障りのない謙遜。リーリエから発されると、嫌味を感じない。
リーリエという少女に対して、トオルは一欠けらの失望も抱かなかった。
どれだけ憧れている人であっても、醜い部分は見えてくる。生活を共にすればなおさらだ。
ところが、彼女はイメージ通りの人だった。
気品ある振る舞いに相応しい優等生。家でも外でも品行方正で、常に姿勢正しい。裏も表も凛々しくも柔らかな王子様。
そして、優しさもある。
従者はあくまで主従関係だ。上下があって当然だが、リーリエは従者に寛大だった。寛大では足りない。トオルに自由を与え、ほとんど縛り付けない。
それは使用人たちにも同様だ。身の回りの世話をさせているが、キチンと対価は払うし強要もしていないようだ。むしろ、仕事を奪う始末。使用人たちが自ら動かないと、勝手に自分で済ませてしまう。
二十一世紀の地球ならともかく、階級制度が根強いネメスでは稀有な存在だ。
出来過ぎているせいで、思わず警戒してしまうほどである。隙というか不可解なのはこの完璧さとトオルにフレンドリーすぎることだ。トオルの前でも王子様だが、少しだけ子供っぽさも出している。
「トオル、木剣があるから手合せしないか?」
あくまで提案だ。断わればどうなるか、と暗に示すこともしない。
だから、トオルも変に遠慮はせずに気持ちを口にする。
「私、程度ではお邪魔になるのでは?」
「そんなことない。君が良ければぜひ。加護を使わない剣だけの打ち合いだ」
「それなら」
加護がなければあるいは。トオルにそこまで甘い考えはない。
身体能力そのものが加護の有無で違う。出力の違いを覆せるほどの技量もない。
自分が勝利できるとすれば騙し討ちや不意討ちといった汚れた手だと理解している。
にもかかわらずリーリエの提案を受けたのは、主人がどれほど強いか。そして、武器を持った状態で弱者にどのように振る舞うかを見るためであった。
速いテンポの打楽器みたいに荒い息が交互に鳴る。
それはトオルとリーリエが響かせていた。木剣を置き、地面に座り込んで呼吸を繰り返す。
「楽しい」
リーリエが呼吸の合間を縫って呟いた。そして、ニコリと笑う。
前髪を張り付かせていても、様になる。可憐であり、凛々しくもある。
美だけでなく、剣も綺麗なものだった。それが実用的なのだからあっぱれだ。
剣の腕は明らかにリーリエの方が上だった。明確な差はあれど、勝負にならないものではない。気の抜けない相手ではあるだろう。
尤も加護を抜いてだ。本来のリーリエにトオルは太刀打ちできない。
リーリエはムキになることなく、加護無しの打ち合いをし続けた。痛めつけたり、優位を見せつけたりする意図はなく、体を動かすことを愉しんでいた。
「トオルの動き独特だったな。湯浴みをするけど、君は?」
呼吸を落ち着けたリーリエが尋ねた。
「あとで」
「遠慮せずとも」
「大丈夫です」
トオルは笑顔を浮かべながらも緊張していた。これが通らなければ強引な手を使わなくてはならない。
彼の急所。両性具有が発覚すれば、悪魔の子であるとバレてしまう。
「わかった。じゃあ、晩御飯はどうする。君の好物を用意してもらおう。何がいい?」
トオルは悩む振りをした。
リーリエは裏表がない。それ故、トオルには彼女がどんな人物なのか掴めずにいた。
何より、神を欺く嘘をついて、それを見抜いていてこのフレンドリーさだ。
清廉潔白な人物が、どうしてこんな嘘を許すのか。
自分に利用価値がないのはわかっているが、疑いは止められない。
リーリエの基準は見当がつかないままだ。
「そんなに私が疑わしいかな?」
今度こそ答えに詰まった。演技も忘れている。
トオルは自分の演技に自信があった。少なくとも的確に見抜かれる事はないと思っていた。
それがリーリエは言い当ててみせた。
彼女は時折、鋭い一言を放つ。トオルが覆い隠した嘘を易々と看破する。
「どうすればいいだろう。何をすれば君に信頼してもらえるんだろうか」
なのにこの態度だ。
リーリエが下手に出てくる。
「君を従者にして、望んでいることは一つなんだ。君と仲良くしたい」
「私もです」
素直な言葉だった。仲良くの方向性が一致しているかはわからないが。
「ありがとう」
リーリエはトオルに抱き付いてきた。
互いに汗まみれだったから、服が張り付き、肌が汗で密着する。
身長差があるため、リーリエの胸にトオルが顔を埋める形だった。汗がたまっているだろうに、臭くないどころか甘い匂いがする。
そんなことに混乱しているうちに、リーリエはトオルを離してはにかんだ。
「一度やってみたかったんだ」
頬を赤らめて、少し歯を見せる。
本当によくわからない。
仲良くしたいために、嘘つきの従者を雇う? どういう基準だ?
ますますトオルにとってのリーリエが不可解な存在へとなっていった。