二十話-リーリエ・イノ(外)
「トオルさーん」
高い声が自分の名を呼ぶ。怒声や泣き声ではなく好意のある声。それがいくつもあるのだから嬉しい。前世であればそう思っていただろうが、実際に当事者となると困るものがある。
トオルは彼女たちから逃げ、空き教室に身を隠していた。一番後ろの窓際の机に潜んでいる。
追われている理由はリーリエ・イノの従者になったからだ。トオルに決まったのは皆が知る話だが、既にリーリエの家で生活しているという情報まで知れ渡っていた。
リーリエに話しかけるのは恐れ多くできなかったが、架け橋となるトオル現れ殺到したわけである。前の従者の高圧的な態度は、人避けではいい効果だったわけだ。
有名人の親戚だとバレてサインを強請られている。そんな心境のトオルだったが、悲観はしていないしチャンスだと感じていた。
騒ぎも面倒だが悪いことばかりじゃない。勝手に夢見てくれる。
リーリエ・イノが選んだのだから、トオルという人物は優れた才があるのだ、と。
だから、話しかけてきた全員が全員、リーリエのためではなかった。トオルに興味を示す人物も多くいた。
好意があれば駒として狙えるかもしれない。キスを用いなければならない以上、慎重になる必要はあるが選択肢として挙げられる程度にはなっている。
編入した当初はボッチで、他の生徒に取り付く島もなかったことを考えれば大きな前進だろう。
「いないわね」
声と共に扉が開く。
トオルは息を殺して、耳の神経を研ぎ澄ます。
質問攻めを躱すのはもう懲り懲りだ。雑に対応できればいいが、リーリエの従者となった今、そういうわけにはいかない。
優等生ぶって応対するのは肩がこる。今日のうちに設定を固めておかないとボロが出てしまうと考え、トオルは逃げていた。
「こんな事になるなら編入してきた時に話せばよかった」
「あら、あなたも気になっていたの?」
「え、お二人ともですか? 私もです。綺麗なお顔だなって」
初めに話していた二人が肯定した。声は三つ。彼女らは腰を据えて話すようで、椅子を引いて座った。
「顔もそうだけど、髪が気になってね」
「うんうん。あまり見ない髪色。トオルさんって不思議と目を惹くの」
トオルは自分自身の容姿がいい方とは思っていた。一方で自画自賛 だとも。
けれども、そうではないらしい。容姿はそれなりに整っているようだ。認識されてはいたが声をかけるまでもない。そんな存在だった。
顔が良くて、リーリエ・イノに認められた。気になるのは道理である。地位によるプラスではなく、掛け算なのだ。
「それを言うならやっぱりリーリエ様だけど」
「当たり前じゃない。今日、知ったけれど美しいだけじゃなくて本当に優しいんだから」
「今日だってあれだけの人数に囲まれて丁寧応対してらっしゃったんだもの」
リーリエはリーリエで囲まれていたらしい。
今日の講義はトオルとリーリエは全く被っておらず、別行動となっていた。
トオルはため息をつきたくなる。分散されていてあれだけの人数に追いかけ回されたのか。百はいたのではないか?
「以前も喧嘩の仲裁をして、倒れていた者の介抱をしてらっしゃったわ」
「それでいて強いんですものね。剣術大会はあの方がいれば優勝でしょう」
「清廉潔白。隙がない人よ。悪い噂を聞いたことない」
本人不在の噂でここまで褒められているのは、ひとえにリーリエの人気さが確かだからだ。
トオルはリーリエの従者になる前から、彼女の悪口を聞いたことがなかった。学園のアイドル。唯一の難点として前任の従者が挙げられているぐらいである。
トオルのように編入ではなく、何年も過ごしていた人々が称賛している。
人柄も、容姿も、技能も、全てが優れている理想の存在であると。
しばらく雑談してから生徒たちが去っていき、トオルはようやく空き教室から出た。
逃げ回っていたせいで、いつの間にか自分の講義が終わっている。正確には最後のコマの途中だが、今更講義に出て生徒たちに捕まるのも馬鹿らしい。
リーリエの方が先に終わるので、一人で帰宅すると言われていた。
人が少ないうちに学園を出ようと、トオルは小走りで移動する。T字路の曲がり角に差し掛かって、足音が聞こえてきたので咄嗟に柱の裏に身を隠した。
「ケルビィ様、講義は?」
「あんな退屈なの聞いていられない」
二人の生徒は曲がることなく、そのまま直進していった。
彼女らの足音が聞こえなくなってからトオルは柱から身を出す。曲がり角を見ると、二人がまだ見えた。
ケルビィと呼ばれた生徒の数歩後ろに、もう一人の生徒が歩いている。きっとケルビィの従者なのだろう。
従者は主人に近しい人物だが、上下関係は存在する。親愛から結ばれたものでも、才能を確保するためでも対等な者は契りを結ぶ必要はない。
神により選ばれた者が、自分より劣る者に親しげであっても差は生じるのだ。
「あれが普通だよな」
トオルは独り言を呟いて、思考に耽る。
学生時代の従者は結び立てで関係が深くない事もある。
だが、深かろうが深くなかろうが、やはり従者は主人を尊重するのが前提にあるものだ。こき使う事はないが、隷属の関係である事には変わらない。
その一般的がリーリエには当てはまらないようだった。講義が違えば変更を促してくると思ったがそんなこともなく、自由を与えてくる。
何より、リーリエはトオルの嘘を暴いている。それなのに、従者として認めたのだ。
一日屋敷で過ごしてもフレンドリーで、今朝も変わりはなかった。
彼女を蕩かす。その目標は変わらないし、フレンドリーなのはチャンスだ。けれど、それを鵜呑みにするのは違う。
リーリエの中で何かの基準があり理屈がある。今後、蕩かす人物だからこそ、その線引きを知っておくに越した事はない。
彼女に探りを入れて行かねば。
このままでは終了まで何百話なるやら、と思ったので次話から一話あたりの文字数を増やす予定です。
更新頻度は最低週一、ストックがいくつか出来れば都度更新となります。
お待たせして申し訳ありません。