二話-ステラ・ハイフ
トオルが生きているのはネメス国のスラム街だ。スラム街は東西南北に区域分けされていて、彼が勤めていた店はリクス地区にあり、今は南のハイフにいた。正確にはハイフのど真ん中、管理者ステラ・ハイフの住まいの前だ。
スラムで最も権力の高い女の住まいだから、広く物々しい。高い柵が敷地全体を囲んでおり、一つしかない入り口には女性の門番がいる。
トオルは雨の中、柵に引っ掛けられていた鎖に道端で手折った花を挿してその場を離れた。
トオルは近くの隠れ家に入った。リクスにはないが、ハイフであれば身を隠す場所はいくつかある。それを用意したのはトオルの独力ではなく、協力者がいたからこそだった。
勝手知るトオルは、ランプに火をつけた。中には机と椅子が二組、そしてベッドがあるだけ。
濡れた服を脱ぎ、椅子にかける。暗い赤髪をかき、水気を飛ばす。
そうしていると、扉が五度、ノックされた。
トオルが扉を開けると、背の高い女が傘を差して立っていた。名はステラ・ハイフ。名が示すようにハイフ地区の管理者である。
「お待たせしました」
ステラは素早く中に入ると頭を下げた。彼女の髪は黒のロングで、後ろで一つまとめにしている。だから、ちょっとの動きで大きく揺れた。
トオルはその髪をつかみ、撫でる。
ステラは抵抗することなく、頭を下げたまま受け入れていた。スラムの最底と最上、それが全く逆の関係を見せている。
「待ってないさ。合図して十分ばかりだ」
トオルはステラの肩を押すようにして顔を上げさせる。
顔を上げたステラは、暗い赤茶の目を蕩けさせていた。目が潤み、目尻がは下がって、口が弛緩している。
当たり前のようにトオルはステラの唇を奪い、舌を絡ませ離れる。
ステラ・ハイフはトオルにとって、最上級の駒だ。いつまでも溺れていてもらうためにも、キスを絶やすわけにはいかない。
トオルがジッと見つめていると、ステラは我に返ったようで表情を引き締めた。
「あの、本日はどういうご用件で?」
「そろそろ動こうと思ってね。実験も十分ではないが及第点は取れた」
トオルはニコリと笑ったが、ステラは無表情だった。何を言っているのかわからないのだろう。
それも無理はない。
神に愛された証である加護は、測定器にかければ詳細に判明する。加護一覧は百科事典のように書物になっているのだ。
つまり、ネメスでは奇跡のような力の活用方法は知ることができる。同一の加護でも個人差は存在するが、参考になる資料はあるわけだ。
しかし、トオルのキスの魔力は存在しなかった。
故に実験が必要であり、誰にも効力を話すことはなかった。加護以外の奇跡など信じられるわけがないし、運が悪ければ神を冒涜したと罰されるだろう。何より、お前の胸で燃えている愛情は植え付けられたものだ、なんて言えるわけがない。
ハイフの管理者、ステラがトオルに協力しているのは事故が発端だった。そして、その事故がトオルのターニングポイントとなったのだ。
事の起こりは半年ほど前だ。
菊池トオルが目覚めると、女になっていた。転生の原因は不明だ。前世で死んだ覚えもない。大学を卒業後、何の目的もなくフリーターをしていた。
突如降ってきた情けない人生からの脱却。初めは転生だと戸惑いつつも喜んでみたが、すぐに絶望の淵に叩き込まれた。
何せ、悪魔の子で、何の超能力もないからだ。親もおらず、名前すらない。糞ゲーだろ、とトオルは愚痴ったが誰も救ってくれない。それでも懸命に生に縋った。
そして、詳しい事情は未だに知らないが、何らかの攻撃で呼吸が止まっていたステラをトオルが発見した。
近くに川はないのにステラは水浸しで、ブラウスは破けていた。大きな乳房や腹が少し見ている。そんな服装にも関わらず、トオルよりもよっぽどマシな身なりだった。
元は服だったが、ただの下着に成り下がっている。原始人が着ていそうだな、とトオルが思うような格好だ。
当時の仕事はゴミの山から、使えそうな物品を探し出すことだった。犬の真似事をして金を稼いだこともあったし、いかがわしい店の小間使いになったこともあったが、最後にそこにたどり着いた。
人といると疲れるし、秘密がバレれば死だ。長居はできずあちこちを点々とした結果だった。
臭気の酷いゴミ山で、ゴミに服や手や足が引っかかり怪我をしながら働いている。
その日のトオルはとても疲れていて、歩いているのだか寝ているのだかわからないぐらいだった。おまけに人気の少ない通りで夜だった。
たださえどうにかなってしまって可笑しくない環境に、どうなっても可笑しくない状態が加わっていた。
「こいつを殺してしまえ」
トオルはまずそう思った。この女を凌辱しようとか、恩を売ろうだとか、誰かに渡して金に換えようと考えはなかった。憎き管理者を殺すことは正しい行いであるような気さえしていた。いいや、そんな建前以前に、世界を激しく恨んでいたせいかもしれない。何かに原因を擦り付けようとしていたのだ。不条理な現実を捨てたかった。
幸い、近くには誰もいなかった。ネメスには防犯カメラは存在しないし、運が良ければ罪に問われることもない。
トオルは一歩足を踏み出す。ステラの首を砕くために、拳を握る。そして、ステラの顔を真上から見られる距離に近づいた。途端、感情がくるりとひっくり返った。
濡れた長く美しいステラの黒髪を見て、何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。美しいと思う余裕を見つけてしまったのだ。
「情けない」
聞き覚えのない声がした。それは少女の声だった。メリドに転生してから、トオルはろくに声も出していなかった。出したとしても作った低い声だったので、素の自分の声に驚いたのだ。そこで再確認する。俺は男でも菊池トオルでもないのだと。だから、今度こそは、と転生した当初思ったのではないか。
情けない自分を変えたい、と日々思いながらも、行動に移せなかった自分を憎んでいたのではないか。
リセットした先の条件が悪いからといって、これ以上情けない事を重ねれば、自分自身を許せない。
何事にも本気になれなかった奴が、直接何かされたわけでもない人を殺めることだけに躍起になるなんてダサすぎる。
「そうだよ。どうせなら、もっとイイ事しようぜ。昔は思ったじゃないか、菊池トオル。俺は何かを成したかった。勝利にこだわっていた」
馬鹿みたいに他人事をトオルは言う。
勝利を得るには突っ立っている訳にはいかない。
トオルには治癒の加護もなく、成人女性を担げるほど力もなかった。なので、外傷が見られない事、心肺が止まっている事だけを確認し、何をすべきか考えた。そこで浮かんだのが人工呼吸と心臓マッサージだった。
学生時代に保健体育の授業で人形相手にしかしたことがなかったが、うろ覚えの知識をすぐ実行に移した。
人工呼吸と心臓マッサージを施すとステラは口から水を吐き出し、ごほごほと咳をした後、息を吹き返した。
呆気なく済んで驚きつつ、ステラが目を覚ます前にトオルは去った。
本来であれば、それで終わりのはずだった。トオルの口づけに超常的で魔的な力がなければ。
申し訳ありません。
パソコンで執筆しているのですが、アップデート後、挙動不審でこれから再設定を行います。
昨日の内に、予約投稿していたので二話は更新できたのですが、三話はしておらず、もしかすると明日間に合わないかもしれません。
明後日、十四日には必ず更新します。