十九話-フレンドリーな主人
トオルの生活はスラム暮らしから、リーリエの屋敷住まいに変わることとなった。
昼前に訪れることになっていたので、早朝にステラの家で湯あみをしていた。第一印象は大切である。
今日で浴場を借りるのが最後だからか、ステラは丁寧に後ろからトオルの暗い赤髪を洗っていた。
ステラの献身はもちろん心地よいが、それよりも自分の髪が丁寧にされているのがトオルの気持ちを高揚させる。彼が転生して唯一、気に入っているのが自分の容姿だった。瞳は青く、肌は瑞々しく驚くほど白い。近頃は手入れもしているので髪は艶やかで柔らかく仕上がっている。
髪はサイドが顔のラインに沿うようにしてあり、肩にかかる程度の長さだった。これでも伸びたほうだ。以前は男性とも女性とも取れる髪の長さにしていたから、中々伸びない。
今の状態でも身なりを綺麗にすれば、ふわふわの髪に平均的な背丈で、まさに可愛らしい女の子である。
一方、ステラは長い黒髪を束ねているだけとシンプルな恰好だ。が、すらりと背が高く、発育も良いので飾り付けなくても映える。女の子というより、いい意味で女という言葉が似合っている常に肩肘を張ったような雰囲気のある女性だった。
そんな女性が愁いを隠そうともせず、トオルの髪を洗い流した。
「ありがとう、ステラ」
トオルは身を捻って、ステラの鎖骨に唇を付けた。ステラはそれだけで風呂の室温の高さから赤くなっていた頬をさらに上気させ、惚けた表情になる。
厳格な管理者がここまで蕩けられるのはトオルの前だけであった。
ステラとトオルには似た部分がある。どちらも、地位を持っていない人間だった。
スラムは貴族が統治しないので、成り上がりには持って来いの稼ぎ場である。
ステラは貧しい平民の子から一代で管理者まで上り詰めた。そこには不断の努力があり、無駄を排除するストイックさがあった。仕事のために生きてきた女性が初めて仕事以外のものに熱意を傾けていた。
それはトオルに惹かれてではない。あくまでキスの魔力だった。
正体不明の能力。ネメスで生きていく上での切り札。これがなければ自分はどうなっていたのだろう?
トオルが感慨に耽っている間にステラは彼女に服を着せていた。
心なしか、ステラは物足りなさそうな顔をしている。それが徐々に悲しみへと変化していった。トオルと会えなくなることを本当に苦しんでいる。
トオルはこれが彼女との別れだったとしても、こんな風には思えない確信があった。冷めた頭で、熱い言葉を紡ぐ。
「これで終わりじゃない。ボクもステラが大切なんだ。また会いに来る」
ステラは感極まってトオルに抱き付いた。いつも遠慮している彼女にしてはずいぶん思い切った行動である。
「それじゃあ、また」
「はい。いつでもお待ちしています」
ステラは強くトオルの匂いを嗅ぎ、彼女から離れた。
風呂場から出ると、トオルとステラの関係は外向きのものになる。そのことをいつも悲しんでいたステラの表情が今日は、どこか晴れやかであった。
トオルの表情も切り替わる。目は細く、表情は硬く、顔色は暗い。順調に進んではいるものの、これからが困難だ。
リーリエ・イノ。これまでの駒とは比べ物にならない権力者。そして、掴みどころのない人物でもある。
彼女はトオルが神旗を持っている振りをしていたと看過した。神が視認でき、人間に力を与える存在である以上、権力者であればあるほど神への敬愛は深い。
だというのに、神を貶めるような嘘をリーリエは面白いと言い、トオルを認めた。
経歴詐称されて喜んで合格通知を出す会社がどこにある?
キスもしていない相手が推察すらできない行動を取っている。そんな彼女とこれから暮らさねばならない。
決して、明るくいられる状況ではなかった。
それでも、リーリエの屋敷に着く前に、トオルは可愛らしい表情に整える。生きるために越えねばならない試練だ。
リーリエの屋敷はこじんまりとしていた。ステラの屋敷より小さい。倍まではいかないが、見ただけで小さいと判断できるほどの大きさだ。
トオルが屋敷を観察していると、柵が軋む音がした。
「やあ、いらっしゃい」
リーリエ本人が出迎えてくれた。わざわざ待ってくれていたらしい。休日なのに淡い緑色のスーツを着ていて、爽やかな笑顔を浮かべている。金髪に緑のスーツと奇抜に思える組み合わせだが、リーリエが着ると決まってしまう。トオルはまともに服が少なく、何を着ればいいか迷ったので今日も制服だった。
「それじゃあ、屋敷を案内するよ」
気さくに話しかけてくる。
トオルもそれを当然のように受けるが、心中は穏やかではなかった。
リーリエの屋敷は外観だけでなく中身も質素だった。華美すぎるということもなく、最低限威厳を失わない程度に装飾されている。真ん中に中庭があり、それを囲うように二階建ての建物が四棟ある。建物の外にも庭があって、庭、建物、庭と三つの四角で囲われた構造だ。
建物は北がリーリエの居住区、東に食堂とキッチン、西に客室があってそこにトオルの部屋がある。南は使用人が使っていて、書庫もあるそうだ。
「何か気になることはあるかな?」
リーリエは顔を綻ばせて尋ねた。彼女は案内している間、驚くほど楽し気だった。
中等部の生徒なので、年相応と言える。それでも、トオルはやや受け入れがたかった。リーリエ・イノは抜群の顔の造りとプロポーションを兼ね備えているから、女の子ではなく女性に思えてしまう。
学園では気さくではあるものの、高潔さや折り目正しさが滲み出ていた。大輪の花のような美しさと華やかさ、そして気品。それがリーリエ・イノらしさだと思っていた。
ところが今のリーリエは声を弾ませ、どうでもいい事にはしゃいでいる。
中庭で朝の日課を行うとか、ここで変わった咲き方の花を見ただとか、これからこの場でトオルとどう過ごすか考えていたとか、そういった話をずっとだ。
学園では元従者以外とまともな会話をしていなかったから、こんなにも話すのかと驚かされている。
と同時に、トオルは訝しんでいた。
リーリエはどこからどう見ても自分を歓迎している。だがそれは心からのものなのか。それとも何かしらの思惑があってのものなのか。
そのため、トオルは大人しく当たり障りのないよう振る舞っている。疑いで錆びつくような真似はしない。警戒は最小限にリーリエの振る舞いを受けとめる。
リーリエ自らの案内が終わると、食堂に通された。そこにはエプロン姿の女の子が二人いた。
「お待ちしておりましたトオル様」
二つの声が見事に重なる。少女らは似た顔をしていた。背丈の違いはあるが姉妹ではなく、双子のようである。
「クロとニクルだ」
リーリエに名前を呼ばれたとき、クロとニクルは別々に礼をしたので区別はついた。
クロの方は背が高く細身で、ニクルの方は背が低く豊満な体つきだった。よく見れば他にも細かな差異はあるが、顔以外の部位が真逆である。
「この屋敷には私たちしか使用人がおりませんので、何か御用がありましたらお声がけください」
クロが頭を下げると、ニクルも遅れて頭を下げた。
ニクルはその行為が咎められないか、と心配になったのか横目でトオルを見たので、微笑んでおく。
「あう、よろしくお願いします、です」
礼節という面でみればニクルは欠けていたが、クロも、主人であるリーリエですら微笑ましいといった様子であった。
屋敷がイノ家という大貴族のものにしては小さいというだけで、この土地に使用人の数が二人というのは少ない。ここよりは広いがステラ屋敷で十何人いる。
なので、仕事ぶりは優秀なのだろう。
トオルは彼女らが仕事のパートナーとなるので、その辺りも確認しなければならないな、と気を引き締める。
「これで案内は最後だ。さて、食事にしよう」
料理は二人分用意されていた。
どうやら、リーリエとトオルの分らしい。通常、雇い主が従者と食事を取るというケースは稀だ。親友と呼べるほど信頼関係を結べば別だが、今日のような初日は別々に食べるものだ。
従者になればいきなり親密な関係になるわけではない。その可能性があるという地位である。あくまで貴族が有望株を縛り付けるための契約だ。
だからこそ、前提からおかしい。トオルの虚偽を見抜いていて、従者に選ぶ理由はない。にも関わずフレンドリーに接してくる。
これは礼節を試されているのかとトオルは訝しんだが、応じるしかなく大人しく着席する。
「これでようやく一人で食事せずに済む。朝も昼も晩も、誰かと食事できることは良いことだ」
リーリエは満面に喜色を浮かばせ、料理に手を伸ばす。彼女の言葉をそのまま飲み込むなら、初日だからもてなしたわけではなく、これからも続くというニュアンスである。新米の従者と使用人の地位は大差ないはずなのだが、リーリエという少女は従者に寛大なようだ。
これは作業がしやすい、とほくそ笑み、リーリエに再度感謝の言葉を告げ、トオルも料理に手を触れた。
リーリエ・イノが何を考えているのか、トオルにはさっぱりわからない。それでも縮こまってはいられない。
賽は投げられた、だ。信用も信頼もしない。疑いも訝しみも消さない。喰うか喰われるか。リーリエがフレンドリーなら、それに則るまで。
計画を立て、実行といったこれまでキスの魔力で落してきた相手とは全く違う。
行き当たりばったりの即興劇。演じ切り、リーリエを蕩かしてみせる。
そんな熱意を秘めながら、トオルは料理を綺麗に口に運ぶのだった。