十四話-正気ですか?
トオルは闘技場の入場口で待機していた。セネカとの試合は次だ。それでも彼の顔には余裕があった。
既に試合の観察はしていない。ここまで運べば後はなるようになるだけだ、と達観している。
入場口には椅子と机、綺麗な飲み水、汚れを落とすための水場がある。広さはそれなりで、剣を振るうに十分な高さもあった。ウォーミングアップもここで可能だ。
にもかかわらず、トオルは目を閉じていた。腕を組んでいるが、何かに集中しているわけでもない。
だから、彼の脳裏にはステラの驚いた顔が浮かんだ。普段涼やかな彼女が目を丸くして、舌が見えるほど口を開いた間抜けな顔。そして、彼女はこう言ったのだ。
「正気ですか?」
数日前、ステラがトオルのに試合に勝ちぬく算段を聞いた第一声がそれだった。応接間のソファに机を挟んで向かい合って座っていた。時刻は夜で、静かだったから彼女の声はよく響いた。
客を誘拐したり、学園に入学させたり、一日おきにしか泊まりに来なかったり、悪魔の子であったり。それらの疑わしさをステラは突きつけてこなかった。トオルの考えに異議を挟んだことのない彼女が、驚き疑っている。
それがトオルにとって新鮮で、怒りどころか愉快さを感じていた。
「正気だよ。君の反応でより勝算があると感じたね」
トオルはソファの背もたれにだらしなくもたれた。
「そんなこと、まず考えない。だからいいんだよ。あまりに馬鹿げていて疑う余地もない。そんなことをする阿呆がいるのか、ってね」
「失礼を承知で言わせてもらいますが、阿呆です。馬鹿です。人騎を神旗と偽装するなど」
人騎、神旗、全く違うものだが発音は同じだった。どちらも、ジンキと読む。
ネメスの文字はトオルの知る文化で例えるなら、アルファベットなど音素文字に近い。綴りが別でも似ている発音の文字がある。
神旗は神が与えた武具だ。
大昔の人々は、神に祈る際、祈りを知らしめるため天に向かって旗を振ったらしい。そうすることで加護を授かったそうだ。祈りが深い者は、その旗に加護を超える力を授かった。旗を一振りしただけで、大岩を軽々と持ち上げる籠手、空を自在に舞うことのできる羽、刃を弾き壊す鎧が纏われ、旗はいつの間にか大地を裂く武器へと姿を変えていた。
その名残で、神の与えた武具は神旗と呼ぶ。神が人に与える最上級の武力だ。そのため、神が与えた者しか使用できず、使用し続けるには神との誓約を守り続けなければならない。
一方、人騎も鎧である。大岩を持ち上げられる籠手も、空が飛べる羽もある。神旗と運動性は変わらないが、女性の権力の象徴はなかった。
絶対的な力である神の武具としての能力がないのだ。よって、人騎はパワードスーツと変わらない。
そう、トオルが求めているのは人騎という人の手によって作られた神旗擬きだった。
元々、人騎は男性労働者のために作られたものだ。誰でも装着できる。なので、女性に刃向えるほどの力はない。工事現場の特殊車両なものである。
もちろん、既に比べれば強力だが、反逆が叶うような力は搭載されていない。
ただ力が強くなり飛べるようになっただけで、攻撃力はもちろんなく、防御力も削がれている。戦闘に向いた加護の持ち主であれば人騎など相手ではない。トオルが加護を併用しても五分五分の戦いとなるだろう。
試合には何を使用してもいいが、人騎を使ったところでそこまでのアドバンテージにはならない。
「神旗と人騎は全く違う。だけど、ステラ。君はその見分け方がわかるか?」
「いえ」
「だろう。神旗か人騎か、見分ける必要がない。だって、男が使うのが人騎で、女が使うのが神旗だ。違うか?」
ステラはしばし時間を置いてから縦に首を振った。
女尊男卑の世界で、男性の行う肉体労働を女性がするという考えがない。人騎など使うことがないのである。加護のない女性なら別だが、加護のある女性、学園に通う女性には縁もゆかりもない物なのだ。
一般人が専門用語を知らないように、男が使う神旗擬きが人騎と呼ぶと知らない。同一発音のジンキとすら知らないのである。中には存在すら知らない者もいるだろう。
そのことは募集を見てすぐに、トオルが学園の生徒に質問して試している。同時に神旗と戦うとなったらどうするかも。
「女性が使えば勝手に勘違いする。この世界じゃスポーツマンシップなんてない。神様に与えられた力を使わない方が不敬とさえ考える。神様至上主義だからこそ、桁違いの力を振りかざしても称賛される。この人はこんなにも神様に愛されているのだから負けても仕方ないとね。神旗が出されたら戦う事すらしないのさ。ステラも神旗を出されれば逃げもしないだろ?」
「はい、諦めます。ですが、確かにそうですが」
ステラが何を不安に思っているか、トオルは見抜いていた。興奮して、ネメスにはないスポーツマンシップなどと発言している事に気づかないも、ステラの思考はきちんと追えている。
「ありがとう」
トオルは立ち上がって、ステラの隣に腰を降ろした。ステラの頭に触れ、頭頂部から髪を梳くように後頭部を撫で、首筋、背骨と触れる。
「君の心配は痛いほど感じる。ネメス様が裁きを与えるかもと思っているんだろう」
ステラの肩に頬を置いて、トオルは柔らかく暗くならないようにしつつも高すぎない声で囁く。
神が視認できる世界。神の裁きが目の前で行われている。故に、神の与えたものを欺くような真似を考えもしない。
それが一般的な思考回路だ。さらに付け加えるなら、多くの人が罰当たりだとトオルを糾弾するに違いない。
だが、ステラ・ハイフは違う。彼女は既に蕩かされている。神よりもトオルの愛を優先している。
「でしたらどうして。こんな事をせずとも、十分に暮らしていけます。もっと贅沢をしたいなら稼ぎますから」
ステラはトオルの顔から背いて、反対側の肩に顔を埋めた。
トオルはそんな彼女の顎を手で持ち自分の方に向け、やや乱暴に唇を手で弄る。
「そうじゃないんだよ、ステラ。君がボクを大切してくれるように、ボクもそうなんだ。いつまでも君に養われているだけじゃ捨てられるかもと不安で学園に入れてもらった。そこでこんな好条件が現れたんだ。飛びつくしかないだろ。君に並ぶためだよ」
「捨てたりなんかしません」
「そう思う。でも、どこかでそうじゃないかもと思ってしまうんだ。ボクが弱いせいだよ。おまけに悪魔の子、だからね」
ステラだけがトオルの事情を知っている。転生や加護がないこと、キスの魔力については言っていないが、それ以外は全て知られている。裸の付き合いだから仕方ない。
キスの魔力を知らなかったので、ステラには隠すことができなかったのだ。
トオルが今、紡いだことは嘘でしかないが、信憑性はある。弱者の立場を明かしているからこそ真実味が増している。
ステラが何か言う前に、トオルは指を彼女の口に入れる。これはあくまで説得ではなく、誤魔化しだ。勢いで乗り切る。いつもの杜撰な手段である。
「ボクのワガママを許してほしいんだ。神様だって、ずっと見張っちゃいないし、そこまで厳しくない。そうじゃないとボクらの愛は引き裂かれているはずだ。それに神様を騙すわけじゃない。騙すのはあくまで人だ。怒られないし、バレやしないさ。神旗を見たことがあるが、人騎と外見上はそう変わらない。人騎は真っ黒で明らかに安っぽいがそんなものは塗装次第でどうにでもなる。あとは少し意匠をこらせばいい」
言う事は言ったので、トオルはステラを押し倒した。
そして、有耶無耶になり、ステラは人騎を手配するに至ったのである。
神旗に共通しているのは、籠手、羽、鎧、武器だ。以前は旗に宿っていたが、今は旗の意匠が施されたアクセサリーとなっている。それを振れば、瞬時に籠手、羽、鎧、武器が装着される。
人騎もほとんど同じだ。外見上の大きな違いは三つ。一つ目は収納状態がアクセサリーではなく石であること。二つ目は武器がなく工具が収納されていること。三つ目は見た目が黒単色なので安っぽいこと。
神旗も人騎も、小さなものに大きなものが収納されている。神旗は傷ついても自動修復機能があるそうだが、人騎にはない。だから、中身を変更できるそうだ。素人には無理だが、専門の技師に頼めば可能である。二つ目と三つ目はそこで変更できるわけだ。工具から武器に、見た目は塗装を変えれば誤魔化せる。
一つ目は石をアクセサリーにつければいい。
トオルが神旗を見たのは二度だったし、どれも長くは見ていない。それでも自分で塗装し、誤魔化せたのは二十一世紀の日本で暮らしていたからだ。
ロボットアニメやスーパーカー、そういうものをしっかり目にしていたからである。チラリとみて、そういうものにそっくりだと思ったのだ。そして、量産機と主人公機、大衆車と高級車、人騎と神旗の違いはそんな風だと感じた。
その直感も間違っていなかった。セネカの神旗をよく見て確信した。セネカの神旗は以前見たのと違い、白を基調としたデザインだった。それでも差し色に赤と銀色が入っているし、鎧は特徴的な形をしていて、背の羽は旗のように見える。
人騎は黒で単色、形も面白みがない。羽もただの噴射口が並べられたものだった。
それらの手配を、一工程ずつ別人に頼み、今日を迎えたのだった。
結果的に、トオルの思惑は的中した。
迎えたセネカとの試合。その試合も一分も満たない時間で勝敗がついた。
トオルは開始早々セネカに一撃を与え、剣を抜く間もやらなかったのだ。
その後の試合は全て人騎を纏い、降参させ、無事優勝した。
あまりにも呆気ないように見える試合内容だったが、危険な賭けであった。そうするしか、優勝はできなかったのである。
「上手くいった」
トオルは邪悪な笑みを浮かべている自覚があった。すぐに控室に戻りバケツに貯めた水に顔をつけ、興奮を冷ます。
数年前、トオルは加護を宿していない、という結果が出た。正確には検査から外れた加護のようなものを二つだけ持っている。
だが、それでは神旗を操ることはできない。
神旗はその神に属する加護を宿していないと装着することすら叶わず、使い続けるには神との誓約を守る必要がある。
トオルは神を遠目に見ただけであり、加護もない。女尊男卑の社会を成り立たせている要の力を有していないのである。
神旗を持っているという虚勢で勝ち進めた。
虚勢を成立させたのは、社会の歪みだった。
人騎は男が使うもので、女が使うという発想がなかったのだ。なので、鎧を纏うことで勝手に人騎を神旗と誤認したのである。
セネカに嘘を信じ込ませるために――この世界には嘘を見抜く加護もあるので――トオルが慎重に話を進めたことも成功の要素だろう。
「ジンキ」
言葉の発音だけではどちらであるかわからない。つまり、トオルがジンキを神旗と人騎の両方を指す言葉として使えば、嘘を見抜くことはできないだろうと考えた。そして、セネカは初めからジンキと言われて神旗と認識していた。だから、トオルの提案を呑まされたのだ。一方的に不利になる条件を。
使うことを封じたのは神旗だけなので、人騎は使えたのだが、そうすると今後の戦いで嘘が露呈することになる。
なので、トオルは彼が持つ加護擬きの一つである自己加速で開始早々攻撃したのだ。もし、あれが躱されていたらなりふり構わず人騎を使っていたかもしれないが。
それほど杜撰な策だったのだ。ただの言葉遊びこそがトオルの武器だった。
「嘘も立派な武器だ」
トオルは人を騙したこと、蹴落としたことに罪の意識を感じていなかった。
そして、真似をされるという危機感も持っていなかった。
トオルのように嘘をつく者が現れそうなものだが、それはあり得ないと彼は確信していた。なぜなら、神様から授かったものをさも持っているように振る舞うなど、加護を持つ学生たちには考え付かない。信仰を裏切るような真似は、神様に力を与えられている少女たちには出来はしまい。
日本で生きていた頃、何度か妄想したことのある異世界転生と現実の転生は全く条件が違った。
強いスキルを有しているわけでもなく、家柄に恵まれもしない。何より、男ではなく女として転生している。
そして、この世界には科学があり、現代技術など役に立っても無双はできない。
菊池トオルとしての人生経験だけが、僅かな転生特権だった。それも年齢が経つにつれ薄れつつある。
だからこそ、早いうちに平穏を得るために、リーリエを篭絡する必要があった。
試合を終えたトオルは、その日にリーリエの屋敷に呼ばれた。
トオルが門につくと、双子の姉妹のメイドに案内され応接間に通された。
中にはリーリエはおらず、主人より先に寛ぐのもよくないだろうと立って待つ。
応接間はソファが二組に机、そしてネメス神の絵画が飾られていた。
トオルも一度だけ遠目で見たことがある。かなり遠くだったので顔は見えなかったし、細部もわからない。わかったのは髪と衣が不確かだった。見えないのではなく変わっているのである。水が流れるように色が切り替わっていくのだ。
絵画もその様を書き残すため、多色を使って髪と衣を塗っていた。肝心の顔はベールで隠されていた。
「待たせたね、すまない」
いつの間にかリーリエが部屋の中にいた。入ってきた気配がしなかったので、トオルは身構えてしまう。
「なるほど、面白い。申し訳ないが、私は待つのが苦手でね。単刀直入に言わせてもらおう。君は神旗を持っていないよね?」
リーリエはそう問いかけ、ソファに姿勢正しく腰かけた。