十話-ため息
つつがなく一日が終了する。トオルにとって学園での勉強は簡単だった。それは日本での知識のおかげだ。
が、この世界では日本での知識など加護に匹敵する力にはならない。制度こそ古めかしいが、科学とは違う技術がメリドでは発展している。学問も然りだ。
地球での知識は役に立つが、それで出し抜くことができるものではなかった。それはトオルが前世で学んだものがお粗末だったから、ともいえる。
「それでも俺は、いや私だな。そろそろ直さないと」
外見は少女そのものだが、前世で男として生活してきたトオルにとって私という一人称は扱いにくかった。
目が覚めると違う性別になっていたことも問題だが、女性に生まれて加護がないという大きな欠点まである。
それでもトオルは諦めることはできない。平穏を勝ち取るために戦い続ける。戦いとは玉の輿だ。彼が学園に通うのは、勉学のためでなく玉の輿が主目的であった。
リーリエのような上物はまず狙わない。身分による差があるのだ。自然と上と接しられるよう這って行かねば。ボッチ脱却である。
そんな風に気を落ち着けつつ、トオルは帰路につく。バイル学園からスラムの間には平民街があるので、それなりの距離があった。
そのせいもあってか、気を落ち着けたばかりなのに、ついため息が漏れる。
メリドでの生を受けてから神様がお膳立てしてくれることはないと体感していたトオルだが、一言も話せないと標的の遠さに気が滅入る。
「リーリエ・イノは表面上、礼儀正しく気さくそうなんだけど」
一番の標的かつ最も話しやすそうなのは彼女だ。
それはあくまでリーリエ本人だけを見ればの話である。彼女とと話すことが出来なかった理由はあの従者だ。リーリエにピタリと張り付き、彼女に近づこうとする者を威嚇する。黒の三つ編みでリーリエと同じくらい背が高く、丸眼鏡を掛けた少女だ。
誰かと視線が合うとリーリエは微笑んで見せるのだが、その暖かな態度と間反対の鋭い視線が従者から飛んでくる。お前たちのような下々の者がコミュニケーションを取ってはならない、とでも言いたいらしい。
まあ、彼女ほどわかりやすくはないだけで、身分が違う会話が生じれば同じような目をする者は少なくない。
平民街を抜ける手前、トオルは適当な物陰に入り制服から私服に着替えた。綺麗に櫛で梳かした髪を乱雑にかき乱し、視線を下に向け俯きながら部屋を目指す。サイズの大きい服を着ているが、膨らんできた胸を誤魔化すためだ。スラムにいる間は男でいた方が都合がよい。
何故誤魔化すのか。その理由の一つは学園の誰かにスラム出身であることを知られては面倒だからだ。スラムに入るところを見られるのは問題ないが、寝泊まりしていると知られるのはややこしい。
スラムに入りトオルが部屋に向かう最中、バイル学園の生徒を何人も見かけた。
彼女らは、スラムに遊びに来たのだ。加護のある女性にとって、加護のない男性は弱者である。この世界では、男性というのは女性に傅くのが常だ。
まとまったお金があれば男の一生を買う事さえできる。ステラも従僕を買っている。
子供のお小遣いがあれば買った時間、男を玩具にもできる。トオルからしてみれば、日本でのペットより扱いが酷いと思えるほどだ。
学生にコケにされることを生業にしなければならないのだから。
「ほら、しっかり歩きなさいよ」
そう言って男の背に乗ったバイル学園の少女が、男の尻を鞭で叩いた。
トオルの前方にその男は四つん這いで地面を歩かされていた。少女を背に乗せ、お馬さんごっこというわけだ。
見慣れた光景のため、トオルの視線は前方を向いている。いや、僅かに顔を背けていた。不自然にならない範囲で。
それは背に乗った少女がバイル学園の生徒だったからだ。万が一にもバレるわけにはいかない。
学生を避けるのは不可能だ。
バイル学園の生徒たちの多くが男を買って遊ぶため、スラムに訪れている。
平民街にも男を扱う店はあるが、少々高い。スラムの方が安価だった。それに、彼女らが住まう地域ではお目にかかれないほの暗さがいいのだろう。
明日の生死もわからない男たちの元にうら若き少女が放り込まれても襲われることはない。男を鞭で叩いても反撃されない。男には加護がないからだ。勝ち目がないからだ。無論、管理するシステムもあった。
往来で四つん這いにさせられているような場所だが、スラムにも管理というものがある。
一応、スラムも地区に分かれており、それぞれに管理者がいた。ステラはその一人だ。
万が一男どもが暴れれば、管理者に始末されるのがオチだった。男性は女性にまず勝ち目がない。偶然に偶然が重なって女性を出し抜けても管理者に見せしめとして酷い目に合わされるのがわかりきっている。
だから、体力の限界となって馬の体勢を保てなくなり地面に崩れた男が、少女に罵倒されながら蹴られても暴言の一つも吐かなかった。
彼はまだ生きたいのだ。暴言を吐くのは生きる気力すらなくなった時である。
もちろん、男はそういう人生しか送れないというわけではない。
男たちの仕事は様々だ。女性の衣食住を支えるための労働力になる、というのがスラムで一番真っ当な仕事だった。
顔がいい男は学園生に傅き、彼女らを愉しませるために働く。何かの作業に従事する。そうやって働く男から金を巻き上げる等々。
男の仕事を挙げれば切りがないが、その全てに共通していることがある。加護を持つ女の命令には逆らえないということだ。逆転は存在しない。
トオルはそんな男たちを無視して進む。 真の自分は彼ら以下の扱いを受けるのだから。
バイル学園の生徒が立ち入る場所はスラムでもましな地域で、それより奥に行くほど治安は悪くなる。
ましな地域であるスラムの商店が立ち並んでいる筋から一本奥に入ると、居住区がある。狭い場所に家が密集しているので、路地は迷路のようで風通しは悪い。衛生面などもちろん配慮されていないし、密集さ故、火事が起こればひとたまりもない。
トオルはそんな居住区で、週の半分過ごしていた。
「ただいま、っと」
「おかえりなさい」
トオルが入るや否やエニティンが飛びついてきた。
ここはトオルの家ではない。エニティンが暮らしている部屋だった。
週の半分なのは、ステラと交代で過ごしているからだ。貴重な駒な以上、どちらも手入れは怠れない。
「ずっと待ってたんだ?」
トオルはからかうように言って、エニティンの鼻を突く。
エニティンは拗ねた目を向けたが、トオルの指が彼女の顎をくすぐり、唇の上から八重歯をなぞっていく頃には目に力はなくなっていた。
「今日も疲れただろ。ほら、ベッドで横になって」
「うん」
エニティンはトオルから離れて、ベッドに寝転がった。
このタウンハウスはスラムではまだましなほうで、成人男性が立ちあがることができる。スラムの居住区の多くは三、四階建てで男なら立ち上がることも難しい天井高だ。
部屋は狭いが、そこまで居心地は悪くない。
エニティンはうつ伏せになってトオルを待っていた。そんな彼女に馬乗りになって、トオルは腕をまくる。
キスの魔力は切り札だが、彼にはそれ以外にもう二つ武器がある。そのうちの一つがマッサージの技量だ。前世で培ったもので、独学ではあるもののかなりの腕前だった。調べ、試し、修正し改善する。その繰り返しの結果、素人ながら武器にまで昇華した。
キスによる報酬を日常的にせず、特別なものとしているため、マッサージが軽めの報酬となっていた。
まだまだキスについては謎が多い。武器が少ない以上、使わない選択肢はないが、多様すべきではない。
エニティンは普段は饒舌だが、こういう雰囲気になると口数が少なくなる。
しばらくして空気に慣れて、ようやく口を開く。
「すっごく、きもちい。トオルもお医者さんみたいだねえ」
エニティンは甘えた声でそう言った。
彼女はマッサージを受けると、舌足らずになる。
「医者に見て貰ったことがあるのか」
ネメスでは治癒の加護を持つ者を医者と呼ぶ場合が多い。
知識で身につくものではなく、与えられるかどうかのものなのでその数は少ない。需要が高く、供給が少ない。売り手にとってありがたい状況なのだ。スラムの薄給ではまずお目に掛かれない。
「前は格安で見てくれる人がスラムにいたんだあ」
「へえ」
指圧を続けながら、トオルはエニティンの世間話を聞く。どうでもいい話だ。彼女はまだ日が浅いから、ステラのように欲望に忠実になれないらしい。世間話も黙っているのが恥ずかしいからで、話をしたいからではない。
だから、思考は別に置いてある。
考えることはもちろん貴族の唇だ。険しいゴールである。
メリドでは女性の同性愛で子を授かることが出来る。それ故に同性でキスするのが難しい。
これにはメリドでの宗教観が密接に関係していた。
同性愛で子を授かるには神に認めてもらう必要がある。神に謁見できる人間は必然的に高い地位の人間しかいない。
なので、多くの市民は男と契りを交わす。その予行演習も兼ねて、子供の頃から男を買っているのかもしれない。
が、それは極力したくない選択なのだ。女尊男卑が根付いているメリドでは、女性同士で結ばれることが神聖視されていた。
恋をする対象に、愛を伝えられない。その代用が心底見下す存在なのだから、彼女らが歪むのも無理はないのかもしれない。
そのせいか、神の許可を得ずに女性同士で愛しあえば加護を剥奪される、と考えられている。
ほんと面倒で不公平な神様だよ、とトオルは心の中で愚痴る。
神様のせいで、女性同士でのキスでさえタブーとされていた。しかし、トオルと何度もキスしているステラは加護を失っていない。教科書にさえ書かれている知識らしいが誤りだろう。
誤りであっても、世界はそれを信じている。神が視認できるため、神の裁きも実在しているのだ。その良い例が男性である。
男性も昔は加護があったそうだ。それが神を怒らせて加護を失ってしまった。
そして、今では人権など全く考慮されていない扱いを受けている。
そんな男性の怒りの捌け口は、加護のない女性だった。
つまり、加護を失った女は男よりひどい目に合うものだ。なので、キスをしようものなら必死に抵抗してくるだろう。
加護のないトオルでは強引にキスすることができない。そうする前に、魔法の如き加護の力でねじ伏せられる。だから、策を講じる必要があるが、エニティンに使ったような手口は強引すぎる。力ある者に通用するかは怪しい。
故に近づかねばならない。けれど、取り付く島もない。
まったくどうしたものか。
弱音を吐きたくなるのを堪えて、エニティンの脇をこそばして反応を楽しむ。
騙している相手に、弱音を見せる事などできない。