パイナップルサンド 作/なる
(朗読/あかる)
夜の校舎に忍び込もうとしたところで警備員に呼び止められた。
あと少しだったのに。コンクリートと木造の混じりあった少し酸味のある匂い。それが初夏の夜に沈殿する空気の粒と攪拌しあって、昼間には感じられなかった濃い色のノスタルジアを呼び起こしてくれる。そんなのを味わう共犯者。悪いことだってわかっているけど、すごくかっこよくて誘われるままにトリガーを引いてしまった夜。
それで逃げた。ごめんなさい、と言い訳っぽい言葉を警備員に言い残して、ティーンエイジャーの悪戯です、未遂です、見逃してください、という想いを裏門の前に置きざりにしたまま、わたしたちは一目散に夜の闇へ滑り込む。
警備員を捲くことができた、その安心感でふたり笑い出す。こわかったね、とか言いながら、でもこの動悸は別の意味合いをもってゆらゆらと水面に波紋をつくる。どんな関係なんだろう。友達、と言葉にしかかってソーダ水の中ではじけた。わたしたちはきっと、落としどころをなくしたままメビウスの輪の上でずっとさまよっている。
あ。君は目線を落として道の片隅にある何かを拾い上げた。ほとんど暗くて見えない、なにそれ、とわたしの言葉も拾い上げて君は遠くの明かりへとそれをかざす。プレート。銀のプレートだった。遠くの黄色い光の加減で金色にも見える。
なにそれ、わたしはもう一度おなじ言葉をつぶやく。ネームプレート。近くの工事現場のものかもしれない。名前は剥げかけていてそれが何を示していたのかもわからない。打ち捨てられたものなのかもしれない。どっちにしたって、ふたりにとっての唯一の戦利品だった。あたかもそれが自然であるかのように、もともとそれが目的だったかのように、君は胸ポケットから赤のカラーペンを取り出して、プレートに名前を書いた。なんでペンなんて持ってるの、わたしが嘲るような口調で言う。書くためだよ。と君は事も無げに答える。忍び込めてたらさ、校舎のどこかに書くつもりだったんだ。一緒に、とそのあとに続く気がした。わたしはカラーペンを奪い取って、プレートの裏側に名前を書いた。プレートのコーティングにはじかれて赤い色の点線が途切れ途切れな名前が残った。あ、と思いプレートをひっくり返すと表側の名前はほとんど薄れて判読が難しくなってしまった。失敗したな、水性。君が苦笑いする。君の薄れた名前とわたしの途切れた名前が、プレートを挟むようにして表と裏で背中合わせに息をしている。
ねえ、これちょうだい。
いいよ。あげる。
ありがとう。
その後に交わした言葉はたったそれだけだった。わたしたちはなんとなくそれで帰路につき、なんとなくおやすみの挨拶をして、なんとなく夜の冒険はそこで終わった。学校はそのままゴールデンウィークの長期休暇を迎え、それでうやむやになった。長期休暇が明けて日常が戻っても、わたしはわたしの女友達と、君は君の男友達と、それぞれのグループの輪の中で、決して深く交わらず、教室でも、廊下ですれ違っても、簡単な挨拶を交わす程度の、あれだけ仲良くしていたのが無かったかのように、わたしたちはわたしたちの日常へと埋もれて行った。
好きな人っているの、と帰り道の友達がわたしに聞く。わたしは質問を質問で返す。好きな人いる? 彼女はそれが初めから目的であったかのように淀みなく答える。いたよ。でも、だめだった。初恋なんてそんなもんでしょ。そうなんだ、甘酸っぱいね。わたしは不用意に同意する。
そう、甘酸っぱいんだよ初恋って。レモンっていうよりもパイナップルみたいなものだって、思った。甘酸っぱくて、ピリピリしたのが残る感じ? っていうのかな……彼女の例えを聞きながら、わたしはあの夜の匂いを思い出す。
あれがわたしにとっての初恋だったのか、それはきっと後になってからわかる。けれど、あの夜のカラッとした静かな湿気と、必死になって逃げた時の靴の感触、不意につないで離した手、幼さが背伸びしたような声のトーン、それらの決して薄れない記憶の中心で、わたしの名前と君の名前に挟まれたプレートがあった。たよりなくカラーペンで書かれたあのプレートは、もう戻ることのできない日々にそっと耳を澄ませながら、今でもわたしの部屋の机の中で静かに光をたたえているのだ。