あの日のネモフィラ 作/きき
(朗読/Mu)
「ゴールデンウィーク、ネモフィラを見に行きませんか」
僕と彼女しかいない放課後の静かな図書館で、声を潜めて早口で言った。
言った。
言ってしまった。
「ねもふぃら…?」
初めて聞く呪文を唱えるように彼女がその花の名を口にした。
「ええっと、知らない? 青くて小さい花。市営バスの終点に大きな公園があるだろ。そこの丘で、ゴールデンウィーク位になると一面にネモフィラが咲くんだ。テレビでも取り上げられる位有名なんだよ」
「へえ、そうなんだ。あの公園、しばらく行ってないなあ」
もごもご口を動かしながら、彼女は筆箱から青色のカラーペンを取り出して、ノートに小さな点々を打ち出しはじめた。その点々はどんどんどんどん広がっていく。
彼女が生み出しているものがわかった時、僕は思わず「あっ」と小さく声をあげた。
「それ、ネモフィラのつもり?」
僕が尋ねると彼女はこくりと頷いた。
「見たことあるの?」
今度は首を横に振る。
「…実物、見たくない?」
「君は見たことあるの?」
「ない、けど…だから見に行きたいなあって思ったんですけれども」
そう答えると、彼女は視線をノートから僕に移した。ブラックホールのような瞳が僕の眼球を捉える。どうしたものかと視線を逸さずにいると、彼女はふふっと笑って「じゃあ、行く」と軽やかに言った。
気が付くとノートには一面のネモフィラ畑が完成されていた。
何だか落ち着かなくて、「ちょっとトイレ」と言って僕は早足で図書室を出た。
いつもこうだ。
彼女はいつも自由気ままで余裕があるのに、僕はその行動ひとつひとつを意識してしまって、平静を装うのに必死で、気が付くと頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
それなのに、気が付くと彼女の隣に立っている。そんな日々がもう長いこと続いている。
そろそろ一歩前に進みたい。そう思って誘ったネモフィラ。
相変わらず掴みどころの無い返事だったけれど、どうにか約束は取り付けた。
さて、彼女はどう思ったのだろう。
図書室に戻ると、彼女は奥の本棚の前に佇んで何かを真剣に読んでいた。
「お待たせ」と声をかけると、本を棚に戻してこちらへやって来た。心なしかさっきよりご機嫌そうだ。
「何かあったの?」
「ううん、何でもない。そろそろ帰ろうか」
「ああ、そうだね」
机に広げていたノートや教科書をまとめて、図書室を出る。窓の外は薄っすらと暗くなっていた。
「あ、今日の夜の歌番組、ポルノでるよ、ポルノ」
「あー、それ今日か。新曲出したからなあ」
「もう最近はあの曲しか聴いてないよ。早くライブ行きたいな~」
「っていうか、ごめん、観たいって言っていたライブDVDまた持って来んの忘れた」
「そうだよ。貸してくれるって言ってもう一週間くらい経ってるじゃん」
「はいはい、ごめんごめん」
「じゃあ明日」と校門の外で別れる。
少し歩いてからそっと後ろを振り返り、少しずつ小さくなっていく彼女の背中を眺めた。
好きな音楽も会話のテンポも同じで、他愛の無い話だったら幾らでも続くのに、心の奥底には永遠に触れられない。
ネモフィラを見た後、僕らはまたこんな風に一緒に話す事が出来るのだろうか。
彼女の心の奥に触れるよりも、こんな毎日が崩れてしまう方がよほど恐ろしいことのように思える。
それでも僕は冒険するという選択肢を選んでしまった。
我ながら愚かだよなあ、と薄く笑いながら、再び家に向かって歩き始めた。
◆
その日は完璧すぎる晴天だった。
バスに揺られて公園に着くと、彼女は無言で前進し始めた。
「そんなに早足にならなくても、ネモフィラは逃げないよ」
「わかってるよ」
そんな会話を繰り返しているうちに、気が付くと僕らは二人とも小走りになっていた。
暫くして辿り着いた光景に、僕は息を飲んだ。
そこには、海のような、空のような、青色の絨毯が広がっていた。
ありきたりな言葉しか出てこない。でも次の瞬間にはこう口から零れていた。
「「綺麗」」
僕は思わず隣を見た。だって僕が発したのとまるっきり同じ言葉が重なって聞こえたのだから。彼女の声色で。
彼女も目を丸くしながら僕を見ていた。
次の瞬間、僕は「想いが溢れる」とはこういう事なのか、と知った。
僕は、ずっとずっと彼女に伝えたかった二文字を言った。それは思ったよりもするりと出てきて、自分でも何が何だかよく分からなかった。
そんな僕を真っすぐに見て、彼女は「私も」と微笑んだ。
「ネモフィラ、見に来てよかったね」
「そうだね」
「ネモフィラパワーだね」
「ねもふぃらぱわー?」
「え、誘っておきながら花言葉知らないの? 私なんか図鑑で調べちゃったもんね」
「す、すみません…」
その日の帰りのバスの中で僕はこっそりとスマホで『ネモフィラ 花言葉』と検索した。
画面に出てきたのは、「どこでも成功」「可憐」そして「あなたを許す」。
僕の肩にもたれかかって眠る彼女を見て脳裏に浮かんだのは、あの日彼女がノートに咲かした満開のネモフィラの姿だった。