旺来(おんらい) 作/ひめありす
(朗読/ミーナ)
「お帰りなさい、すいちゃん。陳の大奥様は鳳梨酥喜んでくださった?」
店番をしてくれていた姉が嬉しそうにパタパタと駆け寄ってきます。お客は誰も来なかった様で、厨房の小さなテレビからは外国のムービースターの訃報が伝えられています。
奥様の背景で流れていたのも、同じ映像でした。
「ありがとう、と」
姉が眉を顰めました。
私達の営むお店は、少々不思議な呪いのかかったお店です。
それは、お客さんが願いを引き出せない限り、「美味しい」とは言って貰えない事。
陳の大奥様は週に二度ほど伺うお得意さんです。カラーペンでしっかりと塗り分けた様な綺麗で可愛らしいお家も、茴香や八角の甘くて少し薬臭い匂いも、異国情緒を感じられて私は大好きでした。
「良かった、まだ試作が残ってる」
唇をかみしめる私の頭をポンポン、と優しく撫でて、姉が微笑みます。
鳳梨の実をざく切りにして砂糖と水だけを使って、琥珀色の飴状にねっとりするまで煮詰めたジャムです。
一口舐めると、濃密な甘さと酸っぱさ、それから少し残った繊維がいいアクセントになっています。我ながらいい出来です。
暫く考えていた姉はやがて、注文台帳を取り出しました。陳の大奥様の頁を開きます。
今日は山型パンと鳳梨酥。前回はバケットと胡麻入りのフロランタンでした。他にもタルトタタンや蛋撻と言ったケーキが並びます。
ぱたん、と台帳を閉じた姉は、ほんわかと笑いました。
「すいちゃん、お使いをお願いできる?」
「これでいいの?」
行き先は近所の農家のお家。そして頼まれたのは
「ああ、良かった。今年は暖かかったから収穫も早かったのね」
一抱えもある、怪獣の卵でした。
「丁度良かったわ。こっちも準備は万端よ」
私は、姉の良かった。と言う言葉が好きでした。
それを聞く度に、美味しいに近づくのですから。
姉が刻んでいたのは鳳梨の缶詰でした。
怪獣の卵は割ってみると、驚いた事に、真っ白な果肉の瓜でした。
冬瓜と言うのよ、と姉は囁いて、手早くそれも刻んでいきます。
砂糖とレモン汁と一緒にフライパンで炒めると、あっという間に鳳梨のジャムが出来てしまいます。
ケーキ生地も大きく伸ばしてタルト型に敷き詰めます。ジャムを流して、もう一度生地を乗せて、後はもう焼くだけです。
出来上がった鳳梨酥を配達用のバスケットに詰めると、私達は再び陳の大奥様のお家を訪ねました。
「先程は、美味しいパンとケーキを有難う。何か忘れ物でも?」
突然訪れた私達姉妹を大奥様は訝しげに、けれども温かく迎えてくれました。
「大奥様に是非とも召し上がって頂きたい物がありまして」
姉はバスケットを開き、ホールの鳳梨酥に慎重に刃を入れました。一番小さなピースを大奥様に給仕しました。
大きな銀のフォークとナイフも一緒に差し出します。
大奥様は小さなケーキを更に小さく切り分けて口に運びました。
目を見開いて固まります。
「―――おんらい」
姉が大奥様に囁きました。
大奥様はもう一度ケーキに手を伸ばし―――今度は素手で鷲摑みにして、口に運びました。
おんらい、おんらい、とケーキの欠片と、涙と、囁く声が、一緒くたになってボロボロ大奥様から零れ落ちます。
「大奥様は、台湾の高雄のお生まれでしたね」
そしてこちらを振り返り、
「スイちゃんはどうして鳳梨酥が人気のお土産になったのか知ってる?」
私はぶんぶん、と首を振りました。
「鳳梨は台湾では『おんらい』と言うの。そしておんらい、にはもう一つ意味が」
「―――幸運が、やってきます」
大奥様が静かに、そして晴れやかな声で答えました。
「私達が幼い頃の高雄には鳳梨の缶詰工場が沢山あったわ。そこを遊び場にして育ったのよ。お腹を空かせていた、酸っぱい物が苦手な私達の為に、少しでもお腹が一杯になる様に、母が作ってくれたのは冬瓜の入った鳳梨酥だった……!」
もうお一ついかがですか、と姉は空っぽのお皿に先程よりも大きな鳳梨酥をサーブします。
それで姉はさっき、台帳を確認していたのでしょう。大奥様は小さくて甘いお菓子を御所望になる事が多かったのです。
「だって、私達はいつも駆け回っていて、でも、木登りも、芝滑りも、塀登りも、私の方がうんと上手だった。だから私は、いつもあの子の手を引いていたの。なのに、なのに、どうして」
笑いながら、泣きながら、そして旺盛に食べながら。
奥様はテレビの向こうのムービースターに声を掛けます。
「貴方は先に険しい道を、進んでいってしまったの……?」
私は不意に、そのムービースターが、大奥様と同郷である事を思い出しました。
異国に嫁いだ大奥様も、未だ偏見のあるその場所で必死に下積みをして、やがて大成したムービースターも。
温かな好物を食べた優しい記憶は互いの心を癒し続けたのでしょう。
「おんらい、おんらい」
大奥様は、呟きます。
せめて、貴方の旅路に、幸運を。
おいしい、と続けられた小さな声は、まるで祈りの様でした。