働いてくれる人がいるから社会が成り立つし、書き手がいるからこそ作品を読める。当たり前のことだけど、自分はそこに感謝したい。
以前書いたエッセイ、『テストで90点を取った子供に「100点じゃなきゃダメ!もっと上を目指さなきゃダメ!」と叱りつけるような風潮を感じる、今日この頃』、
あのエッセイで取り上げた「もっと上を!」と要求され続ける息苦しさは、コロナ禍だけではなく、コロナ禍以前から日本社会に漂うストレスや停滞感にも重なるのではと思う。
そのマインド低下の原因については自分の中に思い当たる節があり、友人達に聞かせても割と多くの共感を得られるのだが、結論から先に言うと、
「労働者がないがしろにされすぎ」
だと思うのだ。
日本は「規制緩和」をどんどん押し進め、自由競争を促してきた。
確かに規制緩和によって色々な商品やサービスが安くなるなど、我々の暮らしは便利になった。
しかしその一方、競争に勝つために現場で働く労働者の方々の負担は増えるばかり。
では、その負担に見合うだけの待遇改善はされたのか?
改善どころか、社会保険料も消費税も上がるばかり、企業は業績のために非正規雇用を増やし、最悪リストラ。
ストレスが溜まるに決まっている。
さらに「自由競争」は労働者の待遇面だけではなく、「行き過ぎた消費者ファースト」を生んだとも感じる。
競争下では消費者に選ばれないといけないから、価格面やサービス面で「媚び」を売りまくった結果......。
いつのまにか、「消費者(客)が偉くなりすぎ」になってしまったのではないだろうか。
今では「モンスターカスタマー」なんて言葉も生まれてしまった。
自分も以前、子供の教育に関するアルバイトをしていた時、保護者からのクレームの内容が年々酷くなっていった。
ある時、言うことを聞かず他の子にちょっかいばかり出す子に注意したのだが、昔であれば「ウチのバカ息子がすみません」と保護者が謝ってくるようなケースなのに、「先生に怒られて子供が傷つきました。ウチの子が言うことを聞かないのは、教え方が悪いんじゃないですか?」と言われた時はビックリしてしまった。
「プロならどんな無理難題も解決できて当然」
「プロならミスなくこなして当然」
人間だからやれることに限度もあるし、感情もあるし、どんなに気をつけていても時にはミスもするのに、厳しすぎません?
そりゃ中には、手を抜いて働いている人もいるだろうが、多くの日本人は真面目で勤勉で、理不尽なことがあっても我慢して働いている。
さて、自分はこのエッセイにて、「もっと労働者の待遇改善を!」と叫びたい所だが(改善されるに越したことはないが)、政治家でもないし経営者でもないただの弱小作曲家なのでどうすることもできない、実に無力だ。
しかし、そんな自分にもできることはある。それは、
「働いてくれる人がいるから社会が成り立つ」
この至極当たり前の事柄に対して感謝し、自分にサービスや商品を提供してくれる人たちに対して可能な限り、「ありがとう」を口にすることだ。
給料を今すぐ増やすとか、そんな力は自分にはない、だからせめて僅かでも、働く人達の心を暖めたいのだ。
よく考えてみてほしい、自分一人で衣食住を作り出すなんて出来るわけない。
沢山の人が働いてくれているからこそ、快適な毎日が過ごせているんじゃないだろうか。
そして、働いてくれる人がいるからこそ、会社が経営できるんじゃないだろうか?
いつの間にか、こんな当たり前のことがないがしろにされている気がするのだ。
「ありがとう」なんて言われたって、そんなの一銭にもならないと仰るかもしれない。
だが、「感謝される」「肯定される」「感謝される」「褒められる」などのポジティブな経験は、思いの外嬉しかったりするものだ。
言われて嫌な人は滅多にいないと思う。
そしてそれは「なろう」でも同じだ。
「書き手がいてくれるから、作品を読める」
ごくごく、当たり前のことに思われるかもしれない。
しかし、書き手の方々が試行錯誤しながら作品を書き、読み手を楽しませようとしてくださること。
自分はそこに感謝を感じるのだ。
だから最近ではそれを、惹かれた作品にレビューを書いたりして、形にするようにしている。
無意味だとか、綺麗事や自己満足と言うならそれで構わないし、別に自分のやっていることに陶酔してもないし強要するつもりもない。
ただ、一つだけ言えるのは。
自分はこのように、誰かに感謝の気持ちを持って過ごすのが一番、幸せになれるのだ。
逆に、誰かに文句ばかり言って幸せそうな人はほとんど見たことがない、そういう人は常に何かに不満を持ち、イライラしている。
最後に......。
「お客様は神様」と言うなら、「従業員も神様」だと言うべきだと思う。
しかし、本当はどちらが立場が上とか、神様とかそういうことじゃなく、
「お互いが必要で、お互いがいるから成り立つ」のだ。
そして、お互いに感謝しあえるような社会になれば、それは数字を伸ばすことばかりが目的だった今までの資本主義から、もう一歩成熟した姿だと感じる。
そろそろ、そういう時代に向かってもいいのではないか、そんな思いでこのエッセイを書いてみた。