かえる
吉田が町から姿を消して三日目の晩にふらりと帰ってきて、急な風邪をこじらせて以後、病床に臥せっていると山田が知らせに来た。
吉田は病弱の気があり、下宿で静かに日々を送る若者である。彼には一つ趣味がある。村の街道に沿って、午後になると杉林の中を通って、渓や瀬を見物して回る。そうして自然を楽しんでいる。ただそれだけの男だった。
ある夕方一匹のかえるが、彼の目の前に現れた。人に驚かない性質らしく杉林の木立の中でげこげこ鳴いている。その呑気な様子に吉田は惹かれた。そこで、「よう」と挨拶をしてみると、かえるは歌うのをやめてじっとしてしまった。しばらくしてかえるは山の奥へ引っ込んでいった。吉田も元来暇人なので追いかけていった。それきり帰ってこなかった。
三日後の夜、吉田はふらりと帰ってきた。その間、どこへ行ったと人々が口々に聞くと、彼は渓でかえるを見ていたんだと答えた。
吉田のいうところによると、かえるに導かれて山奥の渓へ辿り着いたそうである。そこには殊にたくさんのかえるがいた。彼らの大合唱は瀬をどよもして響いていた。一団の奏でる音楽に惹かれ、吉田は瀬のきわまで進んでいった。するとかえるが、身を潜めるようにじっとして、音楽が中断されてしまう。その静けさの中で、吉田はただ、「獲れる」と思った。桶にでも入れて部屋で観察するつもりだった。眼の下にいる雄を、そうっと、両手の平で包む。
途端にかえるが合唱した。先ほどの絢爛な演奏とは打って変わり、都会の雑踏のように薄汚れた喧騒であった。それは非難の叫びだった。恐怖した吉田は、かえるをその手に、一心不乱に渓を引き返した。合唱の波の中をひた走るが、いつの間にか日が暮れ、また通り雨がざあざあと降りだしていた。雨、土を跳ねる靴音、かえるの合唱、それらは器楽的な幻惑となって、吉田の背を追いかけた。ふと気が付いて振り返ると、大きな闇の風景の奥から、幾万匹とも数えられないかえるの響きが迫って来ているのだった。
吉田は息も絶え絶えになりながら、永遠に感じるほどに街道を走った。とうとう、朝焼けを浴びながら、杉林を抜けた彼は街道に倒れた。彼の手からころりと、かえるが転げ落ち、「覚えていろ」と言った。それきり動くことはなかった。
山田は、吉田の話をここまでして、あいつは助かるまいと言った。私も同意だった。