表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

おにぎり娘とふりかけ兵士

作者: ぽて
掲載日:2009/04/18

     1


 通勤電車というのは、不思議な空間を提供してくれる。

 ほとんど毎日、同じ時刻に、同じ人との出会いがある。言葉を交わすほど積極的ではないにせよ、心の片隅では、どこか互いを意識しているものである。

 そんな意識が日々積み重なると、同じ空間を共有する者同士には、やがて連帯感すら生まれてくる。私たちは、それぞれの戦地に赴くため、同じ輸送機に乗り合わせた兵士なのだ。

 新米兵士を見かければ、この先の彼の活躍を思い描き、古参兵の姿が見えなければ、体調を崩して一時休戦か、などと考える。

 兵士は常に戦っている。戦場で名を上げることもあれば、逆に上官に叱られて、戦意を喪失することだってある。

 私もそんな一兵士として、毎朝同じ電車に揺られている。

 希望に満ちあふれた新米兵士とは違って、私は、もはやくたびれた兵士である。何のために戦場に赴くのか、いつしか明確な動機も失ってしまっていた。私と同じ気持ちでいる兵士は、この車内に果たしてどれだけいるだろうか。



     2


 ある冬のことだった。

 私はその日、いつもの列車に乗ることができなくなった。前日に一年社員が勇み足で、大口客に対する発注ミスを犯してしまった。その尻ぬぐいに全社員が早出することになったからである。

 よりによって、私は朝一番の電車に乗る羽目になってしまった。この後、いつもの車内に私がいないことに気づいて、みんなどう思うであろうか。

 しかし列車を変えることで、また新しい人との出会いがあるのも事実である。何と言っても、普段より二時間も早い列車である。そこにはまるで違った世界が広がっていても、何ら不思議ではない。

 思えば、始発電車に乗るなどというのは、初めての体験だった。

 さすがにこの時間の車内は、人の姿もまばらで、どこにでも自由に座ることができた。これがもう数時間もすれば、想像つかないほどの修羅場になるのか、と思った。

 私が乗車してから、列車はいくつかの駅に停車した。しかし不思議と乗客は一向に増える気配がない。

 やっと、空いていた隣のボックス席に、一人の少女が腰を下ろした。高校の制服を着込んでいる。こんなに早く登校している学生もいるのか、と私は思った。

 彼女はおもむろにカバンから小さな箱を取り出した。私は何が始まるのか少々気になって、それとなく彼女を視界から外さずにいた。

 フタを開けると、中からは真っ白なおにぎりが現れた。どうやらそれは家で作ってきたものらしい。

 彼女は別に取り出した海苔を器用に巻いて、躊躇することなく、パクっと口にした。

 制服姿の可愛らしい少女は、一人おにぎりを食べ始めた。このがらがらの車内では、そんな彼女に気づく者などほとんどいない。

 私はその大胆で、潔い行動が何だか微笑ましくなった。始発列車では、若い娘も人目を気にすることなく、こんなふうに食事をとることができるのだ。

 彼女は一つ目を食べ終えると、すかさず次のおにぎりを準備する。

 そしてパクっとかぶりつく。

 私は見ていて爽快な気分になった。

 彼女はどうやら、慣れた様子である。これは彼女の日課なのかもしれない。おそらく明日も、彼女はそこに座っておにぎりを食べるに違いない。



     3


 私は翌日も同じ始発電車に乗ることになった。連日の早朝出勤である。たった一つの発注ミスが他の顧客にも影響し、社内はかつてないほどの大混乱をきたしていた。それを収束させるには、昨日一日ではまるで足りなかった。

 私は自分の意志とは無関係に駅までやって来た。そして重い足取りで電車に乗った。

 そう言えば、今日もおにぎり娘に会えるだろうか。忙しさのあまり、今の今まですっかり彼女のことを忘れていた。

 果たして、彼女は同じ駅から乗ってきた。

 昨日と同じ席に座る。そしておにぎりを取り出した。やはり車内でご飯を食べるのは、彼女の日課だったのだ。

 私はふと、あることを思い出して、ポケットに手を入れた。

 そして、すかさず立ち上がると、おにぎり娘の目の前に小袋をかざした。

「はい、これをどうぞ」

「えっ?」

 私の指先には、小さなふりかけがぶら下がっていた。

 彼女はちょっと驚いたようだった。それでも、

「ありがとうございます」

 と頭を下げて、受け取った。

「どうぞ、かけて召し上がってください」

「はい。では、いただきます」

 彼女は弁当箱の上で封を切ると、白いおにぎりに振りかけて、その後、海苔を巻いた。

「あの、お一つどうですか?」

 彼女はじっと眺めていた私に、残りの一つを差し出した。

 だが、私には最後のおにぎりを奪う権利などない。それは彼女の大切な朝ご飯である。

「いいえ、お気持ちだけで結構です」

 そう言うと、私は彼女に背を向けた。

 次の駅が来て、私はすがすがしい気分で列車を降りた。ホームから振り返ると、窓越しにおにぎり娘と目が合った。彼女は笑顔で軽く会釈をした。

 早朝出勤するのは今日で最後である。明日は、いつもの列車が待っている。必然的に彼女とはもう再び会うことはないだろう。私はそう思いつつ、その場を離れた。

 駅を出て、軽やかな足取りで会社を目指す。

 実は、ふりかけを持っていたのには訳がある。

 昨夜残業することになって、近くのコンビニで弁当を買ったところ、何かのサービス中とかでレジで貰ったのであった。私はそれをポケットにしまい込んだまま、すっかり忘れていたのだ。まっ白なおにぎりを見た瞬間、それを思い出して、どうせなら、と彼女に差し出したのである。

 この先二度と会うことのない少女と、始発電車で共に時を過ごした証しとして、神様があんな演出をしてくれたのかもしれない。


 その翌日、再びいつもの満員電車が私を待っていた。この時間帯が間違いなく混雑のピークである。まさに立錐の余地すらない。始発電車に二度も乗ったおかげで、この混み具合がいかに異常なものか、改めて認識した。

 日頃、始発を利用している人には、想像を絶する世界である。同じ運賃を払っているというのに、これはあまりの差ではないか。

 さすがにこんな車内では、食事をとる人などいない。あのおにぎり娘のことが思い出されて、私は自然と頬が緩んだ。

 (彼女は、今朝もきちんとおにぎりを食べただろうか?)



     4


 あれから数ヶ月が過ぎた。

 本気になれない仕事に身を委ねて、何も考えない日々が続いた。訳もなく出勤して、適当に仕事をして、ただ家に帰って寝るだけの毎日だった。

 そんな無気力な私も、電車に揺られながら、今日ばかりはいつもと違う何かを感じた。そう、目の前に広がる光景が微妙にどこか違うのだ。思えば、この異変に少し前から気づいていた筈である。

 それは一体何なのか? 私は混雑する車内で答えを探した。

 そうか。今、やっと分かった。

 学生である。いつも乗ってくる学生たちがいないのだ。

 三月半ばの今、彼らは学校を卒業し、もはやこの列車に乗る必要がなくなったのだ。学生姿がすっかり減ってしまったことに、違和感を感じていたのだ。

 今まで私の意識からすっかり消えていた、おにぎり娘が顔を出した。

 (あの少女はどうしているだろうか?)

 あの時、もし彼女が三年生だったとしたら、今は卒業して、始発電車には乗っていないことになる。そうだとしたら、彼女がおにぎりを頬張る光景はあの車内から消えてしまった訳である。それは少々寂しい気がした。

 一度気になり始めると、私は彼女のことが頭から離れなくなってしまった。心の中が、彼女への想いですっかり一杯になってしまった。これはどうしてだろう?

 彼女が自由奔放に生きていたからかもしれない。朝食を抜く若者が多いと言われる中で、彼女はしっかりおにぎりを食べていた。大多数に迎合せず、人の目も気にせずに、自分の意志を貫いていた。それは自己主張と言ってもよい。

 それに比べて私はどうだ。会社からリストラされやしないかとびくびく怯え、上司や同僚の目を気にするばかりだ。社内ではなるべく目立たないように苦心して、時間が経つのを待っている。これでは自己主張のかけらもない。勤め出したばかりの頃は、こんなふうではなかった。いつしか本質を見失っていた。自分の身体から湧き出る活力をどこかに置いてきてしまった。

 私は心のどこかで、おにぎり娘の生き方に憧れているのではないのか。彼女が羨ましいと思っているのではないか。

 無性に彼女と会いたくなった。もう一度おにぎり娘に会って、何でもいいから話をしてみたくなった。学校のこと、家庭のこと、私から話すことはほとんどないが、彼女から訊いてみたいことは山ほどあるような気がした。



     5


 次の日、私は疲れた身体に鞭打って、朝早く家を出た。外はまだ薄暗く、人間の営みは始まっていない。どこかで新聞配達のバイクの音が遠くなったり、近くなったりしていた。

 人気のないホームに立って、私は一人考えた。自分をここまで動かす原動力は一体何なのか。あの日の少女に会ってどうしようと言うのか。自分でも分からなかった。彼女がおにぎりを食べる姿をもう一度見たい、ただそれだけだった。

 始発列車に乗る。

 今日、あの娘は乗ってくるだろうか。もし彼女が卒業していれば、私の行動は徒労に終わってしまう。

 駅が近づいてきた。次第に心臓の鼓動が速くなる。果たしておにぎり娘は現れるだろうか。

 列車はホームに滑り込んだ。私は我慢できずに、車窓からあの日の制服を探した。しかしまばらな人影の中に制服姿の彼女は見つからなかった。私はひどく落胆した。

 やはり彼女は三年生だったのだ。無事に学校を卒業して、もうこの列車に乗ることはない。車内でおにぎりを食べる必要もなくなった。

 私は、ほっとしたような、それでいてどこか淋しい気持ちになった。疲労感だけが一気に身体を包み込んだ。

 発車のベルがびっくりするほど大きく響き、窓に切り取られた風景が後方に流れ始める。おにぎり娘が住む街から、列車はどんどん遠ざかっていく。まるで私と彼女を引き裂くように列車はスピードを上げる。

 少し眠ろうか、と目を閉じかけた瞬間であった。

 地味な服装の女性がこちらにやって来た。がらんとした車内で、席はいくらでも選べる筈なのに、その女性はまっすぐ私を目がけて突き進んでくるようだった。

 私は目を見開き、その女性の行動の意味を探ろうとした。そして自分の考えていたことが、全て間違いだったことに気づかされた。

「おはようございます」

 あの日の声だった。私は目を疑った。

 目の前におにぎり娘が立っていた。よく見ると、今日は高校の制服ではなく、紺色のスーツを着込んでいた。それはどこか不思議な光景だった。

 呆気にとられて、言葉一つ出せない私に、

「こちら空いてますか?」

 と向かい合う座席を指さした。

「は、はい」

 私は思考が追いつかず、ただそう言うだけが精一杯だった。

 彼女は腰掛けると、両足をぴったりとくっつけて、その上にカバンから取り出した小さな箱を置いた。

 まさか。

 彼女は手慣れた様子で、箱から白いおにぎりを取り出して、海苔を巻く。

 パクっ。

 その一連の動きは、あっという間だった。

 何が起こるか分かっていた筈なのに、やはり私にとって、それは新鮮だった。彼女にまたやられた、という思いだった。

 夢でも見ているのだろうか。私は一気にあの日に戻ったような気分になった。

 いや、でも彼女は当時、高校生だった。今、目の前の彼女はスーツを着ている。これはどういうことだろう。

 私は慌てて、ポケットを探った。あるはずもないのに、ふりかけを探した。

 彼女はそんな私に目を向けると、

「お一つ、いかがですか?」

 とおにぎりを差し出した。

「い、いえ、結構です」

 動揺を隠せない私は、呂律がうまく回らない。

「遠慮なさらずに。今日はあなたの分もありますから」

 そう言うと、カバンからさらにもう一つの箱を取り出した。

 フタを取ると、中から真新しいおにぎりが二個顔を出した。

 私は狐につままれたようだった。

 

 私は彼女からおにぎりを受け取った。ごはんには、まだ少し温もりが残っている。この始発電車に乗るためには、相当早起きしてこれを作ったのだな、と思った。

「これを、こうして巻くの」

 彼女は別に取り出した海苔をしっかりと巻き付けてくれた。

「はい、どうぞ」

「では、いただきます」

 私は観念してそう言った。大人しく彼女に従って、おにぎりを口に運んだ。

 乾燥した海苔が破れる、心地よい音がした。炊き立てのごはんが、しっかりとした歯ごたえを与えてくれる。後から程よい塩味が効いてくる。

 彼女のおにぎりは、素直に美味しかった。

 明け方を疾走する電車の中で、二人が向き合っておにぎりを食べていた。端から見れば、それはきっと不思議な光景だったに違いない。

 私は朝食もとらずに、この列車に飛び乗ったので空腹だった。それであっという間におにぎりを平らげた。

「もう一つどうぞ」

 彼女が勧める。

 (どうして彼女はおにぎりを、私の分まで持っていたのだろう?)

 頭の中に当然の疑問が浮かぶ。

 彼女と最後に会ってから、もう数ヶ月が経過している。まさか私がこの列車に乗るのをずっと待ち構えていた訳でもあるまい。一日、二日の話ではないのだ。いくら何でも、私のために用意していたとは考えられない。

 そもそも彼女は高校の制服を着ていない。学校は卒業したということだろう。それではなぜ、今まで通りに始発電車に乗る必要があるのだろうか。

 おにぎりを貰っておきながら、私は彼女のことをまるで何も知らないのであった。

「残念ながら、今日はふりかけがないんです。持ってこればよかったですね」

 私がかろうじて言えたのは、そんな台詞であった。

 彼女はふふふ、と笑った。

「いや、このままでも十分美味しいのですけどね」

 私は慌てて付け足した。

「さあ、どうぞこれも召し上がってください」

 彼女は最後の一個を差し出した。

 私は素直に受け取った。今度は海苔を貰って、自分で巻き付けた。

 一口かじったところで、車内放送が流れた。間もなく自分の降りる駅である。このままおにぎりをくわえたまま、下車するわけにもいかない。

 私は急いで残りのおにぎりを頬張った。

 窓にはホームが見えていた。もう降りる支度をしなければならない。

 私は無理矢理おにぎりの断片を飲み込むと、

「ごちそうさまでした」

 と言った。

 列車が停車した。すぐの発車である。ホームにはベルが鳴り響いている。私は慌てて席を立った。

「あの、明日もまた会えますか?」

 私は振り返って、言葉を掛けた。

「はい」

 彼女は両手でおにぎりを握ったまま、私の顔を見上げて答えた。彼女の笑顔が、私の心を一気に温かくした。これまでの不安や疑念はどこかに消え去っていた。

「では、また明日」

 そう言い残すと、私は開いている扉に猛然と駆けていった。

 私がホームに降り立つのと同時に扉が閉まった。ぎりぎりセーフである。

 振り返ると、すでに列車は動き出していた。彼女の姿を探したが、急加速を始めた列車は壁にしか見えなかった。

 しかし明日もきっと彼女と会える、そんな安心感が心を軽くしていた。

 列車が消えてしまうと、誰もいないホームだけが残された。私にはさっきの出来事がまるで夢のように思われた。口の中に残ったわずかな米粒が、それが現実であることの証だった。私は力強く歩き出した。

 おにぎり娘は確かに始発電車に乗っていた。明日も会えると言ってくれた。

 がらがらの改札口を抜けてから、もう少し彼女に付き合って、その後ここへ引き返しても会社には十分間に合ったな、と考えた。

 しっかりした足取りで会社へ向かった。

 自分で鍵を開けて事務所に入った。全部屋の明かりをつけて、パソコンの電源を入れる。不思議と眠気は吹き飛んでいた。彼女のおにぎりを食べて、自分の身体に充実した精神が宿っているようだった。今日はいつもより、仕事がうまく行くような気がする。

 娘に元気をもらった兵士は一人戦場に立ち、これから始まる戦いの時を静かに待っているようだった。



     6


 私は次の日も始発列車に乗った。連日、慣れない早起きをするのは正直辛かったが、おにぎり娘に会うという大きな目的が、私の眠気を吹き飛ばしていた。私は駅に向かう途中、早朝から開いているコンビニに寄って、ふりかけの小袋をためらうことなく買った。

 今朝は昨日と比べると暗かった。灰色の厚い雲が、朝日をすっかり覆い隠しているからだった。

 昨日と同じようにホームに立って列車を待つ。どうやら雨が降り出したようである。コンクリートの枕木が、見る見るうちに黒い色に染まっていく。辺りは雨の日独特の鼻をつく臭いが漂ってきた。

 今日も車内はがらがらである。私は昨日と同じ車両の同じ座席に陣取った。窓には、雨粒が斜めに張り付いていく。外はどうやら激しい降りになってきたようだ。

 列車は今、彼女が乗ってくる駅に到着した。私は窓越しに彼女の姿を探す。

 しかし見つからなかった。私は諦めると、大人しく座席に腰掛けて、彼女が来るのを待った。

 列車が発車して、しばらくしてからも、彼女はやって来なかった。

 (どうしたのだろう?)

 私は立ち上がって、周りを見回した。何度確認しても彼女の姿はない。そもそもこの車両には、乗客は数えるほどしか乗っていない。見間違う筈もなかった。

 もしかすると車両を間違えたのだろうか。

 私の足は、自然と隣の車両に向いていた。外は雨が降っているので、彼女は一両間違えて乗り込んだとも考えられる。

 しかし隣の車両も人はまばらで、その中に彼女の姿を見つけ出すことはできなかった。

 念のため引き返して、さらに一つ先の車両も見に行った。やはりそこにも彼女は乗っていなかった。

 私の心は、ぽっかりと大きな穴が開いてしまったようだった。いるはずの彼女がいない。不安だけが募る。まるで一緒に出かけた幼い妹が、ちょっと目を離した隙にいなくなってしまった、そんな感じだった。

 一体彼女はどうしたのだろう。昨日、確かに約束した筈なのに。

 

 私は肩を落として、列車を降りた。身体が鉛のように重かった。疲れが一気に全身を包み込んでいた。今日は会社を休もうか、と本気で考えた。

 いつの間にか、ホームにひっそりと置かれたベンチに腰を下ろしていた。始発電車から降りた数少ない乗客も、みんな改札を目指して歩いていく。

 ホームに残っているのは、私一人になった。

 私は止みそうもない雨をぼんやり眺めた。

 (どうして彼女は現れなかったのだろうか?)

 これで彼女は、もう二度とこの列車に乗ってこないような気がした。なぜそう思うのか分からないが、それはほとんど確信に近かった。

 正直、彼女に裏切られたような気分になった。昨日別れ際に、確かに約束したのである。彼女は明日もこの列車に乗る、と言った筈である。

 しかしそれは一種の社交辞令で、本心は私になんか会いたくなかったのかもしれないな、と思った。別に私は彼女の恋人でもなければ、友達でもない。同じ列車に乗る義理などどこにもないのだ。

 それにしても、彼女が私のことを嫌がっていたとは、到底思えないのである。昨日は、彼女の方から私に近寄ってきたのだ。そんな行為にも説明がつかない。

 それに、おにぎりの件もある。理由はよく分からないが、彼女は私の分までおにぎりを作ってきていた。これも妙な話である。嫌いな人間のために、食事をこしらえるなんて話は聞いたことがない。

 とは言っても、事実は事実である。彼女は今日、始発電車に乗らなかったことに変わりはない。それが全てである。

 どれぐらい座っていただろうか。まるでベンチに根を張ったようだった。何本もの列車が左から右からやって来て、人々を飲み込み、また吐き出していった。

 それでも私はそこを動かなかった。

 

 いつの間にか、ホームには人が溢れていた。私は我に返った。いつもの時間になっていた。やはり会社を休むわけにはいかない。

 私はようやく腰を上げた。

 会社では、朝礼が行われ、課長が社員の前で檄を飛ばしている。しかし今の私にとって、彼の言葉は何も響いてこなかった。

 仕事中もちょっと気を抜くと、おにぎり娘の顔が浮かんできた。

 人目を気にすることなく、おにぎりを頬張っていた彼女。見ず知らずの私に、大事なおにぎりを勧めてくれた。

 (一体、どうしてしまったのだろうか?)

 

 帰りの電車に揺られながら、明日はどうしようか、とぼんやり考えた。

 もう始発電車に彼女は乗ってこない気がした。そうであるならば、明日は始発に乗る理由はどこにもない。

 しかしまだ、そうと決まったわけではない。今日はたまたま乗らなかったのかもしれない。明日は以前のように来るかもしれない。

 結局、明日はどうするかを決められずに、寝床に入った。

 連日の早起きで、身体も疲れのピークを迎えている。もう始発電車に用はないと腹を決めて、ぐっすり眠ればよいのだが、そこまでの勇気はなかった。

 私は目覚ましを日頃の時刻にセットした。それよりも早く起きることができたなら、もう一度だけ始発に乗ってみようと考えた。

 

 次の日の朝、私はベルも鳴らないうちに、目が覚めてしまった。それはまだ十分に始発に間に合う時間だった。

 彼女のことが気になって、自然と目が覚めてしまったのだ。やはり心のどこかでは、もう一度始発に乗ろうと決めていたのだ。

 しかしその日の結果も同じであった。始発電車で彼女に会うことはなかった。

 私の悪い予感は的中した。この先、彼女にはもう会えないという気持ちがますます強くなった。

 もしかすると、彼女は今までとは逆に、ラッシュ時の列車に乗るようになったのではないか、と考えた。

 (それではもうおにぎりは食べられないな)

 私は一人で笑ってしまった。

 (明日はどうしようか?)

 もう一度、もう一度だけ乗ってみることにしよう。それで彼女が現れなかったら、きっぱりと諦めることにしよう。私はそう心に決めた。

 兵士は明日に備えて、目覚まし時計をいつもより早くセットして眠りにつくのであった。

 

 

 7

 

 今日も早起きして、駅へ急いだ。

 駅前のロータリーには、こんな明け方でもタクシーが数台、エンジンをかけたまま停車していた。感知式のエスカレーターが、私一人のためだけに、突然モーター音を轟かせて動き始めた。

 私はポケットの中に手を入れて、ふりかけの小袋をぎゅっと握りしめた。それはおにぎり娘に会えるための、おまじないであった。

 始発電車がホームに滑り込んでくる。

 みんながまだ眠っている間にも、こうして鉄道は人知れず動いているのだな、と改めて思った。

 列車の扉が一斉に開く。全車両の扉がぱっくり口を開けた。その様子は、私一人を飲み込むには、やはり大げさに思われた。

 発車のベルが鳴る。心のどこかでは、もうおにぎり娘とは会えない予感がしていた。それなのにどうして未練がましく、この電車に吸い寄せられているのか。自分の行動に、自分でも説明がつかなかった。

 私はいつもの座席に座ると、仕事をやり終えたような気になって、急に眠気に襲われた。ここ数日はずっと寝不足が続いている。無理もなかった。私は睡魔に逆らうことなく、窓に身体を預けて、うとうとし始めた。

 列車ががくんと大きく揺れた。私は浅い眠りから覚めてしまった。視界が徐々に開けてくる。

 床に小さな黒い靴が並んでいた。装飾のない地味な女性の靴だった。同時に何やら頭上から声が聞こえたような気がした。

 私は雷にでも打たれたように、身体を真っ直ぐ起こし、その声のする方を見上げた。

 一人の女性の姿がそこにあった。

 今日も早起きをして、この列車に乗ったことが、決して無駄ではなかったことを知った。

「あの、おはようございます」

 その女性は、どうやらさっきと同じ言葉を繰り返しているらしかった。

 私は完全に正気を取り戻して、

「おはよう」

 と答えた。

「こちらに掛けてもいいですか?」

 彼女は控えめな態度で言った。

「はい、どうぞ」

 私の心は小躍りしていた。おにぎり娘に再会できたことが、とにかく嬉しかった。色々話したいことが待っていた。ポケットの中に手を入れて、ふりかけを確認した。

「昨日も、一昨日も待ってたんだよ」

 私はやや憮然とした調子で言った。

 これだけ心配させたのだから、彼女に愚痴の一つや二つを言っても罰は当たらないだろうと思った。

 私はまるで会社の上司のような口ぶりだった。彼女に辛く当たることで、彼女に反省してもらいたい、そんな心境だった。

 彼女は私と目を合わさないように、うつむいていた。その姿はいつもと様子が違っていた。何かに怯えるような、どこか不安げな表情をしていた。

 自分の言動が理不尽なものだと気づくのに、さほど時間はかからなかった。私が彼女に冷たく当たる道理はない。しかし私のどこかに、彼女を少し困らせてやろうという意地悪な気持ちがあったのは事実だった。

「今日はおにぎり、食べないの?」

 私は努めて優しく言った。

「今日はないですから」

 彼女はうつむいたまま答えた。

「どうして?」

 これではまるで尋問だな、と思った。しかし彼女についてほとんど何も知らないのだ。

「寝坊して作る暇がなかった、とか?」

 そんな安っぽいストーリーを口にした。

「いいえ、違います」

 彼女はきっぱりと否定した。

「でも君が握っているんだろ?」

「いいえ、おばあちゃんです」

 私は、何か見当違いをしていることに、今ようやく気がついた。これまで一人よがりだった自分に少し恥ずかしさを覚えた。

 そうか。あの美味しいおにぎりは、おばあちゃんの手によるものだったのか。人生の中で、数え切れないほどのおにぎりを握ってきた、そんな女性のことを考えた。だからあれほど完成度が高かったのか。私は妙に納得した。

 おにぎりは、おばあちゃんが握っていた。そして彼女は今日、そのおにぎりを持っていない。私はこの二つの事実が何を意味するのかを考えた。

 悪い予感に到達する。二日間、彼女が列車に乗らなかったことにも合点がいく。

「もしかして、おばあちゃんに何かあったの?」

「はい、急に倒れてしまって」

「大丈夫だった?」

「入院したけれど、命に別状はないらしいです」

「それはよかったね」

 私は心からそう言った。

 やはりそうか。彼女が列車に乗らなかったのは、おばあちゃんのことがあったからだった。とにかく無事でよかった、と思った。

「おばあちゃんのこと、心配だね?」

「はい。でも私がしっかりしないと」

 彼女はそんなふうに言った。

 私は彼女に謝りたい気分になった。彼女が現れないことに、こちらはやきもきしたが、彼女には十分な理由があった。自分の身勝手さに、嫌気がさした。

「また、おばあちゃんが元気になって、おにぎり握ってくれるといいね」

 私がそう言うと、彼女は意外なことを言った。

「でも私、本当はおにぎりなんて欲しくないんです」

 私は自分の耳を疑った。意味が分からなかった。

 列車は走り続けていた。レールのつなぎ目を拾う音だけが、妙に大きく聞こえていた。

 

 8

 

 私たちはボックス席で向かい合って座っていた。彼女は私と目を合わせることなく、じっとうつむいていた。

 時折、電車が左右に大きく揺れると、彼女の小さな身体もそれに合わせてふわふわ揺れた。

 二人は沈黙していた。

 おにぎりなんて欲しくない。そんな彼女の意外な言葉を耳にして、私は何と言っていいのか分からなかった。

 次の駅を知らせる車内放送が聞こえた。私の降りる駅である。しかしこんな気持ちのまま、降りる気には到底なれなかった。

 列車が駅に停車した。扉が開くと、車内の空気が一気に入れ替わる。この時間、外はまだ寒い。

 彼女は途端に顔を上げて、

「今日はここで降りないのですか?」

 と不思議そうに訊いた。

「はい」

 私は短く答えた。

 列車ががくんと一揺れして、速度を上げ始める。これより先へは行ったことがなかった。車窓には、初めて見る景色が広がる。

「君は、どこまで行くの?」

 私はしばらくしてから、そんなふうに口を開いた。

 彼女はしばらく答えなかった。必死に答えを探しているふうであった。私は質問を変えた。

「高校は卒業したんだよね?」

「はい」

「ご卒業おめでとうございます」

 私は心を込めてそう言った。

「ありがとうございます」

 彼女は作り笑顔で応じた。同じ言葉を何度も聞かされて、麻痺しているのか、あまり嬉しそうには見えなかった。

「でも、そんなにおめでたくないかも」

 彼女は続けて言った。

「どうして?」

 私は間髪入れずに訊いた。

「だって、まだ就職先が決まってないから」

 この時の彼女の表情は、意外にも明るかった。まるで他人事のような口ぶりだった。

 しかしそれは彼女の強がりであって、本当はやり場のない怒りや、不安を感じているに違いなかった。私は人生の先輩として、心の内が手に取るように分かった。

「もしかして、内定取り消しってヤツかい?」

「はい。そうみたいです」

 彼女は今度は白い歯を見せて、自嘲気味に笑った。

 そうか。彼女は今、職探しをしているのか、とようやく思い至った。今着ているのは、会社訪問用のスーツだったのか。もっと早く気づくべきだった。

 高校は卒業したものの、内定を取り消されて、彼女は春からの行き場を失っていた。それでいつものように、この始発電車に乗って就職先を探していたのか。

 私は彼女に掛けるべき適切な言葉を見つけられずにいた。励ませばよいのか、慰めればよいのか、激しく迷った。

「新しい勤め先は見つかりそうかい?」

 考えがまとまらないうちに、そんな言葉が自然と出た。

「正直、難しいです。先生に紹介してもらった所は、全部回ってきましたけど」

 彼女は真っ直ぐ私を見つめて言った。そんな態度に、彼女の真面目な人柄を感じた。

 私はため息をつく。目の前の慣れないスーツを着た彼女が、何とも可哀想だった。何とか、彼女を励ましてやりたいと思った。

「元気出してよ。おばあちゃんも応援してるんだろ?」

 私はそんなふうに言いながら、おにぎりのことを思い出していた。

「いえ、おばあちゃんは私の内定取り消しのことは知らないんです」

「え、そうなの?」

 私は驚いた。

「もちろん、両親には言いましたけど、おばあちゃんには、変な心配を掛けたくなくて言えなかったんです。そしたら、卒業後も、そのまま会社に行っていると勘違いしているらしくて。それで今まで通り、おにぎり握ってくれるんです」

 そうだったのか。だから一層、おばあちゃんのおにぎりが心苦しく感じられたのだろう。でも彼女はそれを断り切れなかった。

 私は彼女の優しさに心が動いた。こんな娘を雇わなかった会社は、どうかしていると思った。彼女が会社にいたら、おそらく細かい気配りで、いい仕事ができそうである。

「前にあなたにおにぎり差し上げましたよね」

「はい」

「実はあれって、私のお昼だったんです」

「えっ」

 私は声に出して驚いた。

「学校に通っている時は、学食で食べるから、朝ご飯だけだったのですけど、就職したからって、おばあちゃんがお昼の分まで用意してくれたんです」

 そうだったのか。それをあの時、私にくれたという訳か。

「ごめんなさい。あなたの分だなんて、嘘ついてしまって」

 彼女はぺこりと頭を下げた。

「いや、実は私も君にふりかけをあげたけど、あれは君のために用意していたのではなくて、たまたまポケットにしまい込んであるのを思い出して、渡しただけなんだ」

 私も慌てて告白した。

 一瞬、二人は顔を見合わせてから、笑い合った。

「正直ですね、お互いに」

 彼女は心の底から笑っているようだった。

 私は嬉しくなった。彼女の背負っている重荷を、少しだけ減らしている気がしたからだった。

「今日は面接の予定でもあるの?」

 私はあることを思いついて尋ねた。

「いえ、特にありません」

「それなら、次の駅で降りて、一緒に来てくれないか?」

 くたびれた兵士は、無力なこの娘に代わって、自分が社会と戦ってやるのだ、と心に誓った。

 

 

 9

 

 二人は次の駅で列車を降りて、反対行きの列車を待った。ここはまるで私の知らない駅である。勝手を知らぬ駅に立っているのは、どこか落ち着かないものである。早く列車に乗って、この場を去りたい気分だった。

 私の隣には、おにぎり娘が立っている。

 以前、高校の制服は見事に似合っていたのに、今日のグレーのスーツの上下は、まるで板に付いてない感じである。人から借りてきた服みたいに、身体との一体感がまるでないのだ。

 無理もない。事実、彼女はまだ就職先が決まっていない。そんな彼女の不安や絶望感が、本来のスーツの役割を少しも発揮させていないからである。

 列車に乗って、行き過ぎた駅を戻る。いつもの駅のホームは、どこからともなく人々が集い、日頃の喧騒を完成させつつあった。

 私は彼女を自分の会社に連れて行くつもりだった。まずはその前に、腹ごしらえをしなければならない。

「軽く食事でもしませんか?」

 一生懸命私の後ろを付いてくる彼女に声をかけた。

「そうですね」

 彼女も賛成してくれた。

 私は駅構内の立ち食いそば屋を指さした。時々利用する店である。もっと若者向けの店がいいのだが、食事に時間をかけている余裕はない。

 カウンターでは、サラリーマンが横一列になってそばを流し込んでいる。私たちもその中に混じった。

「何にする? 僕はてんぷらそば、だけど」

 私は彼女の耳元で訊いた。

「同じものを」

 彼女は小さな声で答えた。

「てんぷらそば、二つ」

 私は奥に声を掛けると、彼女の分も合わせて小銭を置いた。

 彼女はこういった食事を初めてするらしく、まるで勝手が分からないようだった。私の行動をただ真似するだけだった。

 カウンターの上には、透明な容器に入った二個のおにぎりが売られていた。

 そばを食べ終えた私は、横でどんぶりを不器用に持つ彼女に向かって、

「おにぎりも食べるかい?」

 と訊いた。

 彼女は無言で、首を横に振った。

「でも、それだけじゃお腹減るよ」

 彼女はちょっと考えているようだった。

「それなら、一個ずつ分けよう」

 私は彼女の答えを待たず、容器をつまんで、店主に小銭を出した。

 先に一個取り出してから、残りを彼女の方へ滑らせた。

 私は一気に食べると、

「やっぱり、君のおにぎりの方がおいしいな」

 店主に聞こえないように声をひそめて言った。

 彼女もそばの箸を休めて、おにぎりを手に取った。

「いただきます」

「どうぞ」

 彼女は一口かじると、私を見上げた。

「おいしい」

 彼女は嬉しそうな顔で言った。

 そうだ、思い出した。私はポケットにふりかけを持っていたのだった。

「はい、これ使って」

 ふりかけの小袋を彼女の目の前に差し出した。

 一瞬、彼女は目を丸くしてから、私の顔をまじまじ見て笑い出した。

「どうして、これを?」

 君のおにぎりに期待して、買っておいたんだ、そう言いかけたが止めた。

 黙っている私の横で、彼女は小袋を破っておにぎりに振りかけた。

「やっぱりおいしい」

 彼女は素直に喜んでいた。今、どん底にいるはずなのに、こんな些細なことを喜びに変えられる、そんな彼女の純心さが羨ましかった。

 私は彼女が食べ終わるのを気長に待った。店を後にしてから、

「おばあちゃんのおにぎりがないと、何だか寂しいね」

 と言った。

「そうかもしれません」

 彼女は真面目な顔をして言った。

 二人は人混みをかき分けるように、会社まで歩いた。

 彼女と一緒に事務所に入ると、既に出社していた社員から好奇の視線が向けられた。

 女子社員が「いらっしゃいませ」と声を掛けた。そんな声に彼女は深々と頭を下げた。

 私は彼女を自分のデスクに案内した。引き出しから名刺を取り出して渡す。

 彼女は名刺を正しいやり方で受け取った。学校で練習したことをしっかり実践しているようだった。これなら大丈夫だ。

「あっ、申し遅れました。私はこういう者です」

 そう言って、カバンの中から履歴書を取り出した。

 今初めて彼女の名前を知った。でも私にとって、それほど意味を持っていなかった。おむすび娘はおむすび娘だった。

 事務職を希望している彼女は商業高校を卒業し、商業簿記二級を取得していた。

 履歴書に貼られた写真は、緊張しているためか、暗い顔に写っていた。実物の方がもっと愛嬌のある顔をしている。

「ここに座って、ちょっと待ってて」

 私は、自分の椅子に彼女を座らせた。彼女は借りてきた猫のように大人しく、背筋をぴんと伸ばして、真っ直ぐ前を見て座った。

 私は今出社したばかりの課長の所へ出向いた。彼も突然の訪問者には気づいているようだった。

「君、あの子は何だい?」

 怪訝そうに訊く。

「実は得意先で事務員を募集しているんです。そちらに推薦しようと思いまして」

「へえ」

 課長は意外そうな声を上げた。

「それで今日、営業回りする時に彼女を面接に連れて行きたいんですが、いいでしょうか?」

「まあ、それは構わんが、あの子は信頼できる子なのかい?」

 彼は遠目に彼女を見ながら訊く。

「大丈夫です。それで、課長の方からも先方に電話を入れて頂けると助かるのですが」

「そうだな。いい子を推薦したとなれば、今後営業的にメリットがあるかもしれんな」

 課長はそんなふうに言った。

 私はデスクに戻って、その得意先に電話をかけた。

 事務員の募集はまだしていると言う。今の事務員の一人が出産のため、来月に退職するということを私は知っていた。

「では、これから伺いますので、よろしくお願いします」

 社長に面接の約束を取り付けて電話を切った。

 彼女は緊張したまま、私の電話のやり取りをじっと聞いていた。

 私はそんな彼女を見て、

「さあ、行こう」

 と促した。

 

 

 10

 

 得意先に向かう車の中で、助手席に座る彼女は、緊張のあまり無口になっていた。私は構わず、どんな会社であるかを手短に説明した。大きな会社ではないが、業績も堅調で、職場の雰囲気もなかなか良いと話した。それは日頃の営業で感じていることだった。

 私たちは時間通り、社長室の前に立っていた。社長が直々に面接をすると言う。

「どうぞ、入りたまえ」

「じゃあ、頑張れよ」

 私はおにぎり娘の肩を軽く叩いた。

 彼女の姿は社長室に消えたが、すぐにまた扉が開いた。

「おい、君も入ってくれ」

 社長の声がした。

 私たち二人は社長と向き合っていた。いつも営業で話をする間柄だが、今日は別人のように見えて、こちらも緊張する。

「実は、あなたの他にもう一人面接をしていてね」

 初老を迎えた社長がそう切り出した。

 近くまで迫っていたゴールが、一気に遠くなった瞬間だった。いや、でもまだ諦めるわけにはいかない。

「それで、色々お話を聞きたいと思うのだが、そもそも君たち二人はどういうご関係なのかな?」

 しまった。そういう展開になることは予想していなかった。推薦したからには、それ相応の関係が必要となる。始発電車でおにぎりを一緒に食べたというだけでは、ほとんど無関係と言わざるを得ない。

 私は冷や汗が出てきた。何かこの社長が満足するような話をしなければならない。短時間で整合性のある話が作れるだろうか。私は内心、焦り始めた。

 しかし隣りに座っている彼女は意外に落ち着いていた。彼女は堂々とした態度で、私と知り合った経緯を語り始めた。

 彼女は高校を卒業したものの、内定を取り消されて落ち込んでいた。おにぎりを握ってくれるおばあちゃんに本当のことが言えずに、自己嫌悪に陥った。おばあちゃんに後ろめたくて、おにぎりが嫌いになりかけていた。しかし今は、早く病院のおばあちゃんが元気になって、またおにぎりを握って貰いたい、などと話した。

 私は口を挟まずに、ただ彼女の言葉を聞いていた。何だか聞けば聞くほど、面接に不利になっていくような気がした。しかし、確かに彼女の話には嘘はないと思った。自分を飾らず、これほど本心を人前で言う人間を私は初めて見た、と思った。

 社長はずっと彼女の話を聞いていた。彼も何も言葉を挟まなかった。

「よく分かりました」

 彼女の話が終わると、ようやく口を開いた。

「君から付け足すことは?」

 社長は私の顔を睨むようにして言った。

「はい、僕は彼女の名前も今日知ったぐらいですから、本当は推薦できるような身分じゃないかもしれません。しかしおにぎりをしっかり食べている彼女を初めて見た時、大げさですが、他人の考えに左右されず、自分の考えをしっかり持って生きている、そういう人に見えました。自分が会社の人間となって、いつしか忘れてしまっていた自己主張が、彼女にはあると思いました。無気力に惰性で生きていた私を目覚めさせてくれたのです」

 社長は目を閉じて、聞いていた。

「また一緒に話をするうちに、彼女は人の気持ちが分かる人であると思いました。今の私にないものを持っている、だからこそ私は彼女を、自信を持って推薦します」

 私は飾ることなく、正直な気持ちを語り終えた。

 社長は、にやりと笑った。

「今日の君は随分と一生懸命だね」

「彼女の人生がかかっていますから」

 私も負けじと言った。

「それじゃ、これで面接終了」

 突然社長は立ち上がった。

 私は顔面蒼白になった。まさか、私の余計な言葉が彼を怒らせたのではないか。そう思うと心穏やかではいられなくなった。もしそうなら、彼女に詫びる言葉もない。

「明日から来てください。前任者と引き継ぎしてもらいますので」

 確かに今、社長はそう言った。一気に安堵が広がった。よかった、と思った。社長に心から感謝した。

「ありがとうございます」

 私は採用された彼女よりも大きな声で叫んでいた。

 

 

 11

 

 あの日から数ヶ月が過ぎていた。

 私は、営業活動と称しては、おにぎり娘の働く姿を見に行った。彼女は受付のカウンターに座って、電話を取ったり、来訪者の接待を忙しくこなしていた。彼女はどこから見ても立派な社会人に見えた。あの日のグレーのスーツがよく似合っていた。

 仕事の邪魔にならないように、私は私情を挟まず、ビジネスマンとして接した。彼女も余計なことは言わなかった。

 初夏のある日、昼休みをとる彼女と遭遇する機会があった。

 彼女は受付を離れて、事務所の片隅で食事をとっていた。

 私の姿を見かけると、周りを気にしながら、少しはしゃいだような様子で、遠くから手招きする。

 私はそんな彼女の傍へ駆け寄った。

「これ、召し上がりませんか?」

 挨拶もそこそこに、彼女が言った。

 ランチボックスのフタを取ると、中には白いおにぎりが並んでいた。

「おばあちゃん、元気になったのか?」

「はい」

 彼女は嬉しそうに言う。私もつられて自然と笑みがこぼれた。

「今でも列車でおにぎり食べてるのかい?」

「それは無理です。遅い列車で来ているから」

 それならお互いに、同じ時間帯の列車に乗っていることになる。しかし彼女の姿を見かけたことは一度もなかった。あれだけの混雑では仕方ないかもしれない。

 満員電車は、偶然の出会いは与えてくれるが、必然の出会いは与えてくれないようだ。

「それじゃ、朝はどうしてるんだい?」

「家でしっかり食べてます」

「なるほど」

 ああ、しまった。今、気がついた。今日はふりかけを持っていない。

 ふりかけ兵士が、ふりかけを持っていなかった。

 しかし、おにぎり娘には、もうふりかけは必要ないのかもしれない。

 私は、ふりかけ兵士としての役目を無事終えたことに今、気がついた。

 

                                   完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ふりかけ戦士!! 頑張れ!! 応援します!! 人との絆は単純なもので、こころのアヤで複雑怪奇にしてゆくものです。 おにぎり1つ、そしてふりかけ一つ命の賭けとなる食事でつながった縁 生きてゆ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ