十話
続きです。
「あり得ませんわ……」
今日何度目になるだろうか。自らですら把握できないほど声に出している。
アレクシア第一王女は混沌とする戦場を見つめてその紅眼を大きく見開いていた。
茫然自失――指揮官がこのような姿を見せることは通常避けなければならない。されど、周囲に立つ幕僚や兵士たちも同様の様子であったため露見することはなかった。
「こんな……まさか…………」
月並みな言葉しか出てこない。それほどまでにアレクシアは驚愕していた。
何故なら――たった今、眼前で勇者の少女が成した行為があまりにも常軌を逸していたからである。
『ま、魔法を打ち消した……?』
『いや、違う。あれは――切ったんだ』
『馬鹿な……いくら何でもそれはないだろう?』
と、幕僚の男性が周囲に同意を求めるも、返ってくるのは痛いほどの沈黙だ。
その気持ちはアレクシアにもわかる。自分だって信じたくはない。
しかしながら目の前で起きた出来事は現実のものであり、それを成した少女は立ち尽くしてこちらに視線を向けてきている。
その黒眼はアレクシアを捉えて離さない。その眼力に、宿る虚無に、彼女は思わず身震いしてしまう。
少女の圧倒的な存在感に呑まれかけた――その時だった。
「アレクシア様、ここは耐え時です。すぐに両翼から援軍が到着致します」
「……え」
紅玉髄の如く赤みがかった茶髪を持つ女性が声をかけてきたことでアレクシアは我に返った。
咄嗟に口から飛び出た言葉はたったの一言で、それもあまり意味をなさないものであった。
けれどもそんな主の醜態を意識して無視した女性――ジルは報告を続けた。
「敵中軍がこちらの中央に猛攻を加えています。勇者によって大きく態勢を崩した我々では対処しきれない、私はそう判断し、敵の後背を取りに向かった両翼を戻しました。アレクシア様の許可を得ずの行動、誠に勝手であるとは存じていますが、火急であったため、どうかお許しを」
一気呵成に放たれた言葉はアレクシアを現実に引き戻すには十分だった。
彼女はサラリと金髪を手で梳くと、思考を整えて口を開いた。
「問題ないわ、ジル。流石はわたくしのはん――友ね。早速中軍に指示を、魔法使いの部隊を下げて重装歩兵を前に出しなさい。援軍がすぐに駆けつける、それまで耐えなさいとも伝えて。……ああ、そうですわ。勇者らしき少年少女ですが、先ほどの魔法を打ち消すのにかなりの魔力を使ったでしょうからおそらくこれ以上は向かってこないとも伝えなさい」
この予想はあながち外れているわけではないと傍で聞いていたジルも思う。現に勇者たち二人は味方の兵の突撃する様を見守っているだけだ。
故に反論はなく、それよりも一瞬で立ち直った主に敬意の眼差しを向けた。
それから未だ動揺醒めない幕僚たちに指示を出して動かしながら再び主を横目で見やる。
常日頃ジルが美しいと思っている薔薇石色の瞳には、確かな畏れがあった。
*****
一方、味方の兵が敵中央を食い荒らす様を見つめていた勇もまた驚嘆に包まれていた。
しかし、それも長くは続かなかった。眼前で明日香が片膝をついたからだ。
「あ、明日香っ!大丈夫かい!?」
慌てて傍に近づき、しゃがみ込んで少女の顔を覗けば、汗を流していることに気付く。その〝無〟を湛えた表情にもどこか疲労の色を感じ取れる。
だが、明日香は片手を上げて勇の心配を遮った。
「……大丈夫だよ、勇くん。ちょっとだけ疲れただけだから」
短く告げて立ち上がった明日香は再度正面を見やった。しかしそこに先ほどまで見えていた敵将の姿はない。重装歩兵の分厚い壁に阻まれてしまう。
(ここであの人を討ち取るのは無理かな)
犠牲を払えばあるいは、といったところではあるが、まだ緒戦であるし、隣にいる親友にまで無茶を強いるわけにはいかない。それに体内魔力もかなり消費してしまっていた。〝神剣〟を持つ勇とは違って、明日香には固有魔法しかない。それが使えなくなれば一般兵とまではいかないだろうが、常人の範疇まで落ちてしまう。敵陣真っただ中の現状でその状態になるのはあまりにも危険すぎる。
それに、と明日香は周囲を見回す。固有魔法によって強化されている視力が捉えたのは、こちらに猛然と駆けてくる敵両翼の姿だった。
明日香は嘆息すると徐に振り返って勇に声をかけた。
「勇くん、味方の兵士さんたちに命令を。撤収するよって伝えて」
「うん?どうしてだい?今は僕たちが優勢だ、このまま攻めるべきじゃないのかい」
怪訝そうに言ってくる少年にアレを見て、とこちらに向かってきている敵軍を指させば、彼は目を見開いて動揺した。
「ま、不味いんじゃないのか……?」
「うん、不味いよ。だから言ってるんだ」
慌てる総指揮官とは対照的に泰然とした様子の副官。
そこへ一騎の騎兵が駆け寄ってきた。彼は馬を飛び降りて膝をつくと言葉早く報告してくる。
『モーリス将軍より伝令です。敵両翼迫る、急ぎ味方と共に撤退されたし――とのことです』
「うん、わかったよ。あなたも一緒に逃げよう」
『はっ!』
頷きを示した明日香に安堵の息を吐いた伝令は再び騎乗する。
その行動を見ながら明日香は勇に再度願う。
「勇くん、お願い」
「わ、わかったよ」
あまり猶予は残されていない。急かす明日香に返事をした勇は〝天霆〟を掲げた。天に向けられた切っ先から一条の雷撃が迸り、その光と激音に誰もが戦いの手を止めて少年に視線を向けた。
「――撤退する!全軍、全速後退!」
『『『はっ!』』』
勇は総指揮官――故に中央、南方連合軍の誰もがその命令に従った。それに〝勇者〟であり〝神剣所持者〟でもある少年を軽んじる者は一人としていない。そういった肩書きによるもの、加えて先ほど見せた圧倒的な武威が反論を許さなかったのだ。
しかも――、
『撤退を許すなッ!もうすぐ味方がやってく――ゲバァッ!?』
「黙って」
副官である明日香が一瞬で距離を詰め、大声で指示を出そうとしていた敵の指揮官級を次々狙い討ちし始めたことで敵軍の混乱は加速した。これによって撤退が容易になったことで兵士たちは整然と後退を行うことができた。
そうして中央、南方連合軍の中軍は、敵援軍が到着する前に自陣への撤退に成功したのだった。
*****
「五千!?……それは確かなのか?」
死傷者五千。それがゲトライト平原の戦い、その緒戦で西方軍に出た損害だった。死者だけでそれほどの数に達しなかったとはいえ負傷者がすぐに戦線に復帰できるわけではない。それを考えれば大損害と言えた。
『はい、確かでございます。勇者と思しき二人によって混乱が生じ、その隙をつく形で敵軍が突撃してきました。そのことから予想以上に被害が広がりまして……』
と、報告する幕僚は顔を青ざめさせている。
現在、彼がいる場所は軍議を行うための大天幕の中、それも総司令官の前に跪いていた。金髪紅眼の見目麗しい王女が座する横に立っているのは副官のジルであり、彼女はその表情に怒気を滲ませていた。四大貴族家の大公の一人から殺意交じりの眼を向けられたことで、彼は処罰を恐れて顔を伏せる。
『現在、呼び戻した両翼のおかげで敵軍は後退、開戦前と同様の位置まで下がった模様でして……』
「そんなことはわかっている!問題は何故ここまで被害が出たかだ。それはお前たちが――」
「ジル、おやめなさい」
憤激し、湧き上がる感情のままに言葉を発しようとしたジルだったが、彼女を遮る形で上座に構える女性が口を開いたことで閉口した。
何故止めるのですか――声に出さずに視線だけで伝えたジルに、アレクシアは努めて冷静な表情を浮かべる。
「今回の失態の責はわたくしにありますわ。勇者の登場で冷静さを欠き、正しい判断が行えなかった――そんなわたくしにこそ」
「な――それは……」
「違わなくてよ、ジル。わたくしは総指揮官であり、あの場に居た。それが事実であり、真実ですわ」
アレクシアの発した言葉には重みがあった。自らを信じ、付き従ってくれた兵を死なせた自責の念と、それを償おうとする意志を感じ取ることができる。
それに気づいたジルや居並ぶ幕僚たちは黙ってアレクシアを見つめていた。
彼らの視線を受けたアレクシアは悠然と立ち上がると、一人一人の顔を見回して告げる。
「わたくしは過ちを犯しましたわ。ですが、このまま黙っているつもりもありませんの。この罪は必ず雪ぎますわ」
『……如何様になさるおつもりでしょうか』
そう訊ねたのは古参の幕僚だ。彼はアレクシアが元服するよりも前から彼女に付き従っている。その立場故に訊ねられたのだし、他から叱責が一切飛ばないのである。アレクシアと親密な関係にあるジルですら咎めようという気にはならないほどだ。
そんな幕僚の問いを受けたアレクシアは紅眼に確かな覇気を宿して言った。
「ここは戦場――なら答えは一つでしてよ」
腰に下げていた魔剣を抜き放ち、切っ先を大天幕の入り口に向ける。その先にいるであろう敵軍――そして勇者を見据えて言い放つ。
「勝利する。それこそが――いえ、それだけが、散っていった騎士たちへの償いになるとわたくしは信じていますわ」
決然とした態度で告げた王女に、一同は揃って片膝をつき首を垂れ、改めて付き従うことを宣言する。
再び纏まりを見せた上層部、それを成した主にジルは感服の眼差しを向けて――気付く。気付いてしまう。
「アレクシア様……?」
ジルが敬愛してやまない第一王女は、その紅眼に悲壮な決意を宿していた。
そのことに気付けたのはいの一番に頭を上げたジルだけであったようで、幕僚たちは一様に奮起した表情しか浮かべていない。
アレクシアもすぐにその感情の色を消し去ったので、ジルとしても勘違いかと思いかけた。
けれども不安だった。何故ならジルはああいった眼をした人が直後どのようになったかを知っているからだ。
「……まさか…………」
不安に揺れる声は誰にも届かない。発したジルの脳裏には幼き日の光景が過っていた。各地の視察に赴いていた時、突如としてジルが乗っていた馬車を魔物が襲ったあの日。
魔物からジルを庇う為に慣れない手つきで剣を抜き、彼女を背に庇って散っていった父の姿。あの時、果敢にも魔物に立ち向かっていった父が最後にジルに向けた眼を、アレクシアはしていた。




