四話
続きです。
艦橋上に上がった新を出迎えたのは青だった。
頭上には蒼穹が、眼下には大海が広がっている。
見渡す限りに広がる美しくも清々しさを覚える光景――されど、緊張感は解れない。
視界の先、飛空艇の進路上から発せられる激烈な覇気がそれを許さないのだ。
「あれって……まさか竜?」
普段はのんびりとした態度で緊張感など皆無といった様子のエピスが引きつったような声音を吐き出せば、隣に立っていたイグニスが不敵な笑みを浮かべて両拳を突き合わせる。
「みたいだな。それに殺気を隠そうともしてねえ……はっ、面白ぇ」
「ワタクシとしましては全く面白くはないですがね。これから協力を取り付けようとしている相手が初手から敵意剥き出しでは先が思いやられます」
全身から炎を立ち昇らせるイグニスにテンペストが嘆息交じりに呟く。
それに対して二振りの刀を手にする明日香が反応を示した。
「竜王族は力を尊ぶんでしょ?なら、初めに力を示してあげれば話も進めやすくなるんじゃない?」
「だとしてもこっちから攻撃を始めるのはなしだからな。攻撃されたから反撃しました、の方が後々やりやすい」
「……新くん、来たんだね」
明日香の言葉に新がそう返せば、彼女は意味ありげな視線を寄越してくる。
それに堂々と頷きを返して両腰から〝干将莫邪〟を抜き放てば、明日香はそれ以上の追及をすることなく視線を前方に向け直した。
つられて新も北大陸の方角に顔を向けると、何か点のようなものが視界に移りこんできた。
それは徐々に大きくなっていき、やがてその全容が明らかになる――と、一同の胸中に緊張と高揚、警戒心が強く浮かび上がった。否、上がらざるを得なかった。
「……マジで竜じゃん…………!」
こちらに向かって飛行してきている生命体の姿は正しく伝承に語られる最強種――〝竜王族〟であった。
全身を覆う銀色の鱗は陽光を反射し煌めいている。
空を舞う為の一対の翼は長大であり、その羽ばたきだけで飛空艇を墜とせそうなほど力強く感じさせてくる。
尾も長く太い。銀の鱗に覆われたそれを振るうだけで城壁を粉砕できるのではないかと思ってしまうほどの雄々しいものであった。
四つの足――いや、前方の二つは手なのだろうか――も鱗に覆われており、その先端部には鋭い鉤爪がついている。それの切れ味は推して知るべしといった様子で、神剣や魔剣といった超常の武器の刃と遜色ない輝きを発していた。
二つの瞳は瞳孔が縦に長く細いものであり、それに見られると圧倒的強者――捕食者に見つめられているという緊張と畏怖が湧き上がってくる。
言葉を選ばすに言えば、翼の生えた巨大な蜥蜴――なのだが、明らかに通常の爬虫類とは異なる存在であると否応なしに理解させられる。
アレは自分たちよりも上位の存在なのだと、自分たちはアレからすれば簡単に捕食できる獲物でしかないのだと思わされてしまう。
あまりにも強大な存在感に新たちは硬直してしまっていた。だが、一人だけ例外が居る。
〝剣姫〟――江守明日香である。
「それで、いきなり殺気全開で何しに来たのかな、銀色の竜さん?」
『――それはこちらの台詞だ、〝人族〟の小娘よ。汝らは今、無許可で我ら〝竜王族〟の空を飛んでいる。明確な領空侵犯であると理解しているか?』
竜王族に全く臆することなく言葉を発している明日香にも驚きだったが、それよりも驚愕したのは竜王族の発した声である。
それは耳朶で捉えた空気の振動というよりかは直接脳内に響いてきたように感じられた。より集中して感覚を研ぎ澄ませれば意識に直接語り掛けられていると解った。
(これが伝承にある〝竜声〟ってやつか……!?)
竜王族の声は相手の魂を震わせる特異なものである、と伝承には記されており、それは言葉のまま〝竜声〟と名付けられており、〝王者の声〟という異名もつけられていた。
それは何故かというと、意識に直接響いてくる為防ぎようがなく、しかも脳内で反響して聞こえてくるためだ。
耳を塞ぐことの叶わぬ声、絶対に聞くしかない言葉、思考をかき乱すほどの衝撃を意識に与えてくる――それはまさに王者の声であった。抗うことができず一方的に言葉を聞かされる――絶対者の玉音。
(なんだよこれ、頭が割れそうだ……っ!)
新は頭痛を堪えるかのように〝莫邪〟を握る左手を額に当てて呻いた。同時に相棒たる神剣の加護により〝竜声〟によって受ける衝撃が和らいだ。
(ありがとな、〝干将莫邪〟)
新は双剣に感謝の念を送り、仲間の様子を伺った。
〝精霊族〟の三人は最初こそ衝撃をまともに受けていたものの、現在は回復しているようで苦痛を感じている様子はない。恐らく有り余る魔力で精神防御を行っているのだろう。
残る明日香も平然とした様子で竜王族と対峙している。新のように神剣の加護で対応しているのだろうが、一切苦しんだ様子がないことから彼よりも〝深み〟に到達していることが窺える。
「理解しているけど、連絡手段がないんだから仕方がないじゃん」
『だから許せと?』
「うん」
『…………フッ、ハハ――』
一切悪びれる様子もなく明日香が頷けば、銀の竜は巨きな顎を開いて笑声を発した。実際に空気の伝達が行われたわけではないが、鋭い牙が並ぶ口からは吐息が発せられた。それは衝撃波のように一同を襲うが、事前に船内にいるカティアが展開していた固有魔法〝不動金剛〟の障壁に阻まれて掻き消える。
しかしそんな現象を気にも留めなかったのか、竜王族は一頻り〝竜声〟による笑声を響かせた後に全身から発していた殺気を収めて〝剣姫〟を興味深そうに見つめた。
『――面白い。汝のその豪胆とも言える態度はあの男を彷彿とさせる』
それに、と明日香が手にする二刀を順に見やって唸り声を発した。
『その二振りからはあのお方の気配を感じる。我ら〝竜王族〟の神たる〝黒天王〟陛下のお力――その波動を』
「正解だよ。この子たちは二百年前に〝黒天王〟によって精製された神剣――〝曼珠沙華〟に〝天冥鳳凰〟っていうんだ」
『――やはり、そうか…………』
呟くようにそう言った銀の竜王族はしばし思案するように黙り込んだ。その縦に収縮する瞳孔は明日香を捉えて離さない。
その間は新にとって恐ろしく長い時間に感じられたが、実際には一瞬のことで再び竜声が脳内に響いてきた。
『これも時代が動き出したということなのだろう。……良かろう、汝らが北大陸へ入ることを許可する』
「……いいの?あなた一人が勝手に決めても」
珍しく慎重な台詞を発した明日香に、竜王族は『問題ない』と言った後、ふと思い出したようにこう告げてきた。
『ああ、名乗りがまだであったな。余の名はバハムート。千二百年よりも前から〝竜王族〟の頂点に君臨せし〝竜帝〟である』
*****
衝撃的な出会いを経て、一行は銀の竜王族――〝竜帝〟の先導の元、北大陸へと進入を果たした。
南の寒冷地帯と西の火山地帯の隙間を抜けて大陸中央へ向かい、その先に屹立している一際標高の高い山へと近づく。
『あの山こそが余の住まう地だ。かつては名などなかったのだが、千二百前にやってきた〝人族〟がノア・ルーナ山と名付けた。汝らもそう呼ぶが良い』
飛空艇内にいても聞こえてくる〝竜声〟に、新はまたも伝承通りかと唸った。
(〝獅子心王〟と〝英雄王〟の二人の生涯について記されている〝白黒ノ書〟にあった記述と一致している。この書物に書かれていることは全て真実ということなのか?)
〝白黒ノ書〟とは千二百前の〝人族〟の英雄であり、後世では神として崇められている二人の人物の生涯について記されている歴史書だ。
〝獅子心王〟――アインス大帝国を建国した初代皇帝にして後にアインス三大神の一角〝創神〟と成った男、リヒト・ヘル・ヴァイス・フォン・アインス。
〝英雄王〟――アインス大帝国建国の礎を築き上げ、世界を〝魔族〟の脅威から救い、後にアインス三大神の一角〝軍神〟と成った男、ノクト・レン・シュバルツ・フォン・アインス。
この二人が居なければ今の世はない、とまで言わしめるほどの活躍を見せたとされる二人の英傑だが、歴史書に記されているその功績については後世の歴史家の中でも肯定派、一部否定派で分かれている。
(そりゃそうだ。たった一人で万の軍勢を打ち破っただの、剣の一振りで千の敵兵を屠っただの、荒唐無稽な記述も多いからな)
だが、これまでの新たちの旅路で西大陸――〝精霊族〟についての記述はほぼ正しかったと証明されている。この北大陸についての記述も今のところはあっている。
(まあ、どちらにせよ事前に備えられるのは大きいな。記述に誇張や間違いがあったとしてもそんなものかで済ませれば良い話だし)
と、新は思考を纏めると手にしていた〝白黒ノ書〟を元の場所――図書室へと返しに向かった。飛空艇オルトリンデ内には驚くべきことに航空に役立つ書物や貴重な書物を収めた部屋があるのだ。
〝白黒ノ書〟は現存する数が少なく貴重な書物の中でも希少扱いされているので、新は読んだらすぐに図書室へと返却するよう心掛けている。
ちなみに収められている書物は船内であれば持ち出し自由で、船外へ持ち出す際にはシャルロット第三王女かテオドール公爵の許可が必要である。
(初めはどうなることかと思ったけど、迎え入れてくれて良かったよほんと)
剥き出しの敵意と殺意を発しながら〝竜帝〟は接近してきていたので交戦もあり得ると考えていた。彼の言葉通り無許可で不法侵入したのはこちら側なので、領空侵犯に対する迎撃だとして攻撃をされてもおかしくはなかった。
とはいえ明日香の言通り、こちらから事前に連絡する手段はなかったので強引に進むしかなかったのも事実である。
それを理解した上での現在の配慮――と思いたかったが、〝竜帝〟のあの様子からして違うのだろうなと新たちは結論づけていた。
(態度が軟化したのは明日香が手にする神剣を認識してからだ。つまり彼らが神と崇める〝王〟の神剣所持者である彼女と敵対したくないと考えたのだろう)
力を尊ぶ〝竜王族〟は神々の中でも直接的な武力において頂点に君臨するとされている〝黒天王〟を自らの種族が崇めるべき神として定めている。
故に、かの〝王〟が創生した神剣を持つ明日香に対して認める部分があったのだろうと新たちは考えていた。
神剣には意思があり、所持者を選ぶ。ならば〝黒天王〟によって生み出された神剣が選んだ者は、間接的に〝黒天王〟が認めた者であるとも言えるからだ。
(だとすればありがたいことだな。西大陸で明日香があの二振りに選ばれた事で事態が上手く進んでいるんだし)
けれども、そう思う一方で新には心配事もあった。
(あの後、明日香は船室に引っ込んでしまった。平然とした様子だったけど、やっぱり神剣を二振りも所持していることによる負荷が彼女を蝕んでいる可能性は高い)
はっきりとしたことは分からない。普段の態度もこれまで通り平然としたものだし、先ほど神剣を顕現させていた際も特に苦しんでいた様子はなかった。
けれども元の世界からの友として、長い時を共に過ごしている新には彼女の微かな変化が分かっていた。明らかに神剣所持者となる前と後では様子が異なるのだ。
(人前に出る回数が減ったし、食事の量も減っている。日課の鍛錬時間も減らしているようだし、何より時折胸元を抑えて呼吸を整えている瞬間がある。絶対に何か良くない事が彼女の身に起きている)
同じく神剣所持者である新自身も〝力〟を使いすぎれば肉体に不調が出る。たった一振りですらそうなのだから二振りも所有する彼女に全く不調がないということはあり得ない。
それは新以外の面々も同意見のようで、さりげなく明日香の様子に気を配ってくれてはいるが、中々尻尾を出してはくれない。
(……やっぱりちゃんと確認しよう。この先にはきっと避けて通れない戦いもあるはずだ。その時になって手遅れでしたなんてのは避けないと)
新は覚悟を決めると固有魔法〝絶影〟を発動した。
たちまち新の姿が掻き消え、通路には誰もいないような静寂が訪れた。卓越した風魔法使いか特殊な〝瞳〟を持つ者でなければ彼の姿を発見することは困難である。
図書室へ向かうことを止め、明日香の部屋へとゆっくりと歩を進めていく。部屋の前につくなり扉に耳を当てて中の様子を伺った。
(女性の部屋にこんなことするなんて変態の誹りを免れないけど……今は許してくれ)
新はこの隠密に長けた能力は他者のプライバシーを著しく侵害しかねないとして、使用を戦闘時や敵対する相手への諜報時のみと自らに定めていた。
だが、今だけはその禁を破ると、見つかって失望されても構わないと覚悟を決めて使用していた。
全ては友の為――と、内心で言い訳をしていた時、彼の耳朶に明日香の苦し気な声が触れた。
(っ、やっぱりかよ……!)
もはや自分の評価がどうなろうと構わない。そう考えた新は最近の鍛錬で習得した〝絶影〟の新たなる力である〝影渡り〟を使用した。
これは読んで字のごとくで、存在している影の中への出入りを可能とする技だ。
これを使い、新は通路を照らしている証明が生み出す陰影に入り、明日香の部屋内部に存在している影へと向かう。
幸いなことに彼女の部屋は窓が窓帷で締め切られており、机上の蝋燭一本が付けられている状態だった。
その頼りない光が生み出す影から頭だけ出した新の視界に移りこんだのは、寝台で毛布を被り苦し気に咳き込む友人の姿であった。
もうなりふり構っていられない。
新は陰から這い出ると、固有魔法を解いて寝台へ近づいた。
「げほっ……誰ッ!?」
「俺だよ、明日香。気配を消して勝手に部屋に入ったのは詫びる。けどな……その姿はなんだよ」
固有魔法を解いた瞬間、こちらの気配を察知した明日香が鋭く誰何してきた。
それに応じながら寝台に近づけば、彼女は毛布を払いのけてゆっくりと立ち上がった。
その顔を見た新は愕然とする。明日香の顔色は病的なまでに青白くなっており、口元には吐血したのか血の跡が残っていたのだ。
「お前、その顔…………」
「……勝手に乙女の部屋に入ったあげく、顔を見て言葉をなくすなんて、まったく新くんは失礼な男子だなぁ」
いつもの軽口だったが、そこにキレはなく弱々しい笑みが浮かぶのみだった。
そんな友人の姿を目の当たりにした新は唇をかみしめて努めて声を抑えた。
「なんで……言ってくれないんだよ。辛いなら、苦しいなら言ってくれよ……!」
その言葉を発した時、新は頼ってくれない悔しさと頼ってもらえない情けなさで下を向いていた。故に明日香の表情に苦いものが奔ったことに気づけなかった。
だから、次に発せられた冷たい声音に驚きを隠せなかった。
「誰かに言ってどうにかなるものじゃないからねーこれは。だから言わなかった、それだけだよ」
「それだけって、お前――ッ!?」
斬り捨てるような言葉に新が顔を上げれば、そこには〝無〟を湛えた〝剣姫〟の顔があった。
調子の悪そうな色合いの顔、されど整った面貌からは何の感情も窺えない。冷たく、それでいて綺麗な顔だと、新は場違いにも思ってしまう。
加えてその双眸には激情が宿っていた。決意、覚悟、意思、戦意、覇気――前向きすぎる、前だけしか見ていないようなその黒瞳に気圧された新は黙ってしまう。
そんな彼に明日香は皮膚が触れ合ってしまいそうなほどの距離まで近づいてその瞳を覗き込んだ。
「私の調子が悪いことは誰にも言わないで。もし言ったら――新くんでも許さないから」
「…………断る。お前が苦しんでいるのを黙って見ていることなんてできな――」
あまりの気迫に気圧されながらも新が拒否の意を示そうとしたが、最後まで言い終えることは出来なかった。
明日香が新の身体を器用に足払いで転ばせて、その首元に召喚した〝曼珠沙華〟の切っ先を突きつけたからだ。
「な、ん――」
「邪魔しないで。ようやく、ようやく至れそうなんだ。遥かな高み、私の望んだ世界へ」
だから――と明日香はそこでようやく表情を変えた。だが、その表情はこれまで新が見たことのないほど狂喜に満ちた笑みだった。
「そこに至った時、私はやっと満たされる。その確信があるんだ。そしてそうなれば全てを取り戻すことができる。勇くんも、陽和ちゃんも、夜光くんさえも」
「何を、言って……」
意味が分からないと困惑する新に、明日香は嗤って告げた。
「別に分からなくてもいいよ。分かってもらおうとも思ってないし。ただ――私が歩む覇道を邪魔するって言うのなら」
――相手があなたでも容赦はしないよ。
机上に置かれた布で口元を拭った明日香が部屋から出て行く。
そんな彼女を新は追うことができず、ただ茫然と床に座り込んでいた。
完全に明日香の気配が消えた後、新は自分の情けなさに悪態をついて床を殴りつけるのだった。




