十五話
続きです。
神聖歴千二百年十一月二十二日。
大帝都クライノート、帝城アヴァロン――玉座の間。
ノンネは夜光が目覚めてから連日、この玉座裏にある秘密の部屋にいた。
理由は単純――誰かに発見されることを防ぐ為である。
(さて、あの日からそれなりの時間が経過しました。時折様子を伺っていますが〝陽の王〟も〝天の王〟もこちらを探している気配はない……)
ならばそろそろ動き出しても問題はないだろうと判断したノンネは部屋の一角に目を向ける。
そこには簡素な寝台に横たわる少女の姿と、それを見つめる少年の姿があった。
少女は眠っているが、時折苦し気な吐息を溢しており、傍で椅子に座る少年はそんな彼女を仄暗い眼で見つめている。
(ヒヨリ・アマジキに対する洗脳は未だ不完全ですが、ユウ・イチノセの仕上がりはまずまずといったところですかねぇ)
神剣〝曼陀羅〟を用いた洗脳を少女――〝光姫〟天喰陽和に施しているがその進捗はいまいちであった。こちらの予想以上に魔力抵抗力が高く、意識が混濁あるいは無い状態であっても上手く行かない状態である。
(彼女が持つ固有魔法は光属性特化――故に反対属性の闇属性に属する洗脳系魔法は相性が悪い……ですが、それを踏まえてもここまで進みが遅いのは不可解ですねぇ)
あるいは彼女の出自が問題なのかもしれない、とノンネは考えていた。
彼女はかの〝王〟の血族――故に特殊な体質や血を有していてもなんらおかしくはない。
(まぁ、時間はたっぷりとあることですし、焦る必要はないですからね。それよりも――彼です)
と、ノンネは少年を見やる。
〝雷公〟――否、〝天霆〟に見限られた今は元〝雷公〟と呼ぶべきだろう――かつての勇者の成れの果てである一瀬勇。
彼に魔石を取り込ませて〝堕天〟させたのだが、予想以上に上手く行き、今では〝魔人〟として安定していた。
(今の彼であれば他の勇者はおろか同じ〝魔人〟である〝雪華〟にも引けを取らないでしょう)
天喰陽和に対する歪んだ愛情と間宮夜光に対する深い憎悪を糧にして〝堕天〟に成功した。
それを目の当たりにしたノンネは自分の考えは間違っていなかったのだと確かめることが出来たことで愉悦に笑みを浮かべる。
(やはり〝超越者〟に至る為に必要なのは激情だ。狂おしいほどに何かを求める心――それが〝超克〟を成し遂げる鍵となる)
この調子で往けば最終目標に到達する日も近い、と確信する。
(とはいえ彼だけがそうだという可能性も捨てきれませんか……ならばやはり複数人で実験する他ないですかね)
既に幾人か目星はついている。
そしてその中でも最も成功する可能性が高い人物は現在、この大陸には居なかった。
(私自身が動かねばなりませんね。それに西大陸の情勢も把握しておきたいですし)
加えてあの〝眷属〟の動向についても知っておきたかった。かの歪な〝精霊族〟の少年は神剣を所持しており、加えて仕えている〝王〟はノンネとは友好的ではない。
(前々から何やら裏で暗躍しているようですけれど……)
その目的についてはおおよそ見当がついていた。
放置しておいても問題はないだろうが、ノンネが仕えている主の正体を考えれば後々敵対する可能性が高かった。
(機を伺って始末するべきですかね。ただ相手は神剣所持者――そう易々とはいかないでしょうが)
と思考を巡らせていた時だった。
「やっと見つけたよ。随分と辺鄙な場所に隠れているじゃないか」
陽和の声でも勇の声でもない、第三者の声が耳朶に触れたことでノンネは弾かれたように振り向いた。
この部屋へと続く通路――暗闇の中に何者かの気配を感じる。
だが、奇妙であった。これ程接近されるまで認識できなかったなどありえない。
〝魔人〟となり感覚が強化されている勇も、神剣所持者として加護を得ているノンネですら気づけなかったのだ。いくら何でも不自然すぎる。
(それに、この声は……ッ!?)
拙い、というのがまず脳裏に浮かんだ思いであった。
ノンネは声の主を嫌と言うほど知っていた。しかしだからこそ気配を感じなかったのはあり得ないと思ってしまう。
すぐさま逃走しなければならない。
けれども彼女が手を打つその前に――暗闇から一人の人物が姿を見せてしまう。
黒髪に顔を覆う黒面――身に纏う衣類も黒という闇が人型を形成したかのような存在。
蝋燭の頼りない光に照らされたこの室内においては、消えてなくなってしまいそうなほどの希薄さを感じさせるものだが、その身から放たれる尋常ならざる覇気が否応にも存在を認識させる。
〝仮面卿〟〝英雄王の末裔〟〝黒皇〟〝帝釈天〟――幾つもの名を持つその人物の名は。
「……これはこれは、シュバルツ大将軍ではありませんか。一体どうしてここに――いえ、どうやってここに?」
「なに、簡単な話さ。この場所は初代皇帝が執務をさぼる為に造らせた場所だからね。僕が知っていても何らおかしな話じゃないさ」
「……なるほど、この部屋が造られた背景がそのようなものだったとは。これは初耳ですねぇ」
と、軽口を返すノンネだったが、対する黒き人物――シュバルツ大将軍が向けてくるのは明確な殺意だ。
だが、それも無理のないことであった。今、この部屋には言い逃れ出来ない明確な証拠があるからだ。
「僕を欺いたね?陽和の居場所を教えるという取引だったのに他ならぬキミ自身が彼女を拉致していたなんて――とんだマッチポンプだ」
「誤解ですよ、これには深いわけが――」
「黙れ」
ノンネは何時ものようにのらりくらりと躱そうとしたが、シュバルツはそう吐き捨てると腰から黒刀を抜き放った。
闇よりも深い黒に血のように濃い赫の線が入った刀――その正体が何であるかをノンネは良く知っていた。宿っている特異な力のことも当然理解している。
「……これは無理そうですねぇ」
そう小声で呟いたノンネは掌に短杖を喚び出す。
神剣〝曼陀羅〟――頼りになる相棒ではあるが、相手が悪いと言わざるを得ない。
ノンネは白い仮面の下で冷や汗を浮かべながら勇に声をかけた。
「彼の目的はヒヨリ様です。このままではあなたの愛しい人を取られてしまいますよ」
そう発破をかけてやれば、ぼんやりと場の推移を見守っていた勇の双眸に怒りが浮かんだ。
彼はゆっくりと立ち上がるとその身に宿る魔力を立ち昇らせた。
空間が揺らぐほどの濃密な魔力――それを一瞥したシュバルツは小さく息を吐いた。
「〝堕天〟――〝魔人〟化か。なるほど、〝天霆〟に見限られたから今度は〝魔石〟に頼ったわけだ。意志薄弱の雑魚……実に下らない」
「黙れッ!お前なんかに陽和は渡さない!彼女は僕のものだっ!」
そう吼えた勇に、シュバルツは心底不快だと言わんばかりに声音を低くした。
「真正の屑か……夜光から聞いた通りだな」
「夜光だと……!?お前は一体――」
「これから死ぬ者には知る必要はないだろ」
勇の疑問を斬って捨てたシュバルツは殺気を解放した。
悍ましいほどの気配――覇気と交じり合って空間が軋みを上げ始める。
風もないのに彼が纏う黒衣が揺らめき始める。その裾が怒りを示すかのように空気を荒々しく叩いていた。
濃密な闇を広げ始めたシュバルツに、ノンネは声を張り上げた。
「来ますよ――死にたくなければ全力で抗いなさい!」
そして――世界は黒き絶望に包まれた。




