十話
続きです。
神聖歴千二百年十一月十二日。
アインス大帝国首都クライノート、帝城アヴァロン――魔導省地下。
この場所は広大な面積を誇っており、幾つもの実験室が存在している。
各部屋は防音対策が施されており、加えて地下ということで地上への騒音被害が出ないよう配慮されているのだ。
魔導技術の実験においては爆発現象が起こるようなものもあって壁も強靭に作られている。
「そして中でも魔導省長官専用の実験室は特別堅牢な造りとなっている……つまり何が言いたいのかといいますと――」
地下の最奥に位置する実験室――魔導省長官専用の部屋の前までやってきたノンネは付き従う少年に向かって言葉を発していた。
眼前には武骨な扉――神経を研ぎ澄ませれば内部から微かな気配を感じることが出来る。
「この部屋で何が起きていようとも早々分からないというわけですねぇ」
と、ノンネが手にする短杖を一振りすれば、扉が独りでに開き始めた。
照明器具の少ない室内の様子が徐々に視界に入ってくる。同時に錆びた鉄の匂い――血臭が鼻孔を刺激してくる。
常人であれば室内の異質さに気後れしてしまう所であったが、彼女は躊躇いなく足を踏み入れると部屋の奥を目指す。背後からは二人の気配が共に歩を進める気配を感じ取れる。
ノンネは目的の場所――否、目的の人物を前にして仮面の下で顔を歪めた。あまりにも悪趣味な光景だったからである。
(彼が〝王〟だということには感づいていないようですが……勝手に傷が治るという特異性には気づいたようですね。それ故の実験、というわけですか)
天井から垂れる鎖に右手を吊るされた白髪の少年――身体の至る所に管が刺されており、そのいくつかは血を抜き取っている。
両足には背後の壁から伸びる鎖が付けられているが、天井から吊るされている時点で拘束としては十分であり、過剰な措置と言わざるを得ない。
所々破れた白色の貫頭衣は血で薄汚れており、合間から見える素肌には暴行を受けたような痣が見て取れた。
(どこまでの傷が自動修復の対象になるかを見極めるために暴力を振るったという所ですか。なまじ憎しみや怒りといった感情ではなく、実験目的であったが故に徹底的に行われたのでしょうね)
感情的な暴力であれば静まりさえすればそこで止まる。けれども何の感情もなく測定する為に振るわれる暴力には際限がない。どの程度の威力、どの程度の回数、どの程度の時間でどのような結果が出るか――それを知る為だけに何度も何度も行われてしまう。
(正体を知らないとはいえあまりにも不遜が過ぎる。これでは目覚めた時に大帝国に対する憎悪の念が必要以上に生まれてしまう。それは彼の正体を知る〝天の王〟としては避けたい所なのでは……?)
この少年の正体を知らない者であれば仕方がないとは思うが、知っている者は何故止めないのかとノンネは首を傾げた。相手がどの〝王〟であろうとも、基本的に恨みを買って良い点など一つもないからだ。
歴史を紐解けば過去に〝王〟の怒りや恨みを買った存在は軒並み滅ぼされていることが分かる。それを理解しているからこそノンネは〝王〟に対して挑発したり敵対したりはすれども激しい負の感情を抱かれるような真似は慎んできた。何事にも超えてはならない一線というものがあることを彼女は重々承知していた。
(だから今回ここに来るのも避けたかったんですがね。とはいえ契約である以上仕方のないことではありますが……)
ノンネは小さく嘆息すると振り返った。そこには黒髪黒目の少年と少女が立っている。少年の方ははっきりとした意識でノンネを――否、彼女の背後で拘束されている少年のことを認識しているが、彼に手を掴まれている少女の方は虚ろな様子であった。
絹のように滑らかな黒髪、素顔は整っており将来は美しくなるであろう片鱗を感じさせるものだが、無表情で斜め下を見つめるその姿は見る者に人形を想像させる。
「さて、お望みの感動の再開というやつですよ。ここに来る前も言いましたが時間は限られていますから早く目的を達成してください。私は見張りとして入り口の方で待っております」
ノンネは一方的にそう言うと早足で部屋の入口まで向かい神剣〝曼陀羅〟で気配を極限まで抑え込んだ。万が一にでも彼に気づかれたくなかったからである。
そんな彼女には目もくれず黒髪の少年――一瀬勇は隣に立つ天喰陽和を連れて拘束されている白髪の少年に近づいた。
「――おい、夜光。随分と良いザマじゃあないか」
勇が嘲りを込めた声で少年――間宮夜光の名を呼ぶが反応がない。眠っているのか気絶しているのか、それとも無視しているのか。
どちらにせよ反応がないことを勇は不快に思い陽和から手を離すと勢いよく夜光の頬を打った。
鈍い音が響くがやはり反応はない。そのことがこちらを歯牙にもかけていないと言われているようでたまらなく苛立つ。
「何とか言ったらどうなんだ、この負け犬がっ!お前が護ろうとしたモノは壊れた!お前自身も負けて捕らえられて今じゃこのザマだ!お前の戦いは、抗いは、全部無駄だったんだよっ!」
湧き上がる怒りの感情に身を任せて夜光を殴りつける。何度も何度も――途中からは拳が痛みを発し始めたので魔力で強化して続けた。
「エルミナ王国は敗北し属州になった!お前の仲間も散り散りになり狩られるのを待つだけ。信頼していた第二王子は裏切って国を売って保身に奔り今じゃ属州長官だぞ。はっ、見る目のない奴だなお前はぁ!」
「…………」
紫光を纏った拳が振るわれるたびに肉を打つ低い音が響き渡る。鮮血が飛び散り周囲の乾いた血で薄汚れた床の上にまき散らされる。
だがどんなに殴っても反応が返ってこない。魔法を使って雷撃で打ち据えても、炎で焼いても、氷剣で貫いても、風刃で切り刻んでも――うめき声一つ上げない。
相手にすらされてない――そう感じた勇はあまりの怒りから顔を真っ赤にすると罵声を浴びせた。
「この屑がッ!何千、何万も殺しておいて勝てなかったくせに何生き残ってんだよ!お前なんかさっさとくたばっちまえばいいんだっ!」
流石に疲れを感じた勇は荒い息を吐いて憎々し気に夜光を睨みつけるが、彼は俯いたままである。
意識がないにしてもここまで外的刺激を加えられて反応を示さないのはおかしい。彼の身体に突き刺さる管を見て意識を深く落とす薬でも投与されているのかとも思ったが、それでもここまでされて目覚めないのは不自然すぎる。
ならば覚醒はしているがこちらを無視しているということなのだろうか。だとすれば何処までこちらを馬鹿にすれば気が済むのか――。
燃え上がるような憤怒が身体の内から湧き上がり再び暴行を加えようとした勇だったが、ふと背後で何者かが動くような気配を感じて我に返った。
「っ、はは……そうだよ、僕には彼女が居るんだ……っ!」
何かを訴えるかのように微かに身体を震わせる少女――陽和の腕を引っ張って強引に抱いた勇は愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「ハハハ――見ろ、夜光!僕は陽和ちゃんを手に入れたんだ!お前じゃない、この僕がッ!」
左腕で陽和を抱き、右手で夜光の顎を掴んで無理やり上にあげた。彼の隻眼は開かれてはいたが、その黒瞳に光はなく虚ろな気配だけが漂っている。
どう見ても意識がハッキリとしていない。けれども勇は喜悦を迸らせた。
「ずっとお前が憎かった!彼女の愛を一身に受けるお前が!彼女から好意を向けられているのにも気づかず別の女を選んだ愚かなお前が!それを知っても尚、彼女が諦めないお前がっ、死ぬほど憎かった!何度殺してやりたいと思ったことか!」
だが、と勇は顔を歪めると陽和の身体を左手でまさぐった。欲望に支配された表情で至る所を無遠慮に弄る。
「今の彼女は僕の物だ。意識はほぼない人形みたいな様子だが……いずれ意識も手に入れる。彼女の身体も、心も、精神も――何もかもを僕の物にするっ!」
「…………」
勇が顔を近づけて首元を嗅いでも陽和は反応を示さない。ノンネが施した深い眠りに意識が墜ちているためだ。彼女自身は勇者であり強大な魔力をその身に宿しているが、神剣の加護があるわけではない。故に神剣〝曼陀羅〟を使って施された魔法に抵抗出来ていないのだ。
「本当はお前を今すぐ殺してやりたいが……それは許されていないからな。それに意識のない状態で殺してもつまらないだろ?お前は徹底的に嬲った後に殺してやる。ああ、陽和ちゃんと僕が結ばれる瞬間を見せつけながら首を落としてやっても良いなぁ」
あまりにも醜悪な発想に入り口で様子を窺っていたノンネですら喜色悪いと言わんばかりに表情を歪めた。同じ女性として勇にいいようにされる陽和に同情心すら抱いてしまう。
(これが勇者とは……私がおぜん立てした部分は多いですが、元々の気質が歪んでいたのでしょうね。愛憎に狂うのが〝人族〟の面白い所ではありますが、彼はあまりにも醜い。本能のまま生きる獣の方がまだマシとすら思えてしまいます)
とはいえ彼はまだまだ使い道がある。一時の感情に任せて始末してしまうにはあまりにも惜しい。せっかく〝堕天〟に成功したのだから内面の卑劣さには目を瞑るべきだろう。
と、ノンネが考えている間にも勇の蛮行は続いていた。
だが、次に勇が発した台詞に空気が凍りついた。
「いずれお前の女も始末してやるよ。シャルロット――第三王女のくせに国から逃げ出した恥知らずの売女をな。お前の前で犯した後に四肢を斬り裂いて並べて――」
「――黙れ」
「「っ!?」」
これには勇だけでなくノンネも驚きに眼を瞠った。今まで虚ろな眼差しを向けていた夜光の隻眼に確かな光が戻っている。衰弱から弱々しい光ではあったが、憤怒と憎悪が煮え滾っているのが見て取れる。
(この気配――まさか〝覚醒〟が近い!?だとすれば不味い……っ!)
今発せられている気配――魔力は小さいが純度がこれまでとはけた外れに高い。これでは〝曼陀羅〟で張っている結界を貫通して大帝都内に居る実力者たちに察知される恐れがある。
加えてその魔力に当てられたのか、意識を完全に落としているはずの陽和にも僅かながら反応があった。このままでは目覚める可能性すらある。
一刻も早くこの場から立ち去る必要があったが、このまま姿を見せては夜光に存在を認識される可能性があった。それは今後の関係性の悪化を避けたいノンネとしては看過できない問題である。
故にノンネは魔力を抑えに抑えて勇の意識に声を飛ばした。
『もう充分でしょう。行きますよ、ユウ様』
『っ、何故だ!むしろ意識が戻ったのなら好都合、もっとあいつに――』
『このままではアインス大帝国の者に感づかれる可能性があります。それにヒヨリ様の意識が覚醒しつつあります。洗脳が完全ではない今、目覚められるのはあなたとて本意ではないでしょう?』
『…………ちっ、分かったよ』
渋々といった様子で返事をした勇は最後に夜光に向かって吐き捨てるように言った。
「何を言おうが、何をしようがもう遅いんだよ。お前から全てを奪ってやる――絶望した顔が見れるのが待ち遠しいよ」
そして陽和の腕を掴んで早足に部屋を出て行く。
ノンネもその後を追うが、扉を閉める前に室内の様子を窺った。
(こうなる期待もあって許可を出しましたが……こうも上手くいくとは。フフ、やはりあなた様は見込み通りのお方だ)
全て思惑通りに推移したこともあってノンネは笑いをこらえるので精一杯であったが、このままでは異常を察知した魔導省の人間や〝天の王〟が来てしまう。それは拙い。
故に彼女は悦に浸りそうになる己を抑えてその場を後にするのだった。




