二十話
続きです。
全てが漆黒に染まる世界に明日香は浮いていた。
天上も地上もない虚空なる世界――ここが夢の中であるとすぐに理解した。
「また……駄目だった」
デモン族族長エクサルとの戦い――あれは確実にこちらの敗北であった。
生涯二度目の敗北――得物が違えば結果も違っただろうが所詮それは言い訳に過ぎない。
「あの〝髭切〟は私の魔力で生み出したもの。だからその切れ味が劣っていたのは私の所為」
相手の神剣の加護を貫けなかった己の不甲斐なさに失望する。
明日香は虚空で身体を丸めると両足を両手で包み込む。
「……私は結局何がしたいんだろう」
戦う目的が分からなくなっていた。
この世界にくる前はただ刀を振るっていたかった。それだけで満足だった。
けれどもこちらの世界に召喚されてからは仲間を護る為に強さを欲した。
そして今は勇と彼に連れ去られた陽和を救い、共に旅する仲間たちを護る為に戦っている。
――本当に?
何者かの声が虚空に響く。
だが、明日香は警戒もせずに俯くばかりである。
――キミの本当の願いは違うんじゃないかな。本当にキミが望んでいるものは……
その声は思い悩む明日香の心を容易く侵食していく。
真っ白な精神が黒く、黒く闇に染まっていく。
――キミの渇望はキミ自身が一番よく知っているはずだろう?
「……うるさい」
そう返すが、その声は自分でも驚くほどに弱々しいものであった。
心の何処かで相手の言うことが正しいと理解しているからだ。だが、理性がそれを否定している。
――キミの願いは、渇望は――〝 〟だろう?
「だからうるさいって!黙ってよッ!!」
告げられた言葉に明日香は頭を抱え込んで絶叫した。
信じたくないのだ。そのようなものが自分の本当の願いだなんて嘘に決まっていると思いたかった。
だが、声は止まらない。それどころか声は段々とこちらに近づいてきていた。
――眼を逸らしたって無駄だ。キミの中に眠る修羅は決していなくならない。キミの中で燃えているその渇望は決して消えることはない。
「うるさい……うるさい……ッ!」
嫌々と、駄々をこねる赤子のように頭を振って否定する明日香の眼前で、闇が人型を形取った。
全てが黒――闇に染まった存在。声音から年若い男だと分かるだけだ。
――受け入れろ、己が渇望を、己が切望を、己が待望を。
ゆっくりと、優しい声音で告げられるその言葉は抗いようのない魅力に満ちていた。
故に明日香は顔を上げた――上げてしまった。
――そこにあったのは黒と赤の双眸。哀哭と殺意、絶望と憎悪、失意と怨念に満ちた虹彩異色の瞳。
「あ…………」
明日香はまるで龍に睨まれたが如く固まってしまう。その輝く眼から視線を逸らせない。
そんな彼女に黒き闇はかろうじて視認できる口元を喜悦に歪めて手を差し伸べた。
――汝、力を欲するか?
その手は、その言葉はあまりにも魅力的で。
「わ、私は…………」
明日香は震える己が手で、差し出された手を――……。
*****
神聖歴千二百年十月十日。
西大陸東部寒冷地帯――デモン族領土。
アストラでの戦いから撤退してきたエクサルは中央との境付近に建設した砦にいた。
兵を休める一方で、彼は司令室でウェントゥスから単騎でやってきたナイトメアと話し合っていた。
「キミが退くなんて何があったんだい?」
エクサルが発する重苦しい気配とは対照的にナイトメアは軽い口調で尋ねた。その手には深紅の槍が握られている。
「〝人族〟共がいやがった。しかも固有魔法持ちに神剣所持者共だ」
「へぇ……それは興味深いねぇ」
「それだけじゃねぇ。ゼヒレーテが出張ってきやがった」
〝人族〟という単語には興味を示しただけのナイトメアも〝精霊帝〟の名には若干の驚きと警戒を表情にした。
「ゼヒレーテが?……それは変だね。子飼いのアルバは未だ姿を見せていないってのに親玉が先に姿を見せるなんて」
〝精霊帝〟は基本的に大陸の情勢に直接関与しない。いつも配下であるセラフ族を動かすだけであった。
故に驚きを隠せないナイトメアであったが、エクサルは怒気を孕んだ声を発する。
「奴の持つ〝力〟は強大だ。俺が全力で挑まねば勝機はないほどにな」
「……なるほど、ってことは味方に被害が出ることを懸念して撤退してきたわけだ」
納得だ、と頷くナイトメアにエクサルは殺意に満ちた眼差しを窓の外――凍て空に向ける。
「やはり奴とやり合うには一騎討ちだな。どうにかしてその状況に持っていく必要がある」
その言葉に暫く黙考したナイトメアであったが、やがて何かを思いついたように表情を明るいものへと変化させる。
「良い作戦を思いついたよ、エクサル。全て、ボクに任せてくれ」
その紅眼には愉し気な邪気が浮かんでいた。
*****
同時刻――西大陸中央、天山。
とてつもない標高を誇るこの山はセラフ族が守護する神聖なる山である。
〝精霊族〟を纏める〝精霊帝〟が住まう地であり、彼らの〝王〟である〝星辰王〟がおわす玉座がある場所でもあるからだ。
そんな天山の頂上には純白の宮殿がある。名をカエルムといい、千二百年前以上前から存在している世界で最も古い建物の一つだ。
〝星辰王〟の力によって生み出されたというこの宮殿はどれほどの歳月が経過しようとも色あせない純白を維持し続けている。
そんな宮殿の一室にシャルロットたちエルミナ亡命政府の面々は集っていた。彼らの視線の先には寝台で昏睡する明日香の姿がある。
「目を覚ましませんね……」
「治療は既に完了しているけど……ゼヒレーテ陛下が言うには魂に迷いがあるから目覚めないって」
心配そうに呟くシャルロットにエピスが困ったように告げる。
その言葉には他の者たちも困惑を見せた。
「魂に迷い……ですか?」
「どういう意味だ、そりゃ」
「――生き方、あるいは生きる目的、戦う理由、そういった動機に迷いが生じているのだ」
クロードとイグニスの疑問に答える者がいた。
ハッとして振り向くと、音もなく開いた部屋の扉から法衣を纏った少女が姿を見せていた。その後ろには彼女にこれまでの経緯等を説明していたテオドールが立っている。
「これはゼヒレーテ陛下……!」
即座に膝をつく〝精霊族〟の面々に少女――〝精霊帝〟ゼヒレーテは小さな手を上げて楽にするよう指示を出す。
それから彼女は虚空を踏みしめて寝台まで近づくと明日香の額に掌を翳した。
「……ふむ、やはり迷いが見られる。だが、それとは別に何か良くない気配も感じるな」
「良くない気配、ですか……?」
「うむ、だが、この気配は……」
不安げな声を上げるカティアにゼヒレーテは即答せず眼を細めた。この気配には覚えがある。だが、あり得ない――この気配の持ち主は二百年前に深い眠りについたはずだ。降臨していると〝王〟からは聞いてはいない。
故に沈黙したゼヒレーテであったが、憶測交じりの思考ではこれ以上は時間の無駄かと意識を切り替えて様子を見ていた一同の方へと振り返る。
「事情はテオドール殿から全て聞いた。我が知らぬ細部までもな。その上で告げよう――〝精霊族〟は汝らエルミナ王国に協力しても良い」
「……理由をお伺いしても?」
恭しく尋ねたテンペストにゼヒレーテは尤もな疑問であると首を振った。
「かつて我らが袂を別ったアインス大帝国、その現皇帝の方針である領土拡張路線は危険が過ぎる。力による支配、力による統一など秩序を著しく乱す行いだ」
加えて、とゼヒレーテは相変わらずの無表情で淡々と告げる。
「これは先ほど下った我らが〝王〟の託宣だが……どうやらアインス大帝国には複数の〝王〟が干渉しているらしい。そうであれば単一種族では勝てぬ」
「っ……〝星辰王〟様の託宣ですか!?であれば……事実でしょうね」
〝精霊族〟の神である〝星辰王〟の言葉を賜れるのは種族の代表たる〝精霊帝〟のみ。故に真実は彼女にしかわからないが、テンペストたちはゼヒレーテが嘘をいうとは微塵も考えていない。彼女がそういった思考をする存在ではないと理解している為である。
久方ぶりに下った〝王〟からの託宣に震える〝精霊族〟の面々を置いて新が口を開く。
「協力しても良い、ということは何か条件があるということですね?」
「そうだ。といっても汝らにもわかりきったことであろう」
「……デモン族の問題ですね?」
その言葉に首肯したゼヒレーテは部屋の窓から外を眺める。雲海を越えたこの地から見る空は蒼穹が広がる世界だ。
「デモン族は既にシルフ族の領土に侵攻し領都を抑えている。辛うじて逃れた者たちを保護したとアルバから報告があったが、西大陸中域南部は奴らの手に落ちたと考えて良い」
「……戦況は悪いのですか」
「悪い。北のサラマンダー族、南のウンディーネ族との境にデモン族が軍勢を配置している所為でその二種族は迂闊に戦力を分散できずこちらに援軍を送る余裕がなくなっており、西のノーム族もまた距離が遠すぎて援軍が到着するころには決着がついているだろう」
ならば残る大陸中央部に住まう部族だが、これもまた難しい。
「先も言ったようにシルフ族はデモン族に蹂躙されまともな戦力が残っておらぬ。ユニコーン族も先日デモン族の襲撃にあったことで戦力の立て直しが必要だ。すぐには動けぬ」
となると動かせる戦力は未だ無傷のセラフ族のみということになるが……。
「セラフ族もまたシルフ族の生き残りを保護したりユニコーン族の戦力が整うまで援護に向かわねばならぬ。故に実際に動かせるのはこの天山にいる者のみだ」
「数は……」
「一千にも満たぬ。対してデモン族はほぼ無傷の一万の軍勢を持っている。しかも領土にはまだ予備戦力がある」
戦力差は歴然としている。
だが、とゼヒレーテは無を湛えた――人によってはジト目にも見える無感情の瞳で新の腰に吊るされた双剣を見やった。
「デモン族は軍勢を二つに分けて動かしている。そこに勝機がある」
ゼヒレーテは魔法で宙に立体地図を浮かべると戦力を駒として地図上に並べた。
「デモン族の神剣所持者にして指揮官は二人いる。一人はナイトメア、神剣〝絶滅〟の所持者で現在はシルフ族領都ウェントゥスを攻め滅ぼした軍勢を率いている」
そして、とゼヒレーテは可愛らしい小さな指で地図の右を指し示した。
「もう一人は汝らの中にも遭遇した者のいるデモン族族長のエクサル。神剣〝破邪〟の所持者で現在は東部と中央の境付近に建造された砦にいると思われる」
「……なるほど、各個撃破するわけですか」
というクロードの台詞にゼヒレーテは首肯した。
「神剣所持者が二人、かつデモン族の軍勢が纏まっていたら厳しいだろうが、分かれている今が好機である。故に汝らには我が配下たる神剣〝照破〟の所持者アルバと共にデモン族を――より正確にはナイトメアを討ってほしい」
「……エクサルではなくナイトメアを、ですか?」
族長であるエクサルではなく側近であるナイトメアだけを討つ。
一体どういうことなのか、疑問を覚えた面々にゼヒレーテは衝撃の言葉を放った。
「エクサルはナイトメア――恐らく他の〝王〟の眷属たるあの者に唆されて此度の決起に踏み切った。故にあの者を討つことで交渉の席に着かせることが出来る可能性がある」




