二十四話
続きです。
神聖歴千二百年八月二十二日。
連日降りしきる季節外れの雨が黄金の船体に当たっては弾ける。
黒雲に染まる空――レオンハルトが好む日輪は拝めない。故に彼は嘆息すると玉座の如き椅子の肘掛けを人差し指で何度も軽く叩いていた。
そんな主の不機嫌さを感じ取ってか艦橋の雰囲気は重々しいものであった。誰もが口を噤み各々に与えられた仕事に従事している。
そんな暗い空気の中に何時もと変わらぬノンネの声が響き渡った。
「おやおや、随分と湿っぽいですねぇ。お機嫌は如何ですか〝雷帝〟陛下?」
「……ノンネか。先の報告は聞いている。追加で何かあるのか?」
「素っ気ないですねぇ。まあそれもまた陛下の一側面――魅力的ですよ」
「貴様に肯定されても何も嬉しくない。それよりも余の問いに答えよ。答えぬのなら……」
とレオンハルトが椅子の背もたれから身体を離せば、バチリッと雷電がその精悍な肉体から迸る。精密な魔導具が数多くある艦橋であることを考慮してその威力は限りなく抑えられていたが、放たれる覇気は尋常ならざるものであった。
その不可思議な光景を前にノンネは仮面の下で眼を細めた。
「〝人族〟の神剣――〝天霆〟ですか。かつてとある神器を鋳つぶして生成された〝月光王〟の創造物――その威力は数ある神剣の中でも上位に位置する。ふふ、どうやら〝勇者〟であるユウ・イチノセを見限ったようですね。まぁその気性を考えれば無理もないことですが……」
神剣〝天霆〟は所持者に勇気と正義――言い換えれば一途な強い意思を求める。初めは一瀬勇の将来性に期待して契約を結んだのだろうが、当の本人は他者への嫉妬と愛憎によって悪に堕ちた。故に彼を見限ってレオンハルトを新たな所持者に選んだのだろうとノンネは予想している。
(〝雷帝〟レオンハルトは己が考えが国家を、民を至上に導くものであると確信しているし、そのためにあらゆる困難に立ち向かう勇気も持ち合わせている。その点、実に〝天霆〟好みの人物であると言えるでしょうね)
恐らく彼であれば〝天霆〟の力を最大限引き出すことが出来るようになるだろう。彼の目的を考えればいずれこちらにとって邪魔になる可能性が高いが……。
(利用も出来るでしょうねぇ。目的を達成するためならばあらゆる〝力〟を彼は受け入れる。となれば私の計画にも使えるでしょうし)
ノンネは湧き上がる喜悦を務めて抑えると話題を変えた。皇帝の碧眼にこちらに対する疑念が色濃く浮かび上がった為である。
「陛下の問いにお答え致しましょう。――北から連絡がありました」
と言ってノンネは懐から二通の書状を取り出して恭しく差し出す。獅子の皇帝の傍に控えていた護衛が動こうとするが、当人は片手を上げてその動きを制止するとノンネから書状を受け取る。
それから一通目――己が忠臣であり現在はエルミナ北方から侵攻を行っている魔導艦隊司令長官であるゲーリングの印璽が施されたそれを読む。
初めは素早く眼を通していたレオンハルトだったが、書状の後半に行くにつれて眉間に皺を寄せた。
「ふむ、これは……」
それから二通目に進もうとしたが、彼はそこに押されていた印璽を見て軽く眼を見開いた。だが、ノンネに対して問いかけはせずに書状を開くと読み進める。
最後まで読み切った時、レオンハルトは深く息を吐いて瞑目した。その仕草をノンネは黙って見つめている。
(彼のこの反応も無理もないことでしょうね。この一手を受け入れるか否かで今後の展開が大きく変わる――大勢の人々の生き死にに直結するのですから)
ノンネもその情報を知った時は唖然としたものだ。事ここに至って彼がこの道を選ぶとは予想だにしなかったのである。
それは彼女の眼前で黙考する皇帝もそうであろう。でなければこれ程長く沈黙したりはしない。
……やがてレオンハルトは瞼を上げた。その碧き瞳に宿るのは苛烈な光――それを見たノンネは彼の選択を悟った。
「……良く分かった。余はこれらを受け入れよう。条件もまた全て呑む。向こうにはそう伝えよ。追って余の勅書と返答も返す。良いな?」
「御心のままに」
ノンネは大仰に一礼をした後、余計なことは言わずにその場から転移する。
彼女らしからぬあっさりとした反応にレオンハルトは昊天を睨みつけながら呟いた。
「あの者ですら真剣にならざるを得ぬか……」
北方から届いた書状にはそれだけのことが書いてあった。こちらにとっては好都合とも言える展開ではあったがどうにもきな臭さが強い内容なのだ。
だがその内容が真実であるのならばこの戦争は終わる。それもこちらが当初想定していた期間よりもずっと早くに、だ。
「……ならばこちらも終わらせるとしよう」
レオンハルトは椅子から立ち上がると軽く腕を振った。外套が揺れ、雄々しい覇気が場を支配する。
「全軍に告ぐ。これよりを全戦力を以て敵要塞に総攻撃を行う。各々奮起せよ!」
皇帝の勅命に、百万の将兵が鬨の声を以て応えた。
*****
物事の終焉というものは唐突に、しかもあっけなく訪れるものだ。
『要塞各所より伝令!敵軍が総攻撃を仕掛けてきたとのこと!!』
『要塞の一部を占領していた〝天軍〟が動き出しました!こちらだけでなく南側にも攻撃を行っている模様!』
『魔導戦艦からの砲撃が止みません!このままでは〝聖堅の盾〟が持ちません――!!』
司令室に次々と届く悲鳴じみた報告が夜光の耳朶を激しく打つ。その度に彼は的確な指示を下すが、それは瀕死の病人を死の瀬戸際で延命させようとする無駄な足掻きに等しかった。
(……終わりだな。何とか八月末までは持たせたかったけど)
だが問題はない。既に王都に居るシャルロット達がこの国を――否、大陸を離れているだろうからだ。八月末というのは余裕を持たせた期間に過ぎない。
(シャルロット達を逃がすことは出来た。こちらで派手に眼を引きつけているから彼女たちが敵に捕捉される可能性は小さい)
裏切りを画策していた愚かな貴族共の始末も完了している。王都に残っていた者はノンネに殺害させ、こちらに付いてきた者は戦場に立たせて流れ矢に当たったということである程度抹殺し、残った者は昨夜この手で直接消してきた。
(後は……)
と、夜光は司令室から出ようとした。だが、その背に待ったがかかる。
「ちょいと待ちな、ヤコウ」
「……クラウスさん」
振り向いた夜光の黒眼に映りこんだのは茶髪の偉丈夫――クラウス大将軍だ。
彼はむき出しになった上半身のほとんどを包帯で覆い、先ほどまで横になっていた長椅子から起き上がる動作もぎこちないものであった。誰がどう見ても満身創痍――これ以上戦えはしない。
「あなたはここから指揮を執ってください。どのみちその怪我では戦えないでしょうから」
「……お前はどうするんだ」
「決まっているでしょう?」
この後どうするかは既にクラウスには伝えてある。
夜光は悲し気に微笑んで見せた。その表情は死を覚悟した者のする顔であることを長年騎士として戦場に身を置いてきたクラウスは良く見知っていた。
故に、だからこそ――彼もまたすんなり納得して笑った。
「そうかい――なら俺も連れていってくれよ。この期に及んで仲間外れはなしだぜ」
「……その怪我では足手まといです」
もしかしたら彼だけでも助かるかもしれない。敵は己を仕留めたら満足するかもしれない。
今更そのような甘い幻想を抱いてしまう己の愚かさに呆れつつも夜光は一縷の望みに縋って敢えて突き放した言い方をする。
けれどもクラウスは苦笑するだけだ。
「どっちみちここで死ぬかお前について行った先で死ぬかの違いでしかないだろ。なら――せめて俺は戦場で死にたいね。逝くのなら派手に戦場で。こいつを手にした時、俺はそう決めたんだよ」
と言って神なる槍〝聖征〟を手元に現出させた〝征伐者〟の姿に、夜光はこれ以上の説得は無意味と悟って短く息を吐いた。
「では一緒に逝くとしましょう」
「おうよ」
返答は短く、それでいて戦意に満ち溢れていた。
何処までもぶれない芯を持つ先輩に、夜光は眩しい物を見るかのように目を細めた。
(手は尽くした。考えうる限りの最善を選んできたつもりだ)
司令室を出ると瞬く間に喧騒に包まれる。味方の上げる怒号と悲鳴が罪悪感を激しく刺激した。
(シャル、お前がこれから歩む道のりは険しくも困難なものになるだろう)
その道を歩ませるのは己――故に心が軋む。だが、そうしなければ彼女に未来はない。
ただ死なないだけの道なら他にもあった。けれどもそれでは意味がない。彼女が彼女らしく生き、笑顔あふれる人生を送れるようにするのならばこの道しかなかったのだ。
(己が生に価値を見出してこその人生だ。でなければただ呼吸をしているだけの人形に過ぎない)
要塞の通路を抜け城壁にたどり着けば――そこは地獄だった。
白かった城壁は至る所が赤黒く変色し、人間の臓物で汚されている。
必死の形相で魔法や弓矢を放つ兵士がいた。壁に取りつき梯子をかけて登ってくる敵兵を槍や剣で斬りつけている騎士がいた。声が枯れるほどの大声で何度も指示を出す部隊長がいた。
雨音が、戦艦の砲撃が、兵の悲鳴や怨嗟が耳朶を打つ。生きたいと誰もが願って眼前の敵を殺す。死にたくないと、助けてくれと希って絶命していく。決して許さないと、呪ってやると怨嗟をまき散らして獣となる者もいた。
(……許してくれとは口が裂けても言えないな)
彼らを死に追いやったのは自分だと理解している。その事実が呼吸が浅くさせ心臓を激しく鼓動させた。
だが決してこの光景から眼を逸らさない。最後まで己が罪と向き合うと決めているからだ。
(だけど……せめて彼女たちには言わせてくれ。シャル、ガイア――すまない)
こんな罪深い自分を愛してくれた二人の女性を脳裏に思い浮かべた夜光の前に――絶望が顕現した。
「死を想え、罪人たちよ」
――その絶望は、黒衣に身を包んだ男の姿をしていた。




