幕間~一時の休息~七日目、夜
続きです。
陽が沈み、銀に輝く月が天空の支配権を手にした頃。
夕食を取り終えた夜光は王城の廊下を歩いていた。シャルロットが待つ第三王女の私室へと赴くためである。
(本当は夕飯も一緒に食えたら良かったんだけどな)
流石に王族と共に食事を取ることはできない。体面があるし、そもそも王族は専用の部屋かもしくは私室でしか食事をしない。形式上のことや警備上の問題があるからだ。
ただ〝守護騎士〟である夜光なら食卓を共にすることはできた。〝守護騎士〟とはいついかなる場合であっても主の傍に侍り、剣となり盾となる存在であるが故にそういった権限を有しているからだ。
けれども夜光はその強権とも言える権限を行使しなかった。理由としては長年〝守護騎士〟という存在が誕生しなかった為に、ほとんどの人が〝守護騎士〟が持つ権限を知らないという現実を考慮した、というのが大きい。知らない者たちからすれば何故夜光が王族と共に食卓を囲むという栄誉を得ているのか、という疑問疑念を抱かざるにはいられないだろう。彼のことを良く思っていない者であればそれを口実に責め立ててくる可能性すらあった。
他にも出陣を明日に控えた今、余計な問題を生むような真似は極力避けるべきという理由もある。
そういった懸念から、夜光は食事だけはと誘ってきたシャルロットの申し出を拒否したのである。
(面倒だけど仕方がない。今は少しでも重荷を減らしたいからな。逆に増えるような展開は避けるしかない)
今は非常に重要な時期――故に些事に煩わされたくはなかった。大局を見定められない愚昧な貴族共に構っている暇などないのだ。
実際この七日間の間に何人もの貴族が夜光に接触してきたが、そのほとんどが彼の持つ権力や名声を利用しようとする連中であった。無論、そのような存在を相手にしている時間が勿体ないので軽く流しておいたが。
(本当に面倒くさかったな。あいつらの欺瞞に満ちた笑みを見てると殴りたくなってくる)
だが、それも今日までだ。明日からは戦場が変わる。政争から戦争へと変化するのだ。
(やっぱり俺にはそっちの方が合ってるな。貴族たちとの言葉のやり取りなんて性に合わないぜ)
相手の揚げ足取り――失言を誘ってくる連中との会話は疲れるだけで何の生産性もなかった。これが愛国心からの言葉などであれば真面目に受け答えする気にもなったのだが、生憎とそういった者は少なかった。非常に残念なことではあるが、仕方のないことだとも思う。誰だって我が身が一番可愛いと思うのは生物として自然な思考だからだ。
(けど、その本能を乗り越えて大切な誰かを一番に想う人が増えれば争いって減ると思うんだよなぁ)
などと他愛のない思考を巡らせている内に目的地である第三王女の私室の前までたどり着いていた。
部屋の前には二人の女性騎士が立っている。どちらも直立する姿に隙は見られない。かなりの手練れであることが雰囲気から察せられた。
『これはヤコウ大将軍、お疲れ様です』
『シャルロット殿下からお話は聞いております。貴殿がいらっしゃられたらお通しするようにと』
『それと今夜の護衛は不要とも伺っております。確かに貴殿程の実力者が一人いれば事足りますから、誰も文句は言わないでしょう』
『無論、我らにも異論はありません。どうか殿下をよろしくお願い致します』
「……分かりました。ありがとうございます」
矢継ぎ早に言ってきた二人の女性騎士に押されながらも夜光がなんとかそう返せば、彼女らは顔を見合わせ不意に生真面目な表情を崩して笑みを向けてきた。
『我らは長年殿下にお仕えしてまいりましたが……貴殿の話をされる際の殿下は本当に幸せそうでした。あのような表情は見たことがありません』
『ですからどうか、殿下を悲しませることのないようお願い致します。……もし殿下を悲しませるようなことがあれば――』
『『その時は、お分かりですね?』』
と、にっこりと圧を感じる笑みを浮かべた二人が声を揃えて言ってきた。
気圧された夜光が「わ、分かりました!」と敬礼すれば、女性騎士らも返礼してそのまま立ち去ってしまう。
(なんか怖かったな……。でもシャルのことをあそこまで慮ってくれる人がいるって知れたのは嬉しい誤算だ)
今後の展開を考えれば尚更――と、夜光が去っていく二人の女性騎士の背を見つめていると、不意に背後から声がかかった。
「あの、ヤコーさま……?お入りにならないのですか?」
「ん?ああ、ごめんシャル。ちょっと考え事を――って、その恰好は何!?」
愛しい人の声に夜光が振り返れば――そこには中々に刺激的な寝間着姿のシャルロットがいた。
白一色という清楚さを際立たせる色合いにも関わらず、生地が薄すぎる所為で身体の輪郭がくっきりと見えてしまうネグリジェを身に纏う彼女は扉を半開きにして首を僅かに傾げている。おそらく硬直し、動揺する夜光の様子を怪訝に思ったが故に動作なのだろうが、その仕草は反則だろうと夜光は内心絶叫した。可愛すぎるし刺激的すぎる。あまりの衝撃に頭がどうにかなってしまいそうだった。
(なんて恰好してんだよッ!?っていうかみ、見えてないアレ!?い、いやまさかな……)
これで夜光が常人であれば問題なかったのだろうが、生憎と彼の五感などは超人の類になっている。
常人であれば絶対に分からないだろう事柄にも気づいてしまうのが今の夜光なのだ。
つまり何が言いたいのかと言うと……透けているのだ、色々と。
このような姿、他の誰かに見られでもしたら問題になってしまうことだろう。エルミナ王国の王女がこのような煽情的な姿をしているなどと知られるのは体面的に不味いし、それが男であれば夜光にはそいつを抹殺する用意がある。
「しゃ、シャルッ!今すぐ部屋に入れてくれないかいや入ろうそうしよう!!」
「え、えっ?どうしたのですか、ヤコーさま?」
早口にそういった夜光は混乱するシャルロットの肩を回して室内へと入っていく。その際に触れた彼女の白く綺麗な素肌の感覚にビクリとしながらも、必死に平静さを装って後ろ手に扉を閉めきっちり鍵をかけた。
ふぅ、と一仕事終えた感じで夜光が息を吐くと、シャルロットは困惑を残しつつも室内に置かれていた長椅子を彼に進めた。礼を言った夜光がふかふかのそれに腰を落ち着ければ、彼女は事前に用意していたのだろう魔法瓶を傾けて紅茶を茶杯へと注いでいく。それから茶杯が乗っていた盆を持ち上げると夜光の眼前にある長机に乗せ、自らは彼の隣へと座った。
「えっと、その……近くない?」
「お嫌ですか……?」
「いえ!滅相もない!!」
いきなり距離を詰められた夜光がぎこちなく訊ねれば、シャルロットは捨てられた子犬のように悲し気な顔を向けてきた。
こんなの反則だろと思いながらもやはり嬉しいという気持ちもあった夜光が即答すれば、彼女はクスクスと笑った。どうやらからかわれたらしい。
そういう時折見せる小悪魔的な言動も可愛いなぁと思う夜光の感性はおそらく死にかけている。いい意味でだが。
なんとか態勢を立て直そうと試みる夜光が用意された紅茶に手を付ければ、優位を取り戻そうと足掻く彼を微笑ましく思ったのかシャルロットも慈愛の表情を浮かべて同じ仕草をした。
コクリ、と喉を鳴らす音だけが部屋に響く。流石は王族の部屋なだけあって防音がきちんとしているらしい。外ではそれなりに風が吹いていたはずだが、全くもって聞こえなかった。
(防音がしっかりしているか……いや何考えてんだ俺!!)
浮かび上がった淫らな考えを蹴り飛ばそうとするが、この何とも言えない雰囲気がそれを許さない。
室内は暖色系の家具で揃えられており、年頃の女性らしさを感じさせる小物なども置かれている。明かりは敢えてそうしているのだろう、設置してある魔導具を使わずに蝋燭の火だけが灯されている。
頼りない明かりが照らす室内は防音が整っており、護衛の騎士は先ほど去ったばかりだ。周囲の気配を探っても誰も部屋の付近にいる様子はない。つまり今、この場には夜光とシャルロットしかおらず、邪魔立てする者や事象は何もない――。
という考えが夜光の脳内を支配する。同時に先ほどから脳裏に浮かんでいる淫靡な妄想が思考を絡めとろうとしてきた。
駄目だ、と叫ぶ理性がいる一方で、問題ないだろと主張する意思があった。
(相手は王族だ。それにこの先の展開を考えれば良くない)
(守護騎士が王族と結ばれた過去があるから問題ないだろ。この先のことなら逆に糧とすることができるかもしれないし)
夜光の脳内で理性と言う名の天使と欲望と言う名の悪魔が戦っていた。互いに一歩も引かぬ剣戟の押収が繰り広げられる。
戦いの趨勢はやがて天使の方へと傾いて行った。これは理屈屋のきらいがある夜光としては当然の流れであった。
このまま行けば理性が勝つ。これで良かったんだとホッとしたような残念だったような気持ちで夜光が溜息をついた――その時だった。
「ヤコーさま……」
「っ!?しゃ、シャル!?」
言葉だけならただ名を呼ばれただけのことだった。物憂げな、悩ましげな声であったという点を除けばそれだけのこと。しかし、彼女の細くしなやかな手が夜光の膝に伸びてこなければ――の話であったが。
激しく動揺する夜光の膝に手を乗せたシャルロットはグイッと上半身を伸ばすなり彼の耳元へと口を寄せて――囁いた。
「――わたし、欲しいです。ヤコーさまのこと……」
「――――はひっ!?あ、う、えええ!?」
小声で囁かれたその言葉は吐息と共に吐き出され、夜光の理性と言う名の天使を一撃で瀕死状態まで追い込んだ。
驚愕の面持ちで夜光がシャルロットの表情を確かめれば、彼女の白い肌は羞恥に染まっていた。
「は、はしたないと思わないでください……でも、もう我慢できないんですっ!」
王族として英才教育を受けてきた彼女の思考は自らの言動を責め立てているのだろう。いやらしい、はしたないと窘めているのだろう。
けれどもその一方で押さえられない親愛の念があふれてしまっているのだとも思う。狂おしいほどに相手を求める気持ちが、想いが燃え盛っているのだろう。
理性と感情の二律背反――それが齎した彼女のいじらしい言動を近距離で魅せられた夜光は。
「……いや、はしたないなんて思わないよ。俺も、お前が欲しいって思ってるから」
「ヤコーさま……んっ!?」
本日二度目の口づけは甘く、とろけるように甘美なものであった。
胸の内から溢れ出る親愛と愛情が、情欲と色情と欲望らと交じり合って喜悦の声を上げる。
歓天喜地――法悦に満たされる心の手綱を必死に手繰り寄せながら夜光は荒々しい激情を抑えて優しい手つきで愛する人の肢体に触れていく。
……蝋燭の火が照らす二人の影が揺れ動く中で、夜光は思った。
――時よ止まれ、お前は美しい、と。




