旅路
念願のスコットランド旅行です・・・
旅行は明日から八日間の予定でスコットランドにした。以前から決めていたことだが、体調のこともあって裕輔さんの友人の医師に相談したところ、無理しなければ行って良いとのことだった。もっとも裕輔さんには細かな指示が伝えられたようだった。
翌日の夜、成田からイギリスに向け、飛び立った。ツアーではないので現地のエージェントを紹介してもらうのに、裕輔さんの友人が動いてくれ、日本人のエージェントを見つけてもらった。
アムステルダムを経由しエジンバラに直接到着する便を選んだ。エージェントの女性、山本さんが空港に出迎えてくれた。私の体調のことは伝えてあったので、年上の女性がアテンドしてくれるのはありがたかった。
山本さんはイギリス在住十二年になり、こちらで結婚(英国人)し、エジンバラに住んでいらっしゃる、明るく気さくな方だった。宿は、エジンバラ滞在中はホテルで、地方に出かけるときは民宿を予約してあるとのことですっかり安心した。
移動はレンタカーにしてあり、山本さんは目的地の資料を私たちに提供してくれて同行はしない。
「スコットランドの人たちはとても親切です。それに日本人には好意的なので問題はありませんよ」
それぞれの日程が整理されたバインダーには、細かな注意がメモされていた。
「それと、わからないことがあったら、遠慮なく電話していただいて結構です」
「あと、緊急事態や予定の変更はもちろんですが電話してください」
細かな説明を受けるためと、エジンバラ市内は彼女が案内してくれるとのことで、まずホテルに入った。
翌日は少し暖かい日差しがあったおかげで、エジンバラ市内の大聖堂や美術館をゆっくりと見て回った。フェルメールの宗教画が優しい色彩でとても印象に残った。
次の日はレンタカーを使い、海沿いまで走った。途中の丘陵地帯には羊や牛がのどかに草を食べている。
港からフェリーを使い大きな島に渡った。島の中はひっそりとしており、城跡や教会の廃墟があった。
こんな島にもウイスキーの蒸留所があるとのことで、さすがという感じがしたけれど、どんな味がするのかしら。そういえばスコットランドのウイスキーは、ハイランドとローランドとアイランド、スペイサイドとか何種類もあると裕輔が調べていた。
その日の民宿は田舎のお城のある町の中にあった。気さくな女主人が出迎えてくれ、裕輔が山本さんのアテンドのことを伝えるととても歓迎してくれて、普段夕食は提供しないのだけれどぜひ我が家の料理を一緒にと勧めてくれた。
スコットランドの田舎料理は羊肉のローストや温野菜がたっぷりと盛り付けされ、とてもおいしかった。
それ以上に家族の暖かいもてなしが心に染み入った。
明日はどこに行くのかとご主人に尋ねられ、スペイサイドの蒸留所を訪ねるつもりだと答え、予定表を見せて地図を広げると、ここの蒸留所がいいとか教えてくれた。
翌朝の朝食もまた、とてもボリュームがあった。オートミルは少し苦手……。
道路は片道一車線だが走りやすくAxxxと記されたルートをたどって北上し、スペイ川に入っていった。大きな工場のような蒸留所もあれば、絵本に出てくるようなかわいらしい蒸留所もあった。
お昼前に教えてもらった蒸留所に着いた。支流沿いの(川の名前がどうやらウイスキーの名前らしい)きれいな流れに古い蒸留所があった。御願いすると親切に説明してくれ、原酒を飲ませてもらった。
口に含むと、甘い香りとフルーツのような味わいがして驚いた。ランチもあるからと案内され、鰊のサンドイッチを食べた。塩味が程よく効いていてとてもおいしい。
帰り際に、猫のブロンズ像があるのに気づいた。ウイスキーと猫?、呑んべーの猫?。なのかな?
のどかな田舎の風景はまだ春とは言えないにしても、心が落ち着いた。ゆっくりとした日程も終わりに近づいてきた。山間部の湖に近い田舎町に入ると雨が降り出し、陰鬱な城の廃墟から民宿に逃げ帰ってきた。夜になって風雨が強まってきた。明日はエジンバラに戻るのだが、帰国は明後日エジンバラから直接飛ぶ便を予約していた。
風は弱まるどころか、びゅうびゅうと音を立て外の石畳を何かが転がっていく。夕食を済ませ部屋に戻ってから、電灯が時々暗くなった。
「裕輔さん、怖いわ……」
速水は小さなときから吹雪や嵐にはなれていたが、妙子は怖がった。特に病の再発告知から、怯えやすくなっていた。
部屋を暖かくして、スコッチをお湯割りにし妙子に少し飲ませた。
バーンと大きな音がして、電灯が消えた。何かが屋根にぶつかったようだ。速水は妙子を抱きしめるようにしていたが、妙子の体が瞬間的に硬直した。
「キャー」と叫んだが、その後からがたがたと震えだした。
「妙子!」と呼びかけても震えは止まるどころか意味のわからないことを口走りだした。
一瞬、電灯が点いた時、「妙子!」と呼びかけると、ぼんやりと速水に焦点が戻ってきた。しかし、また停電した瞬間から震えが強まり叫び声が大きくなった。
速水はベッドサイドに置いていたポーチの中から、友人が渡航前に渡してくれた鎮静剤の錠剤を取り出し口に含んだ。水を一口含み妙子に口移しに飲み込ませた。
「ゲホッ、ゲホッ」と咳き込んだが錠剤は飲み込んだようだ。
そのまま抱きすくめて静かに背中をさすりつづけた。
「……裕輔、……裕輔、怖い。死にたくない。離さないで」
その後は嗚咽になった。涙が速水のスエットシャツに染み込んでいく。
「妙子、大丈夫だ。僕はここにいるよ」
「裕輔……一人にしないで、いやよ」
「大丈夫だ、妙子」
薬が効いてきたのか、妙子の震えが収まり、やがて速水の名を繰り返し呼びながら、眠りについた。ブランケットを二枚掛けにして妙子の手を握りながら速水はじっと見守っていた。小さな寝息をたて、妙子は寝ていた。
妙子は死の恐怖に抗う日々をやっとのことで乗り越えていた。そのことを速水の友人の医師は指摘し、事前に鎮静剤を処方してくれていたのだった。そして万が一、妙子がパニックに陥った時の対処方法も指示してくれていた。
『あわてずに、様子を見ろ。そばから離れるな。それと暖かくして薬を飲ませてくれ。口移しでもかまわない。薬が効けばすぐに眠るはずだ』
嵐は収まってきたが、朝が来るまで速水は一睡もせず妙子を見守っていた。
遠くで小鳥の鳴き声が聞こえる。朝日が窓から差し込んでテーブルの上の水差しが光っていた。
ここがどこか理解できるまで少し時間がかかった。裕輔さんがヘッドボードにもたれたまま隣で寝ていた。
『裕輔さん、ずっとそばにいてくれたのね』
夜半の嵐に怯えた記憶まで手繰りよせたが、後は覚えていなかった。ただ、裕輔さんが抱きかかえるように寄り添っていてくれていた。
再発の告知を受けてから心の底にあった死への恐怖が時々、黒い蛇のように首を持ち上げる。冬の海に無意識に飛び込んで行こうとした裕輔さんを必至になって止めたのに、自分に忍び寄る死の影を振り払うことができない。なんという皮肉なのだろう。唯一の救いは裕輔さんが側にいてくれることだ。
自分はいつまで生きられるのだろうか。その時を迎えるまで、生きていた証を残したい。そしてその証とは何だろうか。自分に何ができるのだろうか・・・
次回は第三章に・・・




