そして聖女の旅は終わり
特に意味はなかった。ただ、聖女様が外の空気を吸いたいから散歩に出る。だから護衛として自分はついて行っただけで。どこを見ると決めたわけじゃない、目的もなく町中をふらふらと歩いているだけ。
本当に、気分を変えたかっただけらしい。俺には少し、分からない感覚だ。
空はもう日が暮れ始めている、もうじき宿屋に戻った方がいい時間だ。
「やっと、終わるんだね……」
夕日の、茜色に染まる体。
聖女様が、長く出来た自分の影を見つめながらぼんやりと呟いた。小さな声で呟く言葉は、どんな意味があるのだろう? 世界の浄化を終えるから? それとも、魔の元凶である災厄の魔女を消滅できるから?
長い旅だった。そしてその中心を担う聖女様は、この世界の人間ではない。
その横顔がやけに寂しそうに俺には見えたのは、きっと間違いじゃないだろう。
何も知らない場所に、その身一つで来た人は、まだ少女といっても過言じゃなかったのだから。
「どうか、なさいましたか?」
暫らくその場に立ち止まっていた聖女様は、かけられた声にはっとしたように俺を見た。
「すみません。少しぼんやりしていたようです」
少し間を空けていた俺に、彼女は小走りで近づいて来る。その顔に、さっきのような寂しそうな表情はもうない。
自分と聖女様の距離は、けして近くはない。何かあればすぐさま駆けつけられる距離を保ちながら、彼女自身に踏み込まないように気を付ける。
この旅の初めに、団長から言い含められたことだ。まるで腫れ物を扱うようだと、内心で思っていた。
この世界のことを何一つ知らぬ少女。この世界とは違う世界、常識を生きてきた少女。
彼女の世界は、とても平和なところだと聞いている。夜すら明るく、女性一人でも歩ける場所で、剣を持つだけで刑罰を受ける程には。
そんな世界の住人が、魔物が闊歩し治安も格段に悪いこの世界で旅に出るのだ。野宿などしたこともない、それこそ目の前で魔獣を屠るところなど目にする機会すらない世界の少女が。
この世界と何の関係のない少女は、逃げることすら叶わずに、この旅に出させられた。
「そろそろ帰らないと、皆が心配しますね。宿に戻りましょうか」
そう言うなり、彼女は歩き出した。今にも消えてしまいそうなくらい儚く見える背中を、俺は黙って見つめた。
こんな時に何もできない自分の無力さが悔しい。それがたとえ僅かでもいい、支えになろうと思っても、それすら許されない立場に無意識に拳を握る。
俺は、彼女のことをほとんど知らない。こんなに近くにいるのに……知ることすらできない。
あの人がどんな世界で生まれたのか、そしてこの世界に来るまで今までどんな生活をしていたのか。
何を思って、この旅に出ているのかも。
家族のことすら聞いたことがなかった。望郷の念を持たせるのは危険だと、この旅の仲間たちは聞かされている。王の命令として。だから聞くことはないし、彼女もそれを教えられているのだろう。自ら話すこともない。
安全な世界で生きてきた少女に、過酷な選択をさせて、それでいて近くに寄らない。この国の人間は、その異様さに何も思わないのだろうか?
本来なら自分たちは、頭を下げて請わねばならぬ立場だろうに。どうしてそれをやらないのか。
帰してくれと、召喚の儀式の間で叫んだ少女に、無抵抗な少女に剣を向けることに、抵抗を持った仲間は多かった。旅の途中で不平も不満も口に出さなかった少女。むしろ仲間たちの方が文句を言っていた。
それでも旅に同行した第二王子は、思うところがあったのだろう。何かと彼女の世話を焼く。そう、まだ公にはされていない。この旅が終われば、彼女は第二王子と婚儀を行う。だからそれまでに少しでも、距離を縮めておこうという考えなのか。
彼女にも知らせていないそれは、完全に王家の謀だ。
全てが自身の知らぬ間に決められ、動く。帰る方法を探すと答えた国王は、はなから彼女を手放すつもりはなかったのだろう。政治的に見れば、これほどまでに効果的な駒もないのだから。
旅を終えた先に待つものに、彼女がなんと答えるのか。それを誰か一人でも考えているのか? 否、と一言でも彼女が拒絶をすればどうなるのか。それとも、拒絶も許さぬつもりなのだろうか……。
何も知らぬ彼女と、知っていてもそれを知らせることができない自分。
知りたい。彼女のことを、もっと。
長い旅に同行して気付いた。一見当たり障りもなく接していて、けれどそこには明確な線が存在していた。同行者たちとの空気を乱さないように、良好な関係を築いているにもかかわらず。
常に、一線を引いている姿。
旅先で訪れる街や、そこかしこで見られる市場。彼女にとって見る物全てが新鮮で、表情をコロコロと変えては楽しそうにしていた。
だが、どんなに楽しい場であっても、彼女は時々、ふっとさっきのような顔をする。
まるで、それまでいた場所に別れを告げるような……。
終わりが分かっているかのような、そんな表情で。
手を伸ばせば、すぐに届くほど近くにいるというのに……。
なぜこんなにも、遠く離れているのだろうか?
「副隊長さん。私、この旅が終わったら結婚することになるそうです」
夕日を背にして自分にそう言う彼女は、苦笑していた。
「あ、その顔、やっぱり知ってましたね?」
「も、申し訳ありません」
責めるでもないその視線に見つめられ、俺はとっさに頭を下げた。分からなかった。価値観に常識の違う場所から来た少女。その彼女がどう思うのかと。
罪悪感。一歩遅れてズキリと胸に来る痛み。
「副隊長さん。これから言うのは、散歩の中の独り言です」
足音が聞こえてきた。ゆっくりと頭を上げれば、彼女は歩き出していた。
この旅の中で、俺が彼女の私事に付き合うことは多かった。ほぼ毎回、そう言っても過言じゃなかった。いつしか、彼女の役目以外の私事での護衛は俺になっていた。
「旅が終わったら、さっさと逃亡しようかと計画したことがあります」
耳に聞こえてきたのは、いたずらを考えている子供のように弾んだ声で。
けれどその声は、今までに聞いたことのない彼女の胸の内を語っている。
「いっそ浄化の旅が終わったら、災厄の魔女にでもなってやろうかと考えたこともあります」
だって、嫌じゃないですか。手駒扱い。
クスクス笑って、俺が内心で感じていたものをあっさりと彼女は口にした。
「帰る方法を探すとは言ってましたけど、不可能みたいですしね」
「……宮廷魔導師たちが、その、過去の文献や遺跡を調べております。ですからまだ、諦めるのは早いかと」
「だったら、第二王子と結婚するなんて話、出ないですよね? 普通は」
「それは――っ」
俺は二の句が継げなかった。諦めるのは早い、だけどそれもまた事実。
結局、国は彼女を利用し続けるのだ。世界を浄化した聖女として。
「なので、私は今から逃走しようと思います!」
楽しそうに宣言するなり、彼女は脱兎の如く俺の前から逃げ出した。
「は? あっ!? お待ちください!」
あの背中に向かって、慌てて俺は走り出した。
ここでもし、彼女が逃げたとなれば、国は全力で探し出すだろう。そして捕まれば、次はない。彼女の意思は封じられ、それこそ彼女自身が言ったように手駒、いや、物言わぬ人形扱いだ。自由意志など持つことすら許されない。
あれだけ一緒に行動してきた、どう動くのかは予想がつく。小さく見える姿だけを見失わないように、必死に視線を前へと向ける。
知りたいことはたくさんある。けど、教えてくれなくてもいい。知らなくてもいい。
いつか、彼女が話してくれる時まで、俺は待つつもりでいたのに。
騎士として、聖女に仕える旅の仲間でなくなる時まで。
――そのつもりで、いたというのに。人の気も知らないで。
酷く小さく見える背中。その周りを、うっすらと暗い色の魔力が覆う。
今にもその暗い色に覆いつくされそうなその姿。あの人はこんなにも小さく、脆弱に見えたことがあっただろうか?
近付いたその体に腕を伸ばす。大丈夫、ちゃんと触れることができる。
「アカネさん!」
声に出してはならないと厳命された彼女の名を、叫ぶように言って。触れたその体を自分のもとへと抱き寄せる。
消えて居なくなってしまいそうな、小さな体。その体を強く抱きしめる。
居なくならないで欲しいと、切な願いをこめながら。
「やっぱり捕まっちゃいましたか」
「……戻りましょう」
酷なことを言っている自覚はある。逃げると言い、そして行動に移った彼女に言うべき言葉ではないことぐらい。
「駄目ですか?」
「逃亡するなら、浄化を終えた瞬間にしましょう」
役目を終えずに逃亡したら、犯罪者にされてしまいます。
そう告げれば、驚いた表情でアカネさんは俺を見た。
「私、この国の人たちを赦せません」
「分かります」
「私の国では拉致監禁の罪になります。安全が確保できない、危険な作業に強制従事させられています。結婚も強制されています」
「知っています」
「戻す気もないのに、帰る方法を探すなんて安請け合いをした国王は詐欺師です」
「……はい」
「どうして、赤の他人の私がこの世界を救わなきゃいけないのか、理解できません」
「申し訳ありません」
そっと俺の腕に触れながら、アカネさんは言葉を続ける。
「私が逃げたいと思うのは、いけないことですか?」
光の加減で茶色に見える黒い瞳が、微かに揺らいでいるのが分かる。
「いいえ、間違ったことではありません」
「帰りたいって、ずっと思ってて、帰るって、言ったら、なんで駄目、なんですかっ!」
懇願するような声音で、けれど叫ぶように彼女は言う。
出来うることならば、元いた世界へと帰したい。自分は、国に仕える騎士としては、それを拒否する言葉を言わねばならない。だが、もし、一個人としての発言が許されるのならば……騎士でもなく、まして彼女が聖女でもなかったのなら。
今にも泣きそうな顔で、それでも必死に耐えてこの場に立つ彼女。自分よりも幼い、けれど自分以上に重圧に晒されている少女。そんな彼女に、何を言えというのか。上辺だけの言葉に、何の意味がある。
「……災厄の魔女に、なってしまえばいいんでしょうか?」
かすれた声で、彼女が呟く。その視線は定まらず、ぼうっと、ただ黒々とした虚ろな瞳が空を見つめる。
災厄の魔女、この世界が腐毒に溢れた原因。その魔女が、もとは聖女と呼ばれていたことを知る者は少ない。
「アカネさん。俺は、あなたの世界で言うところの拉致監禁の罪を犯そうと思います」
慰めの言葉は、きっと彼女には意味を成さない。どんな言葉も、望郷の念を越えることは出来ないのだから。
俺の言葉に、彼女が大きく目を開く。その瞳が、裏切られたような色を見せている。少なくとも、俺自身は彼女を強制的に捕縛して連れ帰ったことはなかった。だからきっと、今回も大丈夫だろうと彼女は思っていたはずだ。
「罪を犯すのは、浄化の旅が終わった瞬間です。俺はあなたと一緒にいたい、だからあなたを拘束して、好き勝手に旅をする間中、あなたを連れまわします」
彼女の驚く表情に、俺は内心で笑う。普段、仲間たちといる時よりも、彼女の表情が豊なことを知っている者はいないだろう。
「俺の旅が終わるのは、あなたが元の世界に帰る方法を見つけるまで」
「それって……」
「アカネさん。どうか、俺の旅にお付き合い頂けませんか?」
子供のような言い訳は、彼女にとっては抗い難い誘惑だろう。
俺を見て、けれど悩むように彼女の瞳が揺れる。彼女は、愚かではない。この選択が、何を意味しているのか、分からないわけがない。
裏切り者扱いされるかもしれないが、もう、国を離れることは決めた。無力な少女一人救えなくて、何が騎士だ。
「……一緒に、連れて行ってくれるの?」
震える声で、彼女が言った。縋るような瞳で俺を見る。
「強制連行させて頂きます」
そっと手を差し出しながら言う言葉が、酷い矛盾だと自分でも思う。
連れて行くと言っておきながら、彼女に同意を求めるのだから。
けれど今、彼女には必要な言葉で。
自らの意思で選べるということが、何よりも重要なことで。
この言葉で、不安と寂しさ、そして自分一人ではどうにもならない憤り。それらが和らげることができるのなら。
少しでも、アカネさんの希望になるというのなら。
「分かった。ちゃんと世界は浄化するよ、だから……それが終わったら――」
そろそろと、今の彼女の気持ちを表しているように伸ばされる手。
触れたその手の指先は、緊張からか僅かに冷たい。
「私を攫って、副隊長さん」
体を預けるように、アカネさんが俺に寄りかかる。
徐々に深くなっていく暗闇から彼女を護るように、俺はその体を包み込んだ。
浄化を終えたことが大陸に広まると同時に、ある旅人が現れた。
旅人は未だ腐毒の名残がある地を巡り、浄化をし、その地の人々を治療していた。
その女性の旅人には、常に一人の騎士が彼女を護るように寄り添っていた。
そして旅人が実は聖女なのではないのか?
そう、まことしやかに囁かれるまで、それほど時間はかからなかった。
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おまけ
「なんかさあ、旅って言うけど、前とやってることが変わってない気がしている。しかも私誘拐されているハズなのに」
「もう義務ではないのだから放っておいても問題ないぞ。それと誘拐ではなく旅への強制連行だ」
「どっちも似たようなもんじゃん。ただまあ、あの光景を見てなんか放っておくのも、気が引ける。後味悪いのいやだし」
「君ならそう言うと思った。まあ、寄り道も旅の醍醐味だ」
「……旅の醍醐味ねえ。では『元』副隊長さん、寄り道で腐毒の名残があるらしい隣の村に行きましょうか」
「その前にそこの屋台に寄らなくていいのか? 行きがけに食べてみたいと言っていただろう」
「寄ります寄ります!」
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