第5話 レインボー・オブ・ホエール【ジャンル:ドキュメンタリー番組】
「わあ、すごーい!」学校が終わった後速攻で帰ってきたと思ったら、さっそく録画してあった番組を見ている姫。「とても楽しみにしてたんですよ。空からしか見たことがありませんでしたから。」
姫が見ているのはホエールウオッチングのドキュメンタリーだ。船で近づいてクジラを見るという行為に興味を惹かれたようだ。
「海側から見ると結構な迫力なんですね。」ふむふむといった顔の姫。
シンには嫌な予感がしていた。また何か言いだしそうな・・・。
「私もホエールウオッチングがしたいです!」目を輝かせて姫はシンの顔をじーっと見た。
(やっぱりこうなるか・・・。こいつ、俺のこと便利屋のように思ってないか?)力をくれた理由さえも勘繰りたくなってきた。
「・・・まあいいけど。念のために聞くけど、見るだけでいいんだよな?『背中に乗りたいですー。』とか言い出さないよな?」
「そんなこと言いませんよー。今は。」『今は。』の部分だけささやき声になる姫。幸いシンには聞こえなかったようだ。
行きたい場面で一時停止。「行くぞ。」「ああっ、待ってー!」シンに姫が捕まった時、うっかり姫の足先がリモコンの再生ボタンを押してしまい、入りたかった場面から画面が変わってしまった。それに気づいたのは入った後だった。
『お嬢さん、ごめんよ。今日の分はこの船でおしまいなんだ。』ホエールウオッチング担当の船長は申し訳なく姫に言った。
「そんなあ・・・。」うな垂れる姫。
「一度外に出てまた入り直せばいいじゃないか。な?」シンが何とか慰めようとした。
「それじゃダメなんです!」
「何で?」
「実は言い忘れていたのですが・・・。」もじもじしていた姫だが、思い切って打ち明けた。
「一度入った2次元世界は、再び入り直すにはある程度の時間を置く必要があるのです。」
「すごく大事なことじゃないか!何で最初に言ってくれなかった!」
「一度入った世界は、堪能するともう入りたくなくなるだろうと考えていたのです。また入る必要はない、と。ですから、敢えて申し上げなかったのです。」
(そういえば、この前の恋愛漫画の時ももう入りたくないって思ったっけ。)人間は意外と飽きやすいものだ。
「そしてそれは、その世界観を壊さないための安全装置のようなものでもあるのです。」
シンが飛び出していったあの時も、入り直してシンの行いを【なかったことにする】のは可能だった。自分で自分の行動を阻止すればいいのだ。しかしそれでは同じ世界に同一人物が二人存在してしまう。矛盾が生じてしまう。しかも阻止が成功するかは分からない。それは現実世界に近い世界観ではシナリオの破綻を招きかねない。姫が入り直さずに「来月号で何とかした方がいい」と言ったのも、そういう懸念もあってのことだった。
「分かったけど、初めにちゃんと言っておいて欲しかったな。」
「申し訳ありません・・・。」半分泣きじゃくっている姫。
「ああ、だからもういいって。で、次は入れるようになるまでにはいつまで待てばいい?」
「分かりません。」
「は?」
「一度外に出るまで分からないようになっているんです。それに期間はそれぞれの世界観によって変わるのです。再び入っても影響がないくらいに。安全装置と申し上げたでしょう?」
「じゃあ今何とかするしかないんだな?」
「はい・・・。」
「なら早く動かないとな。船長に聞けば何か分かるかもしれない。」
「もういいんです!これ以上シンに迷惑をかけられません!」
「迷惑なんかじゃないさ。本当は見たいんだろう?クジラ。」
「でも・・・。」
「でもじゃなくて!俺がやりたいからするんだよ。それでいいじゃないか。それにあらゆる場面を想定して動けるようにしておかないと、またそういうケースに出くわさないとも限らないからな。」
「シン・・・。」
「姫はここで待ってろ。ちょっと行ってくる!」シンは颯爽と駆け出した。
(ありがとうございます、シン・・・。)涙をぬぐいながらその背中に感謝する姫だった。
『船は終わったけど、巡視船は出ると思うよ。この近海はちょっと物騒でね。あんた達遠くから来てるみたいだし、乗せてもらえるように頼んでみようか?』
「ありがとうございます!ぜひお願いします!」
『あんな美人の嬢ちゃんの泣き顔は俺も見たくないからな。ちょっと待ってろ。』船長が向こうの桟橋に停泊している船の方に走っていて、船の傍に立っている人と何やら話し込んだ後、『OKだってよ。良かったな。』船長がそう叫んだ。
「感謝します!良かったな、乗せてくれるってよ。」シンの声は弾んでいた。
「はい!」姫の顔は笑顔に変わっていた。
巡視船の傍まで二人が来ると、船員らしき人が何やら差し出した。
『これをつけて。ライフジャケット。それと、危なくなったら船室の奥に言って身をかがめているように。分かったね?』
「はい。それにしても、観光スポットなのに、そんなに危ないんですか?」シンが尋ねた。
『俺たちはその海域の向こうに用があるのさ。クジラはおまけだよ。』
「そうですか。」
『さて出向するぞ。乗った乗った。』
岸を離れてかなり距離が経った。クジラが見える海域に達したものの、お目当てのものは見当たらなかった。
『こりゃはずれかな。すまないね、大抵は見られるんだが。』
「いえ、乗せていただいただけで十分です。」姫は感謝の言葉を述べた。
『もう少し行った先でしばらく監視して、それから港に戻るから。それまで我慢してくれ。』
船内には、屈強な男達が何人も乗っていた。波が高くなってくる中、結構な揺れにもかかわらずいろいろと動き回っていた。巡視船に乗るのはシンもさすがに初めてだったので、少々緊張していて船酔いどころではなかった。
『あれを見ろ!』誰かが叫んだ。『密漁船だ!』ぽつんと浮かぶ明らかに外国の船が一隻。
それと何故かクルーザーらしき船が一隻。
『くそっ!いいようにさせるか!坊や、運が悪かったな。急いで船内に避難してくれ。』
「分かりました。」どうせ何も手伝えることがないので、物分かり良く二人は船内に引っ込んだ。
『そこの船、停止しろ!さもなければ実力行使する!』警告を発する。どんどん緊迫度が増してくる。
『あいつら、加速しました!逃げ切るつもりです!』『そうはさせるか!警告射撃!』
パパン。パパン。二度銃声がした。
『旋回してきました!衝突して逃げるつもりです!』『何!総員、衝撃に備えろ!』
ドスン、ドッスン。お互いの船体の横部分がぶつかり合う。「わあっ!」「きゃっ!」そのたびに二人は船内で振り回された。
せめてものことをしよう。そう考えたシンは一か八か両方の船体にシールドを張り、お互いに沈むことがないようにしようとした。姫は必死に祈るだけだった。
シンの願いが通じたのか、船体にうっすらとシールドが張られた。これで沈没は免れるだろう。
『今だ!乗り込め!制圧しろ!』『応援はまだか!』『もうすぐ到着するとのことです!』船員たちのやり取りが激しくなる。とんだ修羅場に出くわしたものだ。
そのあとすぐ応援が二隻駆けつけ、相手の船員は全員縛られた。
『特に乱獲された魚介類らしきものは見当たりません。』『怪しいな・・・おい。お前たち、ここで何をしていた?』尋問が始まったが、ただ首を振るばかり。知らない、あなたたちの言葉は通じないとでも言いたいらしい。
しかし、力のおかげで、巡視船の船員には分からない外国船の乗組員のぼそぼそしたやり取りをシンは聞き逃さなかった。
「船底に隠しておいた【ブツ】が何だって?」人ごみからひょっこり顔を出したシンが縛られた奴らをにらみつけてそう言った。
巡視船側は驚き、外国船側は顔が真っ青になった。シンの言葉は両方にそれぞれの言語で通じていた。
「このまま【ブツ】が見つからなかったら俺たちの勝ちだ、か。あいにくだったな。」そう、こいつらは覚せい剤の売人だったのだ。密漁船を装い、海上で受け渡しをしていたのだ。
「あいにく俺には隠し場所も見えてるぜ。皆さん、俺が指示した場所を調べてみて下さい。」
シンに促されて半信半疑で外国船を調べていた人たちは、古い船体なのにそこだけ妙に新しい床板を見つけ、それを剥がしたところ、大量の覚せい剤原料が見つかった。そこで観念したらしい。たった今容疑者に格上げされた連中は皆おとなしくなった。
『今日は本当にありがとう。しかし君たちは一体・・・。』帰港途中で巡視船の船長はお礼を述べながらシンのことを不思議がった。『あいつらの仲間でもなさそうだし。なぜ分かった?』
「世の中には不思議な人間もいるということですよ。」信じてもらえないだろうが、シンなりの誠意だった。
『そういうことにしておくか。ところで、ぜひお礼をしたいのだが・・・。』
「あ!見て下さい!綺麗・・・。」
「本当だ。この景色を見せてくれてありがとうございます。お礼はこれで十分ですよ。」
姫が指差した先には、クジラが大きく潮を上げて、そこに小さいながら虹がかかっていた。
夕焼け空を背景に、それはもはや芸術の域だった。
そう、これだけでいい。姫の満足げな顔を見て、シンは心からそう思うのだった。