9.しかばねはおもいだしている。
俺は、丘の上に立っていた。遠くから微かに歌が聞こえる気がしたが、やがてはそれも気にならなくなった。大きく息を吸うと、土と草木の、懐かしい匂いがした。
見上げれば空には満天の星、眼下には家々の灯。家々の灯は決して眩いほどではなく、星が綺麗に見えている、はずだった。
――普段ならば。
今日は町の光がひときわ強かった。星が見えづらい。
眼下の町が疎ましい。俺はこのちっぽけな町に閉じ込められていた。こんな町なんか――そう思ったその時、
「レン君」
背後からの声に、俺は思わず振り返った。耳に届いたその声は心地よいものだったが、俺の心拍は確実に速くなっていた。
「……カナ、さん」
同級生であり、俺が想いを寄せる相手でもある少女、カナ・ソノサキ。普段は肩の辺りまである黒の髪を下ろしているが、今日はその髪を頭の上に結い、白の浴衣に身を包んでいる。微かな星明かりの下であっても、いつも以上に美しいということがはっきりとわかった。
「やっぱりここにいた」
と微笑む彼女が、本来この場所を知るはずはない。大方、俺の親友「だった」あの男、ロック・センドウにでも聞いたのだろう。
嫌なことがあったときにはいつもここに来ていた。ちっぽけな町を見下ろしては、この退屈な世界から逃げ出したい、外の世界を見てみたいと思っていた。
けれど、俺はいつも、この丘の先へ一歩を踏み出す勇気が出せなかった。むしろ、俺自身がちっぽけなこの町という世界の、もっとちっぽけな一存在にしかすぎなかったのだ、といつも実感する羽目になっていた。
「なんか用か? わざわざこんなところまで来てさ。こんな哀れな俺を慰めにでも来たか?」
俺は自嘲の笑みを浮かべた。
「……」
カナは応えなかった。無言の時間、胸がざわつくのを感じる。たったの五秒間が、俺には五分にも一時間にも感じられた。それでも顔に張り付いた自嘲の笑みは消えなかった。
やがて、カナはゆっくりと口を開く。
「……ねえ、行こうよ。みんなが待ってるよ?」
カナの口から出た「みんな」という言葉、それが不快で、俺は眉を潜めた。
「行かないよ」
つとめて素っ気なく、そう告げる。
「でも……」
俺になにかを伝えようとまた口を開いたカナは、きっと詳しい事情を知らないだけだ。事情を知ればあの五人の味方をするに違いない。いや、きっとすでにあの五人の味方で、俺の味方などではないのだろう――そう考えてしまって、俺の負の感情の矛先はカナに向かう。もう止められなかった。
「行かないって言ってるだろ――しつこいな!」
そう怒鳴った瞬間、カナがびくり、と肩を震わせたのが見えた。しまった、と口許に手を当てても、もう遅い。
カナは表情を隠すように、俺に背を向けた。
「……そっ、か」
その声は、心なしか震えていた。
「花火、レン君と一緒に見たかったな……」
小さく、そう聞こえた気がした。聞き間違いだったかもしれない。
ただ、再びこちらを向いたカナは、微笑んでいて、
「ごめんね」
と、口にしていた。
違う、違うんだ。カナさんが謝ることなんか何もない――慌ててそう言おうと思ったが、俺は思うように声が出せず、
「あ……」
引き留めようと伸ばした右手は、駆け出したカナには届かず、虚空を掴んだ。
「……」
虚空を掴んだまま、カナの背を見送ることしかできず、その背もやがて見えなくなり、俺は奥歯を噛んだ。
(どうして俺はいつも、こうなんだ)
ゆっくりと右手を下ろし、俯く。取り残された自分の哀れさは、自分が一番わかっていた。
すがるように夜空を見上げると、その瞬間、星の明かりは開いた打ち上げ花火に呑み込まれてしまった。それから、花火とその煙が立て続けに上がり、空を埋め尽くす。
あの花火の爆発で、この町を消してしまえればどんなにいいだろうか。そうすれば俺もこの町の外に出ることができるんだろうか。花火の音が轟くたび、俺はそんなことを考えてしまっていた。
「……」
ふと俺はポケットの中から財布を出し、開ける。
『今日はお祭りだから、友達と楽しんでこいって。お父さんとお母さんが』
と、妹が渡してくれた、二枚のお札と、小銭。
それを持っているという事実は、それだけで俺を苦しめた。耐えきれず、俺はそれを握り締めると、茂みに思いきり放り捨てた。
虚しい音がしたのと同時、財布がずいぶん軽くなった。
なのに、
『みんなが待ってるよ?』
カナが口にした言葉が、頭の中で何度も反響していて、俺はめまいがしそうだった。
みんな――少し前までは友達だと思っていた五人。毎日のように話して、一緒にバカをやって、笑い合った五人。
そう、あの五人は、俺の友達などではなかった。友達だ、というのも俺の妄想だったんだ。あのちっぽけな世界に俺の味方はいない。だから、あんな世界など、なくなってしまえばいい――
奇しくも、そう思った瞬間に「それ」は起きた。
急に、空が静かになった。花火が終わったのだろうかと思ったが、直後轟き渡った爆音が俺の考えを否定した。
次に空に上がるはずだった花火は、空にはなく、その代わりに、地上に開いていた。
その光景の意味が理解できず、俺は呆然とした。何が起きているのか? これはどういう冗談だろうか? 悪い夢だろうか?
『花火、レン君と一緒に見たかったな……』
その言葉と、俺に背を向けて走り去ったカナの姿がふいに蘇る。胸騒ぎがして、俺は走り出していた。
「なんだよ、これ」
斜面を降りたところで、俺は足を止めて愕然とした。倒れている人、動かない人。残骸。家の、町の、人の、残骸。火はあっという間に広がったらしく、町中を焼き尽くさんとしていた。
ただの花火の爆発ではない、もっと大変ななにかが起きている。炎がごうごうと燃え盛る中で、あるべき悲鳴はなく、いやに静かだったのが不気味だった。
地面のあちこちにできている赤い水溜まり。町を焼く炎が反射しているのだろう。きっとそうだ。
さっきまであんなにも壊れてほしいと思っていた世界が燃えている。願望が叶ったのだ。嬉しい、はずなのに。
(どうしたんだよ。喜べよ、俺)
そう言い聞かせても、俺は、笑い方を忘れたかのように、ただその光景を見ていることしかできなかった。
「……」
辺りには異臭が立ち込めている。それがなんの臭いなのかは意識的に考えないようにしながらも、俺は知らず知らず、自分の家へと走り出していた。
そして――その最中、踏みつけた何かに、思わず足を止めた。
「あ……」
腕。踏みつけたのは、人の腕だった。肩の辺りから千切れていて、体の方は見当たらない。
「ああ……」
ずたぼろになったその手に握られているピンクの携帯電話には、見覚えがあった。その腕に残っていた、空色の袖には、見覚えがあった。
「ハスナ……」
思わず全身が震え出すのを感じる。
『見て見て! これ、明日着ていくの! どう? 似合ってるでしょ!』
昨日の、自慢げな声と姿が蘇る――それは、妹、ハスナ・ロートの腕だった。
「うああああああッ!!!」
俺は思わず地に両拳を叩きつけ、叫んでいた。両拳が激しく痛んだが、そんな痛みなど胸の痛みに比べれば数千倍マシだと思った。
大切な人を失った、という実感――否、これまでに踏みつけ、目を逸らしてきたいくつもの屍や人体の残骸の中、あるいはこれから目にする屍の山の中にきっと父さんや母さんの姿もあるのだろう。
ふらりと立ち上がった俺は、
「……」
なにかに誘われるように、この町の中心――俺の学校のあった場所へと向かっていた。
「あはっ――あはははっ!」
生者の気配のない町の中、響き渡るその笑い声の異常さに、俺の心臓は跳ね上がった。女の声だ。幻聴か、とも思ったが、見ると、町の中心――祭りのために開放されていた高校の運動場で、舞踏会に出るかのようなドレスに身を包んだ金髪の女性が、狂ったように笑っていた。
ゾッ、と寒気が走る。逃げなきゃ、と思った。
そのとき、瓦礫の山の頂上、女性は足元から何か――百七十センチほどの何かを拾い上げた。
「さて、残りは君だけだよ」
女性が愉しそうに言う。
「あ……が……」
呻き声を上げながら、ぴくり、と動くそれは――
(……ロック!)
俺の親友だった男、ロック・センドウだった。