8.にんげんはかんちがいにきづいたようだ。
俺の前に出たハルカは、ぺたりと座り込んだまま震える退魔師――ミヅキの眼前に立ち、見下ろす。
「わ、私を……どうする気?」
ミヅキは恐る恐る、口にした。震えながらも懸命に強気を装い、俺たちを睨むその様子は、どこか健気だった。
「どう、って……」
俺は苦笑したが、ミヅキにはそれが悪魔の笑みのようにでも見えたのだろうか、
「ご……拷問や辱しめをされるぐらいなら、私は死を選ぶっ!」
なにかを勘違いしている様子で叫び出したので、
「待て待て、落ち着け、早まるな、早まるなって。別に危害を加えるつもりはないから」
そう伝えるも、ミヅキは耳を貸す様子もなく、今にも涙が溢れそうな目でこちらを鋭く睨んできた。
おまけに、
「レン、ちょっと黙ってて」
ハルカにまでため息混じりに言われてしまったので、俺は閉口し、頭を掻く。
「それで、退魔師がどうして私たちに攻撃を?」
ハルカはミヅキに、静かに問いかけた。優しい声ではなかったが、かといって怒りの感情もない、淡々とした声だった。
「どうしてって……アヤカシは人に仇なす存在で、私たちの敵で……なんでそんなこと聞くの?」
ハルカを見上げ、睨み付けながらミヅキはそう答える。
それを聞いた瞬間、俺とハルカはきょとんとして、顔を見合わせた。沈黙は数秒、
「え? じゃあ、俺たちをアヤカシだと勘違いしたってことなのか……?」
俺は思わずそう口にしていた。
「え? あなたたち、人間じゃなくてアヤカシでしょ」
ミヅキは騙されまいと、口調を強くしていたが、その様子が彼女の誤解をありありと示していた。
「……」
俺たちは再び顔を見合わせた。
「あなた……死神って知ってる?」
ハルカはつとめて淡々と問う。
「死神……? 名前からしていかにも悪質そうなアヤカシ! そんなのが実在するの?」
ミヅキが「悪質」と口にした瞬間、ハルカが明らかに眉を潜めた。それを見ていた俺は笑い出しそうになったが、我慢する。俺はともかく、ハルカは本当に殺されかけたのだ。ここで笑えば「無神経」という言葉と共に拳骨を落とされるのは目に見えていた――
「悪質……ぷぷぷ」
そう、目に見えていたのに、俺は結局我慢できず笑ってしまい、
「レン、あなたってほんとに無神経」
「でっ」
予想通りの言葉とともに拳骨を落とされたのだった。
「それにしても……ここまで知識のない退魔師がいるなんて」
ハルカは右手を額にあて、わざとらしいため息を吐いた。ちらり、と俺の方を見てもう一度ため息を吐いたその様子は、いかにも「こっちもこっちで無神経だし」とでも言いたげだった。
不満げにハルカを見上げているミヅキに、
「いい? 私たち『死神』は死者の魂をちゃんと死者の世界に送るために存在してるの。アヤカシとは違う存在なのよ。私たちはあなたの敵じゃないし、アヤカシが私たちの敵という点でも共通してる」
ハルカは淡々と説明した。
「え……? でも、ヤンマがあいつらは間違いなくアヤカシだ、って……」
ミヅキが言って、さっきからやけに静かになっていた槍――ヤンマを指したので、俺たちもそちらを見る。
人間には魂を察知する能力はほとんどないが、アヤカシの多くは強弱こそあれ、魂を察知する能力を持っている。つまりミヅキは、魂の察知をこの「ツクモガミ」、ヤンマに任せていたのだろう。
「お、俺がわかるのはうまそうな魂かそうでないかだけで……」
訊いてもいないのに急に弁解を始めたヤンマの声はどこか上ずっている。その瞬間、今回の元凶がはっきりした。
「なぁ、ミヅキって言ったか? この槍、折ってもいいかな? こいつの魂は死者の世界に送ってもらうから」
俺は足元の槍を拾い上げ、両手で持つ。
「わあああ! やめろ! やめろ! 俺が悪かったっての! すまねえ! すまねえよおおおお!」
謝罪する槍の絶叫が想像以上にうるさかったので、俺はぽいと後ろに放り投げた。槍は俺の後方、砂浜の百メートルほど離れた場所に突き刺さり、それきり、また静かになった。
「さて。君がまだ俺たちに用がある、って言うなら付き合うけど。俺たちは君にもう用はないよ」
言いながら、確認の意を込めてハルカにアイコンタクトを送る。ハルカの方ももうミヅキに用はないようで、どこか不機嫌そうに小さく頷いていた。
ミヅキは少しきょとんとして、
「え……? 用、っていうか……いや、こっちも特にない、けど……」
戸惑いながらそう答えた。
それを確認するや否や、
「レン、行きましょ。勉強だけはちゃんとしておいた方がいいわよ、退魔師」
俺のシャツを引っ張り、ハルカは歩き出す。俺も引っ張られるままに歩き出しながら、
「まあ、せいぜいアヤカシには気を付けて」
振り返り、砂浜に座り込んだまま呆然としているミヅキにそう告げた。
「……」
俺はすでに自分の力で歩いているにも関わらず、ハルカは無言のまま俺のシャツを引っ張り続けていた。
「やけに冷たい口調だったけど、なにか退魔師に恨みでもあるのか?」
ふと、疑問を投げかけてみる。ハルカの口調が淡々としているのはいつものことだが、今回はいつもとは違う、どこか冷たさに似たものを感じた。特に、ミヅキに「退魔師」と呼びかける時はそれが顕著だった。
「……嫌いな奴を思い出すのよ、退魔師ってだけで」
俺の知らないハルカの過去に何があったのか。振り向きもせず俺の前を歩くハルカから窺い知ることはできなかった。
「それに、私たちの仕事はたとえアヤカシであろうと全ての魂を死者の世界に送ること。魂を喰わせてしまう退魔師が好きになれないのは当然でしょ?」
「まぁ、確かに」
俺は肩をすくめながら、ちらり、と自分の服を見る。相変わらず、ハルカは俺の服を引っ張っていた。
これがハルカの癖だということはこれまでの付き合いで理解していた。ハルカが怖い思いをしたあとや、不機嫌なときにはこうして俺に間接的に触れてくるのだ。
(素直に俺の手を握ってくれればいいのに)
そう思ったが、さすがにこの場で三発目の拳骨をもらうわけにはいかないので、口には出さなかった。
ふと空を見上げる。空の端には紫色と紺色の光のグラデーションがあったが、空はすっかり闇色になり、さまざまな色の星がちかちかと瞬き始めていた。
「この街も、星が綺麗に見えるな」
何気なく、そう口にした。
「……そうね」
そう口にしたハルカの声色に、嬉しさは感じられなかった。
(どうしたものかな)
頭を掻いた、その時だった。
(……歌?)
微かに、歌声が聞こえてきた。女の声だ。初めはハルカがまた何か歌っているのかと思ったが、よくよく聞いてみると音の方向が違う。
その歌は海の方から聞こえてきていた。
「ハルカ。この歌、何だろう」
「……歌?」
ハルカは怪訝そうに首をかしげていた。どうやらハルカには聞こえていないようだった。
俺は、鬼の聴覚が人間や死神よりも格段に優れている、とハルカに聞かされたときのことを思い出した。その鬼の聴覚でさえもこの歌が微かにしか聞こえないのだから、ハルカには聞こえないのも、無理はない。
(澄んだ、綺麗な声だ)
けれどその声はどこか物悲しく――微かにしか聞こえないため余計にそう感じるのかもしれない――、しかし俺は心惹かれるものを感じていた。
知らず知らず、歩きながらも耳に神経を集中させ、その歌に聴き入ってしまう。
――ふと、頭の中に光景が浮かんだ。
それはかつての、なんでもないような、幸せな日々だった。