4.しにがみはガイドブックにむちゅうだ。
たまに同じような夢を見ることがある。
母がいて、父がいて、妹がいて、気になるあの子がいて、友達がいて、先生がいて――そんな、かつての何気ない日常の続き。
今でこそ、そんな日々、退屈にさえ感じられたあの日々がいかに幸せだったかがはっきりとわかる。
友達とバカをやって、家族で夕飯食べて、授業を受けて――そんな、何でもないようなありふれた日常。
けれど、その夢の中にハルカは決して現れない。
やがてハルカがいない、ということに気づき、
「あれ、ハルカは?」
と、呟いたところでいつも俺は全てを思い出してしまう。ついさっきまでおしゃべりしていた町のみんなはいつしか無惨な死骸になっていて、屍の中を泣きそうになりながら歩く俺だけがいて――いつもそうして目を覚ますのだった。
その晩も同じ夢で目を覚ました。窓の外はまだ真っ暗だ。
「……ハルカ」
ベッドの隣の寝顔を見て、ため息を吐いた。
昨日もあんなことがあったからだろうか、静かに寝息を立てるハルカがなおさら愛しく見える。気になることはいくつかあるが、何事もなくてよかった――
ハルカの髪を撫でようとして伸ばした手は、
「……」
けれど躊躇するように宙を漂って、そのまま、俺のもとへと帰ってきた。今のハルカには、触れてはいけないような気がした。
「……」
少しの間、ハルカの寝顔を眺めてみる。
その寝顔に浮かぶ平穏が、かつての日常の中で見てきたいくつもの人間の姿と重なって見えた。
守れなかった、自分だけが今、この体で生きている――きっと、あの人たちも本当ならこんな寝顔で今日も眠ることができていたはずなのに。なのに……
そんな、何にもならないようなことを考えたあと、
『何より、ハルカさん……あなたはいずれ私たちの元へ来たくなるはずですから』
老紳士の姿をしたアヤカシが口にしていた言葉がふいに甦った。
夜という時間のせいだろうか、それとも先ほど夢に見た光景のせいか、俺は不安になる。
(お前も、どこかへ行ってしまうのか?)
そんなことさえ考えてしまって、寝ているハルカを抱き締めたくさえなる。
けれど、思い止まった。
(――これじゃ、依存してるだけだな)
再びため息をつき、自嘲の笑みを浮かべると、目を閉じた。
翌日。宿を出た俺とハルカは、次のアヤカシを討伐すべく、海辺の街を目指して列車に揺られていた。
俺の左側にぴったりと座り、ハルカは真剣にガイドブックを読み込んでいる。ちらりとそのページを覗き込むと、「マリンスポーツを満喫しよう!」というページだった。
思わず笑ってしまったが、列車の音に掻き消されたためか、ハルカは気づかず、真剣にガイドブックとにらめっこを続けていた。
そんなハルカをしばらく見つめて、
「……俺、海に行くのは初めてなんだ」
独り言のように言った。
ハルカはそう、と呟いて顔を上げ、
「でも、遊びに行くわけじゃないから」
と、忠告する。
「説得力ないよ」
俺はガイドブックの写真の一つ、水上スキーを楽しむ女性を指差した。
「わっ、ちょっ、覗かないで!」
ハルカは叫びながらガイドブックを閉じ(ご丁寧に俺の指を挟みながら)、それから、周囲の乗客の視線を集めてしまっていることに気づき、赤面して俯いた。
その様子に、思わず笑ってしまう。だが、
(ほんと、こうして見るとただの人間にしか見えないのに……)
そう思うと、次第に自分の顔から笑みが消えていくのを感じた。
黒いセーラー服を着たこの少女は、ほかの乗客にはきっと旅行にでも来た女学生のように見えていることだろう。
しかし、その存在の本質は人間とは全く異なる。アヤカシの討伐という使命を追った、「死神」だ。
少し遊ぶくらいいいんじゃないか、とも思ったが口には出さなかった。口に出したとしても、また、「遊びにいくわけじゃない」と同じ言葉を繰り返されていただろう。
ハルカを見ると、また真剣な表情でガイドブックとにらめっこを始めている。
ため息混じりに、窓の向こうに視線を移した。
色とりどりの屋根の家、その向こうに、キラキラと光るもの――初めて見る、海があった。その美しさに思わず息を呑む。青い空と地上との境目で、二つを繋ぐ光の帯のようにそこにある海。その大きさは想像通りだったが、海がこんなにも輝くものだとは知らなかった。
俺が初めて見る海に感激していたそのとき、体ががくん、と引っ張られた。列車が速度を落とし始めたのだ。駅に停車するようで、風景は瞬く間に駅の壁に遮られてしまった。降りる駅はまだ先だ。電車がこの駅を出ればまた海が眺められるだろう。
することのなくなった俺は、乗り降りする人々とハルカを交互に見つめていた。
ハルカは相変わらずガイドブックを食い入るように見詰めていたが、
「!」
突然、驚いたように顔を上げた。
「……!?」
何かを感じ取ったらしいその様子から、アヤカシが来たのを感知したのかと思ったが――
「死神が来る」
ぽつり、ハルカが呟いたのは予想と違う言葉だった。
「え? 死神?」
俺が反芻したその時にはすでに、
「むむ? お主、ハルカではないか?」
できれば近寄りたくないようなファッションの少女が右斜め前方に立っていた。きっとこの少女がハルカの感じ取った「死神」なのだろう。
金髪で、耳にはピアスがいくつもついている。豊満な胸の谷間が見えるように胸元が大きく開いた黒のロングワンピース。その左の袖は半袖だが、右の袖は肩口から千切り取られたかのようにすっかりなく、代わりに右腕にはこれでもかとばかりに銀色のアクセサリーがつけられている。ワンピースのスカート部分左側には大きくスリットが入っていて、悪魔みたいだ、と思った。
(いや、でも一般の人からすれば悪魔も死神も似たようなものだし、ハルカに比べればある意味で死神らしい格好をしているのかも――?)
俺はハルカ以外の死神を見るのも初めてだった。ハルカは控えめな胸の普通の女学生にしか見えないが、ハルカ以外の死神というのは、案外こういう奇抜な格好をしているのかもしれない――と思って、ハルカの様子を窺ったところ、明らかに苦い表情をしていた。
「久しぶりではないか。十五年ぶりぐらいか。お主、変わらぬのう。昔からそのセーラー服。お気に入りなのか?」
この派手な見た目の死神、見た目のわりには口調が古くさい。ハルカとの間に挟まれて聞いていた俺はそれだけで目が回りそうになった。
(……十五年ぶり?)
その言葉を自分の中で反復し、ハルカは何歳なんだろう、とふと思ったが、訊かないことにした。きっと人間の年齢の概念じゃ掴めないのだろうし、訊いても何にもならない。
と、その時、派手な見た目のその死神が俺に気づいたらしく、
「む。お主、人間でもなければ死神でもアヤカシでもないな――何者じゃ?」
身を屈め、俺の顔を覗き込む。
その死神に、俺は目を奪われていた。無論、間近にあるばっちりメイクの顔ではなく、大きく開いた胸元の方である。
俺は顔がにやけるのを抑えるため、ダンディな顔をしたが、その瞬間、俺の頭にハルカの拳骨が落ち、
「でっ」
舌を噛んだ。
「みっともない」
ハルカはつんとそっぽを向いてしまう。どうやらハルカには俺の汚れきった心がすっかりお見通しだったらしい。
派手な見た目の死神はきょとんとして一連の流れを見ていた。
俺は咳払いをすると、死神の質問に答える。
「俺は『鬼』だよ」
「オニ……オニというとあれじゃな? 昔話などに出てくる、力持ちじゃがパンツ一丁の変態」
「いやいや、変態じゃなくて……」
そのめちゃくちゃな解釈を否定しようとしたが、
「あ……」
昨日の自分の姿を思い出し、黙り込む。昨夜、ハルカを助けるために駆けつけた時の俺は間違いなく「力持ちだけどパンツ一丁の変態」だった――ハルカがわざとらしくため息をつくのが聞こえた。
「初めましてじゃな、変態さん。わしのことはペルちゃん、と呼んでくれ」
ペルちゃんと名乗ったその派手な見た目の死神は、ウインクをした――つもりなのだろうが、両目を瞑ってしまっている。下手なのか。
「俺はレン・ロート。変態じゃないぞ」
「うむ。変……レンか。いい名じゃ」
悪意の見える言い間違いをしながら、ペルちゃんは俺の右側に座った。
ハルカはまた不機嫌そうにため息をつくと、またガイドブックを開いた。
初めての海は荒れそうだ、と思った。