3.しかばねはふろにはいっているようだ。
「私は『鎌鼬』のシロウ・シクハラ。あなたをお迎えに上がりました」
シロウと名乗った老紳士は帽子を脱ぎ、再び頭を下げた。芝居でよく見るようなその仕草は老紳士の風貌によく似合っていた。
(鎌鼬……)
ハルカはふいに、かつてレンとともに戦った「鎌鼬」を思い出す。そういえばあれも鎌鼬と名乗っていたが、年端もいかぬ少女の姿をしていた。その姿を見たレンが躊躇してしまい、余計に苦戦することとなったのは忘れるはずがない。
アヤカシはみながみな異形の姿をしているわけではなかった。このように人の姿をして人の世に溶け込む者も珍しくないのだ。
「――迎えに?」
ハルカはただ、淡々と問う。手が微かに震えているのを悟られないよう、窓の横の壁にもたれ、背に隠した。脇の窓から見えた星は相変わらず、そしらぬ顔できらきらと輝いていた。
「ええ、上からの命令でして」
老紳士は微笑む。その姿は人間から見ればただの優しそうな老人にしか見えないのだろう。
だが、その実――それは人の心を持たず人の魂を食らう、死者のなれの果て、アヤカシなのだ。
(上……? アヤカシにも組織があるというの?)
そんなことは聞いたことがなかった。だが、そのことを深く気に留めている余裕もない。
ずっとハルカの心を支配しようとしていた恐怖は、時を経るごとに増大していく。叫びだしたくなる気持ちを圧し殺していた。人が多いこの宿で叫んだりしたら、人が集まってきてしまう。そうなれば、結果として、大勢を危険に巻き込んでしまいかねない。
ハルカはシロウに気づかれないよう、僅かに歯噛みした。
シロウは笑顔で歩み寄ってくる。
「殺しはしませんよ。ただ、どうしても従わないと言うなら……」
シロウは変わらず微笑みながら、ハルカへと手を伸ばす。それは、どこか少女へと救いの手を差しのべる仕草に似ていて、けれどその行為は、ハルカにとっては真逆のものでしかなかった。
「……っ」
震えそうになる全身を抑えつけながら、ハルカは逃げるでもなく、迫り来る手をただ淡々と睨んでいた。その手の奥には老紳士の優しげな微笑みが見える。その微笑みの仮面の下に、どんな感情が潜んでいるのかは計り知れない。
そして、その手がハルカに触れようとしたそのとき――ハルカはぽつり、
「遅い」
と、不機嫌そうに呟いた。
「!」
シロウの手首を、別の手が掴んでいた。
「悪い、考え事をしてて」
そう口にしたのは、パンツ一丁でシロウの手首を掴む少年、レン・ロートだった。
「よう、紳士なら女の子の部屋に無断で入るもんじゃないぜ、変質者」
俺は老紳士に言い、笑みを浮かべた。それが人間ではなくアヤカシだ、というのは雰囲気とハルカの表情を見ればわかった。
「紳士ならそのような格好で女性の前には出ないものですが?」
老紳士は微笑みを崩さず、言う。人をバカにしたような笑顔だ、と思いながらも、
「そのような格好?」
自分の姿に目をやって、
「うわっ! 服忘れた!」
自分が服を着忘れて出てきたことに気づき、赤面する。鬼の体だと感覚が鈍って、違和感にさえ気づかないことがある。今回のものはまさにそれだった。
「あなた、人間だった頃、モテなかったでしょ」
そう呟いたハルカがため息をつくのがわかった。
「……」
図星だった。
ハルカを助けるために颯爽と参上して、きまった、と思ったらこれである。
「あああ、もうッ!」
俺は老紳士の手首をひねろうとしたが、どういうわけかその直前、老紳士の手首は俺の手をするりと抜けていた。
「レン気をつけて、そいつは鎌鼬よ」
ハルカがどこか淡々と告げるが、
「……言うのが遅いよ」
老紳士の手首を掴んでいた右手の指はすっかりズタボロにされていた。ぼとり、と親指が床に落ちる。他の指も皮一枚で繋がっているような状態で、使い物にはならないだろう。
「あーあ……」
俺は苦笑した。
鬼の体というのはこういうときに便利で、あまり痛みもないし、損傷してもすぐに治るということがわかっているから、多少雑な戦い方をしてもアヤカシを倒せるのだ。
(……でも、どうやって切られたんだろう)
「鎌鼬」と呼ばれるアヤカシは目にも留まらぬ速さで対象物を切り裂くという。その速さゆえに、どのような手段を用いて切り裂いているのか、誰も知らないのだそうだ。
人間の比ではない動体視力を持つ鬼の目、それをもってしても老紳士が攻撃したところが全く見えなかった。
以前別の鎌鼬と戦ったときも、どうにか勝てはしたものの、結局どんな攻撃を仕掛けてきていたのかはわからずじまいだったな、と思い出す。
「さて、どう戦うかなぁ」
ぺろり、と手から流れる疑似血液を舐め取る。ほんの少し体が熱くなり、気分が高揚するのがわかった。
「レン、ここじゃダメ」
ハルカが忠告する。
「ああ、わかってる」
ここは人が多すぎる。力を使えば、俺の攻撃で人間を巻き込みかねなかった。どうやって外に誘い出すか――それを考え始めたそのとき、
「これが噂に聞く『鬼』ですか……老体で無理はしたくないものです……。挨拶も済みましたし、『鬼』にお目にかかれたということで、今日のところは引き上げるとしましょう」
老紳士が相変わらずの微笑とともに、独り言のようにそう口にした。
「またいずれお目にかかることになるでしょう、お二方。特に、ハルカさん……あなたはいずれ、私たちのもとへ来たくなるはずですから」
老紳士が帽子を脱いで頭を下げたかと思うと、空気に溶け込むように姿を消してしまった。
「っ……待て!」
捕まえようと左手を伸ばしたが、虚空を掴んだだけだった。
「ハルカ!」
俺は背後のハルカに振り返るが、ハルカは首を横に振り、
「ダメ、この辺りからは消えてる」
「っ……、そうか」
周囲にある魂を全て把握できるハルカにそう言われては仕方がない。歯噛みしながら、ハルカの知覚範囲外であの老紳士が人の魂を食い漁っていないことを祈るしかなかった。
「……あのアヤカシ、私のことを知っていたみたい。『お迎えに上がりました』と、言っていたけれど」
ハルカが呟く。
「……何者だったんだろう」
俺もそう口にした。
『何より、ハルカさん……あなたはいずれ私たちの元へ来たくなるはずですから』
老紳士の最後に残した言葉がふいに思い出される。そういえば、「いずれ私たちの元へ来たくなるはず」というのは、どういう理由なのだろうか――
考えようとしたそのとき、とん、と俺の背に何かが触れた。
「えっ」
「……ばか。のんびり風呂なんか入ってんじゃないわよ」
そこで、ハルカが背中合わせで俺の背にもたれかかっているのだ、ということをようやく理解した。
触れあうハルカは、微かに震えている。
さっきまでずっと淡々とした口調を貫いていたハルカだったが、その口調がハルカの強がりだということを俺は知っている。
いつでも、ハルカは「助けて」と叫んだりはしない。どんな相手でも、俺がいないときでも、冷静なフリをする。そのせいで何度もハルカは危険な目に遭ってきていた。その点については何度も忠告している。
だが、
「ごめん」
またハルカに無理をさせてしまったのは、俺に責任がある。そっと、背中に触れる体温に謝った。
「――今度からは一緒に風呂に入ろう」
直後、俺の頭に拳骨が落ちた。