2.しかばねはなやんでいるようだ。
ハルカは死神だ。
死神と言うと恐ろしいものを思い浮かべるかもしれないが、生者をむやみやたらに殺したりはしない。来るべき時に魂を死者の世界へと案内するのがその仕事である。
けれど、もしも死神が来るべき時に魂を案内できなかったら――魂がこの世界に残り続けたら、どうなるか。
すると魂そのものが新たに肉体を生成するようになる。ただし、肉体を生成するためには魂単体の持つエネルギーだけでは足りない。そこで――死者の世界へ行くはずだった魂は周囲にある魂を食らっていく。そうして生まれるのが先程の蛇のような「アヤカシ」である。
「あの『大蛇』の魂、綺麗だったな」
星を眺めながら、宿の窓辺でコーヒーを口にする。真っ黒なコーヒー。苦いが、自分に酔うにはこれぐらいの苦味があった方がいい。
「それに比べて――この前の『雪女』の魂、あれはどす黒かった」
と、湯気を上げるコーヒーの鏡面を見詰める。そう、あの魂はちょうどこのコーヒーのようにどす黒かった。
じっ、とコーヒーの黒い淀みの向こうに、俺を見つめる、もう一人の俺が見えた。
――よう、兄弟。そっちから見る景色はどうだい。
そう問いかけたのはどちらの俺だったろう?
「綺麗ね」
星空を見て、ハルカが呟いた。
「そうだな」
俺はまたコーヒーを口に含んだ。
「……死神を殺したり、人を大勢殺したりした魂は黒く染まる、って話はもうしたわね?」
ハルカはふいにそんなことを口にし、こちらを向く。
「ああ、聞いたよ」
コーヒーを見つめ、思い返す。黒ずみ始めた魂を初めて見た日の晩、ちょうど今と同じように話してくれたのを覚えている。たしか、「鎌鼬」を倒したときだったか。あのときは苦戦した記憶がある。
「最近はあの蛇みたいに透明な魂のアヤカシが増えていると報告されているの」
そう言いながらハルカは、一度俺に背を向けたあと、またこちらを向いてベッドの上に腰かけた。
「それって悪質な魂が少ないってことだろ? 黒い魂ばっかりよりマシなんじゃないか?」
俺がそう言うや、ハルカは顔をしかめ、わざとらしくため息をついた。
「はぁ……レン、あなた、脳ミソを元の体に置き去りにしてきたの?」
そう言われて少しムッとするのを、コーヒーと一緒に呑み下す。
「いい? 考えてみて。
透明な魂が多いということは、最近アヤカシになったばかりの魂が増えているということなの」
俺はカップを置き、ハルカの言葉を反芻する。
最近アヤカシになったばかり……つまり、死神に案内されなかった魂が増えている――では、死神はなぜその魂の案内をしなかったのだろう。
拳を口許に添えて思考する。
死神の間でサボりが定着した、なんてバカみたいな理由ではないと信じたい――もしその希望的観測が許されるなら、考えられることは一つだった。
「……最近、何らかの原因で死神が死ぬことが増えている?」
――殺されている、という言葉が同時に脳裏をよぎったが、決めつけるには早すぎる、と思った。
ハルカが頷き、
「そういうことよ」
と、目を伏せた。
「でも、どうしてそんな……」
言いながら、ふとコーヒーの鏡面に目を落とすと、そこに映る自分と再び目が合った。
「……死神は簡単には死なない。それこそ――
誰かが殺そうとしない限り、ね」
そう言ったハルカの瞳は何かをにらんでいるように見えた。しかしその視線の先を見ると、星空しかない。
「誰かが……殺そうと」
ハルカの言葉を復唱しながら、寒気が走る。誰が、何を企み、何を求めて死神を殺しているのだろう。
思索に耽りながらコーヒーを口にしようとして、俺はカップを取り落とした。
「あっ」
コーヒーがズボンにぶちまけられ、カップは床で無惨にも砕け散った。
「……」
やはり、まだ思うように体は動かない。かかったコーヒーは熱いとも感じなかった。
自分はすっかり化け物になってしまった――それが自分で選んだ道とは知っていても、やはりどこか虚しくて、寂しく感じた。
「あーあ、何してるの」
ハルカのあきれ声が聞こえる。
「……風呂入ってくるよ」
言いながら、俺は割れたカップをビニール袋に詰めた。カーペットにできたコーヒーの染みは、まるでこちらを見ている眼球のように見えた。
ふと、浴槽に沈む自分の体を眺める。
死ぬ前にも毎日こうして浴室で見てきた自分の体。見た目は全く変わらないのに、いや、変わらないからこそだろうか、本当は違うものだということが心に重くのしかかってきた。
「……」
これは自分の選んだ結果なのだ――何度そう言い聞かせても納得できない自分に、腹さえ立ってくる。
「はぁ……」
行き場のない感情を自分の外へ出すかのように、ため息を吐いた。
揺らぐ水面には自分の顔が映り込んでいた。
「なぁ……俺は本当にこれでよかったのか?」
向こうの自分に問いかけた一言は、湯船の波音にかき消されてしまう。
――こんな体になって、それでも再び生きることを選んだのはどうしてだっけ。
そう考え始めてふと脳裏を過ったのは、初めて出会った時のハルカの姿だった。
どんな表情をしていたのかははっきりと思い出せない。だが少なくとも、笑っても泣いてもいなかったのは確かだった。
ハルカは見るからに不機嫌そうな表情を浮かべ、
「まったく、もう。なんで私がこんなことを」
呟きながら、雑巾でカーペットのシミを落とそうとこすったり、叩いたりしている。
「はぁ……」
ため息を吐き、目を伏せた。
先ほどカップの破片を拾い終わり、立ち上がったレンの表情が暗かったのには気付いていた。そしてそれが何故なのかも知っていた。
(レンの気持ちが分からないわけじゃない。私は死神だけど、人の心を知らないような鬼でも悪魔でもないのよ)
心のなかでそう呟いて、
「鬼……」
その呟きの中の単語に自分で引っかかる。
「『鬼』、ですか?」
死神の上官である青年――マンジュから手渡された書類。それには、「アヤカシ討伐サポートシステム『鬼』」と書かれていた。
「ああ、そうだよ。これまでは対アヤカシ戦闘に特化した訓練を受けた死神だけがアヤカシ討伐を行っていたけれど、近頃は人員不足が激しくてね。
かといって経験の浅い者を単独で送り込むわけにもいかない。死神が死ねば、それだけ迷う魂も増えるということだからね」
僕らの仕事も少しは楽になりそうだ、なんて笑いながら、マンジュは自分の赤髪を撫でる。整った風貌にその仕草はとても似合っていた。
「『アヤカシが他の魂を食らうことで自分の肉体を自分で構成するのに対し、「鬼」は我々死神が作り上げた最強の肉体に死者の魂を定着させたものである』……」
ふと目についた一文を読み上げ、
(……その体は何をもとにして作られているんだろう?)
そう思って書類を何度かめくるが、それらしい記述はない。
その疑問を口にすることはなかった。なんとなく、訊いてはいけないような気がした。
「鬼……」
自分によって「鬼」となったレン。
(自分のせいで、かもしれない)
選んだのは彼自身だ、と思えれば楽になるのだろう。
でも――
「本当にこれでよかったの?」
呟き、ふと上げた目には星空が映る。
「……綺麗な星空」
何もかもどうでもいいように思えてしまうほどに。そして、逃げてしまえば楽だよと言い聞かせてくるようで、腹が立つほどに。
「本当に、腹が立つ――感傷に浸る女の子の邪魔をするなんて」
呟き、ハルカが振り向く。
「何か用かしら?」
そこに立っていたのは、一人の老紳士だった。
「おや……気づかれていましたか。死神は周囲の魂を全て把握することができると言いますが、本当だったようですね。
これはとんだご無礼を」
老紳士はぺこり、と頭を下げる。その老紳士は、けれど人間ではなく――アヤカシだった。
そう、死神には周囲の魂をすべて把握する能力がある。だから、アヤカシが近くにいれば、すぐに気づくことができるのだ。普通ならば、戦闘の不得手なハルカのような死神は、アヤカシに接近される前に逃げるものなのだが――
「それで? アヤカシが私に何の用?」
平静を装うハルカだったが、
(のんきに風呂なんか入ってないで早く来て、レン……!)
焦りを表に出さないよう、ポーカーフェイスに努めているだけだった。
不敵な笑みを浮かべる老紳士を淡々と睨むことだけが、今のハルカにできる最大の牽制だった。