1.ただのしかばねになったらしい。
「ただのしかばねのようだ」
そう言われた俺はどうやらその通り、死んでしまったらしい。
やけにあっさりと終わってしまったものだなぁ、と寂しくなる。その日もいつものように布団に入って、いつものように明日が来ると思っていたのに――人生の終わりはそりゃもうこっちの気持ちや考えなんかお構いなしに、唐突にやってきた。
彼女を作って、仕事を持って、家庭を持って、当たり前のように老いて、老いたら死ぬ。そんな人生を俺も送るのだと思っていた。なのに――
どうも、思い通りにいかないのが人生というものらしい。
「どうしたの?」
苦笑した俺に、セーラー服姿の少女――ハルカが振り返って問う。
彼女の黒い髪がふわりと舞い、木漏れ日を反射して輝く。艶やかな瞳がこちらを向き、桃色の唇は甘く開いていた。僅かに翻ったスカートは、風に舞う髪と相まって天使の翼か何かのようにも見えた。
「いや――なんでもないよ。今日の晩飯に何を選ぼうか、考えていただけだ」
『あなたには選ぶ権利をあげる。このまま天国で死者の生活を満喫するか、それとも――私のために戦うか』
初めて出会ったときの彼女の言葉は今でも覚えている。そしてその言葉があったから今の俺の体があるのだ。
ぐー、ぱー。手を握って、広げる。母からもらったのではない、第二の体。見た目はほとんど変わらないが、感覚は全然違う。
ハルカ曰く、
「いくらあなたのカタチに似せてあっても本質が違う。全くの別物なのよ」
とのこと。
とはいえ、この体にもずいぶん慣れてきた。初期は歩こうとしても全然違う方向に突っ込んでしまうほどに不自由だった。箸はまだうまく使えないし字も歪むが、それはこれからどうとでもなるだろう。
「そろそろ近い」
ハルカが呟くように言った――直後、俺たちの横で、木々が薙ぎ倒される音がしたかと思うと、少し離れたところで巨大な蛇が鎌首をもたげ、姿を現した。
高木をゆうに超えたところに頭を出したその化け物は、すでにこちらの存在に感づいていたらしい。俺たちのいる辺りを見回して、すぐにこちらの姿を捉えたようで、目が合った。
「お出ましか」
自然、俺の口許が緩む。こんな化け物を相手にこんな不敵な笑みが浮かべられるようになるなど、一度死ぬ前の自分では想像もできなかった。
「なぁハルカ、晩御飯思い付いたんだけど」
ハルカの体の前に腕を差し出しつつ、前へと歩み出る。
「なに?」
ハルカは俺の後ろに退きながら、問い返す。
「蒲焼きなんかどうだ?」
背中越しにした提案は、
「却下」
と、にべもなく切り捨てられてしまった。
そんなやりとりのあとで、
「ほう……!」
轟くような声で言ったのは、紛れもなく今目の前にいるあの大蛇だった。
「若い男が一人に……娘が一人かァ! ハハハ! 娘ってのは人間の中でも特に旨いィ! 口のなかでとろけて、甘い脂が広がるゥゥゥゥ!」
チロチロと揺れる舌でどうやって器用に発音しているのか、科学的には気になるところだが、今はそんなことに気を留めている場合ではなかった。
「声がデケェよ! テメェの性癖だか好みだかの話に興味なんかねぇ! 耳がビリビリする!」
俺は耳を押さえ。怒鳴り返した。
その声が届いたか、届かなかったかはわからないが、蛇は僅かに間を置き、
「む……? この姿を見ても恐れないとは。男。お前は何者だ?」
と問いかけてくる。
俺は答える気もなかったが、
「いや、まぁいい……何ができるというわけでもあるまい。それとも――俺に何かできるのか、人間!」
言うが早いか、蛇の尾が横薙ぎに振るわれる――その動きは、見た目から想像するよりも速い。
通過する特急列車のような速度で迫ってきた、強靭な尾を受け、
「ごふッ……!」
瞬く間に俺の体は吹っ飛ばされてしまった。ハルカの横を一瞬にして通りすぎ、そのままなすすべもなく木々にぶつかってバウンド、ぼろ布のようになって地面に倒れる。
「さて、邪魔者は居なくなった。楽しいお食事と行こうじゃないか」
距離を取っていたため尾に巻き込まれることはなかったものの、蛇に睨まれる少女、ハルカ。一見すると絶望的な状況に見えるかもしれない。しかしハルカは妖しく微笑んだまま、逃げようともしなかった。
「なぜ笑っている? お前、今の生に未練がないのか? まぁいい、逃げないのなら好都合……」
蛇がそう言いかけ、大口を開けたその時、
「誰が邪魔者で――誰が居なくなったって?」
俺は地面に手をついて立ち上がった。
「何……!?」
蛇はこちらを向く。あいにく蛇の友人は持ち合わせていないのでその蛇の表情は読み取れないが、きっと今、あの蛇は驚愕しているのだろう。当然だ。蛇のさっきの尾での一撃は普通の人間なら間違いなく即死、それも全身が粉々になっていたような攻撃だった。それを受けたはずの男が、平然と立ち上がったのだから。
「ああ、さっきの質問に答えていなかった。俺に何ができるか、だったか?
――そうだな、たとえばお前の洒落た尻尾を吹っ飛ばしたり、とか」
直後、蛇の尾が四散するかのように千切れた。先ほど吹っ飛ばされる直前に、カウンターで尾にパンチを叩き込んでいたのだ。
「なっ……!?」
そんな蛇の様子を見て、俺は笑みを浮かべた。
「さて、最後の晩餐のご準備は整ったかい?」
俺は口許を伝っていた擬似血液を拭いながら、蛇に歩み寄る。蛇は動かない。否、動けないのだろう。
――「蛇に睨まれた蛙」、という言葉がふと浮かんで、皮肉だな、と笑う。
「じゃあそろそろ死んでもらうよ。あんたがどういう理由で『こうなった』かは知らないけどな」
そのまま歩いて、ハルカの横を通り過ぎようとした、まさにその時だった。
「ッ、アアアアッ!」
蛇が大口を広げて突進してきた。木々をなぎ倒し、牙を煌めかせ――その瞳にはもう何も映っていない。
「往生際が悪いわね」
ハルカが鼻で笑う。
蛇は恐怖に呑まれ、まともに思考するすべを失ったようだ。二人まとめて丸呑みにしようとでもいうのだろうか。もし俺がかわしても、ハルカは犠牲になる――それで俺を追い詰めたつもりになっているらしかった。
「とんだ食いしん坊さんだ」
俺はため息をつくと、地を蹴って跳び上がった。木々を軽々と跳び越えるほどの跳躍、臨界点で縦に一回転し、
「これでも――食らってろ!」
蛇の脳天に踵落としを叩き込む。蛇の突進の慣性力をも下方へと強引に押さえつける。
「……ッ!?」
ミシ、ミシ、と蛇の骨が軋む音は一瞬、頭蓋が砕けた。
「これで……終わりだ!」
俺は更に力を込める。轟音を上げて地面が陥没し――そして、蛇の突進が止まった。
「……ふぅ」
俺は蛇の頭から飛び降りる。
頭蓋を砕かれてなお、ぴく、ぴく、と動く蛇はまだ死んでいないのではない。「死ねない」のだ。あとは俺の仕事ではない。ハルカに視線を送った。
「……」
ハルカが無言で体の横に伸ばした右手に、身の丈ほどもある紅い柄の巨大な鎌が現れた。ハルカはそれを握ると、蛇に歩み寄ってゆく。
蛇の前で立ち止まった、と見えたのは一瞬、次の瞬間には鎌が振るわれていた。
風が木々の葉を揺らす。
蛇はすっかり動かなくなっていた。代わりに、ハルカの足元に野球ボールほどの玉が転がっている。その玉は転がりながらも、泥にまみれることもなく、その無垢さを保っていた。
ハルカの右手に握られていたはずの鎌はいつの間にかすっかり消え失せていた。ハルカは静かにしゃがみ込み、その手で玉を掬い上げた。
そっと左手を添え、玉を胸の辺りに抱えると、ハルカはその瞳を軽く閉じる。
祈る聖女のようだ、と思った。ハルカがこうしているのを何度も見ているのだが、毎回その姿の美しさにそんなことを思い浮かべてしまう。
玉はやがて眩い光を放った。光っていたのは数秒、ハルカの手が再び広げられた時には、玉そのものがハルカの手の中からすっかり消えてしまっていた。
「……お疲れ様、レン」
そう言ってハルカは俺に微笑みかける。
言うのが遅れたが、レンというのは俺の名前だ。レン・ロート。この名前とは、俺が今の体になる前からの付き合いである。
「無事に送り届けられたか?」
送り届けられたか、というのはさっきの玉……つまり、魂のことだ。
「当たり前でしょ、私を誰だと思ってるの」
ハルカは少し眉をひそめる。俺は笑いながら、
「そうだな――天使みたいな死神さん、みたいな……いでっ」
言うが早いか、俺の頭に拳骨が落ちた。
痛い、というほどの痛みは感じなかったのだが、人間だった頃の癖が抜けないせいでつい口にしてしまう。
「……最近思うの、あなたを選んだのは間違いだったんじゃないかって。今確信に変わったわ、間違いだった」
天使みたいな死神さんはため息をついた。