蒼い幻想
ガシャン。
「あぁ」
隔てられた幻想的な風景をもっと見たくて柵にしがみついた。黒洞々たる闇の中に瞬く無数の点々。赤や黄色、緑と様々でその輝きはオレンジの濁った光とは全然違う。目に映すものはみんな滲んでしまったように歪んで見えるはずはのに、その輝きだけははっきり見えていて、まるで宝石が空に散りばめられているようだった。
いや、それどころか宝石以上にその光は美しく綺麗な気がして今までにない幸福と感動があった。
それと同時に体の内からはふつふつと何か激しい衝動が沸き上がる。
俺は氷のように冷たい柵に顔の隣にあった腕を上に伸ばして足を絡め、力一杯に体を持ち上げようとした。でも身体はもう限界な訳で、つるつると滑って地面にお尻が着いてしまう。端から見たらそれは凄く滑稽な姿だろう。それでも俺は登ろうと頑張った。真っ黒で何も見えない空を見上げて何度もね。てっぺんがどこまであるのかも分からないくらい高くそびえ立つ柵をそう簡単に登ることなんてできやしないのに。
窮地に生い立った人間は何をするかわかったもんじゃない。元々の目的は見つけだしたこの風景を目に焼きつけるだけのはずだったのに、いざ見つけたとなるとココから逃げ出して日本と言う所へ行ってしまいたいという衝動に駆られる。いつの間にかそれが目的になっていて他のことを考えている余裕なんて無くなっていたから、そんな事しても無駄ということは分かりもしなかった。
「ハァ、ハァ、ハァ……………」
とうとう本当に力尽きた俺は立っていることもままならず柵を掴んだまま膝を曲げ、ズルズルと地面に脚を着けた。
ピントの合わない目で無心に遠い光を見続けた。俺にどこまでも纒りつく闇は嘲笑うかのように小さな月までもを隠す。虚しさと醜さが込み上げて目からじわじわと熱いものが染みだしてきた。そして急に世界が景色が自分が、何だか全てが可笑しくなってきて俺は笑った。
嬉しかった筈なのに、この柵が次第に憎くなってきた。もうすぐそこに未知の世界が広がっているのに行くことが出来ないなんて。目と鼻の先に欲するモノあるのに、お預けをくらっている気分だった。
嗚呼、なんでこんなイカれて腐った世界に生まれてきてしまったんだろう。高望みはしないからせめてこんな所じゃなくて体を商品にしないで生きれる場所で生きたかった。もしも日本と言うところに笑って日々を送れている人がいるのなら不平等だとしか思えない。そうだったら何で俺や皆はそこに生きることが出来なかったの?気にくわない。
この世の全ての在り方に腹が立つよ。
――――あれ、何だろう。凄く美味しそうな匂いがする。味噌汁の良い香り。
その匂いに惹かれて少しずつ重たい瞼を開ける。目の前には地面に布が敷かれ、その上に水筒のコップに入った味噌汁と大きなフランスパンか置かれていた。
その二つの組み合わせがミスマッチなのは今は全く関係ない。俺は寝ていた体を瞬時に起こして躊躇なくそれにがっついた。
味わうことなんて出来ない。食べ方だってかまってられない。今はどうでもいい。そんなこと考えている余裕がない。ここ数日何も食べていない挙げ句、ひたすら森の中を歩き続けたんだ。飢え死してもおかしくなかったと思う。
路上の生活を強いられている人達は今の俺のような喰い方をする。確かにお腹が空いているのは分かるけれども、もっと上品に食べることは出来ないのかと幾度も思っていた。でも体験してみるとそんなこと無理だと分かる。武士は食わねど高楊枝っていうけどそんな精神力を持ってる人はそうそういないだろうね。そんな人は尊敬に値する。
味わわず咀嚼もろくにせずに胃に入れたのであっという間に食べ終わってしまった。まだまだこの量じゃ足りないが食べた分計り知れない幸福感と心に余裕を得ることができた。心地いい風と温かい日差しが俺の体を優しく包む。空は明るくなっていて強烈に眩しい太陽が低い位置に浮かんで今日を告げている。食べ物にしか目がいってなかったから朝になっていることに全く気づかなかった。
あのまま寝てしまったんだな。
暗闇に姿を隠していたものが露になっている。
真っ黒な地面がただ唸りをあげて歪んでいるようにしか思えなかった海は青かった。
空の青と同じように遥か遠くまで海は続いていて同系色の平行線の境が出来ていた。
太陽の光が反射して硝子の破片が散らばったようにキラキラと海は光る。
画でしか見たことのない景色が目の前にあることに再び興奮する。
そして昨日の星屑のように瞬いていた光のあった方向に目を向けた。そこにはあの時のような光はひとつもなかったけど、縦に長い建物や変わった形をしたモニュメントが限られた領域にぎゅうぎゅうに詰まって立っていた。そのどれを取っても屋敷よりも高い建物だった。
………なんだ、あれ。
これは幻ではないのかと疑った。あんなに建物があるということは比例して沢山の人間もそこに要るということだろう。
なんだろう。
憧れだった未知の世界に何故か恐怖する自分がいる。何を怖がっているのだろうか。その大きな建物に?海に?分からない。なんだかその中に呑み込まれてしまいそうな気がして後ろを向いた。広大な青い世界に一変して窮屈な土の世界。その心地よさに安堵した。きっと沢山のものを一気に見すぎて困惑してるんだ。
腰を下ろして冷たい地面に座る。
一つ息を吐いて目を閉じた。
これからどうしようか。とりあえず目的はこれで果たした事になる。
嗚呼、帰りたくはないな。だからといって行く宛もない。でも路上生活ももう懲り懲りだし……。
これは死活問題だ。もうこの際生きるか生きまいか決断してしまおうか。いや、苦しみながら死ぬのは嫌だ。さて、どうしたものか…………。
と、なんやかんや考えているとありもしない音が森に広がった。
「おう、起きたようだな浮浪者。」
「…………!!!」
いつの間に?
俺の左の五メートルほど離れた場所で迷彩のズボンに黒のブーツを履いた大柄の男がライフル銃を構えて立っていた。マントについたフードを深く被り顔が分からない。
ライフル銃に声、服装、体型。その全てが威圧的で恐怖心を駆り立てる。破裂するのではないかと思うほど心臓が鼓動して苦しい。
俺はすぐさま逃げようと森の中に走り出した。
すると大きくて鋭い音で森が共鳴する。
「なっ!?」
右肩にジリジリと痛みが走り出した。銃弾がかすったのだ。
「逃げることは許さない。勝手に動くな。定めた的は外さない。私の指示に従え。従わなかった場合は心臓を貫く。」
その言葉に俺は軽く男の方を向いて合図した。
「さて、こちらに体を向けて荷物をおけ。」
男は挑発的な手招きをして近づくように指示をした。
俺は警戒しながらゆっくりと男の方へ歩く。
「顔に巻いている物とフードを取って顔を見せろ。」
誠は屋敷から抜け出してからは捕まらないように顔を隠して毎日過ごしていた。顔を隠している人などざらにいたので怪しまれることもなく今まで見つからずに路上生活をすることが出来たのだ。
勘太郎の件については丁度体を洗っていたりしていたので顔を隠してはいなかったが、大したことがない限りは取ることはほとんどない。
だが今が丁度大したことになっているので取らざる負えない。
鼻の上まで覆う長い襟巻きを取ってフードを下ろした。
一気に顔の温度が下がっていく。
「……………。」
男は構えているライフル銃から少し顔を離し、誠の顔をじっと見た。そして何故か銃を構えるのを辞めてしまった。
なんだろうか。
男は静かに誠に語りかける。
「…少年、イカサマ師の『シン』だな。」
「…………!」
この人、俺のことを知っている?俺は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていただろう。
男は言った。
「極楽浄土でよく目にしていたよ。君の回りには女性がよく集まって目立つからな。」
『極楽浄土』。それは誠や勘太郎が言う屋敷と同じ建造物。
屋敷に娯楽を味わうために来る人々は極楽浄土と呼ぶ。勿論海を渡って来ているのだが、海を知らない者が多かったので、その事実は屋敷の住人の中で知っているのはごくわずかだった。
公では誠は本名を使わず『シン』と言う名で知られていた。
「……貴方は何者ですか?」
「私はココから誰も逃がさないようにと配属された専門の派遣警備員だ。時々いるんだよ。飽きもせずひたすら歩き続けて此処まで来る輩がな。少年のように。」
「俺以外にも…。」
俺ははその事実に驚いた。
「ああ。一、二ヶ月に一人は必ずいる。大抵の輩は昨日の少年のように柵を登ってどうにか脱国しようとする。」
「!……気付いていたんですか。」
「私が見たのは少年が外を眺めているところからだったよ。それから意識が無くなるまでずっと見ていた。」
最悪だ。
醜態を見られていたと思うと恥ずかしくて顔が赤くなっていることが分かる。
男はライフル銃を肩に掛けた。
「俺の役目は外からのお客をお通しすること、及び脱国を試みる者を殺すことだ。いつものように有無を言わず直ぐに殺してしまおうと思ったが少年の予期せぬ行動が面白くてな、傍観することにした。私は人の醜態は一番人間らしいと思うところがある。良い趣味ではないがそういうものにそそられるんだ。だから暫く観察してから殺そうと思ってな。少年が倒れたときは力尽きて死んだかと思ってまだ夜が明けていない時に様子を見に来た。だが規則正しく寝息を立てていたので殺すタイミングを逃してしまったな。だがこの際食べ物でも置いておいたらまたそれはどんな様子で貪り食うのか興味が出てきたので飯を置いてみることにしたんだよ。」
その言い方に俺は人間扱いされている気は更々しなかった。
「そうだったんですか。嗚呼、確かに不自然ですね。」
食べ物なんて持っているはずないのに起きたら目の前に味噌汁とパンがあるなんて。考えてる余裕なんて無かったから気にも止めなかった。今にしてみれば可笑しなことだ。
そして今の話からして今俺が生きているのは可笑しいと言える。
「貴方はさっき僕に銃を向けました。何故殺すのを止めたのですか?」
問いかけた質問に男はああ。と思い出したかのように言った。
「それは簡単なことだ。お前が極楽浄土の人間だったからだ。」
俺はは怪訝な顔になる。
「極楽浄土は世間知らずのお前さん達を駒にして成り立っている場所だ。殺してしまったらそちらの幹部が困るだろうよ。私も客人の一人だ。楽しみを減らしたくない。それに少年は『藤原氏』のお気に入りの稼ぎ頭だからな。少年を殺めて私が罰を受けるのは御免だ。」
男の口元を見ると緩やかな弦を描いていた。
俺は男の言い方に少し不快感を覚える。
「ハハ、まぁいい。殺しはしないから着いてきな。たらふく飯を食わせてやる。少年の知らない事も俺の知っている限りの事を教えてやろう。知りたいだろう、青い海の向こうを。」
男の発言は俺を不快にさせるものが多かったが、『殺さない』、『飯』、『青い海の向こう』。その単語の全てが甘美なものだったために俺はなんの迷いもなくその男に着いて行くことにした。
この出会いから堕落苑は大きく揺さぶられていく――――――――。