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スリ少女と青年と

作者: 熾葉田智之

    1



「ここがエイルスか。確かに噂に聞いた通りの町だなぁ」

 チェスター・クラブレストは感心したような声を漏らした。

 駅から真っ直ぐ伸びたこの町――エイルネップ――のメインストリートは、両端に小さな店が軒を連ね、人々が行き交い、活気に満ち溢れていた。

 きょろきょろともの珍しそうに辺りを見回しながら歩いていると、彼を軽い衝撃が襲った。

「おっと」

 チェスターは歩みを止める。

 どうやら前から歩いてきた人に接触してしまったらしい。小柄な十三、四才くらいの少女が彼と同じように動きを止めていた。

「ごめんよ。よそ見してて……。大丈夫?」

 彼女はただうなずき、

「お気になさらず」

 と微笑を残し、彼とすれ違って去っていく。

 チェスターはしばらくその少女を見ていたが、やがて歩きだした。

 少女はにっと唇の端を持ち上げる。

 背を向けていたチェスターはそれには気づかなかった。

 

 少女は、その青い瞳を輝かせて、駅の近くの通りを歩いている。

「へへっ。ちょろいちょろい」

 うれしそうに革の財布をぽんぽんと宙に投げる。

「これでしばらくは金の心配はしなくて済みそうねっ」

 上機嫌で歩いていると、宙に放り投げていたサイフが急に動きを止めた。

 誰かの手に掴まれたそれは、ひょいと彼女のうしろに向かって動きだした。

「あ、なにすんだよ。返せよ――」

 振り返って、少女は目を見開いた。

 そこには、先ほどサイフを掠め取った茶色の髪の青年が立っていた。

 青年は穏やかに笑みを浮かべている。

「こいつは返してもらうよ」

 言って彼はサイフを懐に仕舞い入れた。

「……チッ」

 少女は舌打ちして、視線を逸らす。

「スリなんて関心しないなぁ」

 彼は陽気につぶやいて少女を見た。

 少女は彼を見返し、不敵に笑う。

「スられる方が悪いんだよ」

 そうきたか、と彼は微苦笑を浮かべた。

「――それじゃ、わたしはこれで」

 少女は愛想笑いを浮かべて、彼から遠ざかろうと反対方向へと踵を返す。

 が、ドン、となにかにぶつかり、押し戻された。

「痛たいなっ。ちゃんと前見て歩けよな……」

 視線を上げると、人相の悪そうな灰髪の男が彼女を見下ろしていた。

「やっと見つけたぜ。お嬢ちゃん」

「げっ。ヤバ……」

 彼女は引きつった笑みを浮かべ、とっさに身を翻して走りだす。

「おっと、逃がすかよっ」

 男は少女の腕を乱暴に掴み、その腕を捻って彼女の動きを封じ込めた。

「痛ててててっ。くそっ! 放せよっ」

「そうはいくかっての。俺と一緒にきてもらうぜ」

 男は力任せに引っ張って少女を歩かせようとする。

 それを見かねて、青年は彼に声をかけた。

「おいおい。乱暴はやめなよ。彼女、嫌がってるし痛がってるじゃない」

 男はキッと青年を振り返る。

「あん? なんだあんたは。こいつの知り合いか?」

「あ、いや、知り合いってほどのものじゃないんだけど」

「なら、あんたは関係ない。引っ込んでな。――それともあんたがこいつの代わりに金払ってくれんのか?」

「金?」

 青年は不思議そうに首を傾げた。

「そう。金。こいつは昨日この俺からサイフを掠め取って行きやがったんだ。それ相応の金は支払ってもらわないと。――もちろん、この体でな」

 男は少女を見つめ、にやっと笑みを浮かべる。

 そして、青年に視線を戻した。その顔には人の悪い笑みが浮かんでいた。

「そうだ。あんたは実はこいつの知り合いなんだろ?」

「へ? 違うって。さっき言わなかったっけ?」

「今更そんなことはどうだっていい。あんたも一緒にきな。巻き込まれたのが運の尽き。金払ってもらおうか」

 がっし、と男は空いていた左手で青年の二の腕を掴む。

「……」

 はぁ、と茶髪の青年は情けなさそうに小さくため息をついた。

「しょうがないなぁ……」

 言って、彼は軽く体を捻り、掴まれていた腕を振り解く。

「なに!?」

 驚く男を尻目に、今度は少女を掴んでいた手に手刀を叩き込んだ。

「ぐぁ……っ」

 男は痛みに顔を歪め、少女を掴んでいた手を解放した。

「ほら、逃げるぞ」

 青年は少女の手を取り、促がす。

「……あ、うん」

 少女はきょとんと返事を返し、青年に手を引かれて走りだす。

「あ、こらぁ! 待ちやがれぇっ」


 大通りを行き交う人々を器用に避けながら、青年は併走している少女に声をかける。

「君に一つ忠告。スリをするならあんなおっかなそうな人じゃなくて、もっとおとなしそうな人を狙った方がいいよ」

 少女はちらっと青年を見返す。

「余計なお世話。だいたいお前に助けてもらわなくても私は逃げられたんだ。いい気になるなよ」

 青年は苦笑した。

(気の強い娘だなぁ……)

 うしろを見てみると、先ほどの男が眉を吊り上げたすごい形相で追ってきていた。

 待ちゃーがれー、と叫んでいる。

(さて、どうしたものかな……)

「――こっち」

 と、突然少女が脇道へと逸れた。

「あ、おい」

 慌てて彼も彼女のあとを追うように曲がる。

 そして、彼は飛び込んできた光景にわずかに目を見開いた。

(ここは……)


「ちっ。どこに行きやがった……」

 忌々しそうに吐き捨てて、灰髪の男は二人の近くを通り過ぎる。

 彼が通り過ぎ、物陰に隠れて様子を窺っていた青年は、ふぅ、と息を吐いた。

「行ったみたいだな」

 言って、彼は辺りを見回す。

「それにしても随分と静かなんだな、この辺は」

 脇道に入った辺りから、人気がほとんどない。

 先ほどまでの活気に満ちた雰囲気とは違い、寂れた雰囲気が漂っていた。

 ここは裏だからね、と少女は口にする。

「裏?」

「そう、裏。さっきまでわたし達がいたところは表。人がたくさんいて、活気があるところ。裏はその逆さ。ここ、静かで閑散としてるだろ?」

「ああ、まぁ」

「光があれば影もあるってね。つまりこの辺はエイルネップの影ってことさ」

「なるほどねぇ……」

 少女の説明に青年は感心したようにうなずいた。

「ああ、そうだ。まだ君の名前聞いてなかったな。――俺はチェスター。君は?」

「アメル。アメル・エバレット」

「アメルか。君はこの町の人かい?」

 チェスターが訊ねると、

「まぁね。一応は」

 とぶっきらぼうに返事が返ってきた。

 チェスターは軽く苦笑する。

「そっか。俺は旅行でここにきたんだけどさ……」

 言いかけて、彼ははっとなって目を見開いた。

「危ないっ」

「え? ――ちょ、ちょっと!?」

 チェスターはアメルの腕を掴み、自分の方へ引き寄せた。

 アメルはチェスターを睨む。

「なんなんだよ。いきなり――」

 その時、ドガアァァン、という大きな音が静かな路地に響き渡った。

 アメルは音のした方を見る。先ほどまで自分がいたところに木片が散乱していた。

「あららら。こんなに積み上げちゃって危ないなぁ」

 チェスターは暢気な声でつぶやきながら、木の箱が五メートルほども積み上げられたものを見上げていた。

 振り返り、彼はアメルに声をかける。

「大丈夫?」

「あ、ああ。大丈夫……」

 チェスターはそれににこっと微笑んで返す。

 そして視線を立ち並ぶ建物に移した。

「さてと、俺はそろそろ行くとするよ。君もあのおっかないお兄さんに見つからないようにしばらくは目立たない方がいいと思うよ」

 それじゃ、とチェスターは踵を返してアメルに背を向けて歩きだした。

「あ……」

 アメルはチェスターの背に手を伸ばしかける。が、その手はすぐに下ろされた。

 そしてぎゅっと拳を握り、わずかに目を伏せる。

 チェスターは背を向けたまま手を上げて、

「それと、スリはもうやめた方がいいよ。色々と危ないからさ」

 と言い残して、角を曲がって姿を消した。

「……なによ。えらそーに」

 チェスターーのうしろ姿が見えていた道を見つめ、ぽつん、とアメルはつぶやく。

 ふと、チェスターの顔が脳裏に蘇った。

 『大丈夫?』と声をかけられ、返事をした時に返ってきた笑顔だった。

「ふ、ふん。おせっかいなやつ」

 アメルはちょっと顔を赤らめる。

 憮然とした顔でズボンのポケットに手を突っ込み、そこから一枚のクッキーを取り出した。

 それを口に放り込み食べていると、足元で猫の鳴き声が聞こえた。

 見てみると、アメルの足元に茶斑模様の猫が体を擦り寄せていた。

「ライ」

 彼女はしゃがみこみ、微笑んで猫の頭を撫でる。

 すると、猫はうれしそうに鳴いた。

 猫を撫でながら、アメルはふと表情を曇らせる。

(……でもわたしなんであいつを呼び止めようとうしたんだろ。――もしあの時立ち止まってくれたら、わたしはいったいなんて言うつもりだったんだ……?)

「にゃん?」

 難しい顔をしているアメルを心配してか、ライがアメルを見上げる。

「大丈夫。なんでもないよ。ちょっと考えごとしてただけ」

 アメルはにこりと笑い、ポケットからクッキーを取り出す。

「お前も食べるか?」

 にゃぁん、とうれしそうに鳴いて、ライはクッキーをかじった。


 アメルと別れたチェスターは、メインストリートに戻るために路地を独り歩いていた。

「光と影、か……」

 その小さなつぶやきは静かな路地の空気に溶け込むように消えていった。


「はー。疲れたぁ」

 チェスターは部屋に入るなり、ホテルのベットに仰向けに倒れ込む。

 ぎしぎしとベットが軋む音が部屋に響く。

「それにしてもこの町、広いよなぁ……。一日じゃ回りきれなかったなぁ」

 アメルと別れたあと、メインストリートに戻ったチェスターは町を観光するため歩き回っていたのだった。

 短く息を吐き、ベットに寝転がったまま横を向くと、窓からオレンジ色の光が差し込んでいた。

(そういやあいつもこんな色の髪の毛してたなぁ……)

 ふいに先ほど出会った少女の顔が脳裏に浮かぶ。

 チェスターは仰向けになり、両手を組んで枕にする。

 天井は夕陽に照らされ、ほのかにオレンジ色に染まっていた。

「スリ、か……。あいつ、もしかして……」


 翌日、チェスターは昼過ぎまで寝ていた。

 ホテルで軽い昼食を取り、チェックアウトしたのは二時を過ぎた頃だった。

「さてと、今日はどこを見て回ろうかなっと」

 軽く伸びをして、チェスターは歩きだす。

 と、声が飛び込んできた。

「待ちやがれーっ」

 チェスターは思わず立ち止まる。

声の聞こえた方に視線を向けると、建物と建物の間の隙間から見知った顔の少女の横顔が通り過ぎていった。それに少し遅れて数人の男達が通り過ぎる。

 チェスターは額に手を置いて、

「……またか」

 と呆れたようにため息をついた。


「待ちやがれー!」

 灰色の髪の男を先頭に、計五人の男が少女を追いかけていた。

「誰が待つかよっ」

 アメルは走りながら後方に向かって叫ぶ。

「はぁはぁ……。まったく、しつこいやつらだよなぁ……」

 息を弾ませ、肩を上下させながら走っていると、急に腕を掴まれて脇道に連れ込まれた。

「な、なにすん――、むぐ……」

 口許を手で押さえられ、声が途切れる。

 しっ、と声が聞こえた。

 見てみると、チェスターだった。彼は人差し指を立て、それを自分の口許に当てている。

「お前は昨日の……」

 逃げるぞ、とチェスターは小声で促がす。

 アメルは黙ってうなずいた。


 短い路地を走り抜ける。

 抜けた先は裏通り、昨日と同じように閑散としていて、人通りは少ない。

「いたぞ。こっちだ!」

 横合いから飛び出してきた男が声を張りあげた。

 ちっ、と舌打ちし、チェスターは声を発した男に体当たりを食らわせる。

「うわっ」

 男は小さく悲鳴をあげてバランスを崩し、その場に尻餅をついた。

「こっちだ」

 チェスターはその隙にアメルを連れて、逃げだした。


 しかし、二人は逃げているうちに路地の行き止まりへと追いつめられてしまった。

 四人の男に完全に包囲された。背後には壁があり、逃げれそうにない。

「く……」

「へへっ。もう逃げられないぜ」

 取り囲んだ男のうちの一人がにやにやと笑う。

「観念しな、お二人さん」

 四人の男を押しのけて、灰髪の男が二人の前に姿を現した。

「おい、マーク。ちゃあんと取り分は均等に分けてくれよな」

 チェスターとアメルを取り囲んでいた男の一人が声をかける。

 わかってるって、とマークと呼ばれた灰髪の男は気のいい返事を返す。

「よし。そのガキを渡してもらおうか。もちろん、あんたも一緒にきてもらうがね。茶髪のお兄さん?」

 マークはにこにこと笑顔を浮かべ、チェスターとアメルを見つめる。

「……」

 チェスターは自分を取り囲んだ男達を見渡し、

「寄ってたかってあんたらはいったいなんなんだ」

「俺達はな。このエイルネップに根城を張ってるチーム、ブラックウルフってんだ!」

 マークは胸を張って自信満々に答える。

「ブラックウルフ? 知らないなぁ……。――知ってる?」

 チェスターは首を傾げながらアメルに訊ねると、んーん、と彼女は首を振る。

 しらーっとした目でチェスターはマークを見つめる。

「う、うるさいっ。いいからガキ渡せっ!」

 マークは眉を吊り上げて、叫んだ。

 その様子を見てチェスターは小さく息を吐くと、にっこりと愛想笑いを浮かべる。

「わかったよ。お金でしょ? おにーさん達が欲しいのはさ」

 チェスターは懐からサイフを取り出した。

「ちゃんと払うからさ。ここは見逃してよ」

「ほう。ものわかりがいいな、兄ちゃん。だけどよ、どうせなら金を奪った上で、あんたらを売り飛ばした方が儲けが大きいわけよ」

 得て知ったりというふうにマークは言った。

「……売り飛ばす? 人身売買は法律で禁止されてるはずだけど?」

 間延びしたような暢気な声でチェスターは訊ねる。

「そんなこと知るかっての。俺達には法律なんか関係ないからな」

 チェスターの目が光った。彼ははぁ、と小さくため息を吐く。

「……なるほど。――君達にはおしおきが必要みたいだね」

 笑顔のままチェスターはそうつぶやいた。

「おしおき! そりゃいい! やれるもんならやってみな」

 マークの取り巻きの一人がげらげらと笑う。

 チェスターはその男ににこっと笑いかけ、小さな声で、

「危ないから下がってて」

 とアメルにささやく。

「う、うん」

 アメルは言われた通りにゆっくりと数歩下がった。

 それを確認してチェスターは、

「では遠慮なく」

 と笑顔で言って、直後、眼光鋭く駆けだした。

 鋭敏な動作で近くの男に当て身をして男のバランスを崩す。

「なに!?」

 男がたたらを踏んでいる隙に、手首を捻り上げ、チェスターは相手の体を地面に押し倒した。

 あっという間の動作に呆然としていた男が、どこから拾ってきたのか持っていた鉄の棒をチェスターに向かってなぎ払う。

「こ、こいつっ」

 しかしチェスターはしゃがんでかわし、立ち上がると同時に男の顎に肘を叩き込んだ。

 顎を突き上げられ、男は呻き声をあげながら地面に倒れ込む。

 チェスターはすばやく落ちた棒を拾い、円を描くように振り回して今度はぼけっと突っ立っていた男の足に鉄の棒を叩きつけた。

「うげぇっ……!」

 男は足を押さえ、地面をのた打ち回る。

 その一部始終を見ていたマークの取り巻きの最後の一人は、

「ひえぇぇぇ」

 と情けない声をあげて、一目散に背を向けて逃げだした。

「あっ、こら。待ちやがれ」

 マークが逃げ去る男を呼び止めようと手を伸ばしかけると、すっと頬に鉄の棒がつきつけられた。

 形勢逆転、とにっこりチェスターは笑顔を向ける。

「仲間を連れて逃げた方がいいよ。見逃してあげるからさ」

「く、くそっ。憶えてろよ」

 マークは悔しそうに吐いて、そそくさと逃げ去った。

「ま、待ってくれよ。マーク……」

 地面に倒れこんでいた三人の男達は、顎や足や腕を押さえながらのろのろとマークを追って去っていく。

 それを見送り、ふぅ、とチェスターは息を吐いた。

 その背後でアメルがきょとんとした声でつぶやく

「驚いた……。お前、強いんだな。ただのへらへら男かと思ってた」

「それはひどいなぁ」

 チェスターは苦笑いを浮かべた。

 すると、チェスターの腹の虫が鳴いた。

 ぐるるるる、と情けない音だった。

「あららら。動いたら腹減ったなぁ……」

 チェスターは自分の腹をさすると、

「なぁ。この辺に食堂かなんかない?」

 とアメルに訊ねた。

 視線を受け、アメルはくすりと笑う。

「あるよ。安くてうまいところ。――案内してやるからわたしにもおごってくれよな」

 アメルはウインクすると駆けだした。

「こっちだよ。ついてきて」


 アメルが案内したのは裏通りの端に建てられたひっそりとした小さな店だった。

 中に入ってみると、客は一人もいなかった。

「いらっしゃい」

 客が入ってきたことに気づき、入口近くのカウンターの中にいた二十代後半の若者が二人に声をかける。

「なんだ。アメルか」

 アメルの姿を横目で確認し、彼はつまらなそうにつぶやいた。

「なんだとはなんだよ。客だよ、客」

 むすっとした感じでアメルは言い返す。

「客ぅ? ちゃんと金は持ってるよな。さすがに俺も月になん回も無料で飯をおごってあげるほど裕福な生活はしてないんだぜ? 月に四回までって言ったよな……」

「わかってるって。感謝してるよ。でも今日はちゃーんと払うって。――こいつが」

 そう言ってアメルは横に立っているチェスターを指差した。

「こいつ?」

 若者は訝しむような視線をチェスターに向ける。

「どうも……」

 チェスターはなんと言って返事をしていいかわからず、困ったように笑みを浮かべた。



「ほいよ。スペシャルサンドイッチセットとクリームパスタ大盛り。お待たせー」

 カウンターにいた若者がキッチンに入ってから数分して、チェスターとアメルの座ったテーブルに料理が届いた。

「おお! うまそう」

 チェスターは料理を見て歓声をあげる。

「うまそうじゃなくてうまいんだよ。旦那」

 若者は自慢げに笑顔を浮かべる。

「君、ここ一人で切り盛りしてるの?」

「そうだよ。隠れた名店ってやつだから、ひいきにしてくれよなっ」

 彼は人好きのする笑顔を向け、ごゆっくり、とカウンターの中に入っていった。

 それを見送りチェスターは料理に視線を戻す。

「それじゃ、いただきますっと」


「ふーっ。ごちそうさま」

 皿いっぱいに盛られたパスタをたいらげ、チェスターは満足そうに椅子の背もたれに寄りかかった。

 前を見てみると、アメルがおいしそうにイチゴのショートケーキを食べていた。

 フォークで口に運んだそれを幸せそうな顔で頬張っている。

 アメルはチェスターの視線に気づき、上目遣いでチェスターを睨む。

「なんだよ」

「いやぁ、幸せそうな顔して食べるなーってね。ケーキ好きなのか?」

「そうだよ。好きじゃわるいか?」

 そんなことはないさ、とチェスターは微笑む。

 ふん、とアメルはそっぽを向いたが、ケーキを食べると花の咲いたように笑顔を浮かべた。

 その様子をチェスターはおかしそうに眺めていた。


「ありがとうございました」

 数分後、二人は店主の若者の声に送られ店を出た。

「さてと、満腹になったことだし。またその辺でも歩いてこようかな」

 チェスターは大きく伸びをして独りごちる。

「そういえば、チェスターって旅の人だったっけ?」

 アメルに訊かれ、まぁね、とチェスターは返事をする。

 その時、にゃあん、と猫の鳴き声が聞こえた。

「ん?」

 前方の曲がり角から茶斑の猫がひょこっと出てきた。

「ライ。――おいで」

 アメルは手招きをする。すると猫はアメルの近くまでひょこひょこと近寄ってきた。

 彼女はしゃがむと、微笑を浮かべて猫を撫でる。

 気持ちよさそうにライは鳴き声をあげた。

 チェスターはアメルと猫を見比べ、やがて口を開いた。

「その猫、君の飼い猫?」

「野良猫。餌やったりはするけど、一緒に住んでるってわけじゃないよ。―ーこいつも私と一緒で独りぼっちなんだよ」

 独り、とつぶやいて、チェスターはかすかに眉をひそめた。

「――なぁ。なんでアメルはスリなんかしてたんだ?」

「金がないから」

 アメルは猫の頭を撫でながらチェスターの方は向かずにつぶやくように言う。

「そうじゃなくてさ。なんで金がないのかってこと」

 アメルは短く息を吐くと、立ち上がった。

「わたし、孤児なんだよ。母さんと暮らしてたけど、母さんは半年前に死んだ。働いてはいるけど、わたしみたいなのの給料はあってないが如しでね」

 やれやれといった感じでアメルは大げさに肩をすくめる。

「……そうか。わるい。変なこと聞いちゃったな」

 チェスターは目を伏せる。

「同情なんてやめてくれよな。別にわたしは人生のどん底にいるなんて思っちゃいないんだからさ」

 チェスターはその言葉に軽く笑んだ。

「……実はさ、俺も孤児だったんだよね。ちょっとした仲間だな。俺達」

「え?」

 チェスターはかすかに笑う。

「俺の場合物心ついた時にはもう孤児院の中だったよ。赤ん坊の時に孤児院に捨てられていたらしい。だから親の顔も見たことないんだよね」

 そこで言葉を切り、チェスターは以前と同じ明るい表情で言葉を続けた。

「十才の時にその孤児院を抜け出してさ。あとはふらふらと町を渡り歩いてたんだよね。冒険って感じで意外と楽しかったんだよ。これが」

「へぇ。それで?」

「六年前、一五の時だな。お節介なおっさんに拾われてさ。定職に就けたはいいけど、もうやめちゃった」

 口調は明るかったが、チェスターの顔には複雑な笑みが浮かんでいた。

「……なんかあったの?」

「いや、別に……」

 チェスターはバツが悪そうにわずかに視線を逸らした。

「うそ。なにもなかったらそんな顔しない」

 チェスターはかすかに目を見開き、まいったな、と困ったような苦笑を漏らした。

 しばらく沈黙が続き、やがてチェスターは口を開いた。

「アメルは……、君は友達に怪我をさせちゃったことってあるかい?」

「え? いや、ないけど……。それはどういう……」

「俺は怪我させちゃってね。それも親友にさ……。それがやめちゃった原因」

 チェスターはかすかに切なさを含んだ声で言って、

「はい。この話はもうおしまい!」

 と両手を打ち鳴らした。

「そんなことよりもさ。案内してよ」

「え? どこに?」

 きょとんとアメルは瞬く。

「君の家。送っていくよ。またあいつらに会っちゃったら大変でしょ? それとも君は路上生活?」

 アメルは上目遣いにチェスターを睨みつけた。

「部屋くらい借りてるよっ!」


 裏通りを数分歩き、アメルが案内したのは木造の古めかしいアパートだった。

「ボロいなぁ……」

 チェスターはその建物を見上げてつぶやく。

「雨露さえ凌げれば家なんかそれでいいんだよ」

 ごもっとも、とチェスターはアメルの言葉に同意した。

「あ、そうだ。ちょっと待ってて」

 アメルは言うと、自分の部屋――一階の最西端―ーの鍵を開けて中へと入って行ってしまった。

 チェスターはなんだろう、と首を傾げる。

 手持ち無沙汰になった彼は、近くにいたライに気づき、

「よしよし」

 としゃがんでライの頭を撫ではじめた。

 ライは人懐こそうに鳴き、頭をすり寄せてきた。

 しばらくしてドアが開いて、紙袋を抱えてアメルが出てきた。

「はい。これ」

 アメルは持っていた紙袋をチェスターに差し出した。

「これは?」

「クッキー。お礼だよ。……今日はその、お前のおかげで色々助かったからな。ありがとう……」

「え?」

「なんでもない! それはお前にあげるってこと! ありがたくもらっとけ!」

 アメルは大声で捲くし立てると、紙袋をチェスターの胸に押しつけた。

 チェスターは笑いを噛み殺すと、

「サンキュ」

 と紙袋を受け取った。


 それじゃな、と言葉を残し、チェスターは去っていった。

 アメルは遠ざかるその背中を見えなくまで見つめていたが、チェスターの背中が視界から完全に消えると、ひとつため息をついた。

 そしてアメルは表情を改め、

「よいしょ」

 とライを胸に抱え上る。

「今日はわたしの部屋に泊まってけ。ごちそうしてやるからさ」

 にゃん、とライは短く鳴いた。

「よし、行こ」

 アメルは笑うと、ライを抱きかかえ自分の部屋に入っていった。


 夜。

 月明かりと街灯があるものの、裏通りは薄暗く、昼間にさらに拍車をかけて人気は少ない。

 その薄暗い夜道を、憮然とした表情でポケットに手を突っ込み、大股で歩いている男がいた。

「くそ……っ」

 苛立たしげに声をあげ、彼は壁を蹴り飛ばす。

「痛て~……。ちくしょう。あのガキと茶髪の野郎、今度会ったらギャフンと言わせてやる……」

 男は、マークはぶつぶつと文句をつぶやく。

「もしもし。ちょっといいですか?」

「あん?」

 マークは振り返る。そこにはタキシードに身を包んだ長身の男がいた。

 黒い髪の毛は長く、肩についている。

 男はにこにこと笑みながら、マークに訊ねた。

「私、人を捜しているんですよ。この人なんですが、見かけませんでしたか?」

 彼は懐から写真を取り出し、マークに見せた。

 その写真を一目見るなり、マークは露骨に顔をしかめる。

「ああ、知ってるとも! つい数時間前に会ったばかりだからな。思い出すだけでイライラするぜ……」

 黒髪の男は微笑んだ。

「彼がどこに行ったのか知りませんか?」

「さぁな。だがまぁ、まだこの町にいるんじゃねーか? あんたあいつの知り合いか? だったら――」

 男はマークの言葉を遮り、

「そうですか」

 と笑みを浮かべる。

 直後、月明かりに反射して銀の光がきらめいた。

 ごと、となにかが落ちる音が静かに響く。

「へ――?」

 違和感を感じてマークは呆然と、自分の右手を持ち上げた。手首から先がなかった。

「う……、うぎゃあああぁぁ!」

 マークは血が噴き出る右手首を押さえながら地面に倒れ込んだ。

 黒髪の男は意に介さずに歩きだす。

 彼は写真を見つめながら、怪しげに微笑んだ。

「見つけましたよ。チェスター・クラブレスト」



    2



 エイルネップから東に数十キロ離れたところにある都市・スタンレー。

 早朝、激しいノック音に起されたダン・クラブレストは、顎ひげを生やしたその顔をしかめつつドアを開けた。

 そこに立っていたのは彼の部下だった。

「なに!? ブラッドが脱獄した……!?」

 部下の報告を聞き、ダンは血相を変えて怒鳴った。

 はい、とただ静かに部下の男はうなずく。

「今朝方、ホワンの刑務所からブラッド脱獄の報と捜索の協力要請が警察署の方に入りました」

「……脱獄したのはいつの話だ。昨日か?」

 ダンの言葉に部下は困ったようにする。

 どうした、とダンは眉をひそめた。

「いえ、脱獄したのはどうやら五日前のようでして」

 ダンは目を見開いた。

「バカな! なぜもっと早くに連絡してこない。なにを考えてるんだやつらは!」

 ダンは眉を吊り上げ、声を荒らげた。

 部下は畏まり、困ったように声を絞り出した。

「どうやら彼らは身内だけでなんとか解決しようとしていたらしいです。無理を感じて各町の警察に協力を仰いでいるみたいで……」

 ち、と舌打ちしてダンは顔をしかめる。

「見下げた連中だな。国内一の刑務所の名が泣くってもんだ。我が身かわいさに己の非を隠蔽して市民を危険に晒すとは……」

 怒気の込めて吐き捨て、ダンはため息をつく。

「……わかった。俺もすぐに支度を整えて署に行こう。お前は先に行って情報を集めておいてくれ」

 了解しました、と敬礼をして部下の男は踵を返して歩み去った。

 それを見送り、ダンはもう一度ため息をついた。

「警察に行く前に報告に行くべきだろうな……」


「あら、クラブレストさん。おはようございます」

 ダンが自宅の近くにある大きな病院の部屋の扉を開けると、ナースがそう声をかけてきた。

「珍しいですね。こんな朝早くに」

「いえ、たまには朝くるのもいいと思いましてね。――どうですか。息子の具合は」

 ダンが訊ねるとナースは申し訳なさそうにかすかに目を伏せた。

「お変わりはありませんわ。身体的には正常を保っています。ですがまだ意識は……」

 そうですか、とダンはかすかに気落ちしたように笑みを浮かべた。

「あ、健診は済みましたので私はこれで失礼しますね。どうぞごゆっくり」

 ナースの言葉に笑んで返し、ダンは背中で部屋の扉が閉まる音を聞く。

「……」

 ベットの脇に備えられた椅子に腰かけ、ダンはベットに横たわる青年を見つめた。

「すまん、ヴィンス。ブラッドが脱獄しちまったようだ……」

 ダンは頭を下げる。そして両拳を握りしめて、真摯な瞳をヴィンスに向けた。

「……だが必ず捕まえてみせるからな」

 言って、ダンはベット脇の棚にある写真立てに視線を移した。

 肩を組んで歯を見せて笑っている二人の少年が写っている。

 懐かしむように彼は写真を見つめた。

(チェスター……)


「ふわあぁぁ」

 チェスターはエイルネップの町を歩きながら、大きなあくびをした。

「しっかしこの辺はなんもないなぁ。住宅ばっかりだ」

 周りを見回し独りごちてチェスターは、

「あ、そうだ」

 と立ち止まって懐を探った。そこからクッキーを一枚取り出すと、口に放り込む。

「お、うまいな、これ。アメルに感謝しないとな」

 チェスターが顔を綻ばせていると、数メートル離れた道路に見知った顔を見つけた。

「噂をすればなんとやらってやつか」

 チェスターは、にっと笑顔を浮かべた。


 ご機嫌な調子で鼻歌を口ずさみながらアメルは歩いている。

 手には自分の上半身ほどもある大きな袋を携えていた。

「お~い」

 はっとなってアメルは振り向いた。

「チェスター……」

 アメルは驚いたように目を瞬かせた。

 アメルの近くにきたチェスターは、

「よっ」

 とアメルに声をかける。

「あ、おはよ……」

 アメルは呆然とつぶやく。

「ん? どうかしたか?」

 アメルは慌てて言葉を返した。

「ううん、なんでもない。ちょっとビックリしただけ。てっきりもう別の町に行っちゃったかと思ってたからさ」

 アメルの言葉を受け、チェスターは得意げに右手の人差し指を立てる。

「旅はゆっくりが基本さ」

 言って彼は軽く笑んだ。

「……でも不思議だよなぁ」

「不思議? なにが?」

「俺と君はこれで会うの三回目だろ? しかも全部偶然。そんなこと滅多にあることじゃないじゃないよ。―ーこういう出会いは大切にしたいなって思ってね」

 その言葉を聞いてアメルは軽く噴き出す。

「それ口説き文句のつもりか? 残念だけどチェスターみたいなのはわたしのタイプじゃないんだよね。残念でした~」

 アメルはおどけた調子でおかしそうに言った。

「いや……、口説いてないし」

 微苦笑を浮かべるチェスターを見て、アメルもくすっと笑う。

「お前の話し相手になってやってもいんだけどさ、今は用事があるからまた今度な」

「用事?」

「そ。これでもわたしは忙しくてね。それじゃ」

 アメルはチェスターに背を向けると脇道へと入っていく。と、曲がる瞬間、アメルのスボンンのポケットからなにかが落ちた。

「あ、おい」

 チェスターはそれ――鍵だった――を拾ってアメルを追いかける。

「ちょっと待った」

 ついてくんな、とアメルは歩みを止めることなく言う。

「そうじゃなくてだな……。いいからちょっと待てって。ストップストップ」

「お前こそ止まれ。ついてくるなって」

 アメルは少しだけ振り返り、強い口調でチェスターに言葉を返す。

 そうじゃなくて、とアメルの前にチェスターは回りこんだ。

「これ。落しもの。いらないの?」

 チェスターはアメルに拾った鍵を突きだす。

 わずかに顔を赤らめ、アメルは手を差しだした。

 アメルは鍵を受け取ると、

「一応礼は言っとく。……ありがと」

 とバツが悪そうに小さな声で礼を言った。

 そのアメルの様子を見て、チェスターが小さく笑みを浮かべていると、

「あ、アメルお姉ちゃん!」

 と突然大きな声が聞こえた。

(子供?)

 声のした方を見てみると、そこには小さな子供が三人立っていた。子供達の背後には小さな家の庭先が広がっている。

「お姉ちゃん。遊びにきてくれたの?」

 女の子が二人、顔を輝かせてアメルの方へと駆け寄ってきた。

「そうだよ。元気にしてたか?」

 アメルはしゃがんで二人の子供を抱き寄せる。

 チェスターがそれを不思議そうに見ていると、

「お兄ちゃん、誰?」

 と残りの一人の少年が話しかけてきた。

「アメルお姉ちゃんのコイビト?」

「――へ?」

 俊敏な動作でアメルは、コツン、と少年の頭を小突いた。

「そんなわけあるかっ。なに言ってんだお前は」

「痛てー……。なにすんだよ、アメル姉ちゃん」

 男の子は自分の頭を擦りながらアメルを軽く睨む。

「こらこら。こんな小さな子を殴っちゃダメだろ」

 チェスターの言葉に、ふん、とそっぽを向いて、アメルは再びしゃがむと少女達に持っていた大きな袋を手渡した。

「はい。おみやげ」

「なにこれー?」

「菓子。いっぱいあるからちゃんとみんなで分けて食べるんだぞ。いいな?」

「うんっ」

 少女達はうれしそうに微笑むと歓声をあげながら建物の中へ入っていった。

 チェスターがきょとんとしていると、

「アメル。いらっしゃい」

 と声が聞こえた。

「あ、メフィア――じゃなかった、院長」

 メフィアと呼ばれた中年のふっくらとした体格の巻き毛の女性はアメルに笑みを向け、その横にいるチェスターに視線を移す。

 そちらは、とメフィアは少し不安の混じったような声でアメルに訊ねた。

「こいつは大丈夫だよ。わたしの知り合いだからさ」

「そうですか」

 メフィアはほっとしたように息をついた。

「チェスター。わたしはちょっと院長と話があるから、それまで子供達と遊んでやっててよ」

「え、でも……」

「ほんと? お兄ちゃん、遊んでくれるの?」

 少年が期待のこもった瞳でチェスターを見上げてくる。

「……しょうがないなぁ。よし、わかった。遊んでやるよ」

 わーい、と少年は歓声をあげると、

「じゃあ行こ」

 とチェスターの服の裾を引っ張った。

「わかったわかった。そんなに急ぐなって……」

 チェスターは苦笑しながら、庭の方へと少年に連行されていった。

 その様子を見てアメルははくすりと笑みを浮かべた。


「待て待てー」

 チェスターに追いかけられ、子供達は楽しそうに逃げ走る。

 アメルはその様子を院長室の窓から見つめ、

「子供達元気そうだな。院長」

 とメフィアに声をかけた。

 彼女は微笑む。

「別にメフィアでいいですよ、アメル。わざわざ院長なんて言われると私も少し恥かしいわ」

「そっか。じゃあメフィアって呼ばせてもらうよ。わたしもそっちの方が話しやすいや」

 アメルは笑むと、懐から封筒を取り出す。

「はい、これ、今週のお金」

「……」

 メフィアは差しだされた封筒を見つめ、目を伏せる。

「メフィア?」

 目を伏せてアメルから視線を背けたままメフィアは、

「アメル。やっぱり受け取れないわ……。いくらこの孤児院が財政的に困窮しているからってあなたに迷惑はかけられないわ……」

 と申し訳なさそうにつぶやいた。

 いいから気にしないで受け取ってよ、とアメルは笑顔を向けた。

「わたしを引き取ってくれたメフィアやこの孤児院には感謝してるんだからさ。世話になった人が困ってるんだったら助けてやるのふフツーだろ」

「アメル……」

「だから気にしないで受け取ってくれよ。な?」

 メフィアは弱く微笑み、

「……ありがとう」

 と差しだされた封筒を受け取った。


「いくぞー」

「よし、こい!」

 チェスターは少年に向かって軽く球を投げる。

「えいっ」

 対する少年は手に持った木の棒でそれを打ち返す。が、打ち返されたそれは見事にチェスターの手の中に収まった。

「へへっ、俺の勝ち」

 チェスターは子供っぽい笑みを浮かべる。

 くっそー、と少年が悔しそうに声をあげていると、そこにアメルがきた。

「お待たせ」

「話は終わったのか?」

 まぁね、とアメルはチェスターに返す。

「チェスター、帰っちゃうの?」

 少年はチェスターの近くにくると彼を見上げて寂しそうな顔でつぶやいた。

「えっと……」

 チェスターが言葉に詰まっているとアメルが少年の頭に、ぽん、と手を置いた。

「あんまりチェスターを困らせるなって」

「だって……」

 チェスターはふっと笑みを浮かべ、

「また機会があればきてやるよ」

 しゃがんで少年と目の位置を同じくする。

「その時までにちゃあんと打ち返えせるようになっとけよ」

 うんっ、と少年は微笑んだ。


「ばいばーい」

 子供達に見送られ、チェスターとアメルは孤児院をあとにした。

 道を歩きながらチェスターは記憶を手繰るように宙を見つめる。

「孤児院かぁ。なんか懐かしかったなぁ……。俺のいたとこは教会と一緒になってたっけ。――そういえばなんであんなとこに用があったんだ?」

「……」

 アメルはチェスターの質問には答えずに、

「……あの孤児院はさ、ちょっと前まで世話になってたところなんだよ」

 チェスターは横を向いてアメルを見る。

「三年前に母さんが死んじゃって、これは前話したっけ。……母さんが死んじゃってそれからしばらくあそこで世話になってたんだ」

「なるほどね。君にとって家みたいなところってことか」

「ま、そんなところ」

 それからアメルはしばらく口を噤んでいたが、ゆっくりと口を開いた。

「あの孤児院、財政的にちょっとピンチみたいでさ……」

「え?」

「それに加えてあの場所を使いたいって人がいて、立ち退きを迫られてるらしくて……」

「そういうことか……」

 アメルは下を向いたまま、小さな声でつぶやくように言葉を続ける。

「でも孤児院がなくなったら子供達が困るだろ? あそこにいるってことは身寄りがいないってことなんだろうし、もしあの場所がなくなったらと思うと子供達が心配でさ……。少しでも運営の足しになるかと持って毎週少しずつ金を渡してるんだけどぜんぜん足りないみたいなんだよね……」

「それで、スリで金を稼いでたってわけか……」

 アメルは顔を上げるとチェスターを見据える。

「言っとくけどスリで稼いだ金はわたしの生活分だからな。メフィアに渡してる金はわたしが働いて稼いだ金だぞ」

 アメルの真っ直ぐな視線を受け、チェスターは微笑った。

「そういうところは律儀なんだな、君は」

「受けた恩は返す。それがわたしの信条だからな。だいたい子供達にスリで稼いだ金で飯が食わせれるかよ」

(なるほどね……)

 チェスターはくすっと笑うと言った。

「――よし。それじゃ、君にひとつ仕事を頼みたいんだけど。いいかな?」

「仕事?」


「なんでわたしが観光案内なんか……」

 アメルは歩きながらぶつぶつと文句を吐く。

「まぁそう言うなって。ちゃんと金は払うし、昼飯もごちそうするからさ」

 当然、とアメルは振り向いて、少しうしろを歩いているチェスターに言う。

「このわたしが案内してやるんだからな。―ーでもこの町、メインストリート以外に特にこれといった観光するところなんてないんだよなぁ」

「そうなの?」

「そうなの」

 首を傾げるチェスターにアメルはうなずく。

「この町はメインストリートが町の中心部を貫通するように通ってて、外側に行くほど活気が減っていくって構造をしてるんだよ。ほら、昨日行っただろ、裏通りにさ」

「ああ、確かにあそこは人通り少なかったなぁ」

「金持ちは町の中心に集まって、あんまり金のないやつらは町の外側。――強いて言えばその活気の差が観光名所かもなぁ」

 アメルは言って、あ、と声をあげた。

 あれ、と彼女は一軒の店を指差す。

「――? あの店がどうした?」

 チェスターは不思議そうに首を傾げてアメルを見た。

「昨日お前にやったクッキーはあの店で買ったんだ」

 へぇ、とチェスターは興味深そうにアメルの指差した店に視線を送る。

 それを横目で見て、アメルは小さく笑う。

「ま、メインストリートの店の案内くらいはしてやるよ。観光案内とまでは行かないけどさ。それでいいだろ?」

 充分、とチェスターは笑顔でうなずいた。


 チェスターはアメルに案内されながら、メインストリートに立ち並ぶ店を眺めて回った。

 時には店の中に入ったりもしたが、ほとんどウインドウショッピングするだけで、なにも買わなかった。

 しばらく歩いてメインストリートの終わりに差しかかった辺りで、

「そろそろ飯にするか」

 とチェスターがつぶやいた。

 きょろきょろと辺りを見回すと、小さな喫茶店があったので二人はそこに向かうことにした。

 しかし、入ろうとして店の入口付近にいたウェイターに止められてしまった。

「なんで入れてくれないのさ?」

 チェスターは首を傾げながらウェイターに訊ねる。

「いえ、そちらのお客様が」

 ウェイターはアメルに遠慮がちに視線を向けた。

「少し服が汚れていますので。申し訳ありませんが、そういうお客様には入店はお断りさて頂いております」

「なんだいそりゃ……」

 チェスターが呆れたように文句を漏らす。

「チェスター、もういいよ。他の店に行けば済む話だろ」

 アメルはそう言うと踵を返して歩きだしてしまった。

 待った、とチェスターはアメルの肩に手を置いて呼び止める。

「なんだよ」

「俺にいい作戦があるんだけどさ。乗ってみない?」

 チェスターはそう言うと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「ほんとにこんなんで大丈夫なのか?」

 アメルは疑わしげに横を歩くチェスターを見上げた。

 喫茶店をあとにした二人は洋服店に向かい、そこでアメルは服を買ってそれを身に纏っている。

 控えめだが女の子らしい白を基調としたサマードレスだった。

「大丈夫だって。似合ってるし」

 笑みを向けてくるチェスターにアメルは少し顔を赤くする。

「……お前、フツー言うかそういうこと……」

 そう思ったから言ったまでだよ、とチェスターは笑顔で答える。

「だけど、こういうヒラヒラした服って苦手なんだよなぁ。動きにくいし……」

 まあまあ、とチェスターはアメルに諭すようにつぶやく。

「――まぁ見てなって」


 チェスターの予想通り、ウェイターはすんなりと二人を通した。

 テーブル席に案内され、椅子にどかっと座るとアメルは不機嫌な声をあげた。

「ったく、失礼しちゃうよな。服が違うだけでこうまで対応が違うなんてさっ」

 頬を膨らませ、アメルは文句を口にする。

 そんなアメルを見てチェスターはおかしそうに微笑った。

(しかし、こうやって見るとどっかのお嬢様みたいに見えなくもないな……)

 チェスターの視線に気づいて、アメルは彼を睨みつける。

「……なんだよ」

「なんでもないよ。――さ、なにか食べよう」

 チェスターはメニューが書いてある紙を手に取って眺めはじめた。


「うまいうまい」 

 チェスターが満足そうに注文したピザを口いっぱいに頬張る。

「ま、味はまぁまぁだな。接客は最悪だけど」

 文句を言いつつもアメルも自分が注文した料理を口に運んでいる。

「――ちょっとお客様!?」

 と、突然入り口の方から上ずった声が聞こえてきた。

「なんだ?」

 チェスターは声のした方に視線をやった。


 その視線の先、店員が大小二人の男に対峙していた。

「ちょっと静かにしてもらえるかね、店員さん」

 細身の男の方はそう言うと、懐から銃を取り出し店員につきつけた。

 ひぃ、と店員は小さく悲鳴をあげた。

「金を出してもらおうか」

 男は笑いながら突きつけていた銃を店員の肌にめり込ませる。

 強盗だ、と近くの席で見ていた客の一人悲鳴じみた声をあげた。

 その声に反応し、店中は一気にざわざわと騒がしくなった。

「騒ぐんじゃねぇよ!」

 細身の男とは対照的ながっちりとした大男が客の方に向かって銃を向ける。

 客達は一斉に口を噤み、しんとした空気が流れた。

「なんだね、騒々しい」

「オ、オーナー……」

 店の奥から出てきた神経質そうな顔の男に、銃を突きつえられている店員はすがるような声を向ける。

「オーナーか。丁度いい」

 細身の男はにやっと笑うとオーナーと呼ばれて男に銃口を向けた。

 オーナーは物怖じもせずに吐き捨てる。

「……強盗か。ふん、通報する――」

 バン、という銃声が店内に響いた。

 放たれた銃弾はオーナーの男の肩に命中した。

「うぎゃああぁぁ……」

 彼は悲鳴をあげながら撃たれた右肩を押さえ、床に倒れ込む。

「……案内しろ」

 男は床に伏したオーナーを一瞥し、再び店員に銃口を向ける。

 店員はこくこくと首を縦に振った。

「よしいい子だ。――チャック。あとは頼んだぞ」

「おう。任せな」

 細身の男は大男の返事にうなずいて、店員とともに店の奥へと姿を消した。

 それを見送り、チャックと呼ばれた大男は客の方に向き直った。

「さてと……」

 視線を走らせ、チェックはあるところでそれを止める。

「――おい、お前。なにやってる」

 チャックの視線の先ではチェスターが美味しそうにピザを頬張っていた。

「え? 食事中」

「……そうじゃねぇ!」

 チャックはチェスターの近くまで行き、ピザの乗った皿を乱暴に払い飛ばした。

「動きを止めて、おとなしくしていやがれ。わかったな?」

 バン、とチャックはテーブルに手を叩きつける。

「……」

 チェスターは、小さく息を吐いた。

「……俺さ、食事の邪魔されるのが一番嫌いなんだよね。それに、食べものを粗末にするのはいけないことだよ」

「ああ?」

 チェスターは素早くテーブルの上にあるスプーンを手に取り、チャックの顔面に投げつけた。

「あ痛たっ。てめ、なにしやが――」

 チャックはギョッとなった。眼前にチェスターの体が迫っていた。

 チェスターの蹴りがチャックの側頭部に入る。

 蹴り飛ばされた勢いで、チャックは客のいないテーブルに頭から突っ込んだ。

「食べものの恨みは怖いってね」

 チェスターはかすかな笑顔を浮かべてそうつぶやく。

 パチパチパチとその一部始終を見いた客達が一斉にチェスターに拍手を送った。

 チェスターはきょとんとしていたが、

「どうもどうも」

 と照れたように笑い、頭に手を置いて観客に答えた。

「なんの騒ぎだこれは……」

 怪訝そうな顔をして店の奥から出てきた細身の男は、床に倒れているチェックを見て目を見った。

「チャック……」

 次いで男は視線をスライドさせ、チェックの近くに立っているチェスターを見た。

「……てめぇがやったのか?」

 チェスターはへらへらとした口調で返答する。

「食事の邪魔されたんでついカッとなっちゃって――」

 銃声が轟き、銃弾がチェスターの髪の毛を掠めて背後の壁にめり込んだ。

 しん、と店内が静まり返った。

「一般人が舐めたマネをしてくれるじゃねえかよ。――両手を上げて頭のうしろで組め」

「……」

 チェスターは口を噤み、言われた通りにする。

 それを確認し、細身の男は他の客を睨みつけた。

「動くなよ。動いたら、撃つ」

 と、ガタ、と背後で物音がした。

 男は咄嗟に振り返った。そこには一匹の茶斑の猫がちょこんと座っていた。

「なんだ猫か……」

 ほっとしたように男は息を吐く。

(――隙あり!)

 チェスターは俊敏に背を向けた男に近づき、後頭部に手刀を入れた。

 男は気を失ってその場に崩れ落ちた。

「ふぅ……」

 チェスターは一息つくと、客を見回す。

「誰か救急車、それと警察。早急にね」



 強盗を企てた男達はチェスターの手によって店の隅にロープで括りつけられた。

 依然、二人は気を失ったままである。

「よしよし、いい子だなお前は。まさに救世主だな」

 そのすぐ近く、チェスターは笑顔でライの頭を撫でている。

「でもなんでこいつがこんなところに……」

 アメルが不思議そうにつぶやいた。

「アメルのピンチを嗅ぎつけたんじゃないの。――な、そうだよな?」

 ライはチェスターの言葉に答えるように鳴いた。

「ほんとかよ……」

 アメルは苦笑する。

「――あの……」

 ん、とチェスターは顔を上げた。そこにはこの店の店員の顔があった。

「その、色々とありがとうございました」

 店員は深々と頭を下げる。

 チェスターは立ち上がると、

「いいって。気にしないでよ。それより撃たれたあの人は大丈夫?」

「ああ、はい。先ほど病院に搬送されましたから、おそらくは大丈夫だと思います」

 そっか、とチェスターは小さく笑い、振り返って壁に設置された時計を見た。

「そろそろ警察もくる頃だな……」

 チェスターがそう言った時、入口のドアが開いた。

「すいません。警察です。強盗事件の通報を受けてきたんだが、この店でいいのかな?」

 チェスターは声の主を見て、目を見開いた。

「ダン……」

 対する警官の方も、チェスターを見て目を見開く。

「チェスター……」


「ほら。入れ」

 警官に促がされ、しゅんとうなだれた二人の男は車へと乗り込む。

 それを確認し、警官は振り返って声をあげた。

「クラブレスト警部」

 喫茶店の入口付近にいたダンは、

「ああ。すまんが先に行っててくれるか。俺はちょいとこいつに話があるんだ」

 と返事を返す。

 わかりました、と答え、警官は車に乗り込む。わずかな黒煙を排しながら車は走りだした。

「――で、なんでダンはこの町にいるんだい? あんたはこの町の管轄じゃないだろ?」

 チェスターが不思議そうに訊ねると、ダンは、ああ、とうなずいて太い笑みを浮かべた。

「俺の友人がこの町で警察署の署長をしていてな。ちょいと相談に乗ってもらっていたんだよ。人手が足りなかったからお手伝いってわけだ」

 言って、ダンはチェスターの横いるアメルに目を留めた。

「ところでそこのお譲ちゃんはお前の恋人か?」

「そんなわけないだろ、おっさん」

 アメルは顔をわずかにしかめて即座に否定し、ため息をついた。

「まったくどいつもこいつも……」

 ダンはにかっと笑う。

「すまんな。気を悪くさせたみたいだな。許してくれな、お譲ちゃん」

「いや、いいよ。なんかもう馴れたから」

 アメルはダンにそう言うと、チェスターに声をかけた。

「チェスター、わたし外で待ってるよ。――行こ、ライ」

 同意するように鳴いたライを連れ、アメルは外に出て行く。

 それを見送り、アメルが完全に外に出たのを確認すると、チェスターは真顔になり、

「……ところでダン。ヴィンスはどうしてる?」

 とダンに訊ねる。

 チェスターの問いにダンは渋い顔をした。

「……体は至って健康だ。しかしまだ意識を取り戻してはいない……。半月前、お前が出てった時からなにひとつ変わっちゃいない。あの日のままだ」

 そうか、と掠れたように小さな声をチェスターは漏らした。

「チェスター。あまり自分を責めるなよ」

 気落ちしたふうのチェスターの肩にダンは手を乗せる。

「あれはお前が悪いわけじゃないんだからな」

「……わかってるよ」

 チェスターは複雑な色の笑みを浮かべた。

「頭じゃわかってるんだ……。でもさ、心の踏ん切りがつかないんだよ……」

「チェスター……」

 チェスターはかすかに微笑う。

「もうしばらくは旅を続けてみるよ。……俺にできることを見つけるためにさ」

 そこで言葉を切って、チェスターはいつものように陽気な笑顔を浮かべた。

「ヴィンスが目を覚ましたらさ、一年後に会おうって言っておいてよ。頼むよ?」

「……ああ、わかった。ちゃんと伝えておくよ」

 ダンは小さく笑みを浮かべてチェスターに言葉を返した。

「それじゃ俺もう行くよ。アメルが待ってるからさ。――じゃ」

「――チェスター、ちょっと待ってくれ」

 踵を返し、店を出て行こうとするチェスターの背に、ダンは声をかけ呼び止めた。

「なにさ?」

 足を止め、チェスターは振り返る。

 ダンは近づくと、彼に真剣な瞳を向けた。

「これはお前にも言っておくべきだと思うから、話す。……ブラッドが脱獄した」

「……!」

 チェスターは目を大きく見開いた。

「姿を眩ませてから五日だ……。――気をつけろ。狙いはお前かもしれない。十分注意してくれ。お前にもなにかあったら俺は……」

 うつむくダンにチェスターはそっと声をかけた。

「……大丈夫だよ。ちゃんと気をつけるからさ」


 喫茶店の入口の外、アメルは道の段差に腰をかけてチェスターを待っていた。

 ドアが開き、チェスターが出てくるのを認め、立ち上がる。

 だが、チェスターの顔を見てアメルは怪訝な声をあげた。

「――どうした? 顔色悪いぞ?」

 アメルに言われ、はっとなったチェスターはぎこちない笑みを浮かべた。

「……ああ、なんでもないよ」

 その様子にアメルは違和感を感じて首を傾ける。

「……悪いんだけど、用事ができちゃってさ。観光案内はもういいや。ここで別れよう」

 チェスターはアメルに目を合わさずにそう告げた。

「え?」

「そういうことだから」

 じゃあな、と言ってチェスターはアメルに背を向けて歩きだす。

「あ、おいっ。ちょっと待てよ」

 背中からかかるアメルの声に立ち止まって、チェスターは、ああ、と声をあげた。

「お金か。そういや払ってなかったな。――はい」

 チェスターはサイフから紙幣を数枚取り出し、アメルに差しだす。

「あ、うん……」

 呆然とアメルはそれを受け取った。

「……じゃあな。これでお別れだ」

 小さな声でつぶやいてチェスターは再び背を向けて歩きだす。

 しばらくして、はっとなりアメルは声をあげた。

「チェスター、ちょっと待てって。いったいどうしたんだよ急に……」

 アメルは駆けだそうする。

「ついてくるな……!」

 大きな声にアメルはビクッと体をすくめて動きを止めた。

 チェスターは背を向けたまま、つぶやくように言葉を吐き出す。

「悪い、ついてこないでくれ……」

(ついてこられたら、巻き込んでしまうかもしれない……。それだけはダメだ……)

 チェスターは振り返り、頼むよ、と言い残して姿を消した。

 一人残されたアメルは、彼の遠ざかる背中を見つめる。

「なんなんだよ、いったい……」


 チェスターと分かれたアメルは、家への帰路に着いていた。

 裏通りをライとともに歩いている。

「なんだよチェスターのやつ。勝手に人を連れまわして、勝手におしまいかよ……」

 アメルは先ほどのチェスターの様子を思い出していた。

 ついてくるな、と怒鳴るような大きな声が頭の中に再生される。

(あんなあいつ、初めて見たな……)

 にゃん? と心配そうにライが鳴いた。

「大丈夫」

 アメルはライに微笑んでみせた。

「もしもし、そこのお嬢さん」

 前方から声がした。アメルは視線を上げる。

 電柱の影から、タキシードを身を纏った優男が姿を現した。

 彼はにっこりと微笑む。

 傾いた太陽の光が、彼の頬を赤く染めていた。

「――こんばんは」

 アメルは妙な感じを受けて、訝しむように目の前の男を見る。

(なんだこいつ……)

「すいませんが、少しお時間いいですか?」

「……なに?」

「いえ、実はあなたのお友達にとても興味がありましてね」

 彼は笑顔のままそう口にする。

「友達?」

 首を傾げるアメルに、彼はにこりと笑顔を向けた。

「ええ。チェスター・クラブレスト。彼のことですよ」

 アメルはわずかに目を見開く。

「そこで是非、あなたに協力してもらおうと思いまして」

 男は不気味に微笑い、アメルを見下ろす。

 その瞳を見つめ、アメルは体を強張らせた。

 鋭い、刃物のような冷たい印象を受ける視線だった。

(こいつ……、なんか嫌な感じがする……)

「……くっ」

 アメルは身を翻し、走りだす。

 しかし、いつの間にか先ほどの男が目の前に移動していた。

「ご協力、お願いしますね」

 体に強い振動が走る。アメルの意識は途絶えた。

 男はアメルを抱え上げると、ふふっ、と楽しそうに笑顔を浮かべる。

 薄い月の光がエイルネップを照らしはじめていた。



    3



(――ここは……)

 アメルが目を覚ますと、そこはうっすらと明るかった。

 肌にかすかな冷気が纏わりつく感触がする。 

「気がつかれましたか」

 男の声がしてアメルは声の方に視線を向けた。

 長身の男がどこかから入ってくる月光に照らされ、うすく微笑を浮かべているのが見えた。

「お前は……!」

 アメルの脳裏に記憶が浮かび上がる。

 目の前にいるのは、先ほど帰路に着いてその途中に出会った男だった。突然話しかけられ、そして意識を失ったのが鮮明に思い出された。

「……っ」

 アメルはとっさに体を動かそうする。

 だが、両腕を後ろ手に縛られていてわずかに身じろぎをする程度しかできなかった。

 視線を男に戻し彼を睨みつけると、アメルは挑むような口調で、

「……ここはどこだ」

 気の強いお嬢さんだ、と男は笑みを浮かべた。

「安心して下さい。ここはまだエイルネップですよ。エイルネップの東の外れの廃屋。――人々に忘れ去られた寂れたところだが、彼との再会には丁度いいじゃないですか。誰にも邪魔される心配がない」

 男は楽しそうにアメルに話しかける。アメルはかすかに首を傾げた。

「……彼? 彼ってチェスターのことか?」

「そうですよ。――ああ、彼に会うのが楽しみだ……」

 男の浮かべた狂的な笑みを見て、アメルは柳眉をひそめる。

(こいつ……、やっぱりなんか変だ……)

 お前はいったい、と呆けたようにつぶやくと、男はアメルに微笑みを向けた。

「そういえば自己紹介がまだでしたね。――私はアレックス・タッカー。人は私をブラッドと呼びます」

 アメルは瞠目した。

 そして、まるで幽霊でも見たかのようにアレックスと名乗った男を見る。

「ブラッドってあの連続斬殺犯の……?」

 肯定するように男はアメルに笑みをよこした。

「でも、だってあいつはもう捕まったはずじゃ……」

「ええ。あなたの言う通りですよ。一ヶ月前、私はある一人の警官によって捕縛された。チェスター・クラブレスト、彼にね」

「チェスターに……?」

 アメルはわずかに目を見開く。

(――あいつが、警官?)

 内心首を傾げる。彼女の中でチェスターと警察という組織はうまい具合に重ならなかった。

 アレックス――ブラッドは言葉を続ける。

「私は、私を捕縛した唯一の存在である彼にひどく興味を持ちましてね。彼に会いたくてはるばるここまできたんですよ。――警官を辞職して旅にでていた彼を捜すのにはなかなか難儀しましたけどね」

「……! ――じゃあわたしは……」

 目を見開いたアメルに、ブラッドは微笑を浮かべたままゆっくりと近づいていく。

 膝をついて、彼女の髪にそっと触れた。

「彼を呼寄せるためのエサですよ。ご協力、感謝しますよ。お嬢さん」

 ブラッドの冷たい微笑みを受け、アメルは彼から顔を背けるようにしてうつむいた。

 歯噛みをし、ぐっと両手を強く握り締める。

 廃屋の天井に開いた大きな穴からは冷やかな月の光が落ちていた。

 その光が、二人をひっそりと照らしていた。


 アメルと別れたチェスターは、独りで町をぶらつき、一番最初に目についたホテルに部屋を借りていた。そしてなにをするでもなく、部屋に入って間もなく彼はベッドに潜り込んだのだった。

 チェスターはベッドの上で苦しげに顔を歪め、うわ言のようにつぶやいた。

「――ヴィンス……」


「ヴィンス……。ヴィンス……!」

 チェスターは必至になって彼の名を呼んでいた。

 視線の先には、チェスターと同年代くらいの黒髪の青年の姿があった。

 顔は蒼白、寝転んだ彼の腹からは真っ赤な血が溢れ出していた。

 その血の海に、彼は沈んでいた。

「大丈夫か……? ヴィンス」

 閉じた目をうっすらと開け、ヴィンスはチェスターの顔を見上げる。

「……チェスター、か……。あいつは……、ブラッドはどうした……」

 弱々しく掠れた声でヴィンスはチェスターに訊ねる。

「大丈夫。ちゃんと捕まえたよ」

 チェスターがそう答えると彼は、

「そっか……、さすがチェスターだな」

 と弱く笑ってみせた。

 直後、ヴィンスは顔を歪めて苦しげな呻き声をあげた。

 咳込むたびにヴィンスの口からわずかな血が吐き出される。

「ヴィンス……!? ――おい!」

 チェスターは泣きそうな声で彼の名を叫んだ。

 ふふっとヴィンスは笑みを零す。

「……こんな傷、すぐに直るから心配するなって。治ったらまた、一緒に遊ぼうぜ……」

「あ、ああ……! 約束だぞ」

「……ああ、約束だ……」


 救急車がきて、ヴィンスが運び込まれるのをチェスターは複雑な顔で見守っていた。

 と、チェスターの視界が急に暗くなった。

 見えるのは、自分とヴィンスの姿だけ。

 そのヴィンスが急速に遠ざかっていく。

「待ってくれ……。ヴィンス――」

 チェスターは手を伸ばしたが、それは届かず、ヴィンスは闇の中へと消えてしまった。


「――ヴィンス……!」

叫んで、チェスターははっと目を開けた。

 そこはベッドの上だった。ベッドに上向きに寝たまま、なにかを掴もうとするように手を伸ばしている。

 息が小さく弾んでいて、嫌な汗がわずかに服を湿らせていた。

 チェスターはしばらくそのまま寝転んでいた。ふと上半身をベッドの上に起す。

 額に手を当て、わずかに自嘲的な笑みを浮かべる。

「久し振りに見たな、今の夢……」

 言って、自嘲的な笑みはやわらかな笑みに色を変えた。

「ダンに会ったからだな、きっと」

 つぶやいたところに、トントンとドアをノックする音が聞こえた。

 チェスターは不思議そうに首を捻った。

「誰だろ」



 はい、とドアを開けるとホテルの従業員の男性が立っていた。

 チェスターを認め、彼はほっとしたように息を吐いた。

「すいません、クラブレスト様。起してしまいましたか?」

「ああ、いや。――なに?」

 チェスターが訊ねると彼は困ったような笑みを浮かべる。

「先ほど、クラブレスト様に渡してほしいと手紙を持ってきた方がいまして……。――これを」

「手紙? 誰だろ……」

 手紙を受け取りつつ、チェスターはきょとんと首を傾げる。

「若い男性でしたよ。身なりのきちんとした丁寧な方でしたけど」

 そっか、とチェスターは彼に笑みを投げ、

「ありがとう」

 と礼を言った。

「いえ。では私はこれで」

 去っていく従業員を見送り、チェスターはドアを閉めてソファに腰をかけた。

「差出人は……書いてないな。――どれどれ」

 チェスターは封筒を開封する。中には一枚の紙が入っていた。

 それに目を通し、チェスターは目を見開く。

(――これは……)


 ――あなたの友達のかわいらしいお嬢さんは預かりました。

 危害を加える気はありませんが、それはあなたの対応次第ですよ、チェスター・クラブレスト。

 町の外れ、東の果ての廃屋であなたを待っています。

 あなたに会えるのを楽しみにしていますよ。

 親愛なるあなたの友、アレックス・タッカーより――。


 ギリ、とチェスターが歯噛みをする音が静かな部屋内に小さく響いた。

 乱暴にドアを開けたチェスターはまっすぐにホテルの出口を目指して走りだす。

 その剣幕に、廊下を歩いていた先程手紙を渡しにきた従業員が、

「クラブレスト様!?」

 とすっとんきょうな声をあげた。

 その声が耳に入ったが、チェスターが走りを止めることはなかった。


 ホテルを出て、まっすぐに東を目指す。

 走りながら、チェスターは顔をしかめた。

(くそ……! 別れないでそばにいるべきだった……)

 しばらく走り続け、歩みを止める。

 すでに裏通りに入り、人気はほとんどなくなっているが、廃屋のようなものは見当たらない。

「くそっ。どこだよ、東の廃屋って……!」

 イライラと声を荒らげ、辺りを見回していると物陰から一匹の猫がひょっこりと顔をだした。

「ライ……」

 ライは、にゃん、と鳴き、数歩歩いてチェスターを振り返る。

「ついてこいっていうのか……?」

「にゃあん!」

 ライは駆けだした。

 チェスターはうなずき、ライのあとを追う。

(待ってろよ、アメル……!)


 ライに案内されチェスターが辿り着いたのは人が住んでいるところから随分と離れた場所だった。

「ここか……」

 にゃん、とチェスターの言葉に答えるようにライは鳴く。

「ありがとな、ライ」

 ライに礼を言って、よし、とチェスターは扉を開けた。

鉄の扉がぎしぎしと重い音をたてて開く。

 廃屋の中は抜けた天井から差し込まれる月の光で明るかった。

「アメル!」

 チェスターが叫ぶと、チェスター、と呼び返す声が聞こえた。

 声のした方に視線を走らせる。そこにはほのかにオレンジがかった髪の少女の姿があった。

「よかった。無事みたいだな……」

 チェスターはほっと息を吐く。

 そこに、ようこそ、とうれしそうな声が静かに響いた。

「……ブラッド」

 低く吐き捨てるように声を漏らし、チェスターは険のこもった目で彼を睨む。

 ブラッドはおどけたように笑顔を見せた。

「いやだなぁ。私はアレックスですよ。チェスター・クラブレスト」

「……アメルを放せ。彼女は関係ないだろ」

 ブラッドの言葉を無視してチェスターがそう言うとブラッドは、

「そういうと思いましたよ」

 と微笑んだ。

 そしてブラッドはアメルの様子を窺うように彼女の方を向き、

「いいですよ。彼女はあなたを呼び寄せるエサですからね。もう用済みだ。――それよりも」

 ブラッドはチェスターに向き直り、彼の瞳を見つめる。

「せっかく再会できたんです。もっとよろこび合いましょうよ」

「……お前にはもう会いたくなかったよ、俺は」

 顔をしかめるチェスターを見て、ブラッドはおかしそうに微笑う。

「つれないなぁ。――まぁいい」

 ブラッドはどこにしまっておいたのか懐から刃渡り三十センチほどの短刀を取り出した。

 そして微笑を浮かべたまま、鋭い視線をチェスターに向ける。

「私があなたを呼んだ理由。わかっているでしょう? 銃をお取りなさい」

「……」

 チェスターは無言でハンドガンを懐から取り出す。

「……人を切りつけるのが趣味のお前の気持ちなんてわかりたくもないんだけどね。――俺と戦いたいってんだろ?」

 その通り、とブラッドはうれしそうに言う。

「望み通りやってやるよ。お前は俺が捕まえる……」

 言ってチェスターはブラッドにその銃口を向けた。

(見ててくれよ、ヴィンス……)


 緊張感の漂う空気の呑まれ、アメルは呆然とチェスターとブラッドの様子を見つめていた。

 にゃあん、と控えめな鳴き声が聞こえ、はっとなる。

「ライ……」

 目の前にライがちょこんと座っていた。

 ライはもう一度鳴くと、アメルのうしろに回り込む。

 かじかじとアメルの両手を拘束している縄をかじりはじめた。

「サンキュ、ライ」

 そう優しく声をかけると、ライは一瞬かじるのをやめてうれしそうに鳴いた。

 それに笑み、アメルは再びチェスターの方に視線を投げる。

「チェスター……」


 チェスターとブラッドは互いににらみ合ったまま、その場を動かない。

 先に動いたのはブラッドだった。

「――いきますよ」

 ブラッドは体勢低く、真っ直ぐにチェスターに向かって走りでる。

「……!」

 チェスターは即座にハンドガンの引き金を引いた。

 火薬の破裂する音が静寂の廃屋に響き渡り、ブラッドに向かって三発の銃弾が放たれた。

 ブラッドはかすかに笑う。

 正確にブラッドに向かって放たれたその銃弾は、彼が繰りだす刃によって悉くが弾かれた。

「な……っ」

 呆気に取られたチェスターを尻目に、ブラッドはチェスターの懐に飛び込むと、刃を閃かせる。

 わずかに呻いて、チェスターは体を反ってその斬撃をかわした。

 体勢を崩しながらもチェスターはハンドガンをブラッドに向かって振り回す。が、ブラッドはそれを体を捻って回避し、その回転の勢いのまま、チェスターに刃をないだ。

「……くっ」

 チェスターはとっさに斬撃を銃で受け止めた。

 二人の力が拮抗し、数俊二人は硬直したようになる。

「くぅ……っ」

 チェスターはブラッドの刃を弾き返す。

 ブラッドは弾き返された勢いでそのまま間合いを取った。

 ふふふ、とブラッドは低い笑い声をたてる。

 チェスターは顔を歪め、歯噛みした。

(ダメだ……、速過ぎる。どうすればいい……)

 チェスターが顔を曇らせていると、唐突にブラッドが口を開いた。

「――そういえばあなたのお友達の警官はどうしました?」

 チェスターははっと見開き、

「あいつは……」

 と言葉を詰まらせる。

「おや、死んでしまいましたか?」

 ブラッドは思い出すような仕草をして、笑みを浮かべた。

「この剣で一突きですからね。無理もないか」

 言って、ブラッドは首を傾げる。

「ああ、もしかしてあなたが警察をお辞めになったのは、結果的に彼を死なせてしまった自分が許せなかったのですか。なるほど、彼に対しての罪滅ぼし――」

 バン、と銃声が轟いた。

 ブラッドは驚いたように目を見開く。

 銃弾はブラッドの頬を掠めていった。

 つぅ、と掠めた頬から血が流れ落ちる。

「……ヴィンスは死んじゃいない。ちゃんと生きてるさ。――お前のようなやつに殺されるわけないだろ」

 チェスターは射るような視線でブラッドを睨みつけた。

 それを受け、ブラッドは恍惚とした笑みを浮かべる。

「いい瞳だ……」


「取れたっ」

 両腕を拘束していた縄が外れ、アメルは思わず声をあげた。

 ライがアメルを促がすようにアメルの前方へと飛びだす。

 アメルはうなずき、

「……そうだな。とりあえずここから逃げないとな。チェスターにこれ以上迷惑はかけれないもんな」

 とつぶやいてそっと出口に向かって歩きだした。

 その様子が対角線上でブラッドに銃を向けていたチェスターの視界に入る。

(アメル……)

 わずかに視線を動かすチェスターの様子を見、ブラッドは得心したように微笑んだ。

「他人の心配より自分の心配をした方がいいんじゃないですか、チェスター・クラブレスト」

 はっとなってチェスターはブラッドに視線を戻す。

 ブラッドは首を傾げ、にこりと微笑った。

「彼女のことがそんなに気になるのでしたら、取り除いてあげますよ。――殺してね」

 微笑を浮かべたまま、ブラッドは身を翻す。

「待っ――」

 チェスターは手を伸ばすが、ブラッドは一足飛びでアメルへと向かっていく。

「アメルー! 逃げろっ」

 アメルはチェスターの怒声に立ち止まった。

 振り向くと、ブラッドが目前に迫っていた。

 刃が月の光を受けて輝く。

 アメルは思わず目を瞑った。

 直後、肉に刃が食い込む嫌な音がした。

「……」

(あれ……?)

 確かに嫌な音がしたはずだ、とアメルは思う。

 だが、痛みは感じられない。

 アメルは恐る恐る目を開けた。

「チェスター……」

 目の前にはチェスターの背があった。

 と、ぽたぽたをなにかが滴る音が耳に入る。

 アメルは目を見開いた。

「チェスター、お前……」

 アメルの言葉に答えるように、チェスターは呻くような笑い声をあげた。

 チェスターの腹部にはブラッドが繰りだした刃が深々と突き刺さっていた。

 ブラッドは眉間を寄せ渋顔を浮かべ、チェスターを見つめる。

「……なにをやっているのですか、チェスター・クラブレスト。あまり私を失望させないでほしいですね……。他者のために自らを犠牲にするなど愚の骨頂……」

 そうでもないかもよ、とチェスターは笑った。

「なに……?」

 ピク、とブラッドの眉が動く。

「こうやって密着してりゃ、そうそう身動きできないよな……」

 その言葉に、ブラッドの目が見開かれる。

「俺の、勝ちだ……」

 つぶやくように言って、チェスターはブラッドの側頭部に向かって銃の柄を振り上げた。

 銃で殴打されたブラッドは数メートル先にふっ飛んだ。

 ブラッドが起き上がらないのを確認して、チェスターは痛みに顔を歪めながら自らの腹に刺さった短剣を引き抜く。

 それを放り投げると、静かな空気にカーン、と甲高い音が響いた。

(やったぜ、ヴィンス……)

 チェスターはかすかな笑みを浮かべたまま、折れるようにしてその場に崩れ落ちた。

「チェスター!」

 アメルはチェスターの近くに行き、彼の顔を覗き込む。

「チェスター。大丈夫か……!?」

 チェスターは反目を開け、覗き込むように自分を見ているアメルを見上げた。

「アメルか……。ケガはないか……?」

 掠れた、力のない声でチェスターはつぶやく。

「あ、ああ……」

「……そっか。そいつはよかった。お前が無事ならそれでいいや……」

 弱々しく言って、直後チェスターの目は閉じられた。

「チェスター……?」

 アメルはおっかなびっくり声をかける。

 返事は返ってこない。

「……チェスターーーー!」

 アメルの悲鳴のような叫びが廃屋に響き渡った。


 子供達の澄んだ声が庭から聞こえている。

 はしゃいでいる子供達は楽しそうに庭を駆けていた。

 メフィアは子供達を見守るように見つめている。

 彼女の頭には、数時間前の出来事が鮮明に残っていた。

「これは……」

 驚いたようにメフィアは目を見開いた。

 手には銀行の通帳が広げられている。驚いたのはその金額を見たからだった。

「こんな大金、どうして……」

 メフィアは返答を求めるように通帳を持ってきたアメルを見返した。

 アメルはにこにこと笑みを浮かべている。

「大丈夫だって。ちゃんとした金だからさ。知り合いにもらったんだ」

「もらったってアメル……、こんな大金……」

「そんだけあればこの孤児院大丈夫そう?」

「え、ええ。それはもちろん……」

 よかった、とアメルはうれしそうに微笑む。

「それじゃわたしもう行くよ」

 そう言うと、アメルは踵を返し部屋から出て行こうとする。

「待ってアメル」

 呼び止めるメフィアにアメルは振り返って笑顔を向けた。

「メフィア、忘れないでよ? ここは私の家なんだからさ。家のために手伝えることがあったらやって当然だろっ」

 そう言い残しアメルは、用事があるから、と孤児院をあとにした――。

 メフィアは微笑む。

(ありがとう、アメル……)


 くしゅん、と病院の廊下を歩いていたアメルはくしゃみをした。

「誰かうわさでもしてるのかな……」

 アメルは不思議そうに首を傾ける。

 すれ違う白衣の女性を見てアメルは声をかけた。

「あ、ナースさん。チェスター起きてる?」

 そう訊ねるとナースはにこりと笑う。

「ええ、起きてますよ」


「おーい、チェスター」

 アメルが病室の扉を開けると、ベッドに上半身を起こしているチェスターと、そのそばに立っているダンが見えた。

「おお、お譲ちゃん。おはよう」

 おはよ、とアメルはダンに言葉を返した。

 ダンはそれに笑み、チェスターに視線を戻す。

「それじゃ俺はそろそろお暇するよ。――じゃあ元気でな、チェスター」

「ダンもな」

 病室を出る間際、ダンは入口付近にいるアメルの頭をぽんぽんと叩いていった。

 それにアメルは少し顔をしかめる。

 その様子を見てくすっと笑い、チェスターは笑いを噛み殺してアメルに声をかけた。

「珍しいな、午前中に君がくるなんてさ」

「まぁね。――元気そうだな」

「おかげさまでね」

 アメルはベッドの横の椅子に腰を降ろし、おずおずと声をかけた。

「……あのさ、チェスター」

 ん、とチェスターはわずかに首を傾けてアメルを見る。

「その……ありがとな」

 チェスターはきょとんとした顔でアメルを見返した。

「ブラッド捕縛の褒賞金のことだよ。チェスターがくれたあの金のおかげで孤児院はなんとか大丈夫っぽい」

 そいつはよかった、とチェスターは笑顔を浮かべた。

「……でも本当によかったのか? あんな大金……」

「いいんだよ。あんなに金持ってても俺使わないしさ。それに金は必要としてる人が持ってるほうがいいだろ? 金なんて稼げばいいだけだしさ」

「そっか」

 アメルはうれしそうに目を伏せる。

 それに微笑し、チェスターは窓の外に目をやってつぶやく。

「なぁアメル。お前、魚好きか?」

「魚? なんだよ魚って」

「さっきダンに聞いたんだけどさ。ここから南に行ったとこにあるウィルミトンって港町は魚介類がうまいらしくてさ。――一緒にどうかなって」

 え、とアメルは目を瞬かせた。

「この前言っただろ? こういう出会いは大切にしたいってさ。無理にとは言わないよ。君が暇ならどうかなって思ったから誘っただけだからさ」

 アメルは一瞬表情を輝かせたが、それを引っ込めそっぽを向く。

「……どうしても一緒に行ってほしいってんなら行ってやってもいいけど?」

 言ってアメルはチェスターから視線を逸らしたまま、横目でちらっとチェスターの様子を窺う。

 チェスターは苦笑した。

 そしてふと真顔になり、恭しくアメルに手を差し伸べる。

「では、我が旅のご同行お願いできますか、アメル・エバレットさん?」

 アメルは軽く笑む。

「しょうがないなぁ」

 そして差し出された手を上から、バシンと叩いた。

「痛てて。ちょっと違うんだけどアメルさん……」

「なに?」

「いや、なんでもない」

「なんだよ」

「なんでもないって」

「うそつけ。その顔はなにかあった顔だぞ」

 アメルはむきになって声を荒らげ、チェスターに詰め寄る。

 だから本当になんでもないって、とチェスターは困ったように笑顔を向けた。

「いーや、なにか隠してる。わたしにはわかるぞ」

 チェスターとアメルは互いに騒々しく言葉を投げ合う。

 次第に声の音量が上がっていく。

 ガララ、と病室のドアがスライドした。

 二人は一斉にドアの方を向いた。

 白衣を着たナースが仁王立ちしている。

「チェスターさん。ここは病院ですよ!? 静かにして下さい!」

「……すいません」

 うなだれて、チェスターとアメルは同時に頭を下げた。



                          『スリ少女と青年と』おわり


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[一言] 初めまして。小説読みました♪ 難しい言葉遣いが少なく、且つすごく読みやすかったです☆ ファンタジーな世界観も良かったし、登場人物もキャラクターがしっかりと立っていたと思います! 次回作もぜひ…
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