悪役令嬢、断罪されたので反対尋問します ~前世が弁護士(チートなし)なので、法的思考で王子に和解を呑ませてもいいですか?~
一 転生前面談
死んだ。
タクシーの窓から見えた信号が赤だったことだけ、覚えている。依頼者との打ち合わせに向かう途中だった。タクシー運転手がブレーキを踏む音と、電話の着信音が重なった。その後の記憶はない。
目が覚めたら、白い部屋にいた。
「橋本理沙さん。弁護士さんですね。——ようこそ、転生管理局へ」
カウンターの向こうに、とんがり帽子の青年がいた。転生管理局の窓口担当らしい。見た目は大学生くらいだが、なぜかマントを羽織っている。弁護士会のハロウィンパーティーで見たコスプレを思い出すチープさだ。
「ここが死後の世界ですか。思ったよりオフィス感が強いですね」
「公的機関なので。——さて、橋本さんには、異世界への転生をご案内します」
「異世界転生? ——ああ、あの、異世界転生ってやつですか」
「ご存知ですか?」
「聞いたことも、読んだこともありますよ。関係者が当事者になった事件も扱いましたから」
「事件?」
「依頼者にそういう小説を書いてる人がいまして。著作権の紛争で。——中身も読みましたよ。要は、うだつの上がらない男が、都合のいい世界で、努力しないで強い力を貰って、男の性欲詰め込んだみたいな美少女にちやほやされる話でしょ?」
「…………言い方がひどすぎませんか」
「事実を整理しただけですが」
「いえ、もう少しポジティブな側面も……」
「でも、楽しそうだとは思いましたよ。せっかくなら私も、どっかの王子様に産まれたい。世界統一を目指すとか。ゲームっぽくていいじゃないですか」
「あー……すみません。いろいろ予算で決まっていまして」
「予算」
「はい。転生先は中堅貴族——侯爵家の令嬢です。チート、つまり特別な力はつきません。ただ、前世の記憶と能力はそのまま引き継げます」
「……令嬢。王子じゃなくて、令嬢」
「はい。女性です」
「世界統一は」
「できません」
「…………」
不満だ。かなり不満だ。せっかく死んだのに、また女か。しかも中堅貴族。王子ですらない。
(でもまあ、前世でも「女性弁護士」ってだけで様々なレッテルを貼られた。「令嬢」なら「令嬢」なりの戦い方があるだろう)
「どんな世界なんですか」
「最近、ある系列の世界で問題が起きていまして。『断罪イベント』というものが流行しているんです」
「断罪?」
「はい。貴族の宴の場で、王子が婚約者を公開で糾弾して、婚約を破棄する。——これが流行してしまって、あちこちの世界でギスギスしているんです。証拠もなく、手続きもなく、感情だけで人が裁かれる」
「……法治国家じゃないんですか」
(というか、「公開断罪」って何だ。民事の婚約解消を公の場でやる意味が分からない。前世の日本でやったら、名誉毀損と不法行為の両方で訴えられますよ。王子という地位を利用している分、もっと悪質だ)
「法はあるんですが、使われていない。いわゆる『乙女ゲーム』っぽい世界です」
「乙女ゲー。友達に借りてやったことあります。攻略対象の男が『おもしれー女』とか言うやつですよね。あれ見て思いましたよ、そんなこと面と向かって口に出すあんたのほうがおもしれーよって」
窓口の青年——名札をちらりと見たら「ツクヨ」と書いてある——が少し黙った。
「あと、攻略対象が何人もいて全員主人公に惚れるやつ。独占禁止法に抵触しませんか、あれ」
「……しません。恋愛に独禁法は適用されません」
「冗談ですよ。——で、その乙女ゲー世界で、私はどの立ち位置なんですか」
「悪役令嬢です。王子の婚約者で、ヒロインに嫉妬して嫌がらせをするポジション——というのが、テンプレなんですが」
「嫉妬して嫌がらせ。——やらないですね、そんな非効率なこと。嫉妬する暇があったら証拠を集めます」
「……さすがです。ところで、橋本さんの能力についてですが」
「はい」
「前世の記憶と能力はそのまま引き継げると申しましたが、特に橋本さんの場合、法的思考力が非常に高い。これが最大の武器になります」
「法的思考力。……法律の知識ではなく?」
「知識は使えません。異世界の法律は違いますから」
「法律が違うなら使えないじゃないですか。六法まるごとゴミ箱ですか」
「いえ。法律の知識は使えません。でも、法的思考は使えます。事実と感情を区別する力。証拠を読む力。契約の穴を見つける力。手続きの不備を指摘する力。——法律が変わっても、これは変わりません」
「……なるほど。確かに、法律を『知っている』のと『使える』のは別の能力ですね。六法を暗記しても弁護士にはなれない」
「あと、転生前に、できるだけ情報が欲しいんですけど。その世界の法律とか、制度とか、記録を読むだけ読ませてもらえますか」
「えっ……転生前にそういう要望をされる方は初めてですが……最近、増えてきて、こちらも正直営業が——あっ、いえ、その話は」
「聞かなかったことにします。守秘義務は弁護士の基本スキルなので」
「すみません。……少々お待ちください」
ツクヨが奥の書庫から資料を山ほど持ってきた。王国法典、貴族法、婚姻に関する勅令集、過去の紛争記録。全部読んだ。三時間で。前世の入所2年目で案件50件を回した速読力が、こういうところで活きる。
ついでに、過去の転生者の記録もあさってみた。「凡人枠」と呼ばれる人たちの派遣報告書。公務員、クレーム対応部長、外交官——全員、前世の「地味な専門技術」で異世界の問題を解決している。なるほど、先輩方の実績は参考になる。
「その通りです。そして、橋本さんが修羅場で身につけたのは、まさに『使う力』のほうですよね。それを『チート』と呼ぶのは、あの日々への侮辱かと」
「……あなた、意外と分かってますね」
「凡人枠の担当を長くやっていますので」
「まあいいです。王子は無理、特別な力も無理、でも法的思考は使える。——悪くない条件ですね。前世より依頼者が多そうだ」
さっきまで不満だったのに、もう切り替えている。弁護士は、与えられた条件で最善を尽くすのが仕事だ。王子でも世界統一でもなく、中堅貴族の令嬢。上等だ。前世だって、中堅事務所の新人から始めたんだから。
「あ、最後に一つだけ。その世界に弁護士はいますか?」
「いません」
「——競合がいない。最高じゃないですか」
ツクヨが見送りながら小さくメモしていた。
(……今回の凡人枠、本当に凡人なのか、これ……)
二 ルイーゼ・フォン・エーレンフェルトの幼少期
転生した。
三歳で言葉を覚え、五歳でこの世界の文字を読めるようになり、六歳で王国法典に手を伸ばした。
(法律が違う。当たり前だ。ここは異世界なんだから)
日本の民法も商法も刑法も、ここでは紙くずだ。でも——どことなく、法律に通じる考え方というか、構造は似ている。「契約は守るべし」「証拠がなければ主張は通らない」「手続きに瑕疵があれば無効」。そう思うと、結構覚えやすい。
転生前にツクヨに頼んで読んできた資料が役に立った。あの三時間の速読は無駄ではなかった。
前世の司法試験の勉強よりは楽だと信じたい。——実際、楽だった。
七歳の時、最初の「仕事」があった。
侯爵家の使用人の一人が不当に解雇されそうになった。厨房長が気に入らないという理由だけで。
「お父様。この解雇は契約上の根拠がありません」
父が目を丸くした。七歳の娘が雇用契約書を読めるとは思っていなかったらしい。読める。前世の入所2年目で50件の案件を回した女だ。雇用契約書の一つや二つ、寝る前に読める。
「お父様。感情と事実は区別しましょう」
七歳にして口癖が発動した。
父は「この子は将来、誰と結婚しても、相手が逃げ出すのではないか」と心配していたらしい。——お父様、前世でも同じことを母に言われました。
ちなみに、厨房長のクビを阻止した結果、厨房長が「お嬢様には一生お仕えします」と泣いて感謝し、以来、私専用のお菓子を毎日作ってくれるようになった。この世界のお菓子は、前世のコンビニスイーツとは次元が違う。バターたっぷりの焦がし菓子、木の実のタルト、蜂蜜を練り込んだクッキー。
(この世界に転生して一番良かったことは、法律が未整備で仕事が多いことではなく、飯がうまいことだ)
十二歳で、第二王子エドヴァルトとの婚約が決まった。兄の第一王子は病弱で、エドヴァルトが実質的な王太子だ。
政略婚。侯爵家と王家の利害が一致した結果だ。
(政略婚か)
ため息をついた。前世で何十件も扱った婚姻関係の案件を思い出す。契約として見れば、条件次第。感情で判断しない。それが弁護士だ。
婚約契約書を隅から隅まで読んだ。三回読んだ。
第七条——「一方的な婚約破棄の場合、破棄を申し入れた側が正当事由を立証する責任を負う」。
(今からわかっていれば、なんとか方法はあるだろう)
ちなみに、エドヴァルトは金髪碧眼のイケメンだ。顔合わせの時、侍女たちが「素敵」とか言っていたが、前世で様々な男達と交渉してきた身としては「顔がいい」と「人として信用できる」は別カテゴリである。ステータスが高くても案件の中身がスカスカな弁護士と同じだ。中身を見る。
三 学園と証拠集め
十三歳でフィリアーネ学園に入学した。
王族と貴族の子弟が通う名門校。——男女共学。
学園生活で気づいたことがある。この世界の人々は、契約書を読まない。法律があっても使わない。紛争が起きたら力か地位か感情で解決する。弁護士としては信じられない光景だが——だからこそ仕事がある。
もう一つ気づいた。この世界、何かを決めるのは全部男だ。婚約を決めるのは父。領地を治めるのは当主。学園の生徒会長も男。令嬢たちは「苑の花」と言われて大事にされるが、「大事にされる」と「対等に扱われる」は別物だ。——まあ、だからこそ、実力で黙らせるのが楽しいんだけど。
一方で、この世界には前世にないものもある。治癒魔法だ。風邪を引いても魔法で一発。前世では裁判の前日に熱を出して、ふらふらの状態で法廷に立ったことがある。この世界なら、そういう悲劇がない。法律は未整備だけど、医療は進んでいる。——優先順位がおかしい気もするけど、まあ、助かる。
それと、学園の食堂が信じられないほどうまい。前世の大学の学食は「安い・早い・そこそこ」が売りだったが、ここの学食は「高い・ゆっくり・極上」である。貴族の子息令嬢が通う学園だけあって、ランチのスープに金箔が浮いている。金箔は食べても味がしないので不当表示ではないかと思ったが、スープ自体は絶品だったので許した。
それと、乙女ゲーの世界だけあって、男どもがいちいちアプローチしてくるのがうっとうしい。
「君の瞳は月の光のようだ」とか言ってくる侯爵家の三男。それ、契約交渉の場で言ったら不当表示ですよ。
「君を守りたい」とか言う騎士団長の息子。守りたいなら婚姻契約書に「保護義務」の条項を入れてください。
「君のためなら世界を敵に回してもいい」とか宣う公爵家の次男。やめてください。紛争の種をまかないでください。
——というか、全員、よりによって王太子の婚約者を口説いてくるの、政治的リスクの認識が甘すぎませんか。
それにしても、この世界は奇妙だ。法律は未整備のくせに、社交のルールだけはやたらと複雑だ。
お茶会の席順は爵位順。ダンスの申し込みは三日前まで。花束の色には意味があり、黒いバラは「決闘の申し込み」。——誰だ、これを決めたのは。民法もないくせに花束のマナーだけは判例集一冊分くらいある。
(法律を整備する前に、花束のルールを整備したのか、この世界。優先順位がおかしい)
前世の日本でも、法律は複雑だったが、少なくとも合理的な理由があった。この世界の社交ルールは、「昔からそうだから」で「なぜか」がない。弁護士としては、一番扱いにくいタイプだ。
ちょっといいなぁ、と思った子がいた。知的で、話が合って、笑顔が可愛くて——女の子だった。
名前はカタリナ。伯爵家の令嬢で、読書好きで、笑うと目がくしゃっとなる。この世界の法律の話をしたら、目を輝かせて「もっと教えて」と言ってきた。前世で法学部の後輩に慕われた時の感覚に似ている。——いや、似てない。もっとドキッとする。
乙女ゲーに百合ルートはありますか。ないな。この世界にもなさそうだ。残念。
周りの令嬢たちが「あの方とくっついた」「離れた」「またくっついた」と騒いでいるのを、冷めた目で見ていた。前世で離婚の案件を何十件も扱った身としては、「くっつく」のは簡単だが「別れる」のは大変だと知っている。せめて婚約破棄の際の補償条項くらいは確認しておきなさいよ——とは言わなかった。聞かれないし。
(貴族の子息令嬢のための学び舎というより、マッチングアプリならぬマッチング学校かよ。王国が経費を出しているから課金は不要だ。笑える)
学園で色々な令嬢や令息の話を聞いた。家同士の揉め事。婚約にまつわる不満。領地の境界線の争い。みんな「仕方がない」と諦めている。前世で依頼者から聞いた話と同じだ。「仕方がない」で済ませていた問題が、実は法的に解決できるケースが山ほどある。
細かく記録をつけた。誰が何を言ったか。どんな揉め事があったか。法典のどの条文が使えそうか。弁護士の習慣だ。メモ魔と呼ばれたが、気にしない。
カタリナが「ルイーゼ様はいつもメモしてますね」と笑った。「忘れっぽいんですか?」と聞かれたので「忘れないために書くんじゃない。忘れられない証拠を残すために書くの」と答えたら、「……格好いい」と小さく言った。
——ちょっと嬉しかった。
十五歳の時に、イレーネという令嬢と知り合った。
平民出身で光の魔法が使える。容姿端麗で、性格は——表面上は清楚で控えめ。周囲は「聖女様」と呼んでいた。
(この子、依頼者タイプでいうと「善意の被害者を装う当事者」に見える。弁護士の勘がそう言っている。証拠はないけど)
一度、決定的な場面を目撃した。廊下で、イレーネがエドヴァルトの前で涙を流していた。「ルイーゼ様に冷たくされて……」と震える声で訴えている。エドヴァルトが慌てて背中をさすっている。——その五分後、エドヴァルトが去った廊下で、イレーネは鏡を見ながら髪を直していた。涙の痕跡はなかった。表情は完全に切り替わっていた。
弁護士は、こういう瞬間を見逃さない。証拠にはならないが、仮説は立った。
エドヴァルトがイレーネに惹かれ始めた。私との会話が減った。
それを見ても感情的にならない。精神年齢三十四歳が十代の恋愛に嫉妬するのは無理がある。むしろ、この世界の料理がうまいことのほうが気になる。侯爵家の料理は絶品だ。最近のお気に入りは、厨房長が編み出した「羊肉の香草焼き」。厨房長の料理の腕が年々上がっている。——これが弁護士の投資対効果というものだ。
(乙女ゲーでは「王子様の愛」が報酬らしいけど、私にとっては羊肉の香草焼きのほうがよっぽどご褒美です)
十七歳から、イレーネが周囲に訴え始めた。
「ルイーゼ様に睨まれた」「花園から追い出された」
ルイーゼは学則に基づいた行動をしただけだ。だが、印象は悪くなっていく。
(これは——風評被害だ。事実ではなく印象で裁かれている)
噂が広まる構造を冷静に分析した。「ルイーゼ様に睨まれた」と訴えるのはイレーネ。それを聖女の言葉として無条件に信じるのは男性貴族たち。令嬢たちは半信半疑だが、声を上げると「女同士の嫉妬」と言われるから黙っている。——声を上げた側が「面倒な女」になる。世界が変わっても、この構造だけはしつこい。
なら、声を上げるのではなく、証拠を集める。感情ではなく、事実で戦う。
対策として、自分の行動を毎日記録し始めた。日時、場所、誰と会ったか、何を言ったか。前世の弁護士が訴訟に備えてメモを残すのと同じだ。証拠は、争いが起きてから集めても遅い。起きる前に集めておくのが鉄則だ。
噂のせいで、社交の場で居心地が悪い日もある。でも、弁護士は感情で動かない。——そう自分に言い聞かせていた時、カタリナが心配そうに「ルイーゼ様、大丈夫ですか。最近、変な噂が……」と言ってきた。
「大丈夫。噂は噂。事実は事実。——私は事実のほうで戦うから」
「……でも、辛くないですか?」
「辛いわよ。でも、辛いと負けるは違うの」
カタリナが、きゅっと手を握ってきた。
「私は、ルイーゼ様の味方です」
——この子が男だったら、恋愛フラグが立ってる場面なんだろうな。いや、女の子だからこそ、この真っ直ぐな言葉が刺さる。
三年間、毎日記録した。
そして二十歳。卒業記念舞踏会の夜。
四 断罪イベント発生
王宮の大広間。シャンデリアが輝いている。貴族二百名の正装。オーケストラの演奏。テーブルに並ぶ料理は一流だ。——あのローストビーフ、食べたい。
さて。来るだろう。
エドヴァルトが立ち上がった。背が高い。服が高い。顔もいい。——八年間の婚約期間で、その顔だけは見飽きた。イケメンだからといって何をしても許されると思っているとしたら、大間違いだ。法の前の平等に、顔面偏差値は関係ない。
「ルイーゼ・フォン・エーレンフェルト!」
(——来ましたか)
「お前の罪を、ここで明らかにする!」
広間が静まり返った。
(あーはいはい)
いや、絶体絶命のはずなのだが、不思議とワクワクしている自分がいる。前世の法廷でも、不利な案件ほど燃えるタイプだった。弁護士にはそういう連中が多い。どっかの少年漫画の戦闘民族みたいだ。
前世で事務所の電話に出たら「弁護士を出せ」と言われたことがある。「私が弁護士ですが」と答えたら、相手が三秒黙った。あの三秒、ちょっと気持ちよかった。——今日はそれ以上の快感が味わえそうだ。
ポケットに手を入れた。手帳がある。三年間、毎日つけてきた記録。四百ページ。びっしり。加えて、学園で色々な人の話を聞いて集めた情報。法典の条文。過去の紛争事例。全部ここにある。
前世、対立する弁護士に法廷の外で言われたことがある。「この案件、女の子には無理でしょ。先輩に代わったら?」——「男の子にできるかどうかは、判決が出れば分かりますよ」と返した。その案件、勝った。
今日もそれと同じだ。舐めた相手の顔が変わる瞬間は——ご褒美だ。
手帳を取り出した。
「殿下。ご発言を記録させてください。——正確な事実認定のために必要です」
広間が凍った。
「何を——」
「殿下のおっしゃる『罪』が事実であれば、わたくしは相応の責任を取ります。しかし、事実でなければ——殿下が二百名の前で侯爵令嬢の名誉を毀損されたことになります。どちらの場合でも、記録は必要です」
(弁護士の初動は「傾聴」でも「謝罪」でもなく「記録」だ。ツクヨから聞いた話では、凡人枠の先輩にあたる松田さんは「お話を伺わせてください」と頭を下げたらしい。あの人はクレーム対応のプロだった。私は弁護士だ。やり方が違う)
ちらりと広間を見た。カタリナが客席の端で、祈るように手を組んでいた。目が合った。カタリナが小さく頷いた。——応援、受け取った。
広間の空気が張り詰めている。二百人の貴族が、沈黙したまま成り行きを見守っている。誰一人として、口を挟まない。
——いい。この沈黙は、こちらの味方だ。
五 反対尋問
エドヴァルトが告発を始めた。
「第一に、お前はイレーネに嫌がらせをした!」
「第二に、婚約者としての態度が冷淡だった!」
「第三に、傲慢な振る舞いで周囲を——」
(三つも来た。——絶対に事前にリストアップしてきたな、これ。誰が書いたんだろう。イレーネか。こういうの、前世の訴訟でも見たことがある。「自分の言葉で」言っているように見えて、実は台本があるパターン。証人尋問で崩れるタイプだ)
「殿下。一つずつ整理させてください」
(ここからが弁護士の仕事だ。法律の知識は使えない。でも法的思考は使える。——一つずつ、崩していく)
手帳に目を落とした。
「まず第一の告発、『嫌がらせ』について。具体的な日時と内容を教えていただけますか」
イレーネが前に出た。目が潤んでいる。乙女ゲームのヒロインは、いつも目が潤んでいる。目薬がいらなくて楽そうだ。——いや、この世界にも花粉症はあるのだろうか。あるとしたら春先の法廷は大変だ。
(弁護士。集中しろ。花粉症の話は後にしろ)
「四月の花園で、『場違いだ』と言われました!」
「四月の何日ですか。午前ですか、午後ですか」
「え……覚えてないけど——」
「わたくしの記録によりますと——」
手帳を開く。
「四月にわたくしが花園を利用したのは三日間です。四月七日、十四日、二十一日。いずれも午後。学則第十五条に基づき、午後は上位学年の利用時間です。その旨を下級生にお伝えしたことはありますが、『場違い』という表現は使っておりません」
広間がざわめいた。
(証拠は争いの前に集める。三年間の記録が、今ここで武器になっている)
年長の侯爵夫人が小さく頷いた。
「記録を取っていたの……侯爵家の令嬢として、当然の備えね」
「第二の告発についても整理します。『冷淡な態度』——殿下、具体的にはどのような場面でしょうか」
「お前は一度も俺に——その、甘い言葉を言ったことがないだろう!」
(甘い言葉。——弁護士歴8年、甘い言葉を言う暇があったら書面を一本仕上げます。というか、こいつ、二百人の前で「甘い言葉が欲しかった」って言ってるのか。気持ち悪いこと言い出すねぇ、殿下……)
内心で苦笑いした。顔には出さない。弁護士は法廷で笑わない。
「殿下。婚約契約書の第三条には『双方誠意を持って交際する義務を負う』とあります。『甘い言葉を言う義務』は記載されておりません」
広間のどこかで、令嬢が小さく噴き出した。
「殿下がおっしゃる『冷淡な態度』が契約違反にあたるのであれば、契約書の該当条項をお示しください。——なければ、それは殿下の主観に基づく不満であり、法的な告発の根拠にはなりません」
エドヴァルトの口元が引きつった。
続ける。
「殿下。一つ確認させてください。この婚約破棄は——殿下のご意思ですか? それとも、どなたかの提案ですか?」
エドヴァルトが口を結んだ。「……俺の意思だ」
「では、イレーネ様にお聞きします。殿下に『ルイーゼ様の被害を公の場で明らかにすべき』と提案されましたか」
「そ、それは……私は被害者なのに……!」
「感情、証拠、事実、法律。全部区別すれば、大変なトラブルも解決が見えてきます。——『被害者かどうか』は、事実を確認してから判断することです」
観衆の令嬢の一人がぽつりと呟いた。
「私もルイーゼ様に睨まれたって聞いたけど……言われてみれば、直接見たわけじゃ……」
空気が変わり始めた。噂を広めた側が居心地悪くなっている。
仕上げに入る。
「殿下。ここまでの状況を整理します。第一に、嫌がらせの告発について具体的な証拠は提示されていません。第二に、殿下は二百名の前で侯爵令嬢の名誉を毀損する発言をされました。第三に——」
手帳のページをめくった。
「婚約契約書の第七条をお読みください。『一方的な婚約破棄の場合、破棄を申し入れた側が正当事由を立証する責任を負う』。殿下。正当事由の立証は——可能ですか?」
エドヴァルトの顔が青ざめた。
(前世の裁判と同じだ。法律の条文が違うだけで、「立証責任」の構造は変わらない。主張する側が証拠を出す。出せなければ、主張は通らない。この原則は、日本でも異世界でも同じだ)
六 和解交渉
(ここからが本当の勝負だ。——ただし、前世の法廷とは違う)
(相手は権力者だ。王子だ。こちらが法律と契約だけ振りかざしても、最悪、権力でひっくり返される。「王命により婚約は無効とする」と言われたら終わりだ)
(だから戦略を変える。法律は武器として使うが、勝負を決めるのは「空気」だ。広間にいる二百人の貴族を味方につけて、王子に「折れたほうが自分に有利だ」と思わせる。追い詰めるのではなく、折れるための花道を用意する)
(私が心がけている交渉の極意——敵を潰すのではなく、敵を自分の勝利の女神にする。相手が自分から「はい」と言う状況を作るのが、一番確実な勝ち方だ)
声を落とした。広間全体に聞こえる声から、エドヴァルトにだけ届く声に変える。——いや、周りにも聞こえるように。聞こえないふりで聞いている二百人の貴族が、こちらの最大の武器だ。
「殿下。わたくしは、あなたを法的に追い詰めることもできます。でも、それは望んでいません」
「——むしろ、殿下をお守りしたいのです」
広間がざわめいた。断罪された側が、断罪した側を「守りたい」と言っている。
「殿下がこのまま婚約を破棄されれば、記録には『証拠なき断罪を行った王子』と残ります。それは殿下の名誉にとって——不利ではありませんか? 王家の徳に傷がつくことは、どなたも望んでいないはずです」
エドヴァルトの表情が変わった。怒りが消え、不安が見えた。
(そう。こっちが本当に守りたいのは自分の名誉だ。でも、相手にも「守られている」と感じさせれば、交渉は味方になる。敵こそ、自分の勝利の女神だ)
「和解を提案させてください」
「……和解?」
三つの条件を提示した。
「第一条。婚約の解消は『断罪による破棄』ではなく、『双方合意による円満解消』として記録する。殿下の名誉は守られます。わたくしの名誉も守られます」
(前世の家事事件と同じだ。離婚でも、「泥沼の裁判で決着」より「合意書を交わして協議離婚」のほうが、双方にとって傷が浅い)
「第二条。婚約期間中にエーレンフェルト家が王家のために負担した社交費用・贈答品の実費精算。それと、わたくしの領地経営への不干渉を王家が保障する勅書」
(企業法務の発想だ。M&Aが破談になった場合のブレイクアップ・フィーと同じ構造。感情ではなく、実費と機会損失で算定する)
「第三条」
ここで声を少し上げた。周り全員に聞こえるように。
「公の場での貴族の断罪を禁止する勅令を出していただくこと。今後、貴族間の紛争は勅裁議会——仲裁機関を通じた手続きで処理する」
広間が静まった。
(自力救済の禁止。つまり、裁判等の正式な手続き以外で権利を強制的に実現してはならない。前世の日本では当たり前の原則だ。この世界にはまだない。——なら、今日作る)
「この条項は、わたくし個人のためではありません。——誰かが断罪する。誰かが断罪される。どちらの味方につくか。そんなことにエネルギーを使うのは、勿体ないと思いませんか?」
広間の空気が変わった。
「断罪する側も、される側も、正式な手続きで解決できるなら——みなさま、もっと大事なことにお時間を使えるのではないでしょうか」
広間にいる貴族令嬢の全員が気づいた。もしかしたら自分がルイーゼの立場だったかもしれない、と。
年配の伯爵夫人が声を上げた。
「——ルイーゼ嬢。わたくしからも王家にお願いしたい。この制度改革は、全ての貴族にとって必要なことです」
一人が声を上げると、次々と賛同が広がった。政治的に「ルイーゼの味方」になることが、正しい判断として成立していく。
声を上げたのが伯爵夫人だったのが、大きかった。男性貴族たちは「女の揉め事」と思って働かなかったが、女性たちが動いた。
(前世でも同じだった。制度を変えるのは、制度に困っている人たちだ。困っていない人は、変える理由がないから動かない。——だから、困っている側が声を上げるしかないのだ)
ルイーゼが求めたのではない。制度の正しさが、自然と支持者を集めた。
エドヴァルトが長い沈黙の後、頷いた。
「……分かった。和解に応じる」
(——勝った)
ただし顔には出さない。弁護士は、和解が成立した瞬間にガッツポーズをしない。相手の顔を立てるところまでが仕事だ。
七 ざまあの味
和解が成立した後。
一人の若い令嬢が小声で言った。
「——あの方、怒ってすらいなかったわ」
別の令嬢が答える。
「怒るより先に、仕組みを変えた。……あんな方、初めて見たわ」
(怒っていない?——まあ、ちょっとムカッとはしたけど。証拠もなしに公開で断罪されたら、誰だってムカッとする。でも弁護士は、ムカッとした気持ちを「じゃあどうすれば解決するか」に変換する職業だ。怒るより、勝つほうが楽しい。そして勝つより、仕組みを作るほうがもっと楽しい。——この感覚が伝わるかどうかは分からないけど)
テーブルに戻った。ローストビーフが残っていた。
食べた。うまかった。そうだ、これが一番大事だ。
ついでに海老のグラタンも食べた。絶品。チーズのカナッペもつまんだ。最高。婚約破棄の和解金より、このチーズのほうが価値がある。——嘘です。和解金のほうが大事です。弁護士ですから。
(次の人生でも、美味しい料理のある世界に転生したい。ツクヨ、次の転生先の選定基準に「食事の質」を入れてください。予算で無理なら、せめて「厨房長が優秀」のオプションを)
チーズをもう一切れつまんだところで、カタリナが駆け寄ってきた。目が真っ赤だ。
「ルイーゼ様っ……!」
「泣いてるの? 私が勝ったのに」
「だって……だって、ずっと一人で準備してたんでしょう? 三年間も……。私、何も力になれなくて——」
「なったわよ」
「え?」
「断罪が始まった時、あなたが客席で頷いてくれたの、見えた。——味方がいると分かった。それだけで、声が出しやすくなった」
カタリナの目がさらに潤んだ。——この子は本当に泣き虫だ。でも、その涙は嘘じゃない。前世で何百人もの依頼者を見てきたから、嘘泣きと本物の涙の区別はつく。
「ルイーゼ様。ルイーゼ様は、本当に格好よかった」
「ありがとう。——ねえ、カタリナ。今度、お茶でもどう? 婚約契約書の読み方、教えてあげる」
「……それ、デートの誘い文句としては史上最低だと思います」
「前世でもそう言われた」
「前世?」
「何でもない。——で、お茶、来る?」
「……行きます。絶対に」
カタリナが泣きながら笑った。泣き笑いの顔がまた可愛い。この子が女の子じゃなかったら——いや、女の子だからこそ、この関係が成立するのかもしれない。
(乙女ゲーに百合ルートは? ——ないか。でも、攻略対象の男より、こっちのほうが圧倒的にいい)
その後、エドヴァルトが近づいてきた。人がまばらになった後で、一人で。
「……ルイーゼ」
「殿下。和解契約の写しは明日お届けします」
「そうじゃない。……その、悪かった」
目をそらして、小さな声で。不器用だが、嘘ではないと分かる。耳の先がほんのり赤い。
(……乙女ゲーなら、ここで「きゅん」とする場面なんだろうな。こんな生意気なガキにキュンなんてしない。しませんよ。——耳が赤いのは、まあ、ちょっとだけ可愛いと思ったけど。ちょっとだけ)
「謝罪は受け入れます。——ただし殿下、次に誰かを断罪したくなったら、まず証拠を揃えてからにしてくださいね」
「……善処する」
「あ、もう一つ。イレーネ様のことですが」
「……何だ」
「彼女を責めないでください。——殿下が彼女のために動いたのは、殿下の決断です。彼女が悪い人かどうかは、もう少し時間をかけて見極めてもいいと思いますよ」
エドヴァルトが目を見開いた。断罪された側が、自分を公開で糾弾させた張本人を庇っている。
「お前は……怒ってないのか」
「怒ってますよ。でも、怒りと判断は別物です。——殿下も、そこを覚えたら、いい王になれると思いますよ」
エドヴァルトが背を向けて去った。背中だけ見たら、わりと様になっている。顔がいいのは認める。ただし、顔がいいだけで「俺の意思だ」とか言い出すのは勘弁してもらいたい。
(まあ、若いってことは、そういうことだ。もう少し大人になれば、まともな男になるかもしれない。——その時は婚姻契約書のレビューくらいは引き受けてあげよう)
対立して終わるのは、二流だ。
婚約は解消した。だが、仲が悪くなったわけではない。王太子は権力者だ。勅裁議会の設立にも協力してくれた。——なら、次は一緒に、もう少し大きな仕事ができるかもしれない。
(社交のルールは判例集一冊分あるのに法律は未整備。花束の色には意味があるのに契約書には議論がない。——この世界、変えられるところは山ほどある)
(王太子と手を組んで、法整備。契約文化の定着。紛争解決の仕組み作り。——そして、平和な世の中で、羊肉の香草焼きを安心して食べられる未来を守るのだ。それが凡人の、凡人による、凡人のための社会改革というものだ)
——そう思ったら、ちょっとだけ、先ほどの耳の赤い王太子が、頑張れよって思えた。
(——キュンじゃないですよ。協力者としての評価です。弁護士ですから)
八 ツクヨ報告
夢の中。転生管理局。
ツクヨがカウンターの向こうにいた。いつものとんがり帽子にマント。弁護士会のハロウィンパーティーを思い出すチープさは相変わらずだ。——いや、今日はスーツを着ている。ネクタイが曲がっている。コスプレの上にスーツを着たのか。
「橋本さん。お疲れ様です。定期報告なんですが——」
「ネクタイが曲がっています。あと、マントの上からジャケットを着るのはやめてください」
「あ、すみません。弁護士の方だからスーツで……」
「いつものコスプレで構いませんよ」
「中村さんにも松田さんにも同じこと言われました。——さて、和解の件ですが」
「はい」
「上層部がまた騒いでいます。チートなしで婚約破棄の補償を取り、勅令で制度改革まで達成した。報告書を提出したら、『チート欄に記載漏れがないか再確認しろ』と——」
「何回ですか」
「三回です。中村さんの排水溝掃除の時は五回でしたが」
「五回。……排水溝掃除で何があったんですか」
「『排水溝掃除で領地復興は説明がつかない』と言われまして。いえ、本当に排水溝を掃除しただけなんですけど」
「法的思考で問題を解決しても説明がつかないのと同じ構造ですね。——凡人の仕事は、見た目が地味すぎて信じてもらえない」
「まさにそれです。ところで、A級チートの悪役令嬢のほうの経過報告ですが」
「ああ、聞いておきましょう」
「ある世界では、最強魔力の悪役令嬢が断罪イベントで王子を返り討ちにしまして、その後『ざまぁ』した相手が報復のためにB級チートの刺客を送り込み、刺客を倒したら今度は隣国が介入し、戦争になり——」
「二次紛争、三次紛争ですね。前世でもありました。裁判に勝った後に、相手が逆提訴してきて泥沼になるパターン。——勝つだけでは、解決にならないんです」
「和解のほうが——」
「ええ。落としどころを見つけて、双方が納得して、再発防止の仕組みを作る。地味ですけど、一番確実です」
「それを、上層部にも伝えておきます」
「お願いします。あと一つ」
「はい?」
「あのネクタイの結び方はプレーンノットですね。ウィンザーノットにしたほうがシャツの襟に合いますよ」
「結び方に種類があるんですか……?」
「四種類は覚えてください。社会人の基本です」
「転生管理局の職員にも適用されるんですか、それ」
「適用します。マントの上からスーツを着る人に甘い顔はできません」
ツクヨが報告書を書いている。ちらりと見えた。
【凡人枠 派遣報告書(抜粋)】
対象者:橋本理沙(享年34歳 → ルイーゼ・フォン・エーレンフェルト)
前職:弁護士(家事事件+企業法務)
チート付与:なし
派遣成果:
- 婚約破棄の和解成立(双方合意・名誉保全)
- 実費精算+領地経営の不干渉保障を獲得
- 「公開断罪禁止令」の制定
- 勅裁議会(王立仲裁機関)の新設
コスト:マント1着、杖1本、手帳1冊、羊皮紙若干
備考:
「法律の知識」は異世界では使えない。
しかし「法的思考」は使えた。
事実と感情を区別し、証拠を読み、契約を確認し、
手続きで解決した。
法律を「知っている」のと「使える」のは、別の能力。
前回の藤堂さん(外交官)は「法律を作った」。
橋本さんは「法的思考で制度を変えた」。
作るのと使うのは、別の才能らしい。
——凡人枠、ROI記録更新。
「ところで、橋本さん」
「はい?」
「今回の件で上層部が喜んでいまして。——次の凡人枠の候補者が決まりました」
「どんな人ですか?」
「前世が税理士です。悪役令嬢の領地の税制を改革するそうです」
「……税理士。それは楽しそうですね」
「チートなしで」
「当然でしょう。確定申告にチートはいりません」
「もう一人、前世が産婦人科医の方も候補に。悪役令嬢の身体検査で大貴族の秘密を——」
「すみません、それ以上は守秘義務の観点から聞けません。弁護士なので」
「……やっぱり扱いにくいです、弁護士」
夢が薄れていく。最後に聞こえたのは、ツクヨの「凡人枠の人材リスト、法務系は一人で十分だな……」という独り言だった。
◇ ◇ ◇
朝。
エーレンフェルト領に戻る馬車の中で、早馬が追いついてきた。
手紙を開いた。
隣国の伯爵夫人から。
『婚姻契約の不備について、ご相談したいことがございます。つきましてはルイーゼ嬢にお目にかかりたく——』
また仕事だ。
もう一通。こちらはカタリナから。
『お茶のお約束、いつがよろしいですか? 先日のルイーゼ様のお姿が忘れられなくて、毎日思い出しています。——あと、婚約契約書の読み方、本当に教えてくださいね。父に「婚約する前に契約書を読みたい」と言ったら、ものすごい顔をされました』
馬車の中で思わず笑った。その子の婚約には、ぜひ立ち会わせてもらいたい。相手の家に契約書の不備があれば、指摘してあげよう。無料で。——いや、お茶を一杯、奢ってもらおう。
弁当箱を開けた。厨房長が持たせてくれた書類——じゃない、旅路弁当だ。中身は、羊肉の香草焼き、チーズのタルト、季節の果物。美しい。うまい。
(この世界、法律は未整備だけど料理はすごい。——結局、これが一番の収穫かもしれない)
手帳を開いた。新しいページに、新しい案件を記録し始める。
「感情、証拠、事実、法律。全部区別すれば、大変なトラブルも解決が見えてきます」
前世で何百回と言ったこのセリフを、異世界でも言い続けることになるとは思わなかった。
でも——それでいい。
凡人は、凡人の仕事をする。
地味に。静かに。でも——確実に。
(完)
お読みいただきありがとうございます!
「法律の知識は異世界では使えない。でも法的思考は使える」——そんなお話を書いてみました。
現実世界の弁護士の仕事は、実はとてもシンプルです。 「事実と感情を区別する。証拠を集める。論理で組み立てる。落としどころを見つける」。 でもそのシンプルなことを、感情が渦巻く場で冷静にやり続けるのは、途方もなく難しい。
全国の法律家・士業の皆様に、心からの敬意を込めて。
☆評価・ブックマーク・感想——どれか一つでも、ものすごく励みになります。
凡人枠シリーズ初の長編連載、毎日更新中です。
排水溝を直し、台帳を作り、十三歳の少女領主に予算の組み方を教える——チートなしの元地方公務員が、ぶっ壊された領地を「普通の行政」で立て直す全三十九話。 短編版を読んでくださった方にも、初めての方にも楽しんでいただける構成にしています。
→【連載版】チートで荒らされた領地に赴任したら、前世が地方公務員だったので普通の行政で立て直すことにした
同じ世界観(転生神ツクヨ × 凡人枠)の短編もあります: → 悪役令嬢、断罪されたので謝罪します ~前世が百貨店クレーム対応部長(勤続25年)なので、プロの謝罪で全員黙らせてもいいですか?~




