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火加減の話から始めよう。  作者: 小柳純


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1.黄金出汁

 



「たくさん泡が出てきたら、昆布を取り出します。」


 (しずく)はトングを使い、大きくなった昆布を取り出していく。昆布から滴る出汁が落ちるのを待ち、捨てるのではなく、ボウルへと入れた。これは、後にまた使うという合図だ。


「それから一度沸かし、灰汁(あく)をすくったら…。」


 お玉の裏で浮いた灰汁を隅に寄せ、出汁を無駄にしないように掬う。


「火を止めて。…鰹節(かつおぶし)を入れるんです。それで、沈むまでゆっくり待つ……。昆布も鰹も、沸騰させてしまうと、雑味が出ることと、風味が飛びすぎてしまうと………。あの…。結城(ゆうき)さん?」


 雫は助けを求めるように、後ろへと振り向いた。

 結城と呼ばれた男は雫へと優しい笑顔を向ける。


「ああ、ごめんね。大丈夫。非の打ち所のない、理想的なお出汁の引き方だよ。」


 結城は、並んだ火口の上、飛び出た棚に重ねて置かれた小さな鍋を手に取った。沈み始めた鰹に触れないように上澄みを何度か掬い、小鍋へと移す。

 コンロの傍に置かれた調味料。手のひらに乗せた塩をひとなめした男は、それを鍋に2つまみ。さらに、薄口醤油を数滴垂らした。


 吸い地(す じ)


 それは、この一番出汁を飲むための最低限の味付けであることを雫は理解する。

 小皿にそれを取った結城はそれを一口飲み、軽く器を水で流したあと、もうひとさじ掬った吸い地を少女に差し出した。


「……違います。お父さんのお出汁はもっと、香りが…。」

「そうだね。一哉(かずや)さんは吸い地だけは血合い抜きのまぐろ節を使ってた。鰹じゃなくてね。冷凍庫に入れていたんじゃないかな?ほら、その下の。」

「…えっ……。」


 雫は慌てて、ひとつの扉を開ける。

 真空密閉された削り節。結城は今、血合い抜きと言った。聞きなれない言葉の意味は、その削り節を一目みただけで理解する。先の鰹節にあったような色の濃い部分が無い。


「まぐろ節…。これって、種類あったんだ…。なんか違うのもあります。」


 同じ冷凍庫にあった、別の削りを手に取る雫。こちらは、血合いどころかやや色が汚くも見える。


「なんだろうね、(さば)か…。複数入っているように見えるから、めじかやうるめなんかの混合節かもしれないね。」

「結城さんでもわからないことがあるんですか?」


 結城は当然だよと自嘲するように笑う。


「僕がここに居たのはもう六年も前のことだ。料理は変わり続けるよ。」


 雫は思う、日本料理とは伝統的な料理のはず。

 居酒屋や家庭料理のように新しいレシピをどんどんと増やすものではないはずなのにと。


「だから、さっき僕が引いた白出汁と、雫さんが引いたものは違ったんだ。違う?」


 雫はハッと思い返す。そうだ、私が今気になっているのは、吸い地用の出汁ではない。そのほかの全ての料理に使われていた出汁。それはこの調理場に残っていた昆布と鰹節から出来るはずであったのに、雫の思う通りにはいかなかった。

 結城の目の前にある鍋。そこに入っている黄金色をしたそれこそが、雫の求めていたもの。


「違わないです。…私の引き方は間違ってはいないけど、新しいやり方があるということですか?」

「うん、そうだね。…じゃあ、一からいこうか。」

「!…おねがいします!」




 ────




 結城は濡れ布巾で拭いた昆布を、鍋に張った水へと浸け、火にかけた。

 あれほどに濃い色の出汁だったのに、分量は雫が入れた量と同じだ。


「時間はあるからね、せっかくだから出汁について考えてみようか。」

「出汁についてですか?」


 結城はひとつ頷き、出汁について知っていることをと、雫に質問する。


「昆布と鰹の旨味だけを出したものです。あらゆる料理の基礎になります。」

「…うん。そうだね。他には?」

「他に……。煮干し、干し椎茸、飛び魚?のお出汁もあるはずです。お父さんは使っていなかったけど。」

「うん。飛び魚はいわゆるあご出汁というやつだ。その通り、料理屋で使われるいわゆる白出汁は、昆布と鰹が一般的だ。僕はその他も使うことがあるし、一哉さんも使っていたことはあるんだけれど、それは追々教えよう。」


 雫はどうしても気になってしまうが、今は遮ってはいけないと口を噤む。


「出汁はそうだね…、旨味の溶け出した美味しい水。旨味については、学校で習ったかな?」

「はい、専門学校では…、甘味、苦味、酸味、塩味、旨味の五種類を、五味と呼ぶと習いました。」

「なるほど。…今はそういうのがあるのか。」


 旨味とは、言葉としてはよく聞くが、分かり辛いものである。

 他の四つ、甘味や酸味などは、どういう味かと言われればすぐに想像が付くものだが、旨味だけはピンと来ない。これは、特定の味覚を差すものではないからだと結城はやや難しそうに言った。


「人参を食べれば人参の味が、玉ねぎを食べれば玉ねぎの味がする。あれらは全部が旨味だ。あらゆる食材は、それぞれの旨味を持っている。でも旨味というのは、それ単体では舌に乗らない。それはわかるよね。」

「はい、塩を入れてないお出汁は、美味しくはありません。」

「そう。旨味には適切な塩味が必要、それがあって初めて舌に乗るんだ。醤油をつけていないお刺身だって、塩をせずに焼いたお肉だって、とてもじゃないが食べれたものではないね。」

「確かに…。そうです。」


 分析はされているのだ。昆布の旨味はグルタミン酸という成分であること、鰹節にはイノシン酸、椎茸にはグアニル酸、それは学校で習ったことだ。


「うん。でも例えば、玉ねぎの旨味だってグルタミン酸だ。それに…、よく聞く味の素だって殆どがグルタミン酸。じゃあ、お湯に味の素を溶いたら昆布出汁になるだろうか。雫さんなら分かると思うけれどこれが全然違う。玉ねぎは玉ねぎの出汁、味の素なら味の素の味にしかならない。」

「はい。それは、分かると思います。外で食べる、味の素の味をしたお料理はあまり好きではないかも…しれません。」

「ああ。僕もだよ。でも、味の素の旨味というのはとても舌に乗りやすいし、簡単に美味しくはなる。だからこそ逆に、あれに慣れ過ぎると他の食材の味が分からなくなるんだ、それが無いと美味しさを感じられないほどにね。雫さんは、まだしばらく触らない方がいいかもしれない。」


 結城は、チラリと調味料が集まった場所を見る。

 そこには間違いなく、父の使っていた味の素が置いてあった。


「…どうしてお父さんは使っていたんでしょう…。」

「ん、ああ。僕も使うよ?…京都で老舗と言われるような高級料亭でも、古い旅館でも、使うところの方が多い。これを旨味として使うことはないけれど、調味料としては優秀なんだ。…それはまたいつかだね。」


 …目から鱗だった。結城は続けて言う。味の素とハイミーは使い分けることもあるね。と。何故か勝手にお店では使ってはいけないような、なんだか悪者のような、そんな風に思い込んでいたから。




 昆布を入れた鍋の底にフツフツと泡が出始める。やがてその泡が大きくなり、増えていくのと同時に、真っ白な灰汁が浮き始めた。

 結城は雫がやったように、お玉でそれを丁寧に掬い、ボウルへと捨てていく。


「昆布、出さないんですか?」

「うん。見てて。」


 沸騰しかけている、結城そんな状態をキープするように火を落とした。そして、弱火のままぐらぐらと昆布を煮始める。こんなの、どこでも習ってはいない……。あんなに高い温度で昆布を出してしまっては、えぐ味が出てくると習ったのに…。


「続けようか。旨味と出汁のお話を。」




 ────




 何故、昆布と鰹が使われるようになったのか。


「単に旨味が多かったんだ。出汁を引くのに適していた。乾燥させた昆布と、燻した鰹。一体誰がこんなことを思いついたのかなんて調べたことはないけれど、これを最初にやろうと思った日本人は偉大だと思うよ。」


 それに出会えた日本人は、運が良かった。

 世界中を見ても、こんなにシンプルで美味しいお出汁を引ける国はないのだと結城は続ける。


「まあ多くはお肉だ。出汁の文化がちゃんとあるのは、例えばフランス料理。彼らは牛肉、鶏肉なんかから出汁を引くね。」

「でも…臭いですよね?」

「そうだね、だから西洋料理はハーブの文化がある。牛すね肉に、玉ねぎ、人参、セロリなんかの香味野菜(ミルポワ)。それにブーケガルニなんて呼ぶけれど、ハーブの束を入れるんだ。この昆布の比じゃない、出汁が濁るほどの強烈な灰汁を、時間をかけて丁寧に取っていくと、澄んだ出汁が引ける。」

「それが、白出汁のようなベースに?」

「これが万能じゃないんだ。特徴がありすぎて。」


 牛の旨味が強すぎて、全てがその味になってしまう。そのため鶏の出汁、魚の出汁、野菜のブイヨン、料理ごとにそれらを使い分けるのだ。さらには、同じ牛から引く出汁も、用途に合わせて引き方まで変わる。そのまま塩アタリをつけてスープにするもの。あるいは、さらに煮詰めてソースとするもの、シチューとするもの。


「なんか…大変なんですね。」

「そうだね、でも美味しいよ。昆布や鰹なんかの強い出汁に出会えなかった代わりに、沢山の食材を入れるフランス料理の出汁、あるいは中国の(タン)なんかもそうだけれど、どちらも沢山の食材から少しづつ出すからこそ、沢山の種類の旨味が詰まっている。さらにそこからソースを作るためには、果汁だったり、リキュールなんかを、足して足して、煮詰めていくんだ。複数の濃い旨味が合わさり混沌とした状態。…これを、僕らはコクと呼ぶよね。」


 コクがある。それは一般的には結城の言う通り、複数の旨味で、いったいなんの味かが分からなくなるほどに旨味の奔流がある状態を呼ぶ。

 ハッと、雫は気づく。


「結城さんのお出汁には、コクがあったように思います。……もしかして、昆布を火に掛け続けるのは。……雑味が、コクになるんですか?」

「うん。正解。」


 ようやく昆布を取り出した結城。今度は鰹節を、やはり雫が使ったのと同量を入れるのだが、雫と違うのは、その火を落とさないことだった。

 鰹節に蓋をされ、まるで沸騰するかのように泡がその蓋を押し上げようとする。結城はその蓋の中央にあつまった鰹節を押し分け穴をあけると、やや鰹が対流するほどに、弱く沸騰した状態をキープした。


「鰹節も、やっぱり沸かすんですね…。」

「吸い地ならさっきの雫さんの引き方でいいんだ。雑味が無くて香り高い。出汁だけを飲んで美味しいと思ってもらうためには、いかに洗練させるかが大事。でも例えば、煮炊きやお鍋、炊き込みご飯なんかに、その僅かな雑味とか、落ちた香りが気になるかっていうと、分からないんだよね。」

「そう、ですね。そうだと思います。」

「香りを取るか、旨味を取るか。でもこれって、ここ十年くらいでやるようになったことだし、今でも、さっきの引き方で出汁を取るお店は沢山ある。まあ、インターネットには載っていないだろうね。」


 …何かを言い当てられたような気分だった。父から教わらなかった何かを探して開いたインターネットで見た料理の記事は、どれを見ても、さっきの引き方が正解として載っていたから。


「香りをさらに高めるなら、血合い抜きの削りを使うし、あるいは鮪節を使う。高いけどね。逆に雑味どんとこいで旨味とコクを求める場合も削りを変えたりするんだけど…。」

「……あ。」


 さっき見た、何かの混合削り節…!


「例えば、うどん屋さんなんかだと、複数の昆布のベースに、鰹、鯖、他にも入れたりするのかな、それをね、強火でガンガン炊くんだ。さすがに信じられないよね。ちょっとあからさまなくらいの削りだ!っていう強い香りと、飲んで美味しい強い出汁の引き方だよ。……まあ僕らはそこまではしないけど、例えば僕だと、懐石の中に麺類を入れるときなんかには、それ用のお出汁を合わせたところに、パックに分けた混合節を入れておくんだ。それだけでも充分、強めの香りが移る。」

「あの!メモを、取ってもいいですか?」

「もちろん。ごめんね気が効かなくて。」


 いえ!と雫は慌てる。

 手近な紙の裏に、教わったことを殴り書きで書いていく雫。結城はそれを覗き込みながら、沢山の補足を加えていった。昔は昆布出汁が最も出るのは沸騰寸前だと言われていたが、今は60℃ほどであること。店によっては温度計を差したまま一時間鍋の前から動かないところもあるらしい。

 昆布の種類によってやはり味が変わること、昆布と鰹にも相性があり、何故か鰹が全然出なくなったり、入荷がなかったのだと代わりの昆布が来た時に、同じ利尻昆布なのに何故か、鰹節を入れた途端に出汁が濁ってしまったこともあるらしい。




「味付け、って…言葉悪いですよね。」

「ふふ、そうだね。旨味に塩味を足すことを味付けって呼んじゃうから、まるで塩の方が味みたいになるんだよね、逆なのに。料理屋ではそうは呼ばないけど。」

「アタリ、ですか?」

「そうだね、アタリをつける、アタリを取る。上司に確認してもらうなら、アタリを見てもらうとか言うかな。」


 今更変えられる言葉ではないよねと結城は笑う。




「旨味に塩味が乗って美味しくなる。苦味や酸味がそれに特徴を与えるものだというのは分かります。…甘味って変ですよね?」

「そうだね。実はさっき言ったことと矛盾するんだけど、甘味は、それだけで舌に乗る旨味だと思ってくれたらいいよ。砂糖が分かりやすいけれど…例えば白ご飯なんかもそうだよね。」

「……分かりやすいです。」

「でも旨味としても使いやすいんだ。砂糖だけじゃない、水飴、蜂蜜、そういうのも使うことがある。甘味をコクの手段にするのは、日本料理だけかもしれないね。」


 確かにと雫は納得する。煮物、特に魚の煮付けなどは沢山の砂糖で甘くするが、それを料理として当然のように食べるのは、日本だけかもしれない。




「そういえば…、ほんだしとかってどうなんですか?」

「使うよ?あまり高くないお店なら、味噌汁は顆粒出汁だったり、吸い地以外はそれを使うお店もある。」


 但し、と結城は重ねる。よくスーパーで見る市販のほんだしは鰹だけの物が主流だ。鰹と昆布は合わさってこそ美味しくなるので、昆布入りのものを探すといい。そう注意した。


「あとは、最近は出汁パックっていう便利なものが売ってる。鰹節なんかを細かく砕いてお茶のパックみたいなのに入ったやつ。でも注意しないといけないのは、塩でね。」

「塩ですか?」


 顆粒出汁も出汁パックも、あるいはコンソメなんかもそうなのだが、市販の多くのものには塩が入っている。あれはなんのためにあるのか分からないが、ただ邪魔になる。入ってないものもあるからそれがオススメなのだと重ねた。


「例えば、味噌汁なんて味噌の味がしてほしいのに、出汁が最初からしょっぱいと、あまり味噌を入れられなくなるんだ、わかる?」

「あ、…わかりました。」


 旨味に対するちょうどいい塩味。

 それは不足すれば旨味を充分に感じられなくなり、多ければ当然、しょっぱく感じる。


 雫が教わったことをまとめた頃、さて、と結城は鰹節の踊る鍋に目を向けた。




 ─────




 ザルに出汁引き用の布を噛ませ、それを漉していく。その時も、鰹節は絞らないというのが通説だけれど。と結城は前置きをした上で…。


「鬼のように絞ります。」

「え。」

「同じだよ。雑味は出る。でもここが一番美味しいんだよ、勿体ないでしょシンプルに。」

「はい。そうですね……。」




 鰹節の入ったザルをどかす結城。

 その下に現れたのは、雫が引いたものとは全く違う。濃い黄金色をしたスープだ。


「これが最近の流行り、黄金出汁って呼ばれるものだね。」






こういうかんじです。

ストーリー的な部分は追々。



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