第38話:名前という免罪符
変化は、静かだった。
境界の前で、久遠が立っていると、声がかかる。
「……久遠さんですよね?」
確認。
助けを求める声ではない。
保証を求める声だ。
「あなたが一緒なら、大丈夫ですよね」
久遠は、すぐには答えなかった。
最近、この問いが増えている。
名を名乗ることが、帰還率を上げる。
その認識が、広まり始めていた。
「……大丈夫じゃない」
久遠は、低く言う。
「俺がいても、死ぬときは死ぬ」
相手は、一瞬だけ黙り、それから言う。
「でも、久遠さんが“判断した”ってなれば……」
そこまでだった。
久遠は、視線を上げる。
「それは、責任の押し付けだ」
相手は、言葉に詰まる。
「帰れなかったら、俺のせいにできる」
「帰れたら、俺のおかげにできる」
「それは、判断を放棄している」
久遠は、一歩下がった。
「俺は、免罪符にはならない」
その日。
別の区画で、事故が起きる。
編成の中心にいたのは、久遠ではない。
だが、記録には、こう書かれていた。
「判断補助:久遠一等冒険者(同意)」
久遠は、その文を見て、目を閉じた。
名が、勝手に使われている。
管理課に、呼び出される。
「……君の名前が、便利に使われている」
課長代理が言う。
「分かっています」
「止められない」
「でしょうね」
久遠は、静かに答える。
「だから、次は“線”を引きます」
「線?」
「俺が判断した場合だけ、俺の名前を使え」
課長代理は、眉をひそめる。
「それは…… より責任が集中する」
「はい」
久遠は、頷いた。
「だから、俺は判断しない場面を増やす」
夜。
境界。
声が、聞こえる。
「……久遠さん、どうすればいいですか」
久遠は、しばらく沈黙し、こう答えた。
「自分で決めろ」
冷たい言葉。
だが、嘘はない。
「俺は、お前の代わりに選ばない」
境界が、静まる。
数秒後。
「……帰ります」
その声は、震えている。
「それでいい」
ゲートが、開く。
一人、帰還。
久遠は、その場に残る。
記録板。
同行帰還:0
判断放棄誘導:1
新しい項目。
久遠は、それを刻んでから、板を閉じた。
名前は、人を救う。
同時に、人を怠惰にする。
久遠は、ようやく理解した。
名前を名乗ることより、名を使わせないことの方が、難しい。
それでも。
境界に立つ者は、選択を奪ってはならない。
それが、次に支払う代償だった。
第38話では、
「英雄名が免罪符になる危険」を描きました。
久遠は、“判断を引き受ける人”から、“判断を返す人”へ立場を変え始めています。




