第36話:無名が増える日
最初は、偶然だと思われていた。
報告書の片隅に、同じ文言が並び始める。
「同行者:無名」
「名乗りなし」
「識別不可」
管理課の分析室。
端末を操作する職員が、眉をひそめる。
「……増えてるな」
「何が?」
「“無名帰還”だ」
画面には、直近一週間のデータ。
久遠だけではない。
二人、三人、別の冒険者も、名を名乗らずに
境界から人を連れ戻している。
「模倣、ですか?」
「違う」
上席分析官が、首を振る。
「模倣なら、事故率が跳ね上がる」
「だが、今回は……」
数字を示す。
生還率:横ばい
精神崩壊率:微減
「……改善している」
現場。
境界付近。
久遠は、今日も名を名乗らない。
声をかけられる。
「……あんた、名前は?」
「いらない」
短く答える。
相手は、少し考えて、それ以上聞かない。
最近、こういう反応が増えた。
名前を聞かない。
名前を期待しない。
代わりに、判断を自分に戻す。
「歩けるか」
「……はい」
「なら、ついて来い」
それだけで、十分になりつつあった。
だが。
当然、反発も出る。
「無名は危険だ」
管理課内、安全派の声。
「責任の所在が不明確になる」
「問題が起きた時、誰が裁かれる?」
「誰も裁けない」
それは、制度にとって、最も不都合な事態だ。
久遠は、呼び出される。
久しぶりに、正式な会議室。
「無名行動が、増えている」
課長代理が言う。
「君が、起点だ」
久遠は、否定しない。
「……止めろ、とは言えない」
課長代理は、苦い顔をする。
「だが、放置もできない」
「分かっています」
久遠は、静かに言う。
「だから、俺は前に出ません」
課長代理が、目を上げる。
「俺は、誰も引っ張らない」
「ただ、立つだけです」
「それでも、人が帰れるなら、それでいい」
沈黙。
「……制度としては、最悪だな」
「はい」
久遠は、頷いた。
「でも、現場では、これが一番死なない」
夜。
久遠は、記録板を更新する。
無名同行帰還:2
数字は、静かに増える。
名を捨てたはずなのに、
**“無名という役割”**が
生まれ始めている。
久遠は、それを理解していた。
名前を消しても、役割は残る。
境界は、常に、空白を埋めようとする。
それでも。
久遠は、今日も名を持たない。
それが、今の最善だと、信じているからだ。
第36話では、
「個人の選択が、文化に変わる瞬間」を描きました。
久遠は、革命を起こしたいわけではありません。
ただ、“死ににくい振る舞い”を選び続けているだけです。
しかし、それはやがて制度と正面衝突します。




