第35話:名を捨てる準備
久遠は、自分の名前を、声に出して呼ばなくなった。
呼ばれることは、あった。
境界で。
噂話の中で。
管理課の報告書の余白で。
だが、自分から名を名乗ることは、やめた。
理由は、単純だ。
名前が、人を縛るようになった。
非公式掲示板。
《境界で“久遠を呼ぶ”のはやめろ》
《返事がなかった場合、精神崩壊率が高い》
《彼は必ずいるわけじゃない》
注意喚起。
だが、同時に、別の書き込みも増える。
《呼ばなかったから、帰れなかった》
《あの人がいたら助かったはずだ》
期待と否定が、同時に増殖する。
久遠は、それを見て、端末を伏せた。
夜。
工房。
久遠は、新しい装備を作っていた。
剣ではない。
防具でもない。
識別票だ。
金属片に、何も刻まない。
名前も、
番号も、
所属も。
鑑定眼を使う。
――無銘。
――効果:なし。
――付与:なし。
それでいい。
久遠は、自分の装備箱に、それを入れた。
次に境界へ入るとき、名を示すものを一切持たない。
管理課に、通知はしない。
許可も、求めない。
それは、冒険者としての違反ではない。
だが、“象徴”としては、消える行為だ。
境界。
静かだ。
声がする。
「……誰か……」
久遠は、一歩前に出た。
だが、名乗らない。
「……誰……?」
久遠は、低く言った。
「立て」
それだけ。
相手は、戸惑う。
「……あなた、誰ですか」
「知らなくていい」
久遠は、前に進む。
後ろに、気配。
境界が、揺れる。
ゲートが、見える。
「……ありがとう」
声が、かすれる。
久遠は、振り返らない。
名を、与えない。
帰還後。
記録板。
久遠は、新しい項目を刻む。
無名同行帰還:1
名前は、どこにもない。
久遠は、その数字を見て、小さく息を吐いた。
名を捨てる。
それは、責任を捨てることではない。
依存を断ち切る行為だ。
だが。
境界は、次第に、無名を許さなくなる。
誰かが、言い始める。
「……あの無名、久遠じゃないか?」
噂は、必ず、名前を探す。
久遠は、それを知っている。
それでも。
今は、名を持たずに立つ。
それが、次の代償になるとしても。
第35話では、
「名前を捨てる=楽になる」
ではない現実を描きました。
久遠は、逃げたのではなく、依存構造を壊そうとしています。
しかし――
人は必ず、“救われた体験”に名前を与えたがります。




