第34話:呼ばれなかった名前
記録は、淡々としていた。
侵食境界・第二区画
消失者:二名
最終通信:なし
同行者:なし
ただし、備考欄に一行だけ、異質な文があった。
「生存者の証言:“名前を呼んだが、返事がなかった”」
久遠は、その文面を、長く見つめていた。
呼ばれた。
だが、応えられなかった。
それは、初めてではない。
だが、記録として残ったのは、初めてだった。
証言者は、医療室にいた。
若い女性冒険者。
腕に、スキル封鎖帯。
精神安定処置中。
「……久遠さん、ですよね」
久遠が入ると、彼女は、かすかに反応した。
「……呼びました」
「境界で、あなたの名前を」
久遠は、何も言わなかった。
「前に、聞いたんです」
「名前を呼べば、帰り道を思い出せるって……」
彼女の声は、震えている。
「でも、返事が、なかった」
沈黙。
「……だから、私だけ、帰ってきた」
それは、告白でも、弁明でもない。
ただの、事実だった。
「私、間違えましたか」
久遠は、ゆっくりと首を振った。
「間違えていない」
「……じゃあ、なぜ」
「呼ばれたからだ」
久遠は、低く言った。
「俺が、“必ずいる”と思われた」
彼女は、目を見開く。
「それは、間違いだ」
久遠は、はっきりと言った。
「俺は、境界に立つ人間だ」
「だが、すべての境界に同時には立てない」
彼女の目から、涙が落ちる。
「……じゃあ、どうすれば」
久遠は、少し考えた。
「名前を、借りるな」
彼女が、顔を上げる。
「借りるな」
久遠は、繰り返す。
「自分の名前を、呼べ」
「帰ると決めた自分の名前を」
彼女は、唇を噛んだ。
「……そんなの、できなかった」
「それでいい」
久遠は、言った。
「それが、境界だ」
後日。
管理課内で、新たな言葉が使われ始める。
「呼名依存」
特定個人の名前に、帰還判断を委ねる危険行為。
久遠の名は、明記されなかった。
だが、誰もが分かっている。
夜。
久遠は、一人でダンジョンに立つ。
境界。
静かだ。
誰も、呼ばない。
久遠は、その場に立ち、ただ、待った。
呼ばれなかった名前。
応えられなかった夜。
それでも。
久遠は、境界を離れない。
呼ばれないことも、役割だからだ。
立つ者は、必ずしも、救いにならない。
それでも、立つ。
それが、選んだ代償だった。
第34話では、
「名前が希望から呪いに変わる瞬間」を描きました。
久遠は、“帰還の概念”になったことで、同時に依存の対象にもなってしまいます。




