第1話:剣と静かな少年
彼――久遠 恒一が両親を失ったのは、まだ小学校に上がる前のことだった。
雨の降る夕暮れ、横断歩道の白線の上で、世界は突然音を失った。
ブレーキの悲鳴、衝撃、浮遊感。
それが「事故」だと理解したときには、彼は歩道に座り込んでいて、両親は動かなかった。
大人たちは泣き、騒ぎ、警察が来て、救急車が来て、夜になった。
だが彼自身は、泣くことができなかった。
代わりに、ただ「静かだ」と思った。
それから数日後、久遠は親戚の家に引き取られた。
そこは、武闘家の家系だった。
家の中には道場があり、壁には木刀や薙刀、槍が整然と並んでいた。
祖父にあたる人物は、言葉少なで、だが背筋が異様なほど真っ直ぐだった。
叔父や従兄たちは、当たり前のように武道を修めていた。
「ここでは、身体を動かす。いいな」
それが、彼に向けられた最初の言葉だった。
武道の稽古は厳しかった。
空手、柔術、棒術――一通り触れさせられた。
だが久遠が一番心を奪われたのは、剣道と居合術だった。
理由は単純だった。
剣は、無駄がない。
振り上げ、振り下ろし、納める。
型は決まっていて、答えがある。
迷いが入ると、動きが崩れる。
彼にとってそれは、安心できる世界だった。
感情を表に出すのが苦手だった。
何を言えば正しいのか、どう振る舞えばいいのか、分からないことが多かった。
だが剣の前では、正解が決まっている。
正しい姿勢、正しい間合い、正しい呼吸。
それだけを守ればよかった。
家の人間は、彼に多くを与えてくれた。
食事、道着、稽古、学費。
だが彼は、いつもそれを「借り物」だと感じていた。
――自分は、迷惑をかけている。
その意識は、子供ながらに彼の中で強く根を張った。
もらったものは捨てられなかった。
壊れても、古くなっても、箱に入れて取っておいた。
ノート、ペン、稽古で使い古した竹刀。
それは久遠にとって、「生きていていい」と言われた証だった。
無駄にしてはいけない。
失くしてはいけない。
中学、高校と進むにつれ、彼は静かな優等生になった。
運動もでき、成績も悪くない。
だが目立つことはなく、友人も多くはなかった。
剣道部では、淡々と勝ち続けた。
派手な技はないが、隙がない。
相手の動きを見て、最小限で打つ。
「つまらない剣だな」
そう言われたこともあった。
彼は、それを否定しなかった。
高校三年の進路指導で、教師は大学進学を勧めた。
だが久遠は首を横に振った。
「就職します」
理由は明確だった。
これ以上、世話になりたくなかった。
働いて、金を入れて、少しでも返したかった。
それが正しいと思っていた。
卒業式の日、祖父は久遠に一振りの模造刀を渡した。
「本物じゃない。だが、剣だ」
黒い鞘に収まったそれを、彼は両手で受け取った。
「剣は、人を守るために使え。己を誇示するためじゃない」
彼は深く頭を下げた。
その言葉の意味を、完全には理解していなかった。
だが胸の奥に、重く残った。
こうして久遠は、高校を卒業した。
まだ知らなかった。
この剣と、これまでの人生そのものが、
やがて“力”として世界に刻まれることを。
第1話では、主人公が「なぜ剣を選んだのか」「なぜ慎重で倫理を重んじるのか」を、ダンジョン要素抜きで描きました。
この積み重ねが、後の技能付与や判断に直結します。
次話では社会人編、ブラック企業からの転職、そしてダンジョン発生へと進みます。




