沙月と懸想 - 4 -
「菊池寛の、作品読みたい」
ふと思い出して、私は手にしていた書物を閉じ、足軽に立ち上がった。それに反応するように裏側の下から三段目、中央にあろうと声が続く。図書館ほどありそうな数の中、それほど的確に場所を把握していることへ尊敬もあったが、その記憶力に少しながらゾッとした。一歩目を踏み出そうとした時、明らかに私の胃から悲鳴が聞こえた。朝食を抜いた罰として内蔵が恥じらいを置き土産してくれたのだ。この場が異常に静寂であることに、私の胃から鳴るその音は反響してやまびこしそうだった。空腹なのか腹が痛いのかと問いかけてくる彼に対して俯きながらお腹が空きましたと答える私に対して分かりやすく頭を悩ませていた。近場の飲食店は感染防止のためにシャッターが降りているし、最近話題になっている緑の鞄を背負って配達してくれるサービスも、勿論こんな田舎では普及していない。一度帰宅してご飯をつまみ、もう一度来ようかと考えていた時に、彼は少し待っておれるかと言い残し、どこかへ消えていった。
訳も分からないまま残された私は、ふらふらと部屋を散策することに決めた。この部屋には数え切れないほどの本が並んでいて、見るだけで幸福感に包まれていたが、ふと視線を移してみると壁にはシミが残っていたり、天井を見上げてみても電球がなかったり、窓も数少なかったりと、不気味であった。アンティークと呼ぶには古すぎる上に品がある訳では無いし、屋敷と呼ぶほど淀んでもいない。そんな空間で独りになると様々なことを考えてしまった。彼に家族はいないのだろうか、どうしてこんなに広い部屋があるのだろうか、そもそもこの本はどう入手したのか。始まり出した思考は止まることを知らずに次々と浮き上がる。やはり日中は家にいるし、在宅関係の仕事でもないだろう。どうやって生活を送っているのだろう、と。彼は信じ難いほどに謎めいた存在であり、思考が落ち着かずに部屋を行ったり来たり繰り返していたところに彼が戻り、声をかけてきた。
「本当に、いいんですか」
「よかろう」
「後から何か請求したりは」
「するわけがなかろう」
「それなら、」
私は両手を開き、パチンと音を立てる。
頂きます、と幼稚園児のような声量で感謝を込めて箸を手にする。目玉焼きにお漬物、和え物にお味噌汁。水を得た魚のように作ってもらった食事を口にする。美味しさのあまり笑顔を堪えきれずに箸を進める。彼のことなど忘れて無我夢中で食べていて、ふと彼の存在を思い出し目をやるとそれは真剣に私のことを見ていた。否、引いていたのかもしれない。
「おかわり、ありますか」
「分を弁えろ」
「すみません。でも、本当に美味しい。」
「前に作っておいたものだが」
「貴方が作ったんですか。信じられない。」
「書物を読ませるのを終いにしてほしいのか」
「えっとその、ごめんなさい」
その会話から派生し、私たちは暫く書物の感想大会を開いていた。こういう読み方をしたんです、とかあの書き方は皮肉すぎるとか、こんな比喩は分かりにくいとか。こんなにも盛り上がる相手を知らなかったことから、いつの間にか話をしすぎていた。我に返り、すみませんと言うと、彼はまるで親のような微笑みを残し、もっと話さぬのかと言っていた。人と関わるのが特別好きでもなかったが、彼とは少し違った。私が図に乗り、饒舌になっても一つも嫌な顔をせずに話を終えるまで頷いては続けて聴いてくれて、挙句自分の感想や私の話への意見も否定をせずに添えてくれる。この瞬間に、私は初めて彼の顔を、容姿をよく見た。窓から差し込む光のお陰でより一層、くっきりと見えた。切れ長であるけれど綺麗な二重、私よりも大きな手、空を映す程の綺麗な肌と瞳。その瞳は私を逃すことなく見続けていて、微笑む顔は嘲笑うものではなくまるで愛おしい子供に向けられるような顔であった。心のどこかで異様な音がした。初めてこの多量の書物を見た時と似ているが、どこか違うような。芥川龍之介の知らない作品を見つけた時と似ているが、違うような。そんな初めての感覚に戸惑いを隠せなかった。考えてみてもよく分からないまま時間は過ぎ、朝兼昼食を終え、改めて書物の前に立つ。菊池寛、と脳内で何度も名前を呼びながら指定の場所を探すと、やはりそこには存在した。そしてその隣に並ぶように、「田園の憂鬱」が置かれていた。ハッと再び読む優先順位を思い出し、菊池寛の「真珠夫人」へと後で戻りますと心の中で声をかけ、例の本へと手を伸ばす。その本は新品のような見た目、質感をしていた。恐らく、あの声をかけてきた日に購入したものであろう。あの人ならば、既に持っているだろうに何故新冊を購入したのだろうか。そんなことを思いながらいつものソファへと腰掛けた。隣では変わらない様子で本を読んでいる彼がいたが、先程までとは違い、何故か胸が音を騒がしく立てていた。熱が上がるのかと少し警戒して、けれど今家に帰ってしまうのは、せっかく田園の憂鬱を手にしたのに勿体ないと感じ、脳の自分を説得しては読書を始めた。読み進めていると、内容に集中は出来るけれど先程までのような安らぎは減り、しきりに胸が音を鳴らしているのを自分でもよくわかった。未体験の思いに眉を顰めつつ、それなりに距離が空いているにも関わらず酷く狭く感じるソファに限界を感じて思わず声をかけた。
「他に椅子はないのですか」
「何故今更にそんなことを問うのだ」
「いえ、なんだかよく分からないのですが、胸がざわざわしてしまって。熱でも上がる予兆なら、こんなに近い距離にいては移してしまいそうで」
「気難しいのか、額を貸してみろ」
そう言うと彼は何も気にすることなく、私の額へその大きな手を当てようとした。顔が一気に赤くなり沸騰するような感覚に陥り、耳までも熱くなりそうだった。思わずその手を払い除けてしまい、数秒後に何をしているんだと凄まじい自己嫌悪に襲われた。悪気がなく、ただ単純に心配をしてくれたその手を雑に扱ってしまったことは暫く罪悪感が消えなかった。彼は、すまぬな、良かれと思うて紗月の気も知れずに触れようとしてしまったと謝罪しているが当然、謝るべきなのは私だった。すかさず私も謝罪を入れ、気持ちばかり物理的距離を開けたが、心は落ち着くことを知らずに先程までの騒ぎと、今度は深い傷のようなものを感じさせた。明らかに骨が目立ち私より大きいその手は、今まで触れられたことがなかったことからの恐怖であったのだろうか。考える間もなく払い除けたものであるから、自分が自分でないかのようだった。
その後の空気は、私でもわかるほどに重くなり気まずさを放っていた。このままでは彼も居心地が悪いであろう、と思い口を開く。
「どうしてこの本たちを書き上げた人々は本を書こうと思ったのでしょうね」
「俄にどうしたのだ。」
「書物を書き上げるのって、難しいじゃないですか。増してや自分で考えたものを」
「何か伝えたいものがあるのだろう。己が心に残うものを」
「私には、まだその経験がないだけなのですかね」
「紗月は未だ童女であろう、これから拒もうと嫗になるのだ」
「貴方の言葉の意味が度々分からない時があります」
「母の影響だろう。癖のようなものだ。現世では使われぬ言葉ばかりだ、無理もない。重ねて吾輩の名は貴方ではない。名前で呼ばぬか」
「し」
「なんだ?」
何故か、彼の名前を呼ぶことが出来なかった。呼吸が苦しいとかそういう訳では無いけど、例えるならば大きな体育館で一人踊りを披露する時のような緊張感がぶわりと走ったのだ。何度か試そうにも結果は変わらずで、呼ぶ機会が来たら呼びますと答えた。彼の方は見れなかったが、書物に集中せぬかと口をつつかれ慌てて手元の本へと目を向ける。
読書の気分になれるか不安であったが、やはり二ページほど読み始めると目も、手も止まらずにしきりに本を読んでいた。
最後の一行を読み終えた時の達成感と満足感、そして名残惜しさと言えば、一言では常に言い表せない。特に印象に残っているところを思い返しては感傷的になり、暫くは余韻が抜けなかった。心が満たされるのがよく分かり、これでしか満たせない大きなものが確かにあり、私はもう一度、更に何度も読みたいと毎度思う。けれど、今回は家で留守番をしている「都会の憂鬱」をもう一度読みたくなった。この「田園の憂鬱」が抜けないうちに。ここにも、勿論あるだろうが私があの場で出会いあの場で選び抜いたあの冊子であることに意味があると、やや信念的なものが揺らがなかったため、それを全て彼に伝えることにした。一通り聞いた彼は予想通り、此処にもあるにも関わらずかと聞いてきたが念を押し、曲げない私に紗月らしいのうと言って玄関まで見送ってくれた。そして、「田園の憂鬱」を渡して来たのだ。
「これ、私のじゃないですよ」
「紗月のために買うたのだ、家へ持ち寄れ」
「ではお金を」
「そんなものが欲しくて買うたのではない。口を謹んで持ち帰らぬか」
そう言うと半ば無理矢理本を私に押付け扉を閉めようとした。その隙間に見える彼の背を追って私は無意識に、明日も来ていいですか、と言っていた。本が好きだからだろうか。自分でも予期せぬ言葉に驚き、その驚く様子は彼も同じに見えた。菊池寛の本が読みたくて、とこじつけのように言い訳を加えると彼は、好きにしろと言葉を続けて扉を閉めた。いつも通りの彼の応答であり、冷たいと思うのも突き放されてるような言い方も慣れたと思っていたが、今の発言に私は少し傷ついていた。おそらく、もう少し本への気持ちを汲み取って欲しかったのだろうと思う。
空が暮れ初めていて、オレンジ色の床になる。ひぐらしは五月蝿いほどに鳴いていてその暗い音につられるように重い足取りで家へと向かった。玄関を開けると、台所から丁度居間へ向かう母と目が会い、おかえりと声をかけられた。最近外出するようになったわねと少し嬉しそうに話す母に続いて、明日も出かけるのというと、その表情は曇った。コロナウイルスは第二波が来ていて、死者も沢山出ているのよ、とそれは娘を心配する普通のことであった。不必要な外出は避けろっていうし、なんの用事なのと尋ねられて私は答えることが出来なかった。案の定、それならば延期にしなさいと言い残し母は二階へと階段を上っていった。と思いきやと半分程登った階段を降りてきて、明日私も休みだから、ダルゴナコーヒーとかいちご飴でも作りましょと笑顔を残し再び階段へと向かった。流行っているのは知っているけれど、それをするくらいならば読書をしたいという気持ちも堪え、携帯で彼へと明日の断りと謝罪を入れた。また少しも待たぬ間に彼は、了解したとだけ返信が来た。来ても来なくても、本当にどちらでもいいのだなと雑に扱われている気がして、心がズキズキと言っていた。だが、自分でも可笑しい事には気がついていた。私が興味はあるのは本のみで、それを目当てにあの家へ出入りしている。今までもそうであった。秘境の地に置かれた数々の財産をそれだけを求めて足を運んでいたはずなのに、なぜ今私への扱い方が引っかかるのだろう、と。別に、私への扱いが雑でも本が読めればそれで良いと普通ならば思うはずなのに。最近の調子がおかしくて、自分でも理解が追いつかないときが多々あるが、これは何かの病にかかってしまったのだろうか。考えごとをしながら私も母と同じように階段を登り自室へ籠った。月も星もハッキリと見えるほど晴れていて、晴天の夜空であった。星は宇宙界隈でスターダストと、屑だと呼ばれることがあるが、何故こんなにも綺麗なものに屑と名付けた人がいるのだろうと幼少期こそ思っていたが、今では人間から見れば輝くものであっても、土星や彗星からすれば塵のような邪なものでしかないと思うと腑に落ちた。それは、人間がゴミだと思った果物の皮でも動物からしたら立派な栄養素であるのと同じ関係なのだろう。見方ひとつで変わるこの世界は、儚くて脆くてだからこそ魅力的なのだろうか、なんてしんみりしてはその思考に深けていた。そして脈略もなく、彼と私もそうなのかな、なんて思ったりもした。
この日は珍しく夢を見た。夢なんてものは非現実的でありもしないことを簡単に見れるから、以前までは夢を見るのが夢であった。しかし、久しぶりに見た夢は残酷なもので、あの場所、家も書籍も何もかもが魔法のように無くなっていて、全ては幻だった、というようなストーリーであった。私は夢の中で泣き叫び、彼の姿は見当たらなかった。夢のはずなのにどこか現実的で、夢ならば早く終わってと、その中の私が叫んでいた。そのまま早く覚めるようにと願い目を覚ますと、私は涙を流していた。夢の所為で涙を流すのは初めてだった。呼吸も若干乱れていて、これが所謂悪夢なのだろうと思った。夢だから現実では起きないと分かっていても、思い出したくもなかった。時計を見ると深夜三時半であった。一分も経たぬ前にあんな悪夢を見たものだから、再び眠りにつくにも時間を要した。現実なのか夢なのか分からない狭間の時に、ふと脳に浮かんだ「名前のある感情」という文字が不思議と脳裏に焼き付かれまま私はもう一度睡眠の世界へ入った。
相も変わらず昼過ぎに下へ降りると母がエプロンを付けたまま笑顔と声をかけてくる。机上にはコーヒーとミルクが、加えて泡立て器も置いてあって、流行りに疎くても何をするかは分かっていた。ご飯を食べてからやろうというと納得して母も目の前の椅子へ腰掛けた。世間話ついでに、最近起こる不思議な感覚について相談をした。胸騒ぎがしたり傷ついたり、名もない感情に襲われ意味もないことを考える、と。すると母は少し考えてそれって一定の条件の基で現れないか、と言ってきた。そんなことは考えたことがなかった。それはどういう意味かと尋ねると、状況とか人とかと答える。その時に、気がついたのだ。あの人、が原因なのではないかと。微笑んだとき、近付いたとき、触れられそうになった時、また冷たく返されそうな時やこちらに興味がなさそうな時。全て彼が関係してる時のみ起こる反応であることが分かりほんの少しスッキリした。だからといって、この感情は何なのか。迷惑のような、時には甘酸っぱいような居心地悪いような、分が悪いような。語彙にしがたくて、そんな私の反応を見かねて母はニコニコしたまま名前はあるんじゃないの、と返す。しかし今まで体験したことも無いし、自分が自分でないような感じであるし、理解できなかった。
彼にも次にあったとき、聞いてみようと私の中の止まらない好奇心がそう決めた。
ダルゴナコーヒーを作って、口にしてみると思いのほか美味しくて、今まで食わず嫌いをしてたことに残念だと思った。初めこそ、苦そうだし面倒なことが多そうだし、韓国という異国の地で誕生したモノだから少し警戒していて、そんなものを口にしても大丈夫なのかと恐怖を感じてもいた。しかし口に運べば運ぶほどに、内なる甘さに魅了され、何度も口にしたいとさえ思った。
ダルゴナコーヒーが好きになったのだ。
反対にいちご飴は想像どおりの味で、好きではあったけれど、ダルゴナコーヒーよりも印象には残らなく、机の上に置かれた二つを比較しては、明らかに前者の方が目当てになっていた。先日までのいちご飴の方が食べたいな、という感想は消えていた。
そんな日から、数日が経過した今日。
私は再び彼の家へ菊池寛の本を読む体で家へ訪れていた。彼の様子は変わらずであるが、
私は何故か落ち着かず、その理由を聞くべく今日は訪れたのだ。聞いた数分後にあんな酷な気持ちになるとも知らずに。
「最近、不思議な気持ちになるんです、それが貴方が関わっているからではないかと思っていて」
「どんな気持ちだ」
昨日母に話した内容と全く同じ話をして、ふと彼の方を見ると今まで目にしたことがないほどに悩んでいるような失望したような、幻滅したような、そんな表情をしていた。しかし私は続けて、名前のない初めての感情で、なんだと思いますと笑いながらに返すと、変わらぬ表情のまま彼は、いつからだと聞いてきた。
「この前会った時からだと思います。熱があるような感じがした時から」
「紗月、名がないと今も思うているのか」
「既存するのですか」
「せぬわけがなかろう」
「なんて言うんですか」
「懸想、現世は恋心とか好意というのだろう」
「恋心、好きってことですか」
「そうだ」
そうか、これが好きという気持ちなのか。たしかに、確かに私は彼のことが好きだ。そう名付けられたらそうでしかないように、心から彼が愛おしく、大切であり、恋していると感じた。なぜ気が付かなかったのだろう。今日だって、いつの間にか本ではなく、彼目当てに来ていたのだ。今日の朝、顔を見た時の胸の高鳴りもその所為であった。
彼は、私の初恋だった。
すると、彼は言葉を続けた。
「吾輩は、懸想を抱く女とは共に居られぬ。生得からそうである。嫌悪を酷く感じてしまうのだ。今現在も変わらぬ。誠に申し訳ない」
「それは、もう一緒に居られないということてすか」
「そうだ」
「それなら、私、貴方のこと、好きなの辞めます」
「辞められるのか」
「できないです」
「それが、懸想というものだ」
「しどう、好きです、その声も、口調も、全て」
「すまん」
「私の、初恋なんです」
「知うておる、すまない」
「しどう、とっても、好きです」
私は泣き止むことなく、しきりに志道の名を呼んだ。私の初恋は想像よりも遥かに速く失恋へと変わった。志道は暫く泣き止まない私を見かねて胸に抱き寄せては背中を撫で下ろした。甘い蘇合香の匂いが私にも移る。それがまた、諦められない材料となり苦しくて、苦しくて堪らなかった。
暫く泣いて、目を可能な分腫らして、涙が乾いてきた頃、私はやっとの思いで志道から離れ諦めの溜め息を、この関係に終止符をついた。志道は何も言わないままこちらを見ている。だがその目に以前ほどの優しさも、期待も、興味もないのは一目で伝わった。
それから加えて数分が経過した頃、志道は口を開いた。
「心憂しのうちに言うが、この建物はそう遠くない日に全て無くなり、書物も戯画も、存在している書籍という財産も全て灰になる」
「なぜ、今言うのですか」
「心憂しのうちならば、そうでない時ほど衝撃はなかろう」
「これほど残念に思ったことはないです。好きな人とは会えなくなり、大切な書物も全てなくなるなんて」
それでも、存在する本を可能な限り譲ってくださいなんてとても言えなかった。
「それでも吾輩は、紗月に出会えて幸せであった」
「そんなの、狡いです。狡すぎます。」
そう言うと彼は何度も謝罪をし、俯いていた。
「それじゃあ、行きます」
この場にいてはいけない気がして、重い重い足を上げてゆっくりと歩みを進めた。初めとは変わり、志道の案内無しに玄関へ辿り着ける程に慣れていたことへ悲しくなる。そしてそこが近付くに連れて鼻の先がツンとした。
振り向こうとするけれど、涙が零れる気がしてなかなか振り向けなかった。彼にそれほどまでに心移りしては恋して、愛していたのだ。私は非常に本を書きたい、という衝動に駆られた。先人たちの気持ちが今、この瞬間痛いほどわかった。人生を変えるこんな経験を私一人で抱えるのは勿体なく、切なすぎて、不特定多数でいいからこの気持ちを共有して欲しかったのだ。後ろから声をかけられると彼は一冊の本を手にしていた。
「これは、吾輩が紗月と居る時に繰り返し幾度となく読んでいた一冊の書物である」
「繰り返し、同じものしか読んでいなかったのですか」
「そうだ。吾輩と紗月は書物の読み方が似ておる。吾輩の特に好いていた書物だ。紗月に贈りたいと思うていた」
そう言うと志道は本を私へ渡してきた。
北原白秋著、勿忘草であった。
非常に古い本で、昭和よりも前に書かれたものだろう。けれど、志道の読んだ跡も含めて
涙が溢れるほどに嬉しく、切なく、これ以上の形容が出来なかった。
その本を受け取り、私は家を後にした。
私は、振り返らなかった。
それ以降、彼に会うことはなかった。




