逢瀬を待ちて - 1 -
時は遡り令和二年。緊急事態宣言と騒がれ街は打って代わりマスクが無くなり、オマケにティッシュやトイレットペーパーまで品薄になっている。不必要な外出を避けるようにと、耳にタコが出来るほど、首相はそれが口癖になるほど言葉を繰り返している。友人と会う頻度はひと目でわかるほど減り、皆それぞれ己の趣味に没頭するようになっていた。
それが私の生活に苦難を与えるかと言えば、そんなことはなく、むしろ気楽であった。
周りは皆、韓国アイドルやアニメ、恋愛、好きな音楽や料理に夢中であったから、話についていけない時も多々あった。私が無趣味な訳ではなく、周りとは違い趣味が陰気臭かったのだ。素性を隠して、それなりに空気を読み、周りに合わせて行動するのも苦手ではなかったから、それなりに友人もいた。だが、本当の私を知るものは存在しなかった。
「紗月、出かける?」
静かにテレビを見て朝食を口にする私に母は声をかけてくる。卵焼きを口に含めたまま、首を横に振った。今日で二週間経つのよ、外に出なくなってから、と言葉を続ける母に追いつくように丸呑みし、水を注ぎ込んで、緊急事態宣言中だからと重い足を動かしたくない事を言い訳にすべく言葉を返す。母親は過干渉はしてこない性分であるから、大体の会話はこれで終わる。今回も例外ではなく、それ以上話が進むことなく私は自室へと踵を返した。
課題もなく、特別な用事も趣味もない私は、いつも通り机へ向かい読書を始める。現代を駆け抜ける人々は、体験談や知見など人生経験談を元にしたエッセイなどを読み、過去に耽るのだろうが、私は決まって地獄変や斜陽など一昔前の作品を読み漁っていた。そもそも、太宰治や芥川龍之介というネームに一目惚れし、作品を読み漁る度にその世界観に魅了されたのがきっかけだった。文字数の暴力など感じさせないほど一文字一文字を噛み締めて時間を忘れて目を動かす。文学の世界は理学の世界と異なり、文字の裏側の意図を如何に読み解くかが、作者と心を通ずる鍵になると思っている。そんなことを想像しながら今日も伊豆の踊子を開く。だが、一つの問題点としては新作に出会えていないことであった。幾度となく同じ作品を読んでいるから、先の展開を把握してしまっていて、複数の意図を汲み取ろうとも人間である以上想像にも限界がある。型通りの見方でしか出来ない読み方にも嫌気が差し始めていた。三ページ程手を進めたところで本を閉じ、本でも買いに行こうかと己の頭に声をかける。一方頭の方も心に賛成してくれたおかげで久しぶりに外へ出ることが決まった。
久しぶりの外には似合わない、部屋着と変わらない服装をして玄関扉を開けると眩しすぎる日差しに目を痛めた。先に歩みを進めている人はお洒落をしていたり、友人と会話を弾ませていたり、マスクを装飾したりしている。まるで、自分だけが異世界にいたかのように思わせられたが、負けじと右足を前へ出す。いつもならば、十分もあれば到着するお決まりの書店も今日は珍しく十八分もかかった。新型コロナウイルスが蔓延する前は、客がそこまでおらず閑散とした書店であったが、皆漫画や雑誌を求めていたのかいつもより賑わっていた。慣れない雰囲気に落ち着かず、独り細々と短編小説へと向かう。どれも見慣れた名前であり、刺激があまりなく頭を悩ませながらスラスラと目で探りを入れる。たまには現代作品でも読もうかと迷った時もあったが、貴方には似合わないと頭の私に言われたものだからいつも通りの場所を歩いている。ふと目に止まったのは「佐藤春夫」という著者であった。名前こそは知っていたが彼の著書は手にしたことは無かった。理由は特になかったが、そこまで名を馳せていなかったから当時の私は敢えて読まなかったのだろう、と思う。都会の憂鬱、という作品名に瞬く間に虜になり手を自然に差し伸べ目前にする。私が生活をしているところは所謂田舎であり、都会とは程遠いが何となくで都会への嫌悪感は抱いている。この本の中身が果たしてそのような内容なのかは分からないが、もっとこのタイトルに秘められた意味を知りたいと思い、足早に会計へと向かおうとした。
「女、そんな婆臭い本を読もうとは、恥じぬものか」
背後から低い声で何者かが私に声をかけた。
そして婆臭い、恥じぬものかと言う罵倒に聞こえる言葉に腹が立ち、それを告げた者はどんな者か確認したくて堪らなくなり本を握りしめたままゆっくりと振り返る。そこには長くなった髪を適当に束ね、長い切れ目で私を見下ろす男が立っていた。身長は私よりも高く、年齢も私よりも遥かに上のように見える。ある程度の情報を得たところで私は動かぬまま言葉だけを返す。
「貴方に関係ありません。」
「吾輩は思うたことを言うただけだ。」
「そうですか、では」
「閲読しよう本を、改めた方が良いぞ。然れば男にも愛でられよう」
つい一分前に会ったばかりの男性の発言とは思えない言動に怒り心頭し、拳を握りしめて会計へ向き直る。誰かにモテたいとかそんな薄い理由で私のたった一つの趣味と呼べるものを失くして溜まるものか。軽々しく私の存在を扱われ、見下され、嘲笑われた気持ちがして生きてきた人生の半分の中で一番傷ついた気がした。
足を三歩程進めたところで再び背後から声がした。
「その本は青春記であるから女にはそぐわなかろう」
再び振り返ることはせず、そのまま会計を済ませた。
深夜一時、私は自室で夕方購入した本の朗読に熱中していた。真新しい本は新鮮で、今まで得られなかった刺激を多く受けた。角度を変えて色々な考察をしたり、作者自身の癖を見つけたりして目いっぱい、文字通りの目いっぱい本をじっくりと味わった。しかし分かったことは、同作者の別作品「田園の憂鬱」の派生のようなもので、そちらを先に読み解かなければ分からぬことがあるということだった。確かに、そちらを読まずとも面白い部分もあるが、改めて田園の憂鬱を読めば更にその世界に入り込めるのだろうと感じた。明日外に出る理由もでき、生きている心地をふわふわと感じることが出来た。だが、一つだけ不思議に思ったことがあった。それは何故この本が青春記であることがあの男性は知っていたのだろうか、ということである。この作品の著者はそこまで有名ではない分、余程時代小説が好きな人でなければたどり着かない作品であると思う。だからこそ、疑問に思うことも不思議な興味も自然と湧いていた。今日はそんなことをゆっくりと考えるよりも、先程読み終えた本のことを考える方が気分的にも良かったから、あまりあの男性のことを考えずに布団へと入った。この時間帯から就寝を始めても翌日の心配をしなくて済むのは不謹慎ながら、全国一斉休校になったコロナウイルスのいい面なのかもしれないと思った。ゆっくりと余韻に浸って明日購入する予定の本への期待を高め、夢の世界へと誘われた。
以前まで聞こえていたキジバトの鳴き声を耳にする回数も減り、目が覚めると大体お昼を過ぎている。パートへ行っている母と会う機会も夕方から夜にかけてしかなくなり確実に人とのコミュニケーションが絶たれていることを痛感する。私が趣味としている読書の時間を削げば言わずもがな家族とのコミュニケーションの時間も増えるが、そこまでしたら自分とは一体何なのか分からなくなりそうで、自分を確立させる為にも日々の当たり前の、読書の時間を確保している。丁寧にラップされた朝兼昼食を温め、特に考え事もせず口へ運ぶ。大学生にもなってこんな生活を送っている娘なのだから、乾麺でいいのにも関わらず毎日バランスの良い食事を準備してくれている母には頭が上がらなかった。母親とはどれほど偉大で、私への愛情は計り知れないものなのだろうと思うと今の自分が哀れで出来損ないの気持ちで憂鬱な気持ちへと引きずり込まれた。嫌な気持ちに呑み込まれる前に食事を終え、外出の準備と殴り書きで書店へ行ってきますとメモを残し、踵を踏んだままの靴を履いて外へ出た。
例の本を探しに昨日と同じ場所へ向かっていると、早々に目に入って来たのは、昨日の男性の姿であった。無意識に心が震えたのが分かった。何のために置かれたのか分からない椅子へ腰掛けており、何をすることも無く一冊の本を持ち胡座をかいたまま、こちらを見ている。あそこへ近付かなければ、目当ての本を買うことは出来ない。けれどあの男性とはできるだけ関わりたくなくて、どうにか遠回りしようにも通路を跨がなければならない以上、避けて通れない場所に本はある。これほどまで葛藤したことは無かった。そして決意したことは、あれは幻でありトラウマである、存在はしないと己に言い聞かせ本を探すということだった。顎と首が一体化しそうな程下を向き、昨日の場所まで辿り着く。そして目線だけを素早く動かし本を探した。それだけでは見当たらなかったから顔を上げ再び探す。が、ない。本がないのだ。昨日まで隣に陳列されていたのに。有名でもなければ、人気作品でもないので、売り切れという可能性は極めて低い。傍から見ても分かりやすいほどに慌てて思わずそれは戸惑いの声になる。五分ほど探しても現実は悲しく見当たらないので、酷く落ち込み、書店を後にせざるを得なかった。すると背後からあの声が聞こえてきた。
「探しているものはこれか?」
嫌な予感がした。昨日私が購入するところを最後まで見ていた男性。その本の内容を知っていた男性。全て予測されているように感じた。あの本の内容を知っているならば今日、改めて買いに来ることも安易に想定でき、買いに来た本も誰もが分かるであろうものであるから。振り向けば、本が手に入るかもしれない。だが、男性と接触する必要性も出てくる。否、男性と関わっても昨日のようにすぐ会話を終えてすぐに帰れば問題はないと自分の脳内で独り盛り上がり、真顔のまま振り返る。
「おい、これなのだろう。何故直ぐに振り返らん。」
本を手にしたままゆらゆらとそれを仰ぎ問いかけてくる。
「関わりたくないからです」
「ほう。趣深い女だのう。されど関わらなければこの本は手に入らなかろう」
「それ、ください」
「誰がそう安易に渡すものか。何故それほどこの本に、作者に固執する」
「私、好きなので」
「この令和という時代に、あやしのう」
「怪しい?」
「あやし」
「知らないけれど、ください」
「何度も言わすでない。安易にはやらんぞ」
「なぜそんなに固執するんですか」
「それは言えぬが、吾輩と女は心深む必要がある」
「嫌です」
「ならば、これは渡せまい」
世の中には嫌なこと、と言えば数しれぬ程存在するが、最近起きた出来事の中で、この交渉は嫌すぎる、程に嫌であった。知らない男性と仲良くするなんて利点が無さすぎるのだ。加えて私は異性関係に疎く、寧ろ苦手意識まで持ち始めていたから尚更嫌だったのだ。だからと言って、他店へわざわざ母に連れて行ってもらうのも、インターネットで送料ばかりかさ増しされて余分なお金を支払うのもアルバイトが出来ないこの御時世には苦渋の選択であった。悩んで、悩んで、悩んだ上で私は男性へ一歩近付き、分かりましたと口にした。
「容易な女だのう。それほどまでにこの本を欲するか。」
「何をするんですか」
「メールアドレスとやらを教えてくれぬか」
「ナンパですか?」
「口説こうなど思わん。増してやこれほどけしからん女を」
「五月蝿いです。はい、これ」
「恩に着るぞ」
「本をください」
「再び会うことができたら渡してもよかろう」
「え、今日じゃないんですか」
「ああ」
「約束できますか」
「契りを交わそう、吾輩はこの本を既に買うておる」
なんと無駄な時間を過ごしたのだろうと呆気に取られ、ふと手元を見ても手にしたものは名も知らない男性のメールアドレスだけなことに深いため息をついて書店を後にした。今の時代にメールを使う人なんてビジネスや内密関係以外で有り得ないし、そもそもあの人は全てが遅れているように感じる。失敗したな、とどれの選択においてかは分からないが強く思い、落胆したまま布団へと横たわった。少し顔を上げてみると半月が輝いていて、ただ存在しているだけで世界中の人に感動され、麗しいものと思われる月が羨ましくなった。繰り返される日常では思いもしないような悲観的な思考になるほど落胆した自分を隠すかのように、私は眠りに落ちていた。




