執筆の第一歩 ~昔話へ加筆のすゝめ~
皆さんは小説というものを書いた事がありますでしょうか?
あるという方はこれ以降の話は読みながら笑い飛ばしていただいて結構です。
無いという方で書く気は無いという方、そういう方はこの先を読んでいただき、ちょっとやってみようかなと思っていただけたら幸いです。
無いという方でどう書いて良いかわからないという方、もしくは書こうとしたけど、唇の上に鉛筆を乗せて頭の後ろで手を組んでしまった方、そういう方に向けて、この先の事は書いています。
おし、いっちょ小説でも書いてみるか!
そう一念発起したとします。
それで軽快にキーボードが打鍵できる方、その方はきっと普通の方が教わらないとわからない何かを本能的に理解できる方だと思います。
執筆に関して何かしらの才能のある方だと思いますので、『まずはプロットを作成してみましょう』というサイトを検索して、面白い小説を書くコツを調べてみてください。
でも多くの方はそんな風にはならず、きっとキーボードを前に呆然としてしまうと思うんです。
「で、結局、小説ってどう書くの?」
一昔前と異なり、今は電子メールで普段から文章を書いているでしょうから、純粋に文章を書くという機会そのものは非常に多いと思うのです。
でも小説というのは連絡文章ではなく物語なんです。
小説というものは料理に似ていると私は感じています。
食卓に出された目玉焼きを見て、卵を焼くだけ、私でもできそう、そう思ってフライパンに卵を落としても、黄味が半熟の目玉焼きを作るのって意外と難しいんですよね。
当然、築地で売ってるような玉子焼きなんてそう簡単には焼けません。
簡単そうに見えても、実際やってみたら上手くいかない。
料理も小説もそこは同じだと思うんです。
「やれそう」と「できる」の間にはとんでもない隔たりがあるのですよ。
でも!
そこで諦めるのは勿体ないです。
築地の玉子焼き屋のおっちゃんだって、最初からあんなに上手く焼けたわけでは無いはずです。
こういうものは訓練あるのみだと思うのです。
まずは目玉焼きを焼いてみるように、小説を書く練習をしてみましょう。
そこですすめるのが「昔話へ加筆しよう」です。
皆さんご存知、桃太郎。
じっちゃとばっちゃが拾って来た桃を割ったら出てきた桃太郎。大きくなった桃太郎が、ばっちゃに黍団子を作ってもらって鬼退治に出かけた。
大雑把に言えばこんな話です。
幼い頃に読んだ絵本を思い出してください。その中に会話ってありましたか?
「ねえ、桃太郎さん、その腰に付けた黍団子俺にくれません?」
「まあ、良いけど。食ったら鬼退治に付いてこいよ」
これくらいじゃなかったですか?
え?
口調が乱暴すぎる?
絵本の会話はそんな口調じゃなかった?
ふふふ。
それが今回お薦めする事なんですよ。
昔話の登場人物が話しそうな、今風の会話を創造してみようという試みなんです。
『昔昔、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ選択に行きました』
これは有名な桃太郎の冒頭です。
ここまでお爺さんもお婆さんも無言です。
このままだと、何の会話も無いまま、二人は山と川に行ってしまいます。まあ、年齢的にはとうに倦怠期は過ぎているでしょうが、それにしたって侘しすぎる。
そこで二人が言ってそうな会話を考えてみましょう。
「爺さん、歳で体力が落ちてるんですから、若い頃のように無理はしないでくださいね」
「ああ、わかっとる。婆さんもうっかり洗濯物を川に流さんようにな。買うと高いんだから」
「爺さんが先日足を滑らせて怪我をしたから私は言ってるんですよ!」
「わしはあんなヘマは二度もせんわい!」
どうですか?
柴刈りや洗濯に行く前に、お爺さんとお婆さんがこんなやりとりしてそうじゃないですか?
これを先ほどの文章に組み合わせてみたいと思います。
『 昔昔、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。
柴刈りに出かけようとしているお爺さんにお婆さんが言いました。
「爺さん、歳で体力が落ちてるんですから、若い頃のように無理はしないでくださいね」
「ああ、わかっとる。婆さんもうっかり洗濯物を川に流さんようにな。買うと高いんだから」
「爺さんが先日足を滑らせて怪我をしたから私は言ってるんですよ!」
「わしはあんなヘマは二度もせんわい!」
お爺さんを見送り、お婆さんも川へ洗濯に行きました。』
どうでしょうか?
小説ぽく感じませんか?
ほんの少し本文の方も会話に合うように変更してみました。
ん?
これだと小説ぽいだけで、小説とはちょっと違う気がする?
そう思ったあなた!
あなたは良い感性をしています!
実は、これでは小説と呼ぶにはちょっとだけ片手落ちなんです。
目玉焼きを焼く時に、少量の水を入れて蓋をして蒸し焼きにするような、そんな一工夫をこの文章にしてみたいと思います。
そこで次にやるのが「ちょっとだけ情景を思い描いてみる」です。
思い描いたお爺さんとお婆さんはどんな見た目ですか?
山に行って火種の柴を集めるくらいだから、お爺さんは意外と足腰が丈夫なのかもしれない。
お婆さんは毎日川まで洗濯物を持っていくのだから、もしかしたら腰が曲がっているかも。
でも二人とも白髪頭なんだろうな。
これをさっきの文章に加えてみたいと思います。
『昔昔、あるところに一組の夫妻が住んでいました。
二人は長年連れ添ったかなりの老夫婦、髪はお互い真っ白です。
お爺さんは頻繁に山に柴刈りに行くので背筋はピンとしているのですが、お婆さんはかなり腰が曲がってしまっています。
いつものように山に行こうとしているお爺さんに、お婆さんは言いました。
「爺さん、歳で体力が落ちてるんですから、若い頃のように無理はしないでくださいね」
「ああ、わかっとる。婆さんもうっかり洗濯物を川に流さんようにな。買うと高いんだから」
「爺さんが先日足を滑らせて怪我をしたから私は言ってるんですよ!」
「わしはあんなヘマは二度もせんわい!」
いつものように何となく悪態をつきながら、お爺さんは山へ柴刈りに、それを見送ったお婆さんも川へ洗濯に行ったのでした。』
ほんの少し本文の方も情景に合うように変更してみました。
どうですか?
小説ってこんな感じじゃないですか?
昔話にたった二手間かけるだけ。たったそれだけで何となく小説っぽい文章になるんです。
桃太郎の次のシーンはお婆さんが川で洗濯をしていると大きな桃が流れて来るシーンです。
このシーンで試しに先ほどの二手間、「会話を創造」「ちょっとだけ想像」を行ってみてください。
この作業がスムーズにやれるようになれば、ちょっとした物語であれば普通に小説っぽいものが書けるようになっていると思います。
後はそのシーンを延々と繋げていくだけ。
「小説」「書き方」なんて感じで調べると、地の文がどうだ、会話文がどうだ、なんちゃリーダーは二つでどうのと、専門用語を交えてごちゃごちゃと説明していただけています。
でもね、私は思うんですよ。
そんな事よりも、まずは自分が思い描く物語が最後までちゃんと形になる事じゃないかって。
形式に拘りすぎて、書きたい事が書けないというのは本末転倒だって私は思うんですよ。
わかりますよ。
私もたまに目にします。
何々だから最初から読む気がしない的な意見。
何々が気持ち悪い、何々が鼻に付く、そういう作品はうんたらかんたら。
でもね、その人たちはいくら形式を整えたって、もう一度読んでなんてくれません。
だってそれって、あなたの作品を読まない言い訳じゃなく、自分が人の作品を読みたくない言い訳なんですもん。
世の中には、あなたの作品に目を止めてくれる方がそれなりにいます。
その方たちは、細かい形式に乗っ取っているかなんて事は全然気にしません。
まずはそういう人たちに向けて自分の想像する物語を見てもらいましょう。
くだらない否定的な意見を真に受けて、あなたのその物語が世に出ない事の方が勿体ないです。
きっとその物語を読みたいと欲してくれる方は、あなたが思う以上に多いと思いますよ。
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