プロローグ
瓦屋根に薄くまとわる灰色の朝靄。
帝都中央医療院、その最奥にある魔力測定室。
真っ白な大理石の床が朝の光を跳ね返し、冷たい空気が足元を撫でてくる。
室内の中心に、淡く光る水晶球。
吊るされた鎖がきぃきぃと揺れていた。
「次、高橋颯」
名を呼ばれた瞬間、空気が張り詰めた。
数歩先に並ぶ“召喚組”たち——
勇者候補の朝倉陽斗、聖女役の宮坂柚葉。
どこか見下ろすような目線が、同じ“日本人”から向けられていた。
俺は深呼吸ひとつ、水晶球にそっと手を重ねる。
冷たい感触。数秒の沈黙。
そして、水晶の奥に埋め込まれた結晶板が「カチリ」と音を立てた。
診断師が眉を寄せ、淡々と読み上げる。
「魔力量……ゼロ。《魔路》の反応なし。転移個体として不適合」
一瞬、すべての音が消えた気がした。
静かに笑う陽斗の顔が視界の端で揺れる。
「ふーん……一滴も魔力、通ってないってさ。無能も極まってるな」
柚葉が小さく息を呑み、何か言いかけたが、声にはならなかった。
「……高橋颯。君に割く時間は、もうない。扉は、あちらだ」
鉄扉が重たく開く音がした。
廊下の奥から、冬の朝の空気が吹き込み、白衣の裾が揺れた。
何も言わずに歩き出した俺の背に、
扉が閉まる ゴウン…… という音が、やけに遠くに響いた。
三日後。
王都西区のスラム街。
舗装の剥がれた石畳には、排水路から上がる湿気と腐った油の匂いが漂っている。
瓦礫の山の前で、俺は崩れかけた樽に腰を下ろしていた。
まだ何もない。名も、金も、地位も。
あるのは、治療の感覚だけ。
そんなとき、細い悲鳴が聞こえた。
「う、ぐ……っ、あ……」
振り返った先で、ひとりの少年が路地の隅に倒れ込む。
紫色の瘴気をまとい、全身が小刻みに痙攣している。
「おい、大丈夫か……?」
駆け寄って背中に手を当てた瞬間、
俺の視界に、金の糸のような神経ラインが浮かび上がった。
(腰の骨がずれてる。仙骨が歪んで、神経が詰まってる)
日本で何百人と診てきた背中の感覚が、指先に蘇る。
位置を合わせ、息を止めて、深く圧をかける。
バキッ!
乾いた音とともに、少年の身体がゆるんだ。
そして、視界の中央に金色の文字がふわりと浮かび上がる。
《背骨調整》
《神経圧迫解除》
文字は半透明のまま数秒光り、
頭の奥で「チリン……」と鈴が鳴ったあと、
まるで金糸のようにほぐれて、少年の身体へすっと吸い込まれていった。
瘴気が霧になって散り、
少年の顔色がほんの少しだけ、赤みを帯びていく。
「……動ける……! 嘘、走れる!」
言葉にならない声をあげながら、少年は立ち上がり、
震える手で銅貨を一枚、俺に握らせてから路地の奥へ走っていった。
その夜。
月影亭の屋根裏部屋。
藁布団の上で、少年からもらった銅貨を指で転がす。
錆びて汚れて、それでもずっしりと重い一枚。
「五人治せば銀貨になる。銀貨が十枚集まれば、施術台を買って……カルテも、記録も残せる」
壁に貼った紙はまだ真っ白だ。
でも、音がした。
骨が一本、静かに鳴った。
“魔力ゼロの無能整体師”と笑った奴らを、
いつかここに並ばせてやる。
骨を鳴らして、世界を整えてやる。