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窯の畔

ーーー


 かつてマニュートの地が『マニュート』と名前を付けられる前、煤煙の地と呼ばれるよりも前。人類が認識するよりも前、何百年何千年前以上の途方もない程の間。

 延々と正体不明の何かが燃え燻ぶり、剥き出しの土の上に積もった灰から真っ黒な低木、僅かに適応した植物が僅かに生えている荒涼とした地のマニュート全域に煤煙を立ちこませていると思われていた場所があった。

 そこにはすり鉢状のその大穴が大口を開き、遮られる視界の先で激しく燃え上がるわけではないが赤々とした炎が窯の底で燃えている様に勇猛果敢な探検家からは『大地の窯』と呼ばれていた危険な場所であった。


 だがそれが過去になった今日では滾々(こんこん)と湧く澄んだ水と青々とした草地、ギザギザの山麓は白く青く。煤煙が晴れて以降、家屋建設や長い冬の薪需要などの必要に迫られ人の手で植林され出来た森は手前の草地で草を食む家畜の姿も相まって『大地の窯』とは思えぬゆったりとした時間を演出している。


 そんなかつては『大地の窯』と呼ばれていたとは信じられぬ大きな湖の湖畔、煤煙に覆われていた時代や冬の重くどんよりとした曇天の空から白い綿菓子の様な雲と青く透き通った空へ、青々とした草と青空に雲、それらが湖面に反射し風光明媚な美しく豊かな丘陵地帯を彩っている。


 弱冠の勾配はある緑の絨毯に覆われたそこにはめ込まれた美しい鏡は二百年の間、ずっと空の景色を写し続けている、そんな透明度の高くひんやりとした水をたたえる美しい湖の北側の白い砂浜を独占する様にぽつんと建っている木造建築の建物があった。それはマニュート家所有の別荘であった。

 頑健な石の土台の上に丸太で壁が組まれ十人程が寝泊まりできる個室も用意され、居間にはロフトも備え付けてあり建物を上から見ればLの形状に作られたログハウスであった。

 青い屋根にちょこんと煉瓦で組まれた煙突が自己主張しており、暖炉で巻木が燃えているのか独特な木の焼ける香りと共にうっすらと煙を吐き出して風に乗せてかつてこの地にあった『大地の窯』の役割をこなしていた。


「……」


 時刻は昼間。

 これまで撃って仕留めた動物の首掛け、それを獲物として撃ってきたボチルシ製の猟銃の数々が飾ってある壁、様々な洒落た形状に加工されたガラス瓶を満たす琥珀色の液体、やりかけのボードゲーム、ボチルシ連邦北部産の緻密な絵柄を織り込んだ柄の膝掛けが乗せられた琥珀色に輝く古びたロッキングチェア。

 そして灰と熱と貴族らしい優雅さを演出しているレンガ造りの暖炉、そこから僅かに離れた場所に書類が散乱している机とセットで置かれている黒く年季の入った革張りのソファとその上で横になっているイリアがパチリ、と黄金の瞳を三十分振りに開いた。


「……時間切れね」


 イリアが上半身を起こし、大きな窓から草原を貫きずっと遠くまで続いている轍の方向へ視線を向ければ二つ走り寄ってくる塊を認識する。それは緑色に塗装された四輪駆動の車両とそれ同型の車両であった。

 四人乗りで突き出したボンネットにエンジンを格納し舗装道路でなくてもそうは出来る様に車輪の幅が広く丸いライトがチャーミングな瞳の様に目立ち、それらを飛び出してくる動物から防護する為に鉄パイプでがっちりと覆っており元は貴族向けの高級車であるというのにそう言った改造を施されている為にかなり歪な有様と化している。

 そんな車両は暖炉の煙よりも黒い排気ガスを撒き散らしながら猛然と別荘に接近する。呟くイリアは軽く頭を振ってからのっそりとソファから起き上がり、暖炉に餌を与えつつ毛布を床に落とし下着姿で出迎えたくない彼女は着替えるべく別荘の中の自室へと歩き出した。


---


「お父様、遠くまでようこそいらっしゃいました。お暇な様で何よりです」

「久々に顔を合わせた肉親に向かっての第一声が皮肉とは。実に貴族令嬢らしいな?」

「まぁ。そこはお好きな方に解釈なさってくださいませ?」


 イリアが別荘の私室でシンプルで華美さは皆無ながらも生地と製法に金を注ぎ作らせた私服へと着替えを済ませ居間に戻ってくれば、そこにはソファにどっかりと腰を下ろしている仕立ての良いシックな装いの男が彼女を待ち構えていた。

 少しでも権利があるならば畑の土を掘り返してでも徴収しようとする悪徳取立人の様ないやらしさを滲ませる顔立ちをし、イリアにそっくりそのまま遺伝した灰色の髪に金色の瞳。老練な詐欺師が浮かべるような愛想の良さを浮かべる表情は柔らかい物を浮かべていたが気心の知れた娘から早速飛ばされた皮肉に片眉をピン、と跳ね上げるわざとらしい反応をして軽口の言い合いを存分に楽しむ姿勢を見せる。

 露悪的な意地の悪さを隠そうともしない彼がイリアージュの実父、ダンゲル・マニュートそのひとである。


 ダークグレーの仕立ての良いスーツを纏い、胸ポケットには洒落た赤いリンゴの刺繍が見えるポケットチーフを折ってありシンプルな装いのイリアと違い、マニュート家の現当主でありマニュート伯爵としての威厳と誇り高さを演出しており少なくとも本性を知る者以外には名君として尊敬を集める人間として認知されていた。


「″少々狩りに行きますのでご心配なく„…だったか?九日は少々というには長すぎるぞ」


 そんなダンゲルは他者の目があるというのに行儀悪く足を組み、皮張りのソファに踏ん反り返りながらここ暫く面倒な業務を放り出して趣味のハンティングに興じていたイリアに非難を浴びせる。

 だが、父親からの真正面からかけられる圧をイリアは全く涼し気な顔で受け止め、そのまま父親が座るソファの体面のソファに腰かけながらイリアは机の上の書類を摘み上げて視線をそこに落とす。


「それは違いますわよ?あの書置きをしたのはお父様がお仕事で屋敷を出立した直後ですわ。よって本日で十一日目ですわ」

「…で、成果は?」

「猪を三、兎を四、渡り鳥を八。煤煙の地では無くなって他所からの流入も多くなってきましたわね。あぁ、そういえば幾つかは屋敷の方に送りましたが如何でしたでしょう?」

「あぁ、とても絶品だった。『ワイングラスの貴婦人』と『私の娘』も絶賛していたよ、良い猟師を雇っているな。と褒められたよ」

「……久しい名前と、初めて聞くお話が聞こえましたわね」


 立て板に水の如く、小気味良いテンポで行われる皮肉と咎められても全く悪びれない態度のラリーは親子にとっては全く日常的なやり取りであった。少なくとも同じ部屋に控えている護衛達は全く動じておらず、彼らは床に敷かれた黒い毛並みの大熊の毛皮に小さく開いている弾痕の穴の程度の存在感を放ちながら壁に控えている。

 そんな心地よい親子のやり取りを楽しむイリアに父親から告げられた言葉に僅かに返答の言葉を思考し、上半身を前のめりにして自身が興味を抱いた事を若干大袈裟に表現しつつ自身と同じ黄金の瞳へ関心の色を向ける。


「あぁ。…まったく面倒事だ。オーシャ家とはとっくに縁が切れていた筈なのに。まさか正面から屋敷に乗り込んでくるなんて驚きだろう?だが、傑作な事に私が手を出した使用人との間に娘が出来て煩わしくなって追い出し、ここ最近にその『娘』とたまたま(・・・・)出会って、親類である『ワイングラスの貴婦人』がその無情さのあまり思わず義憤に駆られて(・・・・・・・)やって来たらしいぞ。」

「ふふふ……それはそれは、素敵な話ですわね。しかし…オーシャ家とは懐かしい名前を出してきた物ですこと」


 オーシャ家とは現マニュート伯爵の父、イリアの祖父である前伯爵の妻。イリアの祖母の実家の事である。イリアの記憶に祖母の姿は殆ど記憶されておらず、彼女への印象は嫋やかな微笑みを浮かべる少女の様な淑女の姿で祖父と共に絵画の中に納まっている姿のみであった。

 元々はオーシャ家の姉と婚約する手はずであったのだが、当日やって来たのは瘦せこけた妹の方であった。当然大問題になったのだが張本人である祖父と祖母はあまりにも波長が合ったらしくそのまま添い遂げた、という話を祖父から百回は聞かされたのだからそれはそれは大恋愛だったのだろうとイリアはあたりを付けていた。


 と、その様に一方的な不義理を働いてきたオーシャ家に対してマニュート家は祖父の代にはある程度の金銭を送金していたのだった。しかし、その様なオーシャ家にとって都合のいい時間は続かない。


 祖父はオーシャ家から娶った妻が儚くなり、喪に服すと同時に立派に成長した息子へ実権を明け渡したのだ。

 代替わりしてダンゲルが当主の座に座ればもはやオーシャ家に対して無意味な援助を続ける必要は消失する。

 それでもなんとか難癖をこねくり回し、いつ終わるとも知れずに延々と集られる事を嫌がったダンゲルにより莫大な金額の手切れ金を支払い完全に縁切りをしていた。その莫大な金額の切れ金は常人の生活を送るならば二代は労働せずに過ごせる程の、或いは一代の人間が一生遊び豪遊できるほどの纏まった金額を渡していた。


 そんな出来事が過去あったのだが一連の出来事はイリアが産まれるよりも前の話である。

 彼女にとっては既に縁が無くなったはずのオーシャ家と関わる事など無いと思っていたのだが、まさか向こうが正義(・・)として乗り込んできたというのだからイリアとしては俄然興味を惹かれるというものである。


「それにしても、使用人に手を出して『娘』が出来るとは…愛とは移ろうものですわね?お父様」

「冗談じゃない。私の愛は妻にのみ捧げられているのだよ」

「あぁ…そうでしたわね…………」


「………」

「まぁ、それはさておきそう思われる(・・・・・・)為に噂を意図的に放置しておいて怒るのはかなり理不尽ですわね」


 貴族にとって己の醜聞の露見や不名誉な噂というのは、時として容易く人の命を散らせるに十二分な要因になりうる事である。

 しかし、それを理解していながら現マニュート伯爵はそんな噂を意図的に放置するという常軌を逸した事をしている。放置し自身の名誉を貶されるのに甘んじた結果、イリア以外の『娘』という存在が出現するというある意味当然の報いを受けているという状況に陥っていた。


 勿論、とある事情から(・・・・・・・)避け得た問題に直面する可能性をあえて放置していたという面も大きい。であるのだが、ここ最近の貴族という特権階級が没落していくという潮流の中で変わらず豊かで潤沢な資産を有するマニュート家への言いようのない妬みに起因する周囲の人間の存在もあり、この醜聞が万が一漏れ出てしまえばかなり盛大に社交界の陰口になる事は少しでも貴族のやり口を知るのならば想像に難くないだろう。


 とはいえ、イリアとしては不名誉極まりない噂である『父親の性事情が奔放、挙句使用人との間に子を成しながら特に補償もせず一方的に追い出し、母親は既に亡くなっている』という話が全くの事実無根である事は、イリアの産みの親である母親への愛情深さもうんざりする程に聞かされてきた故に疑いようもなく一切の疑問も無く受け入れていた。

 勿論、それ以外にもこんな分かりやすい悪事をマニュートの血筋である父親がする事など出来ない事を知っているイリアにとっては思考の片隅に置いておくだけの価値すらない事であった。


「それで、どうするのです?別に私としては次期伯爵の座を譲っても良いのですが」


 僅かな沈黙の時間が部屋を支配する。

 パチパチと燃える薪と僅かに漂う灰の匂いを嗅いだイリアは腕を組みながら実に真面目な顔をしながら現伯爵である父親に『娘』へ譲っても良いとあっさり言い放つ。

 貴族とは脈々と続いてくる一本の血筋を尊むべき生き物である。それを出生不明の『娘』に譲っても良いと言い放つイリアの声に冗句の響きは全く存在せず、彼女の浮かべる表情と同じく実に真面目に提案をしつつ腕を組みながらも驚いた表情すら浮かべる事もせずにダンゲルは真っ直ぐに娘に視線を返し


「それも『アリ』だが…これまでの過去を踏まえて考えれば、まず間違いなく我々の希望に沿う結果になる事はないだろう」


 提案を却下する言葉が紡がれる。

 それは問答無用で却下であるというよりもイリアに対して『そんな簡単に思い通りにならないぞ』というどこか諦めに近い窘める響きを伴いながら、机の上に置きっぱなしになっている黒い皮製のウェストポーチに収まっている『とある本』を一瞬視線を送り、そして嫌悪に顔をしかめ


「やはりそう思います?お父様も」

「あぁ、我ら一族の宿命だからな。」


 その父親の反応を見て納得したイリアが重い実感を伴って賛同した。

 貴族の時代が終焉を迎えつつある時代の流れの中、その時代の流れに見事に乗りより発展を迎えている領地を治める一族とは思えぬ沈痛な雰囲気を背負う二人は宿命、という響きに同じタイミングで溜め息を吐き出し軽く頭を振る。


「ともかく『貴婦人』が何を要求してきたのかは想像は付きますが、その自称『娘』…なにか感じますわね」

「あぁ。『ワイングラス』分の金銭の分配を求めてくるって所だろう。あれから…二十年といったところか?」

「私が産まれるより前で…確か、十九年と三か月ほど前でしたわね?」


 ダンゲルの若干あやふやになっていた手切りからの期間を訂正する。

オーシャ家と縁は切れていたがどうせまた金銭を集ってくる来るだろうことは、イリアにもダンゲルにも想像の範囲内の事であった。彼らはイリアの祖母が貴族籍に入った事によって自らも貴族であると勘違いしていたらしく、マニュート領地内で居丈高に振舞い領民から大いに顰蹙を買っている程に。


 それまで散々虐げてきた妹と『ハルーシュ北方の辺境人』やら『煤煙の民』と、好き勝手見下していた祖父からの施しを存分に受け取り享楽に耽る。そんな態度をとっても許されていたのだから自分達が特権を持つ貴族だと勘違いするのもやむ負えない事であった。


 だが、頼みの綱の祖父が妻が、つまり妹が没した事により引退。息子へと代替わりした事でその生活に終止符を打たれる事となった。当然、莫大な金銭を得て一生遊べる事が出来るとしても『特権者』として好き勝手振舞う事ができる生活には代えがたく、またその生活を維持する為には安定した収入源が必要である。

 その為、金を増やすべく商売に手を出したはいい物の海千山千のやり手商人連中の餌食になりその莫大な財産は長い月日の中、絶対に逃さぬようにじっくりと財産を剥がされて丸裸にされていた。


「それでも、すぐに泣きついてこなかったのは意地ですわね。」

「あぁ、そうだろうな。そして今回の件では『不幸な過去で袂を分かったとはいえ不義理に目を瞑れない』らしいな」

「ふふふ、面白いお話ですわね。『ワイングラスの領地』で十分に不義理を成さっておりながらその言いよう。実に私好みですこと(・・・・・・・・・)


 クスリ、と先程とは違い嘲りの感情を隠す事無くむき出しにしながらイリアは笑みを浮かべる。

振ってわいたチャンスを逃がすつもりは無い彼女はギラリ、と黄金の瞳を輝かせながら口元に猛々しい、獰猛で陰気で、どうしようもない程の攻撃性を潜めながらイリアは笑いながら改めて身を乗り出し己と同じ色の瞳に視線を集中させる。


「では、早速対策を考えましょう。」

「私としては下手に功績になる様な大事にしない方が良いと思うのだが、『ワイングラスの貴婦人』の利益になるのも業腹だ。全面的に協力すると約束しよう」

「お任せください、お父様。マニュートの名を必ずや貶めてみせますわ。祖先の夢、お爺様の夢。必ずや私の手で!」

「……」


 煌々と輝くイリアの瞳に浮かぶはあまりに純粋な願い、彼女は純粋に願い、純粋に歪み、そして純粋に悪逆である事を願っていた。

 楽し気な父親はそんな歪んでいるとしか言いようのない娘の言葉を受け止め、一瞬黒皮に包まれた書籍に視線を送ってから娘との会話の意識を集中させた。

到底普通じゃない親子です。

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