後日談 AfterStory
後日談 AfterStory
濁った海水。ところどころヘドロのようなものが漂っている。これが発展の賜物だというのなら、人間はなんと愚かな選択をしたのだろうかと彼は嘆く。
やがて彼は深いところから浅いところへと上っていく。水上からは明るい電灯が明るく照らす。
もっとも、人間がこんなところから現れるとは思ってはいないだろう。カメラの用意などあるだろうか。いやない。
たとえカメラがあったとしても、こんな場所のモニターを覗こうなどという変わり者がどれほどいようか。これだけ広い街である。それこそ監視カメラの数は尋常ではないはずである。
「まったく……戦争をしないって条約を締結してるにもかかわらずこの重装備……か……」
彼は顔を水面に出す。明かりの正体は常備灯、すなわち部屋を使っていようといまいと関係なしに常に灯されているわけである。
男……ロバート・エリクソンは水面から顔を出すとフックショットを取り出し、壁に打ち込む。
体が一気に引っ張り挙げられ、彼の体は水面からイルカの跳躍のように飛び出す。空中で見事に一回転を決めてから彼は優雅に着地した。
「こちらロバート。とりあえず中に到着した」
『了解。私達は船上からサポートを行います。商業区は私の方が詳しいですが、居住区に入ったら彼らの方が詳しいはずです』
一瞬ノイズが入ったかと思うと、声の主が少女から少年へと変わる。
『あーあー、聞こえてますかロバートさん?』
「聞こえている。君がレン君か?」
『そうです。今日はよろしくお願いします』
「今日で終わるといいんだがね」
ロバートは軽く準備運動を済ませると、装備の確認を行う。
「ブレードがないのはかなり不安だな」
『しょうがないじゃないですか。そんな長いものを持って泳ぐわけにはいきませんし、何かと邪魔になっちゃいます』
「わかっている。一応銃だけは普段から使っているものを使わせてもらえるんだ。どこぞの元特殊部員は丸腰でタバコだけ持って核兵器保存倉庫に潜入させられたって聞くくらいだからな」
『それはゲームじゃありませんでしたっけ? まあいいです。ともかく頑張ってくださいね。それにしても緊張してきました……。私、こんな潜入ミッションのサポートとか、そんな経験全然ないんですよ!? お父様も酷いです……』
『仕方ないよ。僕達やユイさんしかヘヴンの内部の構造を知ってる人がいないんだから……』
男は装備の類をきちんと整理すると、ゆっくりと部屋から出る。
「そういうことだ。頼むぜお嬢ちゃん」
『お嬢ちゃんじゃなくてユイですー!』
時を遡ること数週間、レン達は無事にユイの別荘へと到着した。
そこには一カ月間の謹慎処分を受けて別荘へと戻っていたユイの姿があった。
別荘と言っても、アメリカで生活する際に使う家、という意味でかなり頻繁に使われているそうだ。
彼女はこの家を生まれたときから使っており、日本の本邸はほとんど行ったことがないという。
もっとも、彼女は英語はもちろん、日本語やフランス語、中国語からドイツ語果てはアラビア語まで、各国の言語を使いこなしているため、世界中に広がる桜木家別荘のどこで暮らしても不自由がないと彼女は言う。
そんな彼女は大学に入ったころから親と分かれて暮らすようになった。親はかなり忙しいため、世界中を飛び回ってあちこちで様々な仕事をこなしている。
しかも桜木家は、オキシデリボと並ぶほどの大企業を持っている。ユイの父はその社長で、それと同時に国際連合にも強い力を持った強力な家柄なのだ。
そんな父も娘には甘く、まさに溺愛という言葉が適していると噂されている。数カ月に一、二回の休日はほとんどが娘のために使われていると囁かれている。
さて、これより本題に入るわけであるが、無事レン達は桜木家に保護され、オキシデリボの不正を暴くという、ユイの仕事の手伝いをしていた。ユイはユイで自分の父親にオキシデリボが裏で行っていたクローンプロジェクトについてのメールを書き、送信した。
即座に返ってきた返信メールには、おおよそユイの言っていたことと同じことが書かれていた。生命をモノと同じように扱い、あまつさえ商売の道具にするなど許せない、という内容である。
このことは即座に国連へと通知され、国連は調査チームを組むこととなった。
だが、このことはオキシデリボも予想していたのか、すでに証拠は隠滅された後となっていた。データは残っておらず、その痕跡も一切残されてなかった。
問題の子供達もいたが、誰のDNAをコピーしたのかがわからなければ彼らがクローンであることを立証すること、それは不可能に近かった。
全てが行き詰まっていたいた頃、ウィルが一つのことを思い出す。
クローン達のデータが詰まったディスクがレンのパソコンの中に入っている、ということである。
これを聞いたユイは父と話をし、結果オキシデリボにエージェントを送り込むことに決定する。大騒ぎをすればそのことがオキシデリボに漏れ、ディスクを処分される可能性があったからだった。
選考の結果、高い身体能力と任務成功率を誇るエージェント、ロバート・エリクソンが任命され、今日彼らは近海まで船で接近し、海中を泳いでヘヴン地下に建設された核シェルターから侵入したのだった。
というのも、ヘヴンは外の人間が出入りすることはできず、それと同時に水上空中を細かくレーダーで索敵し、敵を発見すると同時に迎撃するという厄介なシステムを持っていた。それゆえに、水中以外の侵入方法がなかったのだった。
オキシデリボは多方面に様々な産業を進めている。もちろん、その方向には軍事も含まれる。
レーダー、銃、ミサイル、その他様々な武器を扱っている。とどのつまり、それらがこの都市にすべて配備されていると考えてもほぼ間違いはない。
そして、傭兵企業、つまりは戦争屋をオキシデリボが雇ったことはまず確実だと言われている。いざと言うときに実力行使に出るためだろう。最悪、ロベミライアと組む可能性すらあるのだ。
オキシデリボほどの企業がロベミライアと組めば、確実に連合側は不利となるだろう。
最低でもそれだけは阻止しなければならない。そのためには現時点でオキシデリボを告発する必要がある。
ロバートは歩みを進めながら考える。今、自分は途方もなく重要な任務についているのだと。
それは彼がそれだけ信頼され、任せられているという証でもある。これはなんとしてでも任務を成功に導かなくてはならない。
彼はシェルター内通路から下水道へと身を躍らせる。あらかじめ頭に叩き込んでいたルートを進み、商業区へと進む。
行き先は商業区内でも人通りの少ないマンホールである。そこまで進めばあとは街の中に溶け込むだけである。
彼はマンホールを蹴り開くと、街の中へと飛び出した。
「所長、本社より所長あてのメールが届きました」
白衣の男が院を訪れる。ミシェルはやや困ったような表情を浮かべながら白衣の男を迎えた。
「まったく、ここは孤児院よ? そういう格好、それに所長ってのはやめてほしいわ」
「失礼しました。ともかく、至急の内容とのことですのでお知らせにうかがいました」
ミシェルはしばらく顎に手を当てながら何事かと考え込んでいたが、やがて白衣の男に礼を言う。
「わかったわ。いますぐこっちのパソコンで確認するさせてもらうわね。わざわざありがとう」
もう一度彼女が礼を言うと、男は一礼して院を後にする。
不思議そうに物影からうかがっていた少年達が何事かと尋ねてきた。
「先生! あの人誰?」
「研究所の人達よ。みんなが元気に育っているか聞きに来たの。さ、先生はちょっとだけお仕事があるから皆と遊んでいてね」
「はーい」
そう言って子供達は散っていく。その中、一人だけ彼女の元を去らない少女がいた。
腰までの黒の長い髪。そして大きな黒の瞳。未だ歳は幼いように見えたが、成長すればすばらしい美人になることは間違いないだろう。
「クレアはどうしたの? 何か先生に用事?」
「……」
彼女はしばらくの黙って間ミシェルを見つめていたが、やがて微笑を浮かべて答える。
「別に。ただ面白かったから見ていただけよ」
そう言って彼女もミシェルから離れていく。やがては彼女も友人達の輪の中に加わっていくだろう。そう思ってミシェルは職員室の方へと向かって行った。
……だが、クレアは一度は去ったものの、再びミシェルの居た場所へと戻ってきた。
「至急のメールね……。何が“視える”か楽しみだわ」
彼女は薄笑いを浮かべたまま、しばらくの間そこに一人で立ったまま、目を瞑り続けていた。
ロバートはしばらくの間日が落ちるのを待ち続けた。その間も不審がられないように街の中を適当に散策する。
傍から見れば、休日にウォーキングを楽しむ男性にしか見えないだろう。というのも、彼はジャージの上下に身を包んでいた。
光学迷彩『オプティカルカモフラージュリビング』。姿を隠すことではなく、そこに生活する人々に溶け込むことで迷彩効果を得ることを目的とした光学迷彩である。つまり、服の柄、見た目を変化させ、他の服を着ているように見せる装置である。といっても実際に材質が変わるわけではなく、見た目だけが変化するという、あくまでも“光学”迷彩装置である。
彼は時々休憩を挟みながら町全体のイメージを頭の中に叩き込む。実際に見ることと、バーチャルで体験することでは差が大きい。
たとえば、臭い、触感、空気の味、雰囲気。そういったものは現地へ赴かなければ感じることができないものだ。
バーチャルで視覚のみの体験をしたところで、決して味わうことのできないものを彼は五感すべてを使って感じ取っていた。
「この街は……とても不快だ。生きている存在が何一つとして存在しない。全てが大きな力によって“生かされている”だけに過ぎない。子供も大人も、オキシデリボという会社の歯車の一つでしかないのだろうか……」
彼のこの街に対する印象は最悪だった。
自主的に生きようとする雰囲気を感じることのできない街に、彼は胸の中でくすぶるような感覚を覚えつつも、それを抑えて街を歩く。既に日が傾きかけていた。間もなく動き始めるべき時間である。
「だが、任務はこなさなければならない。たとえ不快でも……な」
そのとき、彼の耳元のイヤホンが声を吐き出す。
『ロバートさーん! そろそろ時間ですよー!』
「わかっている」
『偽造カードを作れればよかったんですが……あいにく、自分のカードを解析することで手いっぱいで、新しくカードを作るにはちょっと時間が足りませんでした。だから、申し訳ありませんが歩いて居住区まで行ってください』
「元からそのつもりだよ、お嬢ちゃん。リニアなんて使う気はない」
『だからお嬢ちゃんじゃなくてユイですー!』
イヤホンの向こう側から騒がしい雑音が聞こえてくるが、彼は無視を決め込む。
「居住区に着いたら、予定通りに行動する、以上」
彼はそう言って通信を切る。
もはや進路上に障害物はない。彼は光学迷彩のモードを切り替え、全身を黒一色のジャージへと切り替える。すでに日は落ち、あたりは暗くなり始めていた。電灯が少ないリニアの高架下を駆け抜けるには最適の格好だといえる。
ロバートは急ぎすぎず、かといって遅くなりすぎないようジョギングで走る。急ぎすぎれば人の目を引き、遅すぎれば目的地への到着が遅れてしまう。熱くなるときは思いっきり燃え上がるが、冷静にこなすときは何事もクールでスマートにこなすのが彼のやり方だ。
決して遠い距離ではない。熱くなりすぎて任務を失敗に持ち込むくらいならば、今は思い切り冷めて慎重に行動をとるべき時だ。熱くなるのは、それが必要な場面のみだ。
誰とも会うこともなく、彼は居住区へと到着する。完全に日は落ち、辺りは漆黒と数少ない電灯の光に満たされていた。
物影を進みながら目的の建物へと近づいていく。
「目的地に到着。これより潜入する」
彼はそう短くマイクに告げると、窓にカッターを取り付けて鍵の周りを切断する。
こするような音が響くが、注意していなければよほどのことがない限り聞き逃してしまうだろう。
やがて窓は切断され、手が通るほどの小さな穴があく。ロバートは中に人がいないことを確認して鍵を解錠して内部へと踊りこむ。そこはトイレだった。
素早くピッキングで掃除用具入れを開くと、中から掃除中の看板を取り出してそれを入り口へと置いた。
そして、音が響かないようゆっくりと天井付近の板を外していく。彼が頭に叩き込んだ地図が正しければ、頭上を通気孔が通っているはずだった。
予想通り、そこには通気用の道があった。そこから通気孔内へと侵入すると、身を屈めたまま先へと進む。
時折天井下から子供達の声が聞こえてきたが、音を響かせぬように彼は進む。
そう、ここは院生達が住んでいるマンションだった。レンの供述によると、彼の部屋にパソコンが置いてあるはずだという。
やがて通気孔からエレベーター内の空洞へと到着する。足元にエレベーターが止まっており、しばらくは動く気配はないようだ。
彼の目的の階層は18階、つまり最上階だった。
しばらくすると、子供達がエレベーター内へと駆け込んでくる。
「俺の部屋でカードしようぜ!」
「何やる? 俺はセブンブリッジでもなんでもいいけど」
「ポーカーにしようぜ。そんでもってアイスクリーム賭けてさぁ!」
やがてエレベーターは低い音を立てて唸り出す。徐々に上へと上昇していく。
彼の目的の階層に止まることはないだろう。なぜなら、18階に入っていた子供達……レンとアラン、ウィルの三人が今はそこにいないからだ。近くの階まではエレベーターで運んでもらい、上へは自分で上ることとなる。
やがて16階で子供達が去っていく。彼はエレベーターのワイヤーに足を絡ませて上ろうとしたが突如動き出したエレベーターに危うく足を巻き込まれそうとになる。エレベーターは徐々に上へと向かっていく。つまり、上の階に利用者がいるということだ。
エレベーターは17階で停止する。そして、再び上へと動き出した。
「18階には誰もいないはずなのになぜ……?」
エレベーターに乗っていた誰かは18階で降りる。ロバートも遅れて通気孔内へと飛び込んだ。
一歩ずつ慎重に進みながら、彼は男子トイレへと向かう。通気孔の仕組み上、通気孔から一度出なければ直接部屋へ向かうことはできなかった。
彼はしばらくの間、トイレに人がいないかを伺っていたが、そこに誰もいないのを確認して下へと降りる。
「18階に到着した。これから目的の部屋へ……」
「やっぱり来たわね」
突然、彼の背後から女性の声が響く。
「両手を挙げて」
彼女はゆっくりと彼に指示を出す。彼の到着を見越して行動していたものがあるというのだろうか。ここの院の所長がかなりのやり手だとの噂である。彼女なりの方法でロバートが潜入することを事前に察知していたのだろうか。
そうだとすれば、何とも滑稽な演劇を演じていたことだろうか。彼の背後には大勢の武装した戦争屋が待ち構え、今か今かと手中に握る黒い銃身を撫でながら待っているのだ。
彼はごくりと生唾を嚥下する。何が信頼であろうか。そんなものはただの高慢であったと彼は思い知らされた。
「あなた、例の連合のエージェントさんよね?」
予想通り、彼女は自分の身元をぴたりと言い当てる。彼は心の中で舌打ちをしながら黙って頷く。
「うふふ、やっぱりあの女のメールを盗み“視て”よかったわ。これは思いもよらぬ拾いものね」
どうやら、彼女の様子がおかしい。彼女の言葉の感じから、彼女は所長本人ではなく、それに仕える研究員の女か何かだろうと彼は予想した。
「あなたがここに来たことは黙っておいてあげる。その代わり、一つお願いをしてもいいかしら?」
「……」
彼女が本当に内部に繋がる者だとしたら、これは逆にチャンスである。彼女をうまく自分の味方にすることができれば、今後の任務をこなすのも楽になるだろう。
「話は聞こう」
「うふふ、話は聞こう、ね。あなたは自分の立場を理解できてないのかしら。まあいいわ」
彼女は勝手に一人で自己完結すると、彼女の言うお願い言を述べる。それはロバートにとって予想外のものであり、そして予想以上に厄介なものだった。
「私を……私をこの島から連れ出してほしいの。あなたならできるでしょ? エージェントさん」
「何……?」
「振り返ってもいいわよ。ただし手は挙げたままでね」
彼はくるりと振り返る。そこにいた女は……少女だった。
黒髪を腰まで伸ばした黒い瞳の少女。成長すれば美人となることは間違いなく、いや、現時点でも美少女といえるほどの輝きを持っていた。
「君は……」
「私はクレア。ここの院生よ」
彼女は手に持った拳銃を構えたまま、ゆっくりとロバートへと詰め寄る。
『ろ、ロバートさんどうしましょう!?』
『ロバートさん! その子とまともに取り合わないでください! クレアはどこかがおかしいんです!』
耳元で雑音が喚く。だが、この少女に関する情報は少しでもほしかった。
『見えるはずのないものが見えたり、今地球の裏側ではなんとかが起こってますとか言いだしたり、ともかく異常なんです!』
レンの声が頭の中に響く。彼の言葉の中に、彼は一つの言葉を当てはめる。
「彼女は……カードを当てることができたりしないかい?」
『え……? ま、まあ当てたりして遊んでいたことはありますが……イカサマだと思います。クレアが渡したカードしか当てられませんでしたし……』
「ふむ、どうやらそのクレアという子は想像以上に賢いようだな」
「あら、私の噂話かしら?」
目の前の少女がくすくすと笑う。歳は14、5だろうか。そんな幼い少女には似合わないような拳銃が彼女の手の中で黒く輝く。
「君は超能力者じゃないのかい?」
『え!?』
『嘘!?』
彼女のくすくす笑いが一段と大きくなる。
「なんでそう思ったのかしら?」
「君はカード当てが得意らしいね」
「イカサマかもよ?」
「それに見えるはずがないものが見える……君は……遠隔透視能力者か。それも超一流だ。地球の裏側で起こっていることが見えるとなると……異常ともいえるレベルだ」
彼女のくすくす笑いが止まる。一瞬うつ向くが、次に彼女が顔を挙げたとき、その顔は嬉しさと涙の入り混じったような顔となっていた。
「やっと……やっと私のことを理解してくれる人がいた……」
少女は泣きながらその場で崩れ落ちる。
今まで自身の異常な能力に気付いてもらえず、ひたすら孤独を味わってきた少女。それが今、ついに彼女のことを理解できる人間が現れたのだ。これが嬉しくないはずがあるだろうか。
「お、おい!」
「私みたいな人が……ひっく……他にもいるのね?」
「む、そうだな。君ほど能力が高い人は滅多にいないが、普通の透視程度なら山ほどいるぞ」
「地球の裏側ってのは嘘。ミシェルが読んでた新聞を盗み“視”ただけ。変な子のフリをしてないと、私の力を悪用する人がいたら嫌だったから……」
「つまり、君の能力はただの透視?」
「少しだけなら遠くも見えるわ。……うっく……。これって普通?」
ロバートは僅かな超能力に関する知識を引き出す。そもそもクレヤボヤンスの能力は透視であり、遠視能力をともに持っていることは稀だと聞いた。それも、せいぜい数百メートルか数キロが限界だという。
「確かに珍しいけど、まったくいないってわけじゃない。クレヤボヤンスの中でも遠隔透視能力者は少しならいる。確か、連合の超能力機関にも何人かいたはずだ」
「私みたいな人が集まっている場所があるの?」
ロバートはゆっくりと頷く。今はともかく彼女を味方にしてしまいたかった。クレヤボヤンス能力を持つ人間がいれば、任務の方もかなりやりやすくなるだろう。
「連れてって! 私をそこまで連れてって!」
「む……どうすべきか……」
ロバートはユイに尋ねた。超能力を持った少女がいれば作業がはかどることも間違いなしである。
『難しいですね……。出るのも入るのもチェックが厳しいヘヴンです。私が里帰りするときも何時間も待たされました。ましてや院の子供が出るとなりますと……』
『ユイ、転移装置ってのはどう?』
レンが彼女の思考に口を挟む。だが、彼女は低い声でそれを一蹴する。
『無理ですよ。あの事件以来転移装置の部屋は一切立ち入り禁止です。特殊な鍵がなければ開かないようになってますから……。私の薬でも溶かせそうにありません』
「となると、脱出ポッドを奪って脱出するしかないのか? まさか一緒に泳がせるわけにもいかないだろう」
『それが一番可能性があるといえますね。ポッドで私達の船の場所まで来れれば拾うこともできます。けれども、あれ以来警備が厳重になっているから、さすがにポッドを動かせば気付かれると思います。どうにかしてヘヴンの追撃から逃れられれば一番可能性があると思います』
「大丈夫よ。私には“眼”があるもの。これがあればどんな問題もすぐに片付くわよ」
彼女は強気な表情を浮かべてロバートを見つめる。彼女は自分の“眼”をとても信頼しているのだろう。幸い機転の効く賢い少女のようだ。やってやれないことはないだろう、と彼は思った。
「わかった。だが、必ず俺の言う通りにしろ。いいな?」
「わかってるわ。それがここを出るのに最良の手段だってことくらいね」
そう言って、彼女は手に持った銃の引き金を引いた。突然のことにロバートは身構えたが、銃口から出てきたのは弾丸ではなく、数センチほどの火だった。
「ライターよ。誰かさんが使ってたのを見て同じものを買ったの。結構リアルでしょ?」
「まったく、そういう質の悪い冗談はよしてほしい」
ロバートは肩をすくめる。クレアは笑いながらライターをポケットにしまった。
「私の名前はクレア」
「俺の名前は……ロバートだ。本名ではないがな。とりあえあず今はロバートと呼んでくれ」
「ロバートね。よろしく。ところで、あなたはなんでここに来たの?」
彼女は突然ロバートの目的を尋ねる。ロバートは慎重に言葉を選びながら信用を損なわないよう、それでいてすべてを話さないように答える。
「ここの階にレンという少年がいたのを知っているか?」
「ああ、レウォン先輩ね。それがどうかしたの?」
「彼の私物の中に、俺達が求めるものがある。それを回収しに来た」
彼女はくすくすと笑みを浮かべる。
「残念ながら先輩方の私物は全て“処分”されたわ」
「なんだと!?」
「先輩達が飛んだ日、あの日の晩には全部外に運び出されたわ」
ロバートは舌打ちをする。まったくの計算外だった。
『どうしましょうか……』
「どうするもこうするも荷物の行方がわからなければ探しようがない。何か心当たりはないか?」
『プロジェクトリーダーをやっていても、そこまではわかりません……』
彼は内心焦っていた。この手の任務は時間が経てば経つほど発覚の危険性が高くなる。どんな人間も完全に痕跡を残さずに行動することは不可能だ。
「大丈夫よ。私はその行き先を“追跡”したもの。どこに先輩達の荷物が処分されたかわかっているわ」
「それは一体どこだ?」
「その前に約束して。置いていかないって」
「約束する」
しばらくの間、彼女は言い渋っていたが、最後までその場所を明かさなかった。
「明日の午後3時、セントラルモールの駅前まで来れる?」
「どうして今じゃダメなんだ?」
「……私達がどこにいるかは完全に管理されているの。門限を過ぎて自分の部屋にいなければもう大騒ぎ。だから、今私がその場所を教えたら、あなたは私を置いて行ってしまうような気がして……」
「……」
ロバートはしばらくの間黙っていた。
彼女にとって、彼はおそらく唯一の理解者だろう。そんな彼と離れてしまえば、もう二度と会えないような気がしてもおかしくはない。
「……セントラルモールの中にあるのか?」
「ええ。モールの中に、生徒が使っていたものを専門に扱うお店があって、あの部屋を出ていった人達の荷物は全てそこに送られるの。そして、数年間倉庫で眠らせた後に店頭に出す決まりになっているわ」
「つまり、その店の倉庫にあるということか?」
「ええ。けれども、モール内には無数のお店があるわ。今から一人で行ってもそのお店には行けないわよ」
彼はふうとため息をつく。
「大丈夫だ。俺はちゃんとお前を待っている。だから安心して明日まで待て」
「……信じていいのね?」
クレアの目は彼に懇願する。頼むから置いていかないでと。こんなところで朽ち果てるのは嫌だとそう訴える。
「ああ。信じていい」
「……じゃあ、私はもう自分の部屋に戻るわ。あなたはどうするの?」
「俺は外で今夜を過ごす予定だ。こうすれば」
彼は光学迷彩を操作し、自身の姿を変える。
「こうして地面に化けて、あとは地面に伏せていれば、俺は他人からは見えなくなる」
「へえ……そんなことができるんだ」
「まだこいつは試用段階、それを借りてきただけだ。だから予期せぬ誤作動などもあるかもしれない」
この光学迷彩を渡された際に言われた言葉を今も覚えている。突然迷彩効果が消滅する可能性もある。だから頼りすぎるな、と……。
彼自身往来のど真ん中で寝ようなどという気は当然ながらない。迷彩効果を頼りにしているが、もとより迷彩効果がなくとも見つからない場所で一夜をすごすつもりであった。
「ふーん。頼りになるのかならないのか、いまいちわからないわね」
そう言いながら彼女はトイレを後にする。ロバートは黙って彼女を見送った。
翌日、ロバートは指定された時刻に指定された場所へと向かう。
ラフなシャツに身を包み、ズボンも普通のジーンズだ。外から見れば仕事から解放されて休日を過ごす一般的な青年の様に思える。
「待った?」
「いや、こっちも今来たところだ」
クレアも薄地のワンピースに身を包み、涼しげな印象を与えてくれる。彼女のような者が街中にあふれれば、過ごしにくい灼熱の夏も幾分か過ごしやすくなるだろう。
「さ、行きましょ!」
「お、おい!」
彼女は彼の手を引いて歩き出す。歳の離れた兄妹といったところだろうか。カップルには思えないほどの年齢差の二人は、様々な品が並んだ商店街の中を練り歩く。
「どう見ても古物商じゃないんだが」
「いいじゃない。ちょっとくらい寄り道してもさ!」
彼女はさっそく小物屋へと駆け込む。ロバートも肩をすくめながら仕方なしに彼女の後を着いて歩く。
「可愛い……」
店内に入ると、そこには様々なキャラクター物のグッズが所狭しと並んでいた。そんなグッズの山に埋もれて一人の少女がショーウィンドウに張り付いていた。
「ねえ……これ買ってくれない?」
彼女が指さしているのは小さな水晶で飾られたヘアバンドだった。キャラクター物で埋め尽くされている店内で、唯一キャラクターに侵食されてない品だった。
「無理だ。俺はカードがない」
ロバートもここに潜入する以上、ここのシステムを一応は勉強していた。クレジットカードのみで全ての買い物を済ませることが基本となっているシステムは、逆を言えばカードがなければ一切買い物をすることができないということを指す。
「あぅ……」
彼女はしょんぼりとして、だがなお恨めしそうにそのアクセサリーを見つめる。
「連れ出せたらあんなものいくらでも買ってやる。だから……今は諦めろ」
「……本当?」
「ああ」
ロバートはしっかりと頷く。給料の支払いは破格といってもいい。それこそヘアバンドごとき100本でも買うことができる。
彼女はしばらくの間ショーケースの中を見つめていたが、ついに諦めたのかゆっくりとケースから離れる。
「約束だからね」
「ああ」
少女は小指を突き出す。
「指切り……」
「わかったよ」
二人は小指を絡ませて、歌を歌う。
「指切りげんまん……」
「嘘ついたら釘千本飲ーます……」
「「指切った!」」
色々と目移りしがちなクレアをどうにかなだめつつ、二人は古物商へと向かっていた。
やや危険な漢方を扱う商店が連続している地域を抜けると、それは唐突にあらわれる。
『あなたの欲しいものがきっとみつかります』
そう掲げられた看板の脇には古ぼけたショーケースが置かれている。
中にはいかにも古そうな本や、古物が所狭しと並べられ、いかにも古物商といった感じのたたずまいだった。
「クレア、“視える”か? こんなパソコンなんだが……」
彼はあらかじめ渡されたパソコンの型番に関する資料を彼女に見せる。しばらくの間クレアはそれを見つめていたが、やがて目を瞑って精神を集中させる。
「ちょっと待ってて」
彼女には今何が見えているのだろうか。この薄いドアの向こう側にある商店のそのまた奥にある倉庫にあるとされる目標のコンピュータ。それが、ここにいる彼女に見えているのだろうか。
「それを取ってくればいいの?」
「いや、中に入っているデータディスクだけで十分だ。簡単なプッシュ方式でディスクが排出される仕組みだったはずだ」
「じゃあ……私が取りに行くわ」
「なぜ君が行くんだ。俺が……」
「私には“眼”があるもの。これはそんな頼りにならない迷彩とは違うわよ」
しばらくの間ロバートは黙って考える。
『彼女に任せてみてはどうでしょうか?』
耳元のイヤホンから声が聞こえてくる。
『ロバートさん! そこの店に俺ら行ったことがあります!』
今度は先とは別の少年の声が聞こえてくる。パソコンの持ち主……レンだった。
『ちょっとレンさん!?』
『そこでアリスの誕生日プレゼントを買ったんです! 間違いない!』
もし、クレアの言っていることが本当ならば、その誕生日プレゼントも元は持ち主がいたのかもしれない。
『つまり……』
「元の持ち主がいた、ということだな」
『ちょっと待って! じゃあ、僕の部屋にあった写真はもしかして……』
「待て。話が見えない。順に言ってくれ」
取り乱していたことに気付いたのか、レンはいったん咳払いをしてゆっくりと話し始める。
『僕の部屋には一枚の写真があったんです。その写真は誰が誰を撮ったものかはわからないけど……院内キャンプのときに撮った写真だと思うんです』
「その写真がどうかしたのか……?」
『写っていたんです。アリスの誕生日プレゼントに贈られたものにそっくりなペンダントが……』
そのことから予測されることをロバートは考える。
「それはつまり……その写真は君達を写したものではなく、他の誰か……もうこの島には恐らく生きて存在してはいない誰かを写したものだっていうのか?」
『……はい』
ロバートは舌打ちをする。
今まで、クローン人間を臓器移植に使うということなど半ば信じられなかった。だが、実際にここで消えた人間がいるのだ。
彼はこのオキシデリボという会社に恐れを抱くと同時に、強い嫌悪感を感じる。
「ともかく、ここに島で生活をしなくなった子供達の私物が運び込まれていることはわかった。もう目的まであとわずかだ。後のことは任せてくれ」
『はい……。お願いします』
通信が終わるのを今か今かと待ちわびていたクレアがすぐさま尋ねる。
「で、どうすることに決めたの?」
「俺が店主の気を引く。その隙に、君はコンピューターからディスクを抜き取ってくれ。君ならどこにそれがあるかわかるだろう?」
「わかったわ」
二人はドアをゆっくりと開き、店の中へと足を踏み入れる。ドアベルが小さな音を立てて揺れる。
突然目の前に現れる本の山。ロバートは辺りの様子を見回しながら店の奥へと進んでいく。
「いらっしゃい」
突然本の影から現れる老人。ロバートは彼を見据えながらゆっくりと口を開いた。
一方、クレアはロバートとは別のルートを通って店の奥へと進んでいく。
彼女の眼にはどこに店員がいるか“視えて”いる。今の位置なら問題なく奥へと侵入できる。
その視界の隅にロバートの姿が映る。何を話しているかはわからなかったが、きちんと店員の気を引いているようだ。
「今は彼に頼るしかないわ。でないと私も……」
彼女は自分の記憶を巡らせる。数週間ごとに記憶操作を受ける身であることを知ったのは彼女がまだ7歳のときだった。
次々と記憶を変えられる自分の友人達の姿を“視て”、彼女はそのことをノートに書き留めた。そして、自分自身の記憶にロックを掛けて封印し、研究員にその記憶を改竄されないようにした。
自分がなぜこんな能力を持っているかはわからないが、少なくとも彼女のことをクローンだと強く信じている研究員の連中は、クローンがオリジナルの持っていない能力を持っていることを知らない。
こうして3カ月が経過し、彼女は12歳まで成長を遂げた今も昔の記憶をわずかも損なうことなく今に至っている。
彼女の眼は知っていた。クローンとして生まれた自分がどのような最期を遂げるのかを。だから彼女は逃げ出した。
本の山を崩さないように先へと進むと、やがて扉が見えてくる。その前に、脇にある机の中身を漁る。
「鍵がここにあるはずね」
当然ながら倉庫には鍵がかかっている。だが、シリンダー錠の構造を“視る”ことができる彼女なら、どの鍵が正解の鍵かすぐにわかった。
クレアは机の中から一つの鍵を盗み出すと、扉のノブを捻って奥へと進む。
目の前には二つの扉が並んでいた。片方は外へと繋がる扉。そしてもう一つは倉庫への扉だ。
迷うことなく鍵を差し込み、ドアノブを捻る。音もなく扉は開き、クレアは体を滑りこませた。
「どのパソコンよ……」
その中は乱雑に物が並べられ、似たようなパソコンも数台並んでいた。
クレアは目を瞑って眼で“視る”。
「見つけた」
彼女は一台のパソコンに近付き、ディスクスロットからディスクを排出する。
それをポケットに仕舞いこむと、彼女は再び倉庫から外に出る。もちろん鍵をかけることも忘れない。
クレアは念の為に扉の向こう側を“視る”。ロバートと店主は未だに会話を続けていた。そんなロバートの話術にクレアは感心する。
入ったとき同様扉をゆっくりと開き、音も立てずに閉じる。そして、鍵を元の場所へと戻し、店主に見つからないように店の入り口の方へと進む。
彼女は一度扉を開く。ドアベルが鳴り響き、客の来店を店主へと知らせる。そして、クレアは外へ出ずにロバートの方へと向かう。
「終わったわよ」
「わかった。時間を取らせてすまんな。連れの用事が終わったみたいだ」
「おお、そうですか。いや残念です。あなたのようなお客さまはなかなかお目に掛かれない。ぜひともまた来てくだされ」
老人はロバートの手をぎゅっと握り、笑顔で見送る。ロバートも笑顔で応えると、二人は店の外へ出た。
「うまくやれたか?」
「はい、これでしょ?」
ロバートはクレアが差し出したディスクを持っていた端末へと差し込んだ。少々のラグの後、画面上に情報が映し出される。
「これだ。間違いない」
そこにはオリジナルの人間の事細かなデータが記載されていた。
「著名な資産家に軍の高官……ロベミライア側にも顧客がいるな……」
「ロバート……私は?」
「君は……いや、やめておこう。こんなことを知っても不快になるだけだ」
彼は端末の電源を切ると、ポーチの中へと仕舞った。
「そう……そうよね」
クレアはうつむいて頷く。自分のオリジナルになった人間を知ったところで何になるなろうか。親とも言える存在ではあるが、殺すために生んだ親に言う感謝の言葉などあるだろうか。
「行きましょ。一秒でも早く外の世界を見てみたいわ。“眼”じゃなくて、この目でね」
「ああ、そうだな。それがいい」
ロバートはクレアを率いて侵入の際に通ったマンホールの方へと向かった。
「所長、準備が整いました」
「ご苦労様。下がっていいわよ」
ミシェルは白衣の男性を煙たそうに手で追い払う。彼は一礼すると部屋から出ていった。
「まったくもってありがたいわね。こっちが必死に探していたデータを見つけ出してくれるとはね。それにしてもあの子娘、子供達にデータを流すなんて、リーダーとして採用したのが間違いだったわ」
彼女はこのような事態に至った原因……ユイの顔を思い出す。
「ま、あの子娘が送り込んだ男が予想以上に役に立って助かったわ」
彼女は防犯カメラの映像へと目を映す。数万と設置された防犯カメラの映像の中から一つの映像を選び出す。そこには一人の男と一人の少女の姿が映っていた。
「まったく、勝手に“商品”を盗み出すなんて手癖の悪い男ね」
ミシェルはクレアのことを見つめる。いつの間に知ったのか、それともただの偶然か。ともかく彼女が外に出ようとしていることは明らかだった。
「どうやらデータも手に入れたみたいだし、そろそろ捕まえるとしましょうか」
彼女はテレビ電話を起動し、一人の男の元へとかける。
「ジョージ、出番よ」
「ようやく暴れられるのか?」
「男は殺していいわ。けれども少女は無傷で捕らえなさい。大事な商品だもの」
「承った」
男はそう短く言うと電話を切った。
ミシェルはうんざりしたような表情を浮かべる。
「まったく愛想の悪い男。でも、使えない口だけの男よりはマシね」
ミシェルは深く椅子に腰かける。彼の実力は折り紙付きである。
数ある戦争屋の中でも高い実績を誇り、確実に獲物を仕留め、中でもブレードの扱いは一級品だという。
そんな彼にはオキシデリボの試作品のヴィブロブレードを渡してある。どう転んでも、諜報員に勝ち目はない。
ミシェルは妖艶な笑みを浮かべてカメラの映像を見下した。
ロバートは焦っていた。地下シェルターの警備が目に見えて厳しくなっていたのだ。
「ロバート、そこは右」
「ああ」
彼一人だったらとっくに兵と出くわしている。ここまで敵と鉢合わせせずにいられるのも、偏にクレアのお陰だといえた。
「次は左ね」
だが、それももはや厳しくなってきていた。敵の数は徐々に数を増し、そして敵もただ見張っているのではなく明らかにこちらを探していた。
「困ったわ。もう敵のいない道がないわ」
ついにクレアも敵のいない道を見つけることができなくなっていた。しかし、脱出ポットまであと数百メートル。無理やり突破できない距離ではなかった。
「クレア、強硬突破だ」
「本気? 結構な数がいるわよ?」
ロバートは腰のポーチから拳銃を取り出す。それは玩具でもライターでもない、本物の銃弾が込められた銃だった。
「だいたい200メートルくらいか。走れるか?」
「わからない……。体はまだ12歳だから……もしかすると捕まるかもしれないわ」
「それなら……俺が囮になる。俺が奴らを引き付けている間にポットまで走れ」
ロバートは影から敵兵の様子を窺う。飛び出す最良のタイミングを掴もうとしているのだった。
「……絶対戻ってきてよ? 私はポットなんて操縦できないわ」
「わかった。必ず戻る」
ロバートは目を瞑り、深呼吸する。
多対一、そしてこちらの手には一丁の銃のみ。明らかに不利だった。
けれども、やるしかないのだ。ここを生きて抜けるには、この場を制圧するほかにはなかった。
……そして彼は走った。
「いたぞ!」
声が響くと同時に彼は銃を抜く。狙いを定めて確実に戦力を削る様に攻撃する。
「ぐあッ!」
「クソ、足をやられた!」
命を奪う必要はない。戦力とならないように足止めさえすればよいのだ。
ともかく、短期決戦が重要である。増援が駆け付けたら間違いなく勝ち目はない。
「ッ!?」
死角から白刃が迫る。気配だけでロバートは振り向くと、銃で刃を受け止める。
「なッ!?」
そのまま相手の胴を蹴り抜き、腕を撃って鎮圧する。
「がぁッ!」
ロバートは敵兵からブレードを奪い取る。弾丸の数に限りがある銃よりも、敵の数がわからない戦いでは刀剣類の方が役に立つ。体を低く屈ませながらロバートは剣を振るった。
「ぐわッ!」
「な、なんなんだ、コイツ!?」
確かな手応えと共に人が倒れる音が聞こえる。彼はそのまま血を拭うこともせずにブレードを振るう。
「きゃああああああぁぁぁぁぁッ!」
しかし、彼の獅子奮迅もそこまでだった。耳をつんざくような悲鳴が辺りを駆け抜けた。
ロバートは振り返る。そこには首元を捕まれて吊り上げられるクレアの姿があった。
「クレアッ!」
ロバートは身を低く屈ませたまま走る。クレアを掴む敵兵めがけてまっすぐに走った。
その手の刃がもう少しで敵へと届こうという瞬間、別の方から刃が飛び出した。
「くッ!」
なんとか体は捻らせロバートは回避する。刃はそのままくるくると回転しながら放物線を描き、深々と地面に突き刺さる。
「見事だ」
ぱち、ぱち、と軽く手を叩くような音が響き渡る。
刃の飛び出した方向には一人の男が立っていた。腰には一振りの刃が下げられている。
「お前達は下がれ」
その声で、殺気を放ちながらロバートを取り巻いていた兵達はどこかへと消えていく。
「ロバートっ!」
クレアの声も同時に遠ざかる。だが、ロバートはそこから動くことができなかった。
ナイフのように鋭く冷たい視線がまっすぐにロバートを射抜く。一瞬でもその男から視線を外せば、その瞬間殺られることをロバートは確信していた。
「ガキを追わないのは正解だ。その瞬間殺す」
「お前……見覚えがあるな……」
目の前に立つ巨大な男の顔を見た瞬間、ロバートの頭の中にある男の情報が浮かび上がる。
「国際指名手配、ジェームス・ジェイソン。テロ組織レイリヴァンの実行部隊元隊長、数多くのテロ・暗殺を行い、レイリヴァン壊滅と同時に行方不明になった伝説的テロリスト……か」
数年前まで各地で暗殺とテロ行為で連合国を恐怖に陥れていたテロ組織レイリヴァン。殺した人間の数はそれこそ千にも届き、殺した首相・大統領の数は五十に届きかねないとすら言われている。
ようやく首魁を突き止め、国連軍の投入によってようやく壊滅へと追い込んだ組織だが、今でもその何人かが逃げまわっていると言われている。そのうちの一人が目の前に立っている男だった。
「ほう、よく知っているな」
「どこかで未だにドンパチしてるって噂だったが……戦争屋とはな」
「どうせ非合法の殺しをしてきたんだ。非合法の戦争屋をしていたところで驚くこともないだろう」
ジェームスは腰に下げられた刀を手に持った。それは低い音を立てながら細かく振動する。
「ヴィブロブレードか……」
ヴィブロブレードとは、刀身が超微細振動することによって、従来の刀剣と比べて切れ味が数倍も良くなるよう仕掛けを施してあるギミックブレードである。それは岩であってもバターの様に斬ることができると言われている。
「俺が投げたブレードも同じ品だ。抜け」
ロバートは手に持っていたブレードを投げ捨てると、床に刺さっていたブレードを引き抜いた。柄の部分のスイッチを押すと、ジェームスのブレード同様細かく振動する。
「本気の殺し合いだ。まさか経験したことがないとは言わないな?」
「テロリストを数人殺した。俺は狂ったテロリストと違って殺人嗜好なんてないんでな」
「殺人嗜好? 違うな。戦いは芸術だ。ブレードは筆で、肢体はキャンバスだ。傷という名の線を刻み込み、死体という作品を作り出す芸術だ」
「あいにく、俺は芸術を愛でる心も死体を賛美する目もないのでな。お前の芸術とやらを理解できん」
「それならば、お前が作品となるがいい!」
ジェームスは大きな一歩で刀を大きく振るう。ロバートも軽いステップを踏みながら刃を繰り出した。
二つの筆がぶつかり合う瞬間、鋭い火花が噴き出す。それがお互いの顔を明るく照らした。
「ふむ、そこそこ鍛えてはいるようだな」
「諜報員ってのは意外と体を酷使する仕事でな」
二人は大きく後退すると、再びぶつかり合うように刃を突き出す。
重い衝撃がロバートを襲う。巨躯から繰り出される一撃は、細身のロバートが受け止めるにはやや重すぎた。
「だが……まだ足りんッ!」
ジェームスが大きく斬り払う。その勢いに耐え切れず、ロバートは思わずブレードを手放す。
回転しながら舞うブレードを目で追う間もなく、ロバートは大きくバックステップで下がる。だが、そこにジェームスの凶刃が襲いかかる。
「ぐッ!」
「紙一重……か」
胸に横一文字の傷を刻まれるロバート。胸元からぽたぽたと血液が溢れだし、落ちていく。
「だが、早速俺の筆が入った。お前はまもなく作品となる」
「それはどうかな」
ロバートは頭の中で弾かれたブレードとの距離を測る。およそ10メートル。取りに行けば確実に斬られること間違いなしだった。
ジェームスがブレードを大きく振りかぶる。ロバートは大きく後ろに飛んでそのままステップを踏みながら後退する。
だが、ジェームスはそのままブレードを引き寄せ、一気に突き出した。
「ぐぁッ!?」
刃が左腕を貫通する。とっさに左腕を突き出さなければ、心臓をまっすぐに貫いていただろう。
「ほう……いい判断だ」
「死ぬわけにはいかないのでな」
そのままバック転で大きく飛び、右手でブレードの柄を掴む。すぐさまスイッチを入れると、刃が振動し始めた。
「まだ戦いは始まったばかりだ! さあ、来い!」
ロバートは片手でブレードを持ち、ジェームスへと斬りかかる。しかし、それを容易く受け止めるジェームス。
ジェームスは再びブレードを力強く打つ。今度は手放すことはなかったが、右腕に強い衝撃が走る。
「クソッ!」
ロバートは再びバックステップを踏む。しかし、それにぴったりとついて来るジェームス。
「逃げるな逃げるな! 戦いは前進してこそ勝利を得られるものだ!」
ロバートも頭の中では理解している。だが、右腕に痺れがある今、もう一度刃をぶつけあえば結果は見えている。
ついに壁際まで追い詰められるロバート。ジェームスが刃を振り下そうと大きく振りかぶる。
ロバートは力の篭らない両手でブレードを持ち、ジェームスの刃へ叩き込む。
ぶつかってなお振動し続ける刃は無数の火花を散らしながら激しくせめぎ合う。
「どうした!? 力が入っていないぞ!」
それに答えることもできず、だがともかく斬られぬようにとなんとか刃を押し返す。
しかし、それにもかかわらず火花は自分の方へと近付いていく。
そのとき、ロバートは足元に転がっているものに気付いた。だが、それを使っても確実に仕留められる保証はない。
それでも、ロバートはそれに頼るしかなかった。彼は足にそれを引っ掛けると、大きく蹴り上げ左腕で掴んで振るった。
「なッ!?」
突然の反撃に驚くジェームス。刃を返してそれを防ぐも、それはぽきりと折れてそのままジェームスの胴へと吸い込まれる。
「ぐぁッ!?」
ロバートが振るったブレード……先ほど彼が捨てた普通のブレードが赤い一線を描く。それは半分ほどのところで折れていたが、それでも十分に役目を果たし、ジェームスへと一撃を加える。
「はあぁ……効いたぞ? 突然の反撃に俺も驚きだ」
「ちっ……仕留め損ねたか……」
それはジェームスの胴を横一線に切り裂いたものの、ヴィブロブレードに弾かれて折れてしまったため、深い痛手を負わせることはできなかった。
左腕から血が滴り、折れたブレードの柄を濡らす。血を流しすぎたのか、彼は平衡感覚がおかしくなっているのを感じた。
「だが……勝負あったな」
「クソ……」
血を失い、もはや正確に焦点が合っていない。霞んでは見えるジェームスの姿をなんとか捉えるも、もはや立っているのすら限界だった。
「お前は俺の作品となるのだ。そのことを喜ぶがいい」
ジェームスが手を振り上げる。それがロバートの目にはスローモーションに映り、千手観音の如く手が分裂する。ロバートは、それが彼の命に引導を渡すものだと考えると、神々しくさえ感じられた。
今までの一生が思い返される。
初任務、初めて達成したときのこと、初めて人を殺したときのこと、そして今回の任務……。
サポーターがまだ16の少女と聞かされて多少は驚いたものの、話してみてそれ以上の驚きを感じた。
聡明で、賢く、サポーターとして十分だとさえ感じた。しかし、今はその声も聞こえない。
実際に任務に就いて、着々と自分の仕事が進むことがとても気分がよかった。障害もなく、今回も楽に終わるだろうと感じたときに現れた少女。それがクレアだった。
少し強気だけれども、孤独に苛まされ、寂しさの中にいた彼女を守ってあげたいと感じた。
だが、それももうここまでである。まもなく目の前の男に斬り殺されるのだ。
『ロバートっ!』
「っ!」
頭の中に一人の少女の声が聞こえてくる。その声を聞いた瞬間、仕方がないというような気分になる。
自分がクレアを助けなければ、誰が助けてやるのだろうか。
ロバートはまっすぐにジェームスを見据える。
「ほう……? 命乞いか?」
「助けてやらなきゃいけないヤツがいるんだ。こんなところでくたばるわけにはいかないんだ」
「だが……俺は作品を完成させなければ気がすまないのでなッ!」
ジェームスのブレードが動き始める。それはまっすぐに落ちていく。
タイミングは一瞬。トドメをさしたと確信する瞬間。要は死ななければいい。
一瞬体を横にずらし、軸をずらす。刃は徐々に左肩へと落ちていく。
それを振り下しきる直前に彼は動いた。
左の手が動く。ほんのわずかだが、それは絶対的で確実、そして効果的な一撃を繰り出す。
矢のように投げられたブレードはまっすぐにジェームスへと飛んでいく。左の胸の……心臓へとまっすぐに。
左肩に激痛が走る。ほんの数センチだけだったが、それはロバートにとっても手痛い一撃だ。
だが……ジェームスへと叩き込まれた一撃は、その代償をもってして余りある結果を生み出す。
「な……に……?」
ジェームスの手からブレードが離れる。ロバートの肩から転げ落ちたブレードは血をまき散らしながら転がっていった。
「悪趣味な芸術には興味ない。もちろん、作品になる気もない」
ジェームスはそのまま後ろへと倒れる。そして、そのまま動くことは二度となかった。
ロバートは肩口を包帯で縛り、ひとまず止血する。もっとも、すでにかなりの量の血を流している。危険な状態であることには変わりなかった。
それでも歯を食い縛って立ち上がり、彼はひたすら歩いた。助けてやらないといけないヤツがそこにいるから。
「ロバートっ!」
彼女は戦いの一部始終を眼で“視て”いたのだろう。ロバートが彼女の前に現れたとき、その顔は涙でぐっしょりと濡れていた。
「死ぬかと……思った……」
クレアは兵に押さえられながらも、最大限に身を乗り出してロバートを見つめる。
「俺も思ったさ。でも、お前のことを思い出したら死ぬ気になれなくてな」
クレアの隣には長身の女性。そして、その周りには多数の兵達。ジェームスを倒したとしても、ロバート一人で彼女を奪還するのは不可能に近かった。
白衣の女性はぱちぱちと手を叩きながら彼を見下ろす。ロバートも悔しそうに彼女を見上げた。
「ヘヴン研究所所長にして、クローン達の保護者……いや、監視役のミシェル・シスターヴァか」
「まったく大したものだわ。あの男を倒すとはね」
多くの兵が銃を構える。その標準はまっすぐにロバートへと向けられている。
「あなたの任務はディスクの入手でしょう? なぜ戻ってきたの?」
「なんでこっちの任務を知ってるかね……。ま、どうせ内通者が国連の中にいるんだろうな」
彼はポーチからタバコを取りだすと、口に加えた。
「しまった、火がない。おいあんた、ちょっと火を貸してくれないか?」
「貴様! 自分の身を……」
「末期の水代わりに楽しませてあげるくらいいいんじゃない? どうぞ」
ミシェルは懐からライターを取り出し、彼の方へと放った。
ロバートはそれをキャッチし損ねる。彼は床に落ちたそれを拾って、タバコに火をつける。
「……ふぅ……。助かったよ」
ロバートはライターを投げ返した。ミシェルはそれを空中で受け取る。
「末期のタバコついでにもうひとつ頼んでいいか?」
「聞いてあげるかぐらいはいいわよ」
ロバートはタバコをくわえたまま深く息を吸い込むと、吐き出す。白煙が辺りを漂う。
「クレアと二人で話がしたい」
ミシェルはしばらくの間考え込んでいたが、やがて頷いた。
「いいわよ」
「所長! いくらなんでもそれは……」
「投げられたライターもキャッチできないほどフラフラの男に何ができるというの? それに、出口は全て封鎖したわ。脱出ポットも許可を出さなければ出ることもできないわ。離してあげて」
クレアは拘束を解かれる。彼女はまっすぐ走ってロバートに飛びついた。
「ロバートっ!」
「おっと」
彼は数歩よろめいたが、なんとか彼女の体を受け止めると、ぎゅっと抱きしめた。
「ロバート! なんで戻ってきたの!? 私を助けることはあなたの任務と関係ないでしょ! 私なんて置いていけば……」
「馬鹿。約束しただろ? ヘアバンド、買ってやるって」
「そんな……そんなことのために……」
クレアは泣きながらロバートの体を叩く。ロバートはそんな彼女を優しく抱いた。
「こんな血まみれになって……死にそうになって……それでも私なんかのために……大馬鹿諜報員!」
「どうせ俺は馬鹿さ。だから、お前を放っておけなくて来てしまった」
クレアはロバートの目を見つめる。ロバートもクレアの目を見つめた。
「……ありがとう、ロバート……」
彼女は目を瞑ると、ロバートの唇に口付けをした。ロバートも目を瞑ってそれを受け入れる。
唇を離したとき、彼はミシェル達に聞こえないよう小声で呟いた。
「クレア……目を瞑って耳を塞ぐんだ」
「え……?」
ロバートはクレアの体を抱きしめると、そのまま覆い被さるようにして地面に伏せる。
『ロバートさん、遅くなりました! 今から突撃します!』
爆音と同時にまばゆい閃光が辺りを満たす。フラッシュグレネード……視界を奪い、聴覚を麻痺させる非殺傷兵器。それは次々と炸裂し、敵兵達を無力化していく。
「な、何が起きているというの!?」
ミシェルも突然の事態に目を白黒させながら慌てふためく。
扉が次々と開き、大量の兵達が飛び込んでくる。
つい数時間前、オキシデリボへと強制的に軍事介入するに足る証拠をユイの父親が入手した。彼の独自のルートで、オキシデリボと取引を行っていた者と接触し、その者から証拠を入手した彼は娘のミッションをサポートするために国連軍を配備し、ヘヴンへと突撃するタイミングを図っていたという。
そして、ロバートの体に仕込まれたマイクから拾った音声を傍受し、そして今の突撃に至ったという。
ユイ自身も数十分前に国連軍の準備があったことを知り、ロバートもつい数分前、ジェームスとの戦いで負った傷に応急処置を施している間に聞いたのだった。ロバートは面食らうと同時に、万が一のためにクレアの保護へと向かったのだった。
正直なところ、もし突撃がなければ彼は脱出ポットへと向かったかもしれない。もっとも、そのことを激しく後悔しながらであろうが。
ミシェルや兵達が拘束された後、ロバートとクレアは国連軍によって保護された。
大至急担架が運ばれ、彼は担架へと乗せられる。
「ちょっと……待ってもらってもいいか」
ロバートは軍の兵に声をかけると、半身を起こしてクレアを抱き寄せた。
「もう……心配しなくていい。もうこれで……全て終わった」
「私は……もう一人でいなくてもいいの?」
「俺がずっと一緒にいてやる。もう、お前は一人でいなくていいんだ」
ロバートは彼女を抱きしめたまま、そのまましばらくの間、離れることはなかった。
オキシデリボの全てが終わった。
ついに白日の下へと晒された陰謀は白塵と化す。
さあ、始めよう。
全てを終えた者達の最後の物語。
終局章 Actual End




