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第4章 The door bound to Tomorrow

第4章 The door bound to Tomorrow

未だ雨は酷く、1メートル先すら見通すことができなかった。言うならば一寸先は闇といったところだろうか。道は水浸しとなり、側溝を轟々と音を立てて水が流れていく。

雷鳴が轟き、稲光は空を覆う。その一瞬、三人の不安げな表情が明るく照らし出された。

三人はレインコートを身にまとい、降りしきる豪雨の中、少しずつ足を進めていた。

リニアを利用すると、駅出口のカメラにばっちり姿が写ってしまう。そもそも、研究区画は一般市民立ち入り禁止が原則となっており、彼らのカードでは駅のゲートをくぐることができない。

そうなると、唯一研究区画に立ち入ることができる方法は徒歩のみとなる。途中にフェンスこそあるものの、幸いなことに地続きなっているので潜入することができる。

「レン、大丈夫か?」

「ん……なんとか……」

格子状のフェンスに足をかけ、三人は苦労しながらフェンスを上っていく。高さは3メートルほどであり、乗り越えること自体はそう難しくない。

水を跳ね散らして三人は着地する。そこはもう、研究区画の一部であった。至るところに建物が立ち並び、闇の中でほのかに電灯の明かりを振りまいていた。

「目指すは中央棟だ。歩いて五分くらいってとこか?」

「まだそんなにあるのね。ずいぶん行き来しにくいじゃない」

「本来は地下部分……下層のリニアシューターを利用して建物間を移動するんだよ。俺達はそれを利用するわけにはいかないから、徒歩で行ったり来たりするんだよ。実際のところはそんなに不便じゃないみたいだぜ?」

文句を言うリサを黙らせながら、アランは中央棟へと向かう。レンとリサもその後をゆっくりと、けれども確実に歩みを進めていく。

やがて『中央棟』と書かれたプレートが豪雨の中を見え隠れする。それを見てレンとリサはようやく安堵する。

「気を緩めるなよ? 真正面から入るわけにはいかないから、迂回して食堂側の入り口から入る」

二人は不服そうな表情を浮かべる。アランは呆れたような表情を浮かべて文句を言った。

「お前らな……俺はカメラ対策に窓から入ったんだぞ? それに比べれば扉から入れる分、まだマシだと思えよな」

さらに歩くこと数分、ようやく食堂の入り口へと到着する。三人はそこでレインコートを脱ぎ捨て、軽く体をタオルで拭うとゆっくり足を進める。

アランは近くにあった倉庫と書かれた扉を開き、中に入った。

彼は懐から地図を取り出すと、台の上に大きく広げた。そして、地図上の道を指でなぞって示す。

「今俺達がいるのはここだ。ここから中央のエレベーターの方へとまっすぐ進むとその隣に下層行きの扉がある。本当はエレベーターを使えば最下層まで直行なんだが……そのエレベーターは研究員、警備員の使用頻度が高い。だから、使うのは無理だろうな……。下層に降りたらまっすぐ進み、荷物用のエレベーターを使って最下層に降りる。そこから正面に進み、二つ目の角で右、次の角を左、そしてまっすぐ進んで三つ目の扉が目的の部屋だ」

「で、その下層に行く扉の前にはカメラはないの?」

アランは黙ってその扉付近の一点を指さす。そこには確かにカメラのマークが描かれていた。

「方法は二通り。無理やり強硬突破か、映画かなんかみたく監視室を制圧するか、だ」

レンは箱の上にどさりと体重を預けてうなり始める。

「どっちも非現実的よね。映画の主人公なら、並外れた身体能力だとか、凄い道具だとかがあるけれど、私達にはそんなものはないもの」

「……もし、それがあるとしたら?」

アランは意味ありげにニヤリとを笑みを浮かべ、肩から下げていた鞄の中から様々なモノを取り出した。

「もしかしてこれって……!?」

「んー、そこまで強力なもんじゃないが……。こいつは防犯ショップで買った催涙スプレーなんだが、射程は1メートル程度、顔面を狙わないと効果が薄くなり、しかも一回限りの使い捨て品っていう、何とも言えないモンだ。こっちはスタンガン。一撃で昏倒させるような威力はないが、相手を一時的に無力化できる。スプレーと違って体の表面、あるいは薄手の服の上からならどこでも効果があるけど、無力化させられる時間はそう長くない。せいぜい十数秒ってとこか。それからこっちは……」

最後に彼が取り出したのは……映画の世界でならば幾度となく目にしてきたが、まさかこの島に存在するとは思っていなかったモノ……拳銃だった。

「アラン!? これは一体なんなのよ!?」

「そう騒ぐなよ。ほれ」

アランはリサの方へと銃口を向け、かちりと引き金を引く。その瞬間、銃の先から一筋の炎が噴き出した。

「はぁ……びっくりさせないでよ……。いきなり銃口向けられて心臓止まるかと思ったわよ」

「悪いな。ま、この通り見かけ倒しのライターなわけだが、脅しくらいには使えるだろう」

アランはそれを腰のベルトに挟む。その上からシャツをかければ外見からは何もわからない。

「こいつはかなり重いから、いざってときは鈍器として使える。ヤケクソで投げつけたっていいだろう」

そう言ってアランはからからと笑う。だが、レンは笑うことができなかった。

「どうした、レン? なんつうか、すっごい表情が固いぞ?」

「そりゃそうだよ……。こんなこと初めてだし、僕は皆みたいに度胸があるわけじゃないし……」

「……そ、そんなことないわよ!」

今まで黙りこんでいたリサが突然声を上げる。そのただならぬ様子に二人は視線を向ける。

「アンタは……ウィルとアランが争っているとき、割り込めたじゃない! 私、あのとき凄く怖かった……。クローンとかそう言う話を全部抜きにして、ただ二人が争っているってことが怖かった……」

リサはしばらくの間胸を押さえていたが、やがてレンと向かい合って言った。

「アンタは……アンタが思っているほど弱くない。十分強いわよ」

「リサ……」

「じゃなきゃ……私が惚れるなんて……ないんだから……」

突然の告白に思わず息を止めるレン。リサはリンゴのように頬を真っ赤に染めながら言葉を続ける。

「記憶がどーとかそんなの関係ないわ。だって、今日の出来事は間違いなく起こっているもの。あの状況で割り込めたアンタが凄い。だから惚れたのよ……」

リサは語尾を濁らせながらもそう言い切る。

もちろん、彼女がレンに惚れた理由はそれだけではない。だが、彼女は本当のことを確かめることが怖かった。

今まで誰からも見捨てられた彼女を唯一認め、そして共に過ごしてくれた唯一の友達、それがレンだった。

彼と過ごした思い出が、色鮮やかとは言えぬものの淡いすりガラス越しに見ているかのように流れていく。そのどれが本当で、どれが嘘かはわからない。けれども、それは彼女にとってレンの全てで、そして彼女を今まで支えてきてくれた大切な思い出であることだけは確かだった。

「リサ……」

「こんなときになんだけど……手を繋いでくれる?」

リサは恐る恐る小さな声で尋ねる。レンは笑って頷くと、右の手を差し出した。

彼女は怖がるように怯えながらもその手を握る。レンの手が思いのほか温かく、柔らかいことに驚いたリサだったが、もう一度しっかりと力を込めて手を握った。

「あー……ごほん。そろそろ突っ込んでいいか? いい加減俺を空気にするのはやめてほしいんだが……」

突如ムードを破壊するような発言が飛び出す。リサは苛立ちを表情に露にしつつも、手を繋いだままアランの方を向いて座った。

「ったく……俺も混ぜろよ」

「何か言ったかしら? お相手のいないアランさん?」

リサが精一杯の嫌味を込めてアランに言い放つ。アランは頬をピクピクと動かしたものの、そのまま話を続ける。

「いや、なんでもない。ともかく緊張すんなレン。俺がついてるからな……?」

カッコよくセリフを決めるアラン。だが、とうの昔にレンの緊張はリサの告白という荒技によって解消されている。リサはそんな不様なアランを鼻で笑う。額に青筋が浮かんだが、にこにこと笑みを浮かべてアランは喋り続ける。

「いざって時には通信教育で鍛えた我流柔道が火を吹くぜ!」

「通信って、それは妄想という名の電波じゃないの?」

けらけらと笑うリサ。いつも通り苦笑いを浮かべるレン。悔しそうにぷるぷると拳を震わせるアラン。

「そんなに自信があるのなら、いざってきときはアンタを敵の目の前に放り出して囮にしてもいいのかしら?」

「ごめんなさい、やめてください」

バック転土下座を決めるアラン。リサは呆れてため息をつきながらもその微妙に高い運動能力をもったいないと思う。レンは例の如く苦笑いを浮かべてなんとかその場をやり過ごそうとし――。

『駅前ゲートより侵入者! 駅前ゲートより侵入者!』

――突如スピーカーから音声が流れてくる。いわゆる館内放送というやつである。その語調は慌ただしく、突然の事態に何が起こっているのか理解できていないという感情がひしひしと伝わってくる。

『侵入者は二名! 性別は不明、両者共に武器を所持! 繰り返す、侵入者は二名! 性別は――』

「ねえ、二人ってことは……」

「馬鹿なこと言わないでよ。ウィルならともかく、あのアリスがそんなことできるわけないでしょ?」

その言葉を聞いて、うんうんと頷くアラン。だが、レンの胸中では不安がぐるぐると渦を巻いていた。

「誰だか知らないが……こいつはチャンスだ。騒ぎに乗じて下層に降りることができるな」

アランはそう言うと、地図を畳んで武器の類を鞄にしまいこみ、慎重にドアを開いた。

「……私、レンの足手まといになるかもしれないけど……」

リサはレンの手を握る手に力を込めた。そして、囁くような小さい声でそっと呟いた。

「けれども……私だってできること、あるんだから……。なんでも一人で抱え込まないでね……?」

「……うん」



アランはゆっくりと、それでいて慎重に辺りの様子を探りながら先へと進む。

侵入者を取り押さえるためか、ほとんどの警備員は本来の警備担当の位置にいなかった。おかげで警備員が警備している場所を避ける必要がなく、まっすぐに中心部へと向かうことができた。もっとも、監視カメラだけはどうすることもできないため、死角である真下を通るなどしてカメラに写らないように進んでいく。

一番アランが恐れていたのは、定期的に一定のルートを通る警備員ではなく、まったくのアトランダムに出現する研究員の方だった。だが、その研究員も侵入者を恐れてか一人も現れることはなかった。

順調過ぎると思えるほどまっすぐに進めた三人は、予想よりも遥かに短い時間で中央エレベーター前へと到着した。

「アラン、カメラどうするのよ……?」

リサはエレベーター前および、階段前を監視する防犯カメラを指差す。それは向きが固定されたもので、階段を通ろうとすれば間違いなく姿が写ってしまう。

「今は騒ぎが起こってるからな」

先ほどの拳銃型ライターを取り出すと、アランは思い切り振りかぶって放り投げる。くるくると美しい流曲線を描いてライターは飛んでいき、鋭い音を響かせてカメラを破壊する。アランは落下したカメラの残骸の中からライターを拾い上げると、腰のベルトの内側へと挿した。

「ねえアラン……。これって結構高いんじゃないの?」

「俺がやったことあるゲームでは銃で撃って監視カメラ壊してたな。あれでアラートが鳴らないのが不思議でしょうがなかったぜ」

そのまま落ち着いた様子で、それでいて慎重に扉の向こう側の気配を伺う。どうやら扉の向こう側には誰もいないようである。

誰も来ないかとレンとリサは扉のこちら側を見張っていたが、アランが扉の向こう側に体を滑らせて行ったのを確認して、二人はゆっくりと扉の向こう側へと足を運ぶ。

重い扉は低い音を立てて閉じた。

しばらくの間、ほの暗い階段が続いている。三人は急がず、それでいて遅すぎない速度で階段を下っていく。

ここはちょうど二つの世界を隔てるゲート。静寂と騒乱、サイレントとノイズが混じり合った世界。延々と下層へと続く階段室にコツコツという音の揃わない足音が響いていく。

「ここだ」

途切れの見えなかった階段にようやく終焉が訪れる。

プレートには下層と書かれており、その脇にはやはり重そうな扉があった。

アランはゆっくりと力を入れて扉を押し開ける。ぎぃぃ、という濁った音を立てながら少しずつ扉が開いていく。

上層とは異なり、下層はまったくの別世界だった。

先ほどの侵入者の件もあってか、出入りが激しく騒がしい上層とは対照的に、下層は粛然とした雰囲気が辺りを支配していた。

声を出すことすら憚られる世界。アランはやや声色を落として二人に告げる。

「ここから先はカメラによる監視がほとんどで、警備員はほとんどいないはずだ。さっきの地図が正しければ、だけどな」

アランは壁際に走り寄ると、壁に背をつけながら緩慢とした様子で進んでいく。彼の頭上では監視カメラが回転しながら侵入者を探していた。しかし、そんなカメラも直下までは監視していないようで、真下を潜りぬければ通ることができそうだった。

しばらく進んでアランが手招きする。レンとリサは頷き、カメラが反対側を向いているタイミングを図って真下へと飛び込む。しばらくの間カメラが回るのを待ってから先に進み、アランの待つ場所へと静かに進む。

「ここからまっすぐ進んだところに扉が見えるか? あの脇に荷物搬送用のエレベーターがある。制限重量は80キロまでの荷物専用だ。だが、一人ずつならなんとか乗れるはずだ」

数十メートルほど正面に進んだところにはまた一つのエレベーターが目に入る。おそらくそれが人間用のエレベーターであろう。目的のものはその隣にあるのだろう。

三人は同様の方法でまっすぐ進んでいく。だが、それは三つの目の十字路を超えたところで起きた。

「離したまえ! アリスに手荒なことをしたら許さないぞ!?」

「痛いです! も、もう少し優しく扱ってください……」

「黙ってろ、クソ餓鬼どもが!」

三人は慌てて通路に身を隠す。先ほど三人が降りてきた階段の隣のエレベーターから現れたのは数名の警備兵、そしてよく見知った友人達の姿だった。

武器として振り回していたであろうバールを取り上げられ、それで殴られながら二人は引きずられていく。

(やっぱりウィルとアリスじゃないか!)

(ってかなんでアイツらがここにいるんだよ!?)

(そんなこと、僕に聞かれたって……)

しばらく二人の様子を遠くから見つめていたが、もう一度体を引っ込めて話し合う。

(どうするのよ!? あのまま放っておくわけにはいかないでしょ!?)

(だからって俺達にできることはなんだ!? まさかアイツらを助けろとでも!? そんなんいくらなんでも無理だぞ!?)

(でも、リサの言う通り放っておけないよ……。元はと言えば僕達が忍び込んだから、気になって後を追いかけてきたんだろうし……)

しばらくひそひそと声を低めて話し合っていたが、突如ウィル達の方から騒ぎ声が上がる。

「ダメ!? 返してください!」

「チッ、いっちょ前にネックレスなんかぶらさげやがって……」

警備員の一人がアリスのネックレスに興味を示したのか、それを指で摘まんで持ち上げていた。それはまさしくウィルがアリスへとプレゼントしたルビーのネックレス。アリスがとても大事にしていて、愛しく想う大切な品である。

「おい! それに触るな!」

「うるせえ! 黙ってろって言ってるだろッ!」

警備員の一人がウィルを激しく殴打する。声にならない悲鳴を上げながらウィルは壁へと叩きつけられた。

「ウィルっ!」

「ばッ、リサ!」

思わず身を乗り出して叫ぼうとしたリサの口を塞ぎ、体を引き寄せるレンとアラン。あまりの惨状にリサは我慢することができなかった。

「……ん?」

警備員の一人が三人のいる方へと視線を向ける。

「どうした?」

「いや……向こうの方に誰かいたような気がしてな……」

「なら俺が見てこよう」

そう言って、警備員の一人が二人から離れて歩き始める。靴音は静かな廊下で反響し、実際よりも大きな音となってレン達の元へと届く。

(馬鹿! 何やってんだよ!)

(ごめんなさい……。ついカッとなって……)

(そんな衝動殺人みたいな言い訳聞きたくねぇよ! とにかく隠れろ!)

三人は急いで手近なドアを押してみる。幸いなことに、そのドアには鍵がかかっていないようだった。

アランはそのままドアを押し開け、雪崩込むように三人はその部屋へと飛び込んだ。



事実、彼も何か声を聞いたように感じたのだった。仲間もその声を聞いたというだけあって、その疑惑は確実なものとなりつつあった。彼がその角まで到着して、それは確信へと変化した。

徐々に閉じゆく扉。人の姿こそ見えないものの、誰かがそこを通ったということは明らかだった。

彼は手を伸ばし、扉の取っ手をつかむ。力を込めると思いのほかドアは簡単に開いた。彼は腰に挿した警棒を手に、そのままドアを押し開いた。

「誰だっ!」

そのまま体を中へと滑りこませ、彼は警棒を構える。そこはその建物内では珍しくもない、普通の研究室のようだった。

「ははははは、はいぃッ!?」

彼が警棒を向けている相手……白衣をまとった女性は緊張した面持ちで両手を挙げる。その手には何か液体が入ったフラスコがあり、その前にはいくつかのシャーレとビーカーが並んでいた。

「あ、いや失礼。誰かがここに入っていくのを見たような気がして……」

「あ、えと……すす、すみません! そそ、外が騒がしかったので……あの、えっと……気になったもので……その、ちょっと……だけ……」

「そうか。いや、上層の方で侵入者がいたんだよ。さっきの二人が侵入者で、すでにもう我々が取り押さえた。所長には既に連絡してあって、所長が来るまではA7倉庫でおとなしくしてもらおうってことになったんだ」

「A7っていいますと……そそその、えっと……いい今は使ってないからっぽの?」

警備員の男は頷いた。それを見て、彼女は心底安心したような表情を浮かべる。

「じじじじゃあ、べべ別に今ここが危ないってわけじゃ……ないんですよ……ね?」

「そうだな。下層の方では何も異常がないようだからそのまま続けてもらって構わない。いや、邪魔したな」

そういって警備員の男性は部屋を出ていく。それと同時に安堵のため息が室内に漏れる。

「悪いねおねーさん。ちょーっとワケありの身で忍び込んでいるけど、おねーさんに危害を加えようとか思ってないから安心していいぜ?」

「おおおおおお願いですから、そそその銃をなんとかしてください! ととというかレンさん助けてください!」

女性……ユイは震えながらアランが構える拳銃を指さし、今にも泣き出してしまいそうな声音で懇願する。

「なあレン。俺、今最高に楽しい気分なんだが……」

「可哀想だから下してあげなよ……。彼女、僕のお友達でさ。こういうの、とっても苦手なはずなんだよね……」

「お、レンに年上のおねーさんをナンパするなんていう、素敵な趣味があるとは思ってなかったぜ。というか、男としてこのシチュエーションは萌えるぜ? 楽しまないわけには……おぶっ!」

瞬間、見事なハイキックがアランのこめかみに突き刺さる。くるくると三回転半のひねりを加えながら残像を残して崩れ落ちるアラン。それを冷たい視線でリサは見下ろす。否、見下みくだす。

「私的にはウィル達を助ける囮にしていいと思うんだけど……。幸い妄想流柔道も使えるらしいし、なんとかなるでしょ?」

「ぼ、僕はあんまり賛成できないかな……。ここまで来れたのも偏にアランのおかげだし、それとプラマイゼロってことでどうかな?」

リサは盛大なため息をつく。それも仕方がない、というレベルではなくまさに始末に終えない、というような感じだった。

「……ふう、仕方がないわね。ここはレンに免じて許してあげるわ」

なにやら事情をよく飲み込めないユイだったが、ともかく自分が助かったことだけは理解できたようで、本当に安心したような表情を浮かべる。

「ユイ、迷惑かけて悪かったわね」

「あああ、いえその、そんな……」

目尻に涙をいっぱいに溜めたまま、ユイは頷いた。そんなユイの様子をじーっと見つめる。

「ユイ……?」

「ああ、はい、なんでしょうか……?」

そのままユイの正面へと歩いていって、まじまじと顔を見つめる。

「あなた、歳は?」

「えっとその……じゅう……ろくです……」

「ええ!? ユイさんって16歳!?」

レンはそれを聞いて驚く。16歳といえば、レン達のみかけの年齢よりも若いこととなる。

それを聞いてレンも彼女の顔をじぃっと見つめた。確かに彼女は幼い顔つきをしていたが、その分厚いメガネと薄汚れた白衣がそれを感じさせないのだろう。少女は慌ててメガネをかけ直す。

「え、どどどうしてこんな場所で働いてるの!?」

「えっと、その……アメリカの大学を飛び級で卒業して……それでその……遺伝子工学で有名なオキシデリボに……」

「なるほどね……つまり、超優等生ってわけなのね」

「そそそんな!? わわ私なんてそのどこにでもいるような平凡な子供と何も変わりありません!」

ユイは慌てながらも強くそう言い切る。そんな様子を見て、リサはニヤリとした笑いを浮かべて彼女の胸に手を置く。

「そうね……確かに胸も……」

すーっとリサはユイの胸を撫でる。ほとんど膨らみもない平らなまな板。だがしかし、よーく目を凝らせば、そこにはわずかながらも微妙な膨らみがある。それをリサはぷにぷにと指先で摘まむ。その瞬間、ユイの頭が蒸気を出して爆発する。

「なななななそんな胸なんてっ!? わわ私はそのこんなあわわわわ……」

リサはニヤニヤした笑みを崩さないままレンの方を見ると、心底楽しそうに言った。

「ヤバイわね。これ、本当に楽しいわ」

「リサ、それじゃあアランと同じだよ」

そう言われ、はっとした表情を浮かべるリサ。ぺちぺちと頬を叩き、ユイのことを見据える。

「ともかくユイ、私達はあなたに危害を加えに来たわけじゃないの。えっと……」

しばらく黙ったままユイの顔を見つめるリサ。何事かと身を固くしたいたユイだったが、どうやら無駄な抵抗だったようだ。リサはひょいと手を伸ばすと、その分厚いメガネを取り上げる。瞬間、彼女の目の前には幼い美少女が現れる。

「ひゃうっ!? め、めめメガネ返してくださいよー!」

「すっごい可愛いわね。ほんと、その気はないつもりだったけど、こんな子なら食べちゃってもいいかも……」

危険な表情を浮かべてニヤニヤ笑いを崩さないリサ。その様子はもはや危険人物と評するに値するオーラをまとっており、レンですら思わず一歩身を引く。

「メガネはダメなんですー! めっめのめー!」

「か、可愛い……」

だが、可愛いのはそこまでだった。彼女はどこからかメスシリンダーを取り出すと、思い切り振りかぶって本塁打級の一撃を繰り出す。ガラスが砕ける音とともに崩れるリサ。ユイは慌ててその骸からメガネを奪い取り、元のようにかけ直す。

「ごめんね、二人とも大がつくほどの馬鹿だから」

「れれれレンさんー! 怖かったですぅー!」

ユイはレンに思い切り抱きついた。そんなユイの頭をレンはよしよしと撫でた。

「ところでユイさん」

「ユイさんだなんて……ユイでいいですよ」

「わかった。ユイ、一つ聞いてもいい?」

ユイはこくこくと頷いた。レンは後を続ける。

「クローンを作って、そのクローンを依頼人の移植手術用のスペアパーツにするっていうプロジェクトがあるらしいんだけど……ユイは知ってる?」

「ええ!? な、ななななんでそれをれれレンさんがし、しし知ってるんですか!?」

ユイは心底驚いたような様子で大声を挙げる。

「ユイは知ってるの!?」

「あの、その、えっと……お金と不幸、それと人は創っちゃいけないんですけど……むむ、昔はそういうことが試されていたみたいです。その! むむ昔の話ですよ! 今は人道的によくないってことでやめちゃったらしいですけど……そんなことが行われていたなんて信じられないです……」

ユイは本当にその研究が恐ろしい、というような表情を浮かべて話す。レンは首を横に振った。

「残念ながら事実はそうじゃない。噂のように感じられるけど、実は……僕達がそのクローンなんだよ」

口はぱくぱくと開き、一気に顔から血の気が失せる。彼女は驚きのあまり衝撃を隠すことができなかったようだった。彼女にとってバイブルとも言える存在が崩れたのである。ショックが大きいのは当然のことだといえよう。

「え、じゃあ、そそその……みみ、皆さんは皆さんを生み出した人に復讐を……」

「あ、え、ええ!? そそそんな物騒なことは考えてないよ!? 僕達はただ生きたいだけ。この島を生きて出たいだけなんだ」

ユイはほっとしたような表情を浮かべる。自分の知っている人がそんなことをしないとわかって安心したのだろう。

「あの……その……レンさん……?」

「……ん?」

ユイは何かを伺うようにレンの表情を見る。

「えっと……その……わ、私も手伝ってもいいですか!?」

「え……!?」

「わ、私、これでも研究者の端くれです! 人を幸せにするための科学がそんなことに使われていたなんて……ゆ、許せないです! こんな命を物みたいに扱うなんて……ご、言語道断です!」

レンは黙って彼女の言葉を聞いていたが、やがて静かな声で尋ねた。

「ユイは……それが自分の会社に背を向ける行為だってわかってる?」

「あう……それは……その……」

少女はうつむいて言葉を濁らせる。一心に思って言った言葉だったが、それが自身の身にどれだけの危険を及ぼすかまでは考えていなかったようだ。

「もしかすると、君の人生を台無しにしてしまうかもしれない。それでも……いいの?」

ユイはしばらくの間心の中で葛藤していたが、やがて決意を固めたのか、強い意識を秘めた表情を浮かべ、レンのことを見つめる。

「わわわ、私! まだここに来て日が浅いですけど、入社のきっかけになったアイデアで……その、特許料とかそういうのでものすごいお金をもらったんです! まだまだ何年かかっても使いきれないくらいいっぱい……。だ、だからってわけじゃないですけど、路頭に迷ってもしばらくは暮らしていけます! それにもし、その……人のクローンを創るなんてことがこの会社で行われているんだったら……私はこの会社を辞めたい……です……」

最後の一言こそ小さな声だったが、確かな意思の元言い切ったという思いがレンの胸まで伝わってきた。そんな少女の頑張りに思わずレンは顔を綻ばせた。

その小さな頭に手を乗せると、少女の頭を優しく撫でた。

「ふ、ふぇ!?」

「まだ16歳なのに……無理やり18歳にさせられた僕達よりもずっと強いんだね。ユイ、それはとっても凄いことだと思うよ」

「あぅ……その……えっと……ありがとう……です」

「レン、お前も男になったな……。年下とはいえ、女をナンパしてしかも口説き落とすとは……。あれ、年上? この場合は……?」

「知らないわよ。ともかくレン、お手柄ね」

いつの間にか復活していたのか、アランとリサがうんうんと頷く。

「ふ、二人とも!? いつの間に……!」

「俺は抱きついた辺りから」

「私はユイが手伝ってくれる辺りから。……って、抱きついたって何よレン」

リサはレンの耳を摘まむと、部屋の中を引きずって歩く。

「い、いた痛い!? り、リサ!?」

「へぇー、レンがナンパねぇ……。しかも口説き落とすぅ? 随分成長したじゃないレぇン? おねーさんは嬉しいわよぉ、おほほほほ」

そのままレンにマウントし、笑いながらレンのことを見下ろす。

「り、リサ……怖いよ……」

「うふふふふ、怖いことなんてなぁんもないのよぉ?」

明らかに額へ青筋を浮かべながら、にっこりと笑ってレンのあごに手をかける。それを凍った笑顔で見上げるレン。

「あー、お前ら体張ったそんな夫婦漫才はいいから行く……ぶごぁッ!」

マウントポジションからの弾丸のようなドロップキックがアランの腹部を貫く。同時にカタパルトにされたレンも非常に痛そうである。

「あはは、皆さんとても面白いですね」

ユイは一人笑いながら着々と準備を進める。カモフラージュに白衣を用意し、それと赤十字のマークがプリントされた大きな箱を用意する。

「これを着てれば部外者だって簡単にはわからないはずです。同じことを研究する仲間同士の顔は知っていますけど、関係ないところの人の顔は全然覚えない世界ですから……。それと、一応念のために傷薬とかを用意しました。その、あんまり使う必要がないと助かるんですけど……」

「ありがとう、ユイ」

リサはユイから白衣を受け取ると、さっそく身にまとった。真面目な表情をすると意外と似合うものである。

「リサ……手加減してよ……ありがとね」

腰をさすりながらレンは立ち上がり、ユイから白衣を受け取った。

「はい、レンさん!」

ユイは嬉しそうな表情を浮かべて頷いた。すっかりレンになついてしまったようだった。

「ま、待ってくれ……一番最初に治療が必要なのは俺だぞ……」

「打撲でしょ? そんなんさすっときゃ治るわよ」

「か、可愛い幼女がさすらないと治ら……ぐぼぁッ!」

倒れ伏すアランへとかかと落としがめり込む。それは見事に脳天を貫き、床へと叩き込む。

「リサ……そろそろやめてあげないとアラン死んじゃうよ……?」

「ないない。この程度で死ぬようだったらすでに十回は死んでるわよ」

「あの……その……本当にさすった方が――」

「「いらない」」

ユイの問いかけにほぼ同タイミングで答えるレンとリサ。ぴったり息が合っている辺りがアランに夫婦漫才と言われてしまう所以だろう。

「お前ら……後で覚えてろよぉ……がく」



三人はユイの案内で倉庫の間の通路を歩いていく。

倉庫は他の場所同様静かで、騒がしいのは四人の周りだけのようだ。

「あそこです」

ユイの指さす先には二人の警備兵が立っている倉庫があった。中に閉じ込められている二人の見張り役、といったところだろう。

「どうする? 強行突破といくか?」

アランが鞄から取り出したスタンガンをバチバチと唸らせる。ユイはとんでもないというような表情を浮かべて首を横に振った。

「だだだめですよ! そんなことしちゃいけません! 怪我したら痛いじゃないですか!」

「……じゃあどうするんだ? まさかいきなり行って入れてくださいってわけにもいかないだろ?」

「あの……その……一応、一応ですけど……考えがあります」

ユイは三人を率いて近くの別の倉庫へと入る。入り口にはA5倉庫と書かれていた。

「ここは違うだろ?」

「あの、その……ちょっと準備ができるまで待っててください」

ユイは腰のポーチから数本のドライバーを取り出すと、左手の指の間に挟んだ。

そして、頬を赤く染めながら恐々とレンに尋ねる。

「あの、その……えっと……レンさん……? 一つ、お願いしてもいいですか……?」

レンは快く首を縦に振る。ユイはもじもじとしていたが、やがて意を決したのか、目を瞑って一気に言った。

「肩車してください!」

「肩車……? それならお易い御用だけど……」

レンはしゃがんでユイに背を向ける。ユイはなんとか苦労しながらレンの両肩に足をかけ、バランスを整えた。

「はい、いいですよ」

……しかし、レンはなかなか立ち上がることができなかった。それは決してユイが重かったため、などというわけではない。

研究員といえど、白衣の下は基本的に好きな服装をとる。一般的には活動のしやすい服となるだろう。丈夫さを求めてジーンズにするもよし、動きやすさを求めてジャージにするも自由である。

だが、彼女の場合……それはももの上までのショートパンツであった。つまり、肩車をしている現在、レンの頭はユイの生の太ももにサンドされているということである。

一年で成長したとはいえ、レンも立派な18歳相当の少年である。つまり、女子の(自主規制)や(自主規制)には興味津々のお年頃なのだ。表面上では平静を取り繕っているものの、ユイは確かに美少女に分類されるタイプの女の子である。ましてやその太ももとなれば、それほど艶めかしいものはそう存在しないだろう。

「……レンさん?」

「……あ! ごめんごめん!」

なんとか返事をすると、レンは少しふらふらしながら立ち上がる。

「大丈夫か?」

「多分……」

アランも心配そうに声をかける。それほどまでにレンは安定していないのだろう。

ユイは両手を上に伸ばしてダクトの辺りを弄っていたが、もはやそんなことを気にかける余裕は彼にはなかった。

「あ、その……えっと……」

レンの頭上から困ったような、それでいて悩ましげな声が聞こえてくる。

「あの……息が当たって……えっと……その……くすぐったい……です……」

「あ……わ、ご、ごめん!?」

それを聞いてレンは大きく息を吸って止める。だが、心臓はバクバクと高鳴り、体の芯は加熱し、そして顔を挟む柔らかな感触が彼の脳髄を刺激する。そんな状態で息を止めたのだからひとたまりもない。

徐々に視界はぼやけ、やがて白に塗りつぶされていく。だからといって、ユイが頭上で作業しているので、しゃがんだり倒れたりするわけにはいかない。

なんとか意識を保ち、立っていることだけに集中しようとするが、それももはや限界だった。

「ひゃあっ!」

やがて轟音とともにレンは倒れた。それと同時にユイも降ってくる。

大きな音を立てて二人の頭が激突する。

真っ白だった視界が徐々にぼやけ、レンは気を取り戻す。強すぎる衝撃ゆえに、一瞬だが気を失ってしまったようだった。

両目をこすり、起き上がると徐々に視界がクリアになっていく。

彼が体を起こすと、頬をイチゴよりも赤く染めてうつむくユイ、そして怒りと苦悩と悲哀に表情を歪めるリサ、どういうわけか機能停止して耳から煙を噴き出しているアランの姿が目に飛び込んできた。

「あれ……皆、どうしたの?」

一言発する度にユイが体を震わせる。目を凝らすと、彼女が指を当てがっているユイの唇が何か言葉を形作っているように思えたが、何と喋っているかはわからなかった。

リサはというと目の前で起こった出来事に、不可抗力だったがゆえの様々な思いが渦巻いては消えるという、延々とも思えるようなループに苦しげな表情を浮かべている。

アランはショックのあまり、完全に電源が落ちていた。出来事のあまりの衝撃の大きさにブレーカーが飛んだのだろう。

レンは目の前の状況に意味がわからず、ただ茫然としているしかなかった。

ただ、なんとなく柔らかい感触があったのを彼は覚えていた。それを感じていたのはどの部位だっただろうかということをしばらく考えていたが、そんな考えはリサのミドルキックによって叩き割られ、吹き飛ばされる。

頭から見事に転がっていた段ボールへと突っ込むレン。慌てて駆け寄り、体を揺らすユイ。そんなユイの様子を見て、苛立ちが晴れるどころか更なる苛立ちを募らせたことに頭を抱えるリサ。シャットダウンしたままのアラン。

「れ、レンさん!? だだだ大丈夫ですか!?」

「いたたたた……。まあ、慣れてるけどね……」

そう言いながらレンはなんとか体を起こし、ユイの顔を見つめる。その瞬間、口元を押さえてユイは蒸気爆発する。頬を核融合炉のように真っ赤に染め、その頭上からは白い蒸気が噴き出していた。完全にメルトダウン状態なのだろう。

ともかく納得のいかなかったリサは手近なところにあったアランをローキックで打ち上げ、掌底を叩き込む。見事なエリアルコンボにようやくスイッチが入ったのか、やはり悲鳴を上げながら段ボールへと突っ込んでいく。残念ながら彼の元へと駆け寄る美少女はいない。

「あの……その……一体何があった……の?」

「レンさんが初めて……初めて……初めてててて……」

「最悪……見たくなかった……」

「……なぜ吹き飛ばされたのか納得がいか……ん……がく」

その瞬間、ダクトにはまっていた鉄格子が外れ、レンの頭上へと落下する。ユイがネジを緩めて不安定になっていたが、リサがアランを吹き飛ばした衝撃で噛み合わせが外れたのだろう。それはもう一度、そして完全なる眠りの世界へと引きずり込む。次の瞬間、彼の体は白目を向いたまま冷たい倉庫の床に横たわっていた。



レンが目を覚ますと、そこには花畑が広がっていた。

柔らかな日差しと温かい風が頬を撫でる。目の前を色とりどりの蝶々が舞っていく。時折美しい花に降りては羽を休め、命を貪るように蜜を吸う。

「あれ、僕、なんでこんなところに……?」

そのとき、一陣の風が花びらを散らす。巻き上げられた花弁は天高く昇っていき、天空へと吸い込まれていく。

美しい舞踊の影で一人の少女が笑う。黒い装束を身に包み、そして腰まで届く長い黒髪の少女。背には一対の漆黒の翼を抱き、手には長い水棹。その姿をどこかで見たことがあるなとレンは思う。

少女は微笑を浮かべ、小さくレンに手を振る。そんな不思議な光景に、レンは思わず足を踏み出す。

やがてレンは彼女の傍に立つ。彼女は優雅に一礼すると、彼をそばの席へと勧める。否、それは椅子ではなく、一艘の質素な作りの舟だった。

「貴方が出会ってきた人の数は少ない。けれども、誰もが貴方のことを大切に思い、そして今も思い続けているようですね。だから……貴方の懐にはわずかな枚数だけれども、金にも劣らぬ輝きを持つ貨幣があるはずです」

レンは少女の言うままに自信の懐を探ってみる……が、それらしいものは見つからない。

「……あら?」

その様子に少女は戸惑うような、慌てるような表情を浮かべた。

「まったく……迎えの死神はいつもこうなんですから……。あれほど間違った人の魂を刈るな、と日頃から言いつけていますのに……。申し訳ありません、こちら側の手違いのようでした。こちらの方から中有の道に戻ることができます」

「え、ちゅ、ちゅううの……みち? それは一体……」

「知る必要はありませんよ。それと、覚えていく必要もありません。ここのことは一切合切忘れてくださると助かります」

彼女が手に持っていた水棹はいつの間にか漆黒の刃を湛える大鎌となり、その凶刃を輝かせる。

「痛くはありません。一瞬ですから」

「え、ちょ、一体な……」

彼の言葉が終わる前に彼女は動いた。周囲の花々を刈り取りながら、一気に鎌を振りぬいた。それは魂を刈り取る刃。現世と黄泉を繋ぎ、一本の道を作り出すよもつの途。

描かれた軌跡が残像となって消える頃には、彼の姿はそこにはなかった。

「まったく……帳簿にない者の魂を刈るとは……死神の腕も落ちたものです」



レンが目を覚ますと、そこには冷たい床が広がっていた。

凍えるような空気と鋭い視線が頬を撫でる。目の前を赤いものが水溜りを作っている。時折段ボールに吸い込まれ、そして徐々に紅色に染めている。

「あれ、僕、何をしていたっけ……?」

そのとき、寂しげな一言がレンの胸に突き刺さる。発せられた言葉は波紋のように散っていき、そして平穏に包まれる。

消え逝く言葉の影で、一人の少女が悲しげな表情を浮かべる。薄汚れた白衣に身を包み、栗毛のポニーテールを下げた少女。肩からは雨で染みを作った鞄を提げ、手には黒ずんだバール。その姿をどこかで見たことがあるなとレンは思う。

少女は悲嘆を浮かべ、レンを見つめる。そんな不思議な光景に、レンは思わず足を踏み出す。

やがてレンは彼女の傍に立つ。彼女は小さく悲鳴を上げると、彼を傍の段ボールへ座るよう促す。うん、それは椅子ではなく、一個の質素な作りの箱だった。

「座りなさい、レン」

非難するような、それでいて厳しい声が響く。レンはワケもわからずに座らされ、次なる指示を待つ。

「レンさん……信じていたのに……」

「アリス……? それに皆……?」

「うるうる……レンさんが……私と……」

未だ頬を赤く染めたままぼーっとしているユイ。そして冷たい眼差しでレンを見つめる四人。

「ふう……ほんと信じられないわ。レンにロ○コン趣味があったなんて……」

「いや、この場合はロリ○ンというより年上趣味かもしれないだろう?」

「まったく、俺達ってのはややこしいな……」

「でも、どっちにしろレンさんが……した事実には変わりありません……。はぁ……そんな人だったなんて……」

レンは五人の言葉の意味を理解できないまま、ウィル達に尋ねる。

「えっと……ところでどうしてここに?」

ウィルは恥ずかしそうに頬を掻きながらレンの言葉に答える。

「いやな、君らが出て行った後、やっぱり気になったんだよ。アリスと一緒にもう一度よく話し合ったんだが……やっぱり、ボクとアリスの正体が知りたくなったんだ」

「それで……私達はレンさんが向かったと思われる研究区画へと向かいました。といっても、駅ホームを強行突破した時点で見つかってしまい、それでもなんとか奥の方まで進んだんですが、捕まってしまって……」

「そこで俺らの出番だ。レンとユイが……はぁ……」

そこで一回い意味ありげにため息を吐くアラン。耳まで染めるアラン。呆れるリサ。悲しむウィル。嘆くアリス。

「な、なんでそこで一回切るの!? いいから話を続けてよ!」

「お、おう、悪かったな。えっと、ともかく二人が格子を外したダクトを通って、A7倉庫まで行って二人を助け出したわけだ」

レンが辺りを見回すと、そこは最初に四人と入ったA5倉庫と変わりはなかった。どうやらレンが気を失っていた時間はそう長くないようだった。

「レンも起きたし、行くとするか」

気付くとウィルとアリスも白衣に着替え終わっていた。物騒な武器の類は服の裏側に隠したようである。

「アラン、この後どうするの?」

「さっきそのことを相談していたんだが……念のため、二つに組を分けようと思う。ユイによると、六人もの人間が一緒に行動するなんてことはほとんどないらしい。それに、最下層には倉庫ばかりで六人がかりでするようなこともないそうだ。だから、まずは三人が正面エレベーターを使って降りる。安全を確認したら、もう三人がエレベーターに乗って下に降りるって寸法だ。上に安全を知らせる方法はまた後で説明する」

アランは一気に説明すると、質問する間も与えずに倉庫から出て行く。一度に大勢が動くと、それだけ騒がしくなってしまう。彼の意図は他の皆にも伝わったようで、一人か二人ずつ倉庫を後にする。

「レン、私達も行きましょ」

「うん……」

やや痛む頭を押さえながらレンは立ち上がる。だが、予想以上に痛みは酷く、レンはもう一度座り込んでしまう。

「レンさん、大丈夫ですか?」

「ちょっと辛いかも……」

誰かが手当てしたのか、頭には包帯が巻かれていた。落下したダクトの格子が頭に当たったのだろう。わずかに切れて包帯にも血がにじんでいた。

「ちょっと待っててくださいね」

ユイはそう言うと、一人倉庫から飛び出していく。後にはレンとリサだけが残っていた。

「さっきは言い過ぎたわね。ごめん……」

リサらしくもなく、彼女はそう言って頭を下げる。レンは気にしていないという風に手をぱたぱた振ると、にっこりと笑った。

「さすがに皆にああ責められるとちょっとは傷付いたけど……もう大丈夫だよ」

レンは大きく一息ついてから天井を見上げる。無機質な壁や天井は磨き上げられたように輝き、わずかの染みや傷すらも見当たらなかった。

リサもレンの隣に腰を下ろすと、おどおどとした様子で口を開いた。

「レンはさ、どう思ってる……?」

突然の質問に、レンは戸惑ったように尋ねる。

「いきなりどうしたの?」

「私達ってまだ生まれてから一年しか経ってないんだよね? それなのに、こんな風に言葉を話して、頭で考えて、行動している。これって、普通の人の感覚からしたらおかしいんだよね」

「それは……僕達が普通じゃないってこと?」

リサはゆっくりと頷く。レンは自信が普通の人間ではないことについて、自分なりの決着をつけたつもりだった。だがよくよく考えてみると、それは誰かと話し合って考えたことではなく、自分一人で考えてたどり着いた答えだった。

彼女がなぜこのことを尋ねてきたか理由を考える。それは簡単なことだ。彼女の中ではまだ、答えを見つけていないのだ。

普通に考えれば、自分がクローンだなんてことを誰が信じようとするだろうか。もしそれが事実だとしても、目を背けて否定したくなるに違いない。それはレンも同じつもりだった。

だが、アランに真実を告げられ、心の中で気付かずに呟いていた言葉があったことを思い出す。

『やっぱりそうだった』

そう、僕は知っている。それはリサの中には存在しない“僕”がいたからこそ、僕は信じることができたのだ。

『“僕”達は普通の人間じゃないさ。キャンプの時に教えてあげたじゃないか。“僕”らに思い出なんてものはほとんどない。思い出が形作られても“人”の手によって加工され、“人”にとって都合がいいように作り変えられてしまうんだよ』

「本当に“僕”は色々なことを知っているね。本当に僕なのか、疑ってしまいたくなるほどに……ね」

“僕”はしばらくの間黙っていたが、やがてそっと口を開く。

『“僕”は“僕”さ。それ以上でも未満でもない。君の中に存在するたくさんの僕の内の一人だよ。君は何かを考えるとき、色々な観点から一つのことを考えるでしょ? 慎重な僕、大胆な僕、臆病な僕……数えだせばキリがない。そんな無限に存在する僕の内の一人なんだよ』

「そんなことはわかっている。君の思考によって助けられたことは何度もある。でも……どうして僕の中には“僕”がいて、リサの中にはいないの?」

『居るはずがない僕、それが“僕”だよ。オリジナルが持たない贋造の僕。それはちょっとした些細な事故から生まれた、在ってはならない存在。この22世紀を行く最先端の科学者すらもが存在を想定しなかった存在さ。“僕”は無数に存在する僕とは一線を隔した世界に存在し、君の持たない力を持っている』

「些細な……事故?」

『そう。君は特殊な成長過程にあった。それは人格形成にも、身体の成長にも様々な影響を与える。そんな複雑怪奇、摩訶不思議な偶然が組み合わさって“僕”が生まれた。彼女の中に“僕”のような存在がいないのも当然かもね』

“僕”はそう言って、ふぅとため息を吐く。

「……僕はどうすれば彼女に心の平静を与えてあげられるんだ……?」

『それは“僕”が考えることじゃない。君が手助けをし、彼女が自分で掴むものだ。これ以上は自分で考えてほしい。それに彼女が寂しそうだよ?』

そう言って、真っ白な部屋は崩れていく。それに飲まれるように“僕”の姿も消えていく。

僕は意識を外の世界へと集中させる。彼女は“僕”の言うとおり、少し寂しそうな表情を浮かべていた。

「レン……聞いてる?」

「ごめん、ちょっとぼーっとしてたかも……」

リサは呆れるような表情を浮かべた後、まあしょうがないかというような諦めにも近い表情を浮かべてもう一度話し始める。

「私ね、アランの話を聞いたとき、最初は全然信じられなかったの。あのデータを見えてもらってもいまいちピンとこなかったし、何よりあの写真の人のことなんて、私達が知るわけがないものね。もし、親戚とか両親って言われても、ああそうかもって思っちゃうでしょ? でも、あの場でレンだけはアランの言葉を信じていた。友達だからとか、そういうのを関係なしにして、まるで元から知っていたみたいに信じてたもん。あんまりレンが信じるものだから、私まで信じていいかななんて思えてきちゃったんだよ? だから、ここにこうしているわけだしね」

レンは黙って彼女の話を聞く。最初は信じることができなかった。だが、彼が信じたから彼女も信じることにした。クローンがどうのこうのという話がまったくの嘘で、あのデータは僕らの両親のもので、これが全部アランの質の悪い悪戯だったとしたら大変なことになる。もっとも、アランに限ってそんなことはないだろうが。

「ぶっちゃけて言うと今でも本心からは信じてないわ。でも、私には本当はそんなことどうでもいいの。まだ1歳だとか、クローンがどうとか、移植手術がどうとかそんなの知らない。レンが行ってしまうから……だから私はついて来たのよ。だから……最後まで責任取りなさいよ」

リサはそう言うとうーんと背伸びをして体の凝りをほぐす。上層から下層までの間、緊張する場面が幾度もあったのだ。体中ががちがちに硬くなっていてもおかしくなかった。

「レンさん!」

しばらくそうしていると、やがてユイが戻ってくる。手にはいくつかの瓶があった。

「ちょっと強力ですけど、よく効く痛み止めがあるんです。使うような怪我をしてほしくないと思ってましたが……やっぱり使いますね」

ユイはそう言うと、救急箱からハサミを取り出し、レンの包帯をじょきじょきと切り開く。傷口は赤く染まっていたが、徐々に塞がりつつあった。

ユイは丁寧に傷口の周りを拭くと、手に持った瓶の口を開き、救急箱から注射器を取り出して瓶の中身を吸い上げる。

「痛み止めです。私も薬とかで酷い怪我をしたときとかに良く使います」

レンが止める間もなく、彼女は慣れた手付きで注射をする。思ったよりも痛みはなく、それどころか今までの痛みが嘘のように引いていく。

「痛覚を司る神経を一時的に麻痺させる薬です。麻酔と違って痛みの感覚のみを麻痺させるので、そんなに違和感とかも感じないと思います」

彼女の言う通り、傷口の裏を脈打つ血潮の熱さや、手で触れる触感などはいつもどおりで、傷の痛みだけは感じられない。

「ユイ、ありがとね」

「えへへへへ、どういたしましてです」

ユイは礼を言われて嬉しそうに笑う。

「さて、準備もできたみたいだし、先に行かせた皆が待っているでしょうから行きましょう!」

リサは元気よく倉庫から飛び出す。レンとユイも後に続く。幸い、周囲に人影はなかった。

ユイの指示に従ってエレベーターの方へと向かう。彼女が言うには間もなくであるという。

やがてそれらしき扉の前に到着する。だが、そこには皆の姿はなかった。

「先に行っちゃったみたいですね」

扉の上の表示を見上げると、少しずつ光の点が線の上を横にスライドしていた。そして、線の端にはB20階(最下層)と書かれたプレートが掲げられている。

「大丈夫ですよ。下まで行って安全だったらボタンを押してここに戻ってきてくれるようにしてくれるって言ってましたから」

下まで降りて問題ないようであればボタンだけを押し、エレベーターを無人で上に上げる手筈となっている。このまましばらく待ち、誰も乗っていないエレベーターが戻ってくれば安全ということである。

光の点は最下層の位置でしばらくの間止まっていたが、やがて少しずつレン達がいる階層へと近付いてきた。

「大丈夫みたいですね」

やがて光の点はレン達がいる階で止まり、そして目の前の扉が開く。

中には誰一人乗っておらず、無人のエレベーターが口を開いていた。

「……さ、乗りましょう」

リサが真っ先に歩き始める。その後をユイがついて歩く。だが、レンだけは足を踏み出すことができなかった。

「レン?」

「どうしました、レンさん?」

「……なんだか嫌な予感がするんだ」

背筋を駆け上がる悪寒のようなものがレンの体を襲う。それはまさに五感では表現し得ない奇妙な感覚。この先に進むなと、無意識のうちに体の中の何かが警告しているようにレンは感じられた。

「もしかすると、薬の副作用かもしれません。効果が強力な代わりに、体質によってはなんとなくぞわぞわしちゃう人がいるみたいです。免疫とかの関係なんですけど、しばらくすれば落ち着くから大丈夫ですよ」

ユイが心配そうに説明する。その説明を聞けば、なんとなくそんなようにも思えてきた。レンは薬の副作用だと思い込み、エレベーターへと乗り込んだ。

『ケイコクシタノニ』

エレベーターの閉まる瞬間、そんな言葉がどこからともなく聞こえてくる。

「……? 誰か何か言った?」

音を立ててエレベーターが滑り出す。軽い振動とともに体が下へ落下していくようなエレベーター特有の感覚がこそばゆい。

「いえ、私は何も言ってません」

「私もよ。空耳か何かじゃない?」

しばらくの間耳を澄ませていたが、その声は二度と聞こえてくることはなかった。

だが、その声はつい最近、どこかで聞いたような感覚がするものだった。どこだろうかとレンは首を傾げながら記憶を辿る。

無機質な鉄の箱は順調に降下していたが、不意に動きを止める。表示された数字は13。最下層である20階ではない。

「おかしいですね……地下13階なんてボタン押したかな……?」

かといって扉が開くわけでもなく、エレベーターは宙ぶらりの状態で停止する。

「じゅう……さん?」

――警告の鐘の音が鳴る。

「13とか不吉ね……」

そんなオカルト的な意味ではない。

もっと確信めいた、それでいて直感的な感覚。

記憶の中を必死に漁り、“僕”が言っていた言葉を思い出す。

『キーポイントのヒントは与えたでしょ?』

キャンプの日にうたたねをしていた時の記憶が蘇る。

そのときの状況と、今の現状は酷似している。

「ッ!」

レンは扉を見た。ここは13階。彼の予測が正しければ、その準備は着々と行われているはずである。となれば、この扉から外へ出ることはできない。

「ユイ! このエレベーターから外には出られないの!?」

「え、ええ!? い、一体なんですか!?」

「いいから早く! このままだと危ない!」

「扉をこじ開けるってのは……」

「それはダメ! 他に……上か下に出る方法は……?」

「えっと…上の救出口か、点検用の下のハッチから……。でも、上の救出口は外からボルトで固定されていますし……」

「じゃあ下の点検用のハッチだ!」

レンはハッチにかじりついた。だが、それも外側から固定されているのか、どんなに力を込めても開く様子はなかった。

「これも点検用だから中からは……そもそも、エレベーターは緊急時でも、無理やり中から出ようとすると危険だから開かないようになってるんです」

「こ、このままじゃ危ない! 説明はできないけど、とにかくヤバイいんだよ!」

リサはしばらく心配そうにレンを見ていたが、やがて口を開いた。

「レンには……何かわからないけど、とにかくわかるのよね。ねえユイ、何か方法は……」

二人の視線がユイへと集中する。ユイはしばらくの間考え込んでいたようだったが、やがて意を決したのか、うんと頷いて腰のポーチを探り始める。

「わかりました。では、二人とも下がっていてください」

しばらくの間複数の種類の液体を混合していたが、やがて完成したのかそれを床の隙間に流し込む。すると煙がもうもうと上がり、視界が一瞬奪われた。

ユイはナイフを取り出すと、てこの原理で跳ね戸を開く。大きな音とともにぽっかりとした穴が口を開いた。覗き込んでも底の方は暗くて見ることはできない。

「まさかレン……本気でやるの?」

「僕だって自分のことを正気かどうか疑いたくなるよ。でも、やらない後悔よりやってする後悔だよ」

レンはそう告げると穴から半身を出し、近くに下がるワイヤーを掴んでぶら下がった。

「早く来て!」

レンは下の階の扉に飛びつくと、力を込めて扉を開こうとする。

リサもワイヤーにしがみつくと、落ちないようにしっかりと握って壁に張り付いた。

「ユイも!」

しかし、ユイは顔を覗かせるだけで降りようとしなかった。

「わ、わわわわわ私……ここ、高所恐怖症なんです……」

見るとその表情は真っ青だった。点検口から顔を覗かせるだけでももはや限界のようだった。

レンはともかく扉を開けることを先にする。鞄からペンを取り出すと、ペン先が砕けるほどの勢いで扉の間に差し込み、無理やり扉をこじ開ける。

みしみしという音が響き、次いでペンは真ん中でぽきりと折れてしまったが、わずかに扉が開く。レンはそこに指つっこむと、一気に開いた。

扉が開くと、リサはワイヤーにぶら下がりながら壁を蹴り、開いた扉の方へと飛び込んだ。

レンはユイの方へと手を伸ばすと、もう一度叫んだ。

「そこにいると……危ないんだ!」

「で、でも……」

今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべながらユイは首を横に振る。

「わかった。じゃあ僕が受け止めるよ」

そう言うと、レンは足にワイヤーを巻きつけると、両手を離して点検口の下にぶら下がる。

両手を大きく広げ、レンは見上げた。

「絶対に受け止める。安心して降りてきて」

「ちょっとレン!? もし本当に落ちてきたらアンタ、下手すりゃ墜落するわよ!?」

しかし、レンはリサの言葉に耳を貸さず、ユイのことを見つめる。

しばらくの間躊躇していたが、ようやく覚悟を決めたのかユイは足だけ下に下す。

レンはユイが降りやすいようにワイヤーを束ねる。そして、足場を組んでやる。

「ぜ、ぜぜ絶対に受け止めてくださいね!?」

ユイはそう言うと、ワイヤーに足をかけることもせず、両の手を離した。

瞬間、重力に捉われて落下するユイ。突然の衝撃に、レンは思わずバランスを崩す。

「うわっ!?」

「レン!?」

徐々に彼の体は傾き、そして180度回転する。

リサが扉の方へと駆け寄ったとき、すでにそこには彼の顔はなかった。

「レンーッ! わ、私はどうすれば……!?」

「い、いやああああぁぁぁぁぁぁッ!! こ、怖い怖い怖いッ!」

「ゆ、ユイ!! 暴れないでっ! 無理かもしれないけど落ち着いて!」

レンの体は逆向きになってエレベーターの下方で揺れていた。

足だけが辛うじてワイヤーに絡まっていてなんとか落下を免れているものの、落下するのは時間の問題だった。

いや、それ以上に大きな問題がある。レンが宙吊りになってぶら下がっており、そしてその手にはユイの手がしっかりと握られていた。

つまり、レンがワイヤーに絡まった状態でなんとかぶら下がり、そしてユイはその下方で手のみが掴まれた状態で宙吊り状態となり、遥か下方に暗闇がぽっかりと口を開いて待っている。

高所恐怖症の人間が、命綱もなしに手だけ掴まれた状態で宙吊りになって落ち着けと言われて落ち着くことができるだろうか。

ユイは泣き叫びながらぼろぼろと涙と鼻水をこぼし、生涯最大の恐怖と戦い続けていた。

「リサ! 近くに階段とかない!?」

「うん、あるけど……」

「僕はこの通り動けないから、下の階の扉をこじ開けてほしいんだ!」

「わ、わかったわ!」

リサはすぐに近くの階段で下の階へと向かう。

こうした危機的状況にあっても、レンの中で鳴り響いていた警鐘はやや音を低くしていた。

レンの目の前で閉じられていた扉から軋むような音が響く。どうやら、リサが間に合ったようだった。火事場の馬鹿力とでも言うべきが、恐るべき勢いで扉は開かれる。

だが、ユイの方も限界が近かった。手は汗で滑り、徐々に体が下へと滑り落ちていく。

「リサ! 急いで!」

「んなこと言ったって……ッ!」

扉は一気に開かれる。その瞬間、レンの手からユイの手が滑り落ちる。

「ユイッ!」

「きゃああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!」

扉が開いた瞬間、リサがユイの腕を掴む。下方ベクトルがかかったユイの体にリサも引きずり落とされそうになるものの、扉の縁を掴んでなんとか踏ん張る。

そして、どこにそんな力が眠っていたのだろうか。細身の女の子とは思えないほどの力で一気にユイの体を引っ張り上げ、通路へと引き上げる。

「リサ、僕の方も手伝ってもらっていい?」

「ちょっとキツいけど、頑張る!」

リサはレンの手をしっかりと握り締める。レンも片方の手でワイヤーをしっかりと握り締め、少しずつ足に絡まったワイヤーを解いていく。

そして徐々に体を傾け、180度回転した。

「もう大丈夫」

レンは反動を付けてワイヤーからジャンプすると、綺麗な流線型を描いて着地する。

リサはくたっと力が抜けたように座り込み、そのまま通路に寝転ぶ。レンもその場に崩れ落ち、そのまま壁に寄りかかった。

「はぁ……はぁ……まったく、死ぬかと思ったわよ」

「それは僕もだよ」

すでに魂が半分旅立ちかけているユイ。放心状態で、もはや反応はなく、白目を向いて倒れていた。

「ユイなんて半分死んでるわね。寿命が一年は縮まったんじゃないかしら」

「まあ死ぬよりかはマシだと思うけどね……」

ようやく飛び出した魂が帰ってきたのか、再びぼろぼろと涙をこぼして泣き始める。

「れ、れんざん~……ご、ごわがっだでずぅ~……」

鼻水をすすりながらレンに抱きついて泣きじゃくるユイ。数秒間の間とはいえ宙に吊られ、数十センチの距離だが実際に落下したのだから怖いのは当たり前だろう。

レンはそんなユイの頭を優しく撫でる。

そんなレンの様子にむっとしながらも、リサは不思議そうに尋ねた。

「ところで、なんでこんな命懸けの大脱出ゲームなんてしたのかしら? スタントでもやりたかったの? 言っとくけど、これはアクション映画でもなんでもなくて、ただ私達は安全に脱出できれば見せ場もなんにもいらないのよ? 納得行く説明をしてもらえるんでしょうね……?」

恐ろしい剣幕で迫る利さにレンは困ったような表情を浮かべる。

「え、えっと……それは……」

「まさか、なんとなく~とかじゃないわよ……」

そのとき、何か金属が跳ねるような音が鳴り響く。そして、上方から何か煙のようなものが降ってきた。

「けほっこほっ! こ、これって……催涙スプレーとかってやつじゃ……」

「いないぞ! どこに行った!?」

上方から大勢の大人達の声が響く。それはレンが視た通りだった。

「逃げよう! 早く下の方に行くんだ!」

その声でリサは飛び起きる。しかし、ユイだけは未だ立ち上がることができなかった。

「ユイ! 早くしないと捕まるわよッ!」

「こ、腰が……腰が抜けちゃって……」

「ッ!」

レンは小さく舌打ちすると、ユイの体を抱き上げた。その突然の行為にユイは頬を真っ赤に染める。

「こ、これってお姫ひゃぅッ!?」

「リサ! 早く階段を降りて!」

レンはユイの体をだき抱えたまま走る。体格の小さい少女の体を抱えたまま走ることなど、火事場の馬鹿力を発揮している彼には造作もないことだった。

リサはしばらくぼーっとしていたが、やがて我に返ったのかレンの後を追って階段を駆け下りる。

エレベーターが停止したのが13階、リサが降りたのが14階、そしてレンとユイが降りたのが15階。つまり、あと5階分下に降りなければならない計算となる。

エレベーターの点検ハッチが開いていることに気付いたのか、上から沢山の足音が響く。大勢の人間が三人を追いかけて走っていた。

「な、なんで見つかったのよぉーっ!?」

「わかんないよ! もしかすると、ウィルとアリスが逃げ出しているのが見つかったのかもしれない!」

やがて20階と書かれたプレートがレンの目に飛び込んでくる。レンは20階の扉を蹴り開けて飛び込んだ。

そこには手持ち無沙汰にしていたアラン達の姿があった。

「な、お前らなんで階段から!? それにお姫様……」

「いいから走って! 追いかけられてる!」

アランは真剣な表情を浮かべて走り出す。その後に五人は続く。

高い天井の通路がどこまでも伸びる。通路内には沢山の荷物が積み上げられ、天井付近まで積みあがっている山さえあった。

「止まれっ!」

火薬の爆ぜる音が後方から鳴り響く。おそらく、正真正銘の銃器だろう。レン達は角を曲がったり、荷物を崩したりしながら追撃を交わしていた。

「まだ着かないの!?」

「うるせぇ! もう少しだ!」

横に積み上げられた荷物を邪魔そうに避け、時には崩しながら逃げる。もっとも、それが後続に続く相手にも障害物となっているようで、それだけではなく射撃を遮る壁にもなってくれているようだった。

「頭を撃て! 所長命令だ! 体を傷付けるんじゃないぞ!」

後ろから射殺を命じる声が聞こえてくる。六人はもはや死に物狂いだった。

「アランッ!」

前方から二人の銃を持った男が迫る。おそらく先回りしていた者達だろう。アランは腰からライターを引き抜くと、彼らの眼前へ構えた。

「っ!?」

「クソ!? この餓、鬼銃を持って……」

逆の手でスタンガンを持つと、通路へと身を隠した二人に直接叩き込む。二人は手から武器を落としてその場に崩れ落ちた。ウィルは倒れた二人からめぼしい武器などの装備を奪い取り、そのまま走る。

「ここだ! この部屋に――転移装置がある!」

未だ実験段階と言われている転移装置。この島から脱出できる唯一にして、最悪の手段だった。

アランは一つの扉の前で立ち止まると、スライド式のドアを引いた。だが、扉はがっちりと鍵でロックされ、軋みもしなかった。

「クソ! 鍵がかかってやがる!」

「来たぞ!」

屈強な男達が銃器を抱えて追いかけてくる。ウィルは奪い取った銃器を構えると、遠慮することなく引き金を引いた。

銃口から火花が吹き出し、贋物ではない重い衝撃がウィルの腕の中で爆ぜる。ウィルが銃を持っていることがわかると、男達は通路や物陰に隠れ、銃口だけを出して応戦する。

「俺らはどこの映画の世界に迷い込んじまったわけ!?」

「知らないよ! それよりどうするの!?」

「あの……その……レンさん? そろそろ下ろしてもらっても……」

レンはユイの体をそっと下ろす。まだあまり調子がよろしくないのか二、三歩ふらついたが、さっそくポーチから薬品を取り出し、混合し始める。

「ここの鍵は耐食性の高い銀や硬度が高い鋼鉄で出来ています。だから開けるのに少々時間が……」

「具体的な時間は?」

「わかりませんけど、一分以上はかかるかと……」

ウィルは少しでも相手の方に銃口が覗くと、そこへ向けてフルオートで引き金を引いた。だが、それでも相手からはやはり弾丸が飛んでくる。レンとアランは少しでも荷物をかき集め、バリケードを築いた。

「ウィル! 一丁貸してください!」

「え……?」

しばらくの間、ウィルが銃を扱う様子を見ていたアリスだったが、ウィルが肩にかけていたもう一丁の銃を奪い取ると、狙いを定めて引き金を引き絞った。

「ウィル、あなたは無駄が多すぎます! 弾がなくなったら私達、終わりですよ!?」

アリスは抱えていた二つの鞄のうち、一つをひっくり返す。中からはごろごろと弾丸が詰まった箱や、数種類の武器が転がり出てきた。

「アリス……いつの間に!?」

「さっきの人達から奪い取りました。レンさん達はバリケードを! 挟まれると厄介です! 通路の反対側からは絶対に来れないように荷物の山を崩しておいてください!」

レンとアラン、リサはアリス達が応戦している側とは反対側の通路に積み上げられている荷物の山を思い切り崩した。これでこちら側からレン達のいる場所へ攻撃することはできない。

その瞬間、弾丸がレンのすぐ傍を掠めた。瞬間、彼の肩から鮮血が吹き出す。

「うっ!?」

「レン!?」

ベルトが切れて鞄が落下する。レンは肩を押さえてうずくまった。

「レンさん!?」

薬を調合していたユイも思わず手を止めて駆け寄った。だが、レンは鋭く叫ぶ。

「ユイは鍵をお願い! 僕のことはいいから!」

「で、でも……」

リサはユイから救急箱を引っ手繰ると、強く叱責した。

「アンタにはアンタにしかできないことがあるでしょう! いいからアンタは早く鍵開けをしなさい!」

「は、はい!」

リサの凄むような剣幕に圧され、ユイは再び薬品の調合を再開する。

救急箱の中には様々な薬品や、用途のわからない道具が詰まっていた。恐らく実験中の様々な事故に対応するための薬品や道具なのだろう。リサはそういうものを避けてともかく消毒液と包帯、それからハサミを取り出す。

「レン、傷口見せて」

レンの手をどけると、そこから血があふれ出す。傷を見る限り、えぐるように掠っただけのようである。どうやら鞄を肩から提げていたために、ベルトに当たって弾が逸れたようだった。ともかく弾丸が直撃するようなことはなかったようで、リサは安堵する。

後から後から血があふれ出してくるため、ともかく傷口周りや肩を強く圧迫する。もはや消毒などしている場合ではなかった。素早くガーゼを当てて包帯を巻きつける。みるみるうちにガーゼや包帯は赤く染まっていったが、それにもかかわらずリサは強く強く包帯を巻き、なんとか止血しようとする。

「アラン! 押さえるの手伝って!」

リサはアランに助けを求める。アランはすぐに頷いてリサの傍にしゃがみこんだ。

「うわっ!? た、弾が出ない!?」

敵側の方で驚くような声が上がる。

「ジャムっただけだ! それくらいなんとかしろ!」

「な、なんとかって……」

どうやら相手は銃の扱いに手練れているというわけでもないようだった。

もちろんウィルとアリスも慣れているわけではない。もはや勘のみで銃を扱い、映画やゲームなどで知りえた知識だけで引き金を絞る。

「弾が切れた!?」

「ここは私に任せてください!」

ウィルが弾を込めている間、アリスはしっかりと銃を体に密着させ、壁に体を預けてフルオート斉射する。こうして威嚇することによって、相手に攻撃させる気力を削ぐ作戦だった。

「く、クソ!? なんでガキどもがこんなことができるんだ!?」

敵側からも驚きの声が上がる。両者に銃火器に関する知識の深さにはほとんど変わりはなかった。数こそ違いはあれ、お互い経験も知識もない分、追い詰められている側は死に物狂いで普段は眠っている力を発揮する。

「アリス! 弾込め終わったよ!」

「じゃあしばらくお願いします!」

ウィルが体を出して三点バースト射撃で威嚇する。その間アリスは物陰に隠れて弾丸を補給する。無論、きちんとやり方を習ったことがあるわけではない。ほとんど映画や漫画などで得た知識の流用である。もちろん素早くとはいかない。

それでもなんとか弾を込めると、再び引き金を引いて応戦する。

「できました!」

ようやく薬品の調合が終了したのか、ユイが嬉しそうな声をあげる。

フラスコの口を鍵穴につけると、それを少しずつ流し込む。

「よっしゃ! あともう少しだ!」

「頑張りましょう!」

薬が完成した朗報に五人は喜ぶ。

リサはレンの肩を強く圧迫して止血を続けていた。そのおかげか、にじみ出る血の量は減っていた。

レンは肩の痛みに顔を歪めていたものの、薬が完成したと聞いて笑みを浮かべる。

ウィルは相手に撃たせまいと威嚇射撃を繰り返し、相手を傷つけることなく制圧しつつ、余裕を見せ始める。

アリスは的確な精密射撃とフルオートを使い分けて、状況に応じた攻撃を繰り出しながらも、扉の方を嬉しそうに見る。

しかし、薬の完成の報せは何もいいことだけを彼らに運んだわけではなかった。

喜びというものは、希望と同時にわずかな気の緩みを引き起こす。

そのせいで、遠距離の方で構えられたライフルの存在に気が付かなくとも誰が責められるだろうか。

レーザーサイトは少しずつ移動しながら狙いを定める。

その引き金が絞られる一瞬直前、アリスはその赤い光点の存在に気付いた。そして、自らの身も顧みずに飛び込んだ。

なぜなら……その標準は最愛の人物の眉間へぴったりと合わせられていたからだった。

数多くの銃声が響く中、一際大きな銃声が響く。


――全てが雑音となる。


通常の弾丸に比べて若干細長いその弾丸は、高速回転しながらまっすぐに伸び、そして何かを砕くような音と共にすべてを終焉へと導いた。

全員の顔に驚愕が刻み込まれる。蜘蛛の巣が広がるように胸の中心から赤い糸が伸びる。それはアリスの着ていた白のブラウスにはっきりと跡を残した。

「あり……す……?」

ウィルの口から息が漏れる。それは自然と最愛の人物の名を紡ぎ出す。

そして、自身の腕の中で倒れ伏す少女。彼の中で何かが弾けた。

「うわあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっッッッッッッッッ!!!!!!」

銃の引き金は思い切り引き絞られ、最愛の人を射抜いた輩を蜂の巣にせんと火線を吹く。今まで誰一人として人を撃たないようにしていた弾丸は、もはや誰を黄泉の国へと誘うかわからない凶弾と成り果てる。

「ひ、開きました!」

その瞬間扉が開かれる。だが、扉へ向かおうとする者は誰一人としていなかった。

「アリス!」

「おい、しっかりしろ!」

「ねぇ、ちょっと冗談でしょ!?」

「アリスさん!」

ウィルを除く四人はアリスの元へと駆け寄る。アリスはぐったりとして目を薄く開けたままそこに倒れていた。

「みな……さん……」

弱々しく声を絞り出す。そして、胸に手を当てる。

「動くな! それに喋るんじゃない!」

何かをしようとするアリスをアランが止める。

だが、アリスは最後に開いた扉の方へと指を向けた。

「行って……くださ……い……」

「置いて行けるわけじゃないじゃない!」

「大丈……夫……ですか……ら」

「大丈夫なわけないよ!」

しかし、アリスはそれでも扉の向こうへ進むよう懇願する。

それを見かねたアランはレンとリサ、そしてユイへと叫ぶ。

「お前ら行け! 後は……俺がどうにかする」

「アラン!? 君まで何を……」

アランはアリスが持っていた銃を担ぎ、弾を込める。

「このままじゃウィルの銃が弾切れを起こした瞬間に突撃されて一発でお陀仏だ! 誰かがもう一人……やらないといけないんだよ!」

「僕はそんなの嫌だよ!」

「私だって嫌よ!」

「うるせえッ! アリスは何をした? 何を頼んだ? 行ってくれと言っただろ!? お前らはその思いを無駄にするのかッ!?」

「だからって僕が行くことないでしょ!?」

「私だって……」

「てめえらが行かないで誰が行くんだよ!? リサはレンと一緒じゃないと嫌なんじゃなかったのか!? レンがここで逝っちまったら後悔しないのか!? 何としてでも引きずって行け!」

アランはリサに怒号する。

リサがここまで来た理由……それはただレンと一緒にいたかったからだった。

その思いだけでここまで来たのだ。レンが残ると言えば残る以外の選択肢があるだろうか。

「レン! てめえが行かなきゃリサはてこでも動かねえンだよ! お前の命はリサとセットなんだよ! わかってんのか!?」

「それは……」

レンはそこで口篭る。

レンが命を捨てて仲間を助けるというのなら、リサも命を捨ててレンに従うだろう。

それに、数分前に彼女が言っていたではないか。

最後まで責任を取れ、と。

レンは奥歯が砕けるほど噛み絞めて、そしてアランの体を抱きしめた。

「絶対に……死んじゃダメだからね」

「おう」

アランもレンの背中に手を回す。

リサも今だけは茶化すことはしなかった。

二人の抱擁は一瞬で終わった。レンはリサの手を引いて扉の中へと飛び込む。

中には大掛かりなカプセルのような装置と、それにつながったコンピュータ端末でセットになった巨大な装置が設置されていた。

「ユイ、使い方わかる?」

「大丈夫です。学生時代に興味があって、色々な実験に使ったことがあります」

ユイは装置の電源を入れると様々なデータを入力したり、起動のための準備を行う。

そのとき、その部屋にセットされていた電話がけたたましい音を立てて鳴り出した。突然の音にユイは少し体をすくませる。

「レン、どうする……?」

レンは黙って電話に近付くと、モニターをオンにした。回線が繋がり、カメラが起動する。マイクは周囲の音を拾い始め、そしてテレビ電話がスタートする。

――画面に映ったのはミシェルだった。

「先生!?」

画面の中のミシェルは悲しそうにため息をつき、本当に残念そうな表情を浮かべる。

『レン、それにリサ。あとはアランとウィル、それからアリスもですね。本当に、あなた達には失望しました』

「先生は……先生は全部知っていたんですか……?」

『当然。私はこの研究所の所長であり、クローンプロジェクトを管理する人間ですから。クローンプロジェクトの子供達の成長を見守り、保護することが私の役目。このような事態になったのは私の落ち度でした。本当に、残念ですね』

ミシェルはハンカチで目元を拭い去る。そして、レン達が思いも寄らない人物の名を口に出した。

『それにユイ。あなたにも私は失望しました』

「しし、シスターヴァ局長……」

『五“体”もの商品を無駄にしようとするとは……どれだけの損失だと思っているのですか? クローンプロジェクト、プロジェクトリーダーであるサクラギユイがこんな暴挙に出るとは思いませんでした』

彼女の肩書きにレンとリサは息を飲む。

ユイはデータの入力の手を止めて、まっすぐにカメラを見据える。

「わ……私はこんな……こんな人の命を商品として扱うようなプロジェクトを推し進める気はありません! ただいまより、プロジェクトリーダーを辞退させていただきます!」

『言われなくてもそのつもりです。あなたには本当に失望しました。一ヶ月間の謹慎処分を言い渡します』

「その前に一つだけ尋ねてもいいですか、所長?」

しばらくの間彼女は考え込んでいたが、やがて顔を上げて言った。

『どうぞ、言って御覧なさい』

「どうしてレンさん達を殺そうとしたんですか?」

しばらくの間ミシェルはぽかんとしていたが、やがて大きな声で笑い始める。

『あはははは! 当然でしょう? 無駄にする位なら、せめて臓器だけでも抜いてお金にするべきじゃないの!』

ユイは失意を表情に浮かべてうつむく。だが、すぐに顔を上げてミシェルに言い放つ。

「プロジェクトから抜けることができて本当によかったです」

そう言ったユイの表情は軽蔑を通り越して、ミシェルに対する強い憐れみの感情に満ちていた。

『その顔、気に入らないわね』

「あなたが哀れなんです。人間としての心を失い、物事をお金にしか換算できないあなたという人間が可哀想でしょうがないんです」

ユイはそう言い放つと、ミシェルに背を向けた。そして、レン達の方へと振り返る。

「噂だなんて言ってごめんなさい。あんな……奇麗事を言ってごめんなさい。私が……私がプロジェクトを推し進める……一番天辺の人間だったんです」

「なんでなのよ……? どうしてアンタなのよ……!」

『彼女は優秀な遺伝子工学の研究者だったわ。大学で様々な発見と開発を行い、数多くの特許を取得し……まさに天才ね。私達はその実力を買って彼女を雇ったの。でも、まったくの無駄……いえ、それ以上ね』

ユイはぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら心の底から恐れるように言った。

「こ、怖かったんです……! あなた達を生み出した私達を恨んでるんじゃないかって……常々恐れながら研究を続けていたんです……。毎日、毎日毎日の通勤のリニアでもいつか刺されるんじゃないかって恐れてたんです! そして私が生み出したクローンの一人と出会った! 彼はとても優しくて、困っている私を助けてくれて……その優しさが怖かった! あなた達を生み出してしまった私に対するその優しさが……途方もない憎しみの裏返しなんじゃないかって怖かった! それでも、彼は優しくて……お話しているうちに気付いたんです。いつも無機質な研究を続ける私に、彼は潤いを与えてくれているって……気付いたんです……」

自責の念、後悔の念。そういったものが彼女の胸のうちからあふれ出ていく。それはダムの壊れた湖のように思いを吐き出し、感情の洪水となって氾濫する。

「いつも優しかった彼が怖かった……。私があなたを何のために生み出したかを知ったら、私はどうなってしまうのか……その先を想像すると夜も眠れなかった! そして今日、ついに真実を知ったあなたが私の研究室を訪れた! もう、胸の中ははちきれそうになって、頭の中真っ白に……!?」

次の瞬間、ユイの小さな体はレンの胸の中にあった。

レンはユイの体を優しく抱きしめ、とても嬉しそうな表情を浮かべて囁いた。


「ありがとう」


ユイは恐ろしさで閉じていた目をゆっくり開く。彼女には目の前の少年が何を言っているのか、理解することができなかった。

「僕を生み出してくれて、僕はユイに感謝しているよ。一年間、その中でちゃんとした記憶が残っているのは数日間しかないかもしれない。でも、僕はその数日間、とても幸せだった。リサやアラン、ウィルにアリス、それにユイ。皆と過ごした毎日はとても貴重な宝物みたいだった。そんな宝物を享受する機会を与えてくれてありがとう」

そう言って、レンはユイの体をぎゅっと抱きしめる。

ユイはしばらく騒然としていたが、やがて目を閏わせ、そして泣き出してしまう。

「う……ぐすっ。ひっく……ぞんな……ぞんな、がんじゃざれるようなごどじゃ……」

「言うなれば、ユイは僕らにとってのお母さんなんだよ? お母さんに感謝しない子供がどこにいると思う?」

ユイは目の前の大きな息子の体を小さな両手で必死に包み込み、抱きしめた。

「ごんな……ひっく……ごんなおがーさんでもゆるじでぐれまずが……?」

レンはゆっくりと頷いた。

「う……ひっく……ぐず……う、うええぇぇぇん!」

ユイはとても大きな声をあげて泣き崩れた。

『所詮はクローン、馬鹿馬鹿しいったら……』

「うるさいババァ、とっとと失せろ」

リサはテレビ電話の画面に向かって近くにあった椅子をぶん投げる。椅子はテレビ電話の画面を叩き割り、そのまま端末ごと破壊した。



ユイは最後のデータを入力し、転移装置を起動する。

「これで……アメリカのカリフォルニア州の都市跡に飛べるはずです。元々は都市があった場所なんですけど……機会兵の攻撃によって壊滅してしまった都市です。住んでいた人達は別の場所に避難してしまって今では人は住んでいないんでしょうけど、地下シェルターに非常用食料などが残っているでしょうし、通信装置も生きているかもしれません。本当はニューヨークとかの都心部に飛ばせたらいいんですけど……」

「失敗したとき、たとえば僕の体が爆弾みたいになったりしたら大惨事になるってことでしょ?」

ユイは申し訳なさそうに頷く。そんなユイの頭をレンは撫でた。

「大丈夫、きっと大丈夫だよ」

レンは大丈夫と二度繰り返す。それはユイに対して言い聞かせると同時に、自分に対しても大丈夫と言いたかったからかもしれない。

「……転移装置の成功率は今のところ50%くらいと言われています。25%くらいは変質あるいは位置ズレを起こし、残りの25%は転移の際に通る亜空間に取り残されます」

「知ってる。でも、きっと大丈夫さ。また……またユイとも会えるよ」

ユイはやや頬を染めて恥ずかしそうに横を向く。

「それじゃあ……カプセルに入ってください」

レンとリサはカプセルの扉を開き、その中へと入る。

「あ、レンさん!」

レンはユイに呼び止められ、振り返った。

「なんだい?」

「ちょっとしゃがんでもらってもいいですか?」

レンは言われた通り、ユイの視線の高さまで腰を折る。

「失礼しますっ!」

ユイはレンの唇に自分のそれを重ねた。

接吻はほんの一瞬で終わり、ユイは耳まで赤く染めて入力端末の前まで駆ける。

レンはしばらくの間、その場で茫然としていた。だが、リサに赤く染まった耳を引っ張られてカプセルの中に引きずり込まれる。

「いた! いたたたたた! り、リサ!?」

「アンタが馬鹿なことやってるからでしょ! まったくもうッ!」

リサはそう文句を言いつつも、しっかりとレンの手を握る。

レンも、リサの手を握る手に力を込める。絶対に何があっても離さないように、と。

ユイは最後の実行ボタンを押した。

カプセル内に徐々に光が集まっていく。ユイはカプセルに向けて大きく手を振った。

レンもリサの手を握っている方とは逆の手で手を振り返そうとしたが、一気に視界が崩れていく。

まず重力から解放されて体が浮き上がり、次に五感が消失する。

そして、さらには自分自身の存在すら希薄になっていく、最後には意識すらも薄れていく。

亜空間へと引きずり込まれるにつれ、レンの感覚は徐々に消えていく。

カプセル内は最後、一際強い光に包まれると、わずかな光の粒子を残して空気すらも含む全てが消失した。



ついに島から脱出する転移装置を起動したレン達。

傷付いた仲間から託された二人の命。

果たしてその転移は成功するのか、はたまた失敗するのか……。

次章、最終章 Two shadows

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