第1章 Introductory Chapter
第1章 Introductory Chapter
「起きなさいっ!」
真っ白なチョークの弾丸が彼の意識を呼び覚ます。未だにぼんやりとした頭のままだったが、いつも通りの教室であることは彼の頭でも理解できた。
「まったく! 授業中に寝るとは何事よ!」
彼は顔を上げて、眠そうに目をこすりながら周囲を見渡す。
どういうわけか、自分へと集中するクラスメイトの視線。自分が犯した過ちに気付けぬまま、彼はぼやけた頭をフル回転して必死に理由を考える。
「……ふぇ?」
二度目のチョーク。そこでようやく彼の焦点が定まり、もやがかかった頭がクリアになる。
「はい質問。この街の成り立ちを説明しなさい」
教師……ミシェル・シスターヴァは未だ目をこすっている少年を指さし、厳しい口調で尋ねた。
彼女が質問した内容……この街の成り立ちとは、今日たった今授業で手ほどきを受けたばかりの内容で、当然ながら彼の頭の中にはわずかも記載されてはいなかった。
「レン! これ見なさい」
隣に座っていた金髪の少女がこっそりノートを差し出す。そこには先ほどの授業の内容が、可愛い丸文字でびっしりと書き込まれていた。
彼はこっそりと視線をノートへ移すと、書いてある内容を朗読し始める。
「あー……うん。えっと……株式会社オキシデリボは2100年、全世界で起こっている第三次世界大戦の災禍から研究所と研究員を守るため、アメリカの領土内にある無人島を買い取り、永世中立都市『ヘヴン』を建造します」
ミシェルは小さくため息をつくと、容赦なく次の質問を繰り出す。
「次はオキシデリボの説明ね」
先の問題と同じく、今日習ったばかりの単元であり、今まで生きてくるのにそれほど必要がなかった知識なので、彼の頭の中には欠片ほどもその知識は入っていない。
ミシェルの言葉を聞いて、少女は素早くページをめくり、ノートの一部分を指差す。レンはそこへと視線を集中させ、書いてある内容を読み始める。
「オキシデリボ社は2040年創業の大手製薬会社で、主に遺伝子組み換えによる薬品の製造、及び医療技術を開発している企業である。現在では製薬、医療に限らず、教育、食品、アミューズメントなど多岐に渡る研究が行われており、世界中にその産物は提供されている。私達が所属するこの孤児院も、オキシデリボ社の教育プログラムの試験的施設であり、それと同時に不遇な戦災孤児達を助ける活動の一部である」
ミシェルにも、レンがただノートを音読しているだけだということはわかっている。だが、これは彼女なりの知識の定着法の一つであった。実際に音読すれば、知らないことも頭の中に刻まれる。
「なぜ、第三次世界大戦が発生し、そしてどのように広がっていったの?」
「2083年、アフリカ大陸に突然発生した小国『ロベミライア』がアフリカの各国へと侵攻したのが始まりだといわれている。アメリカを中心に、国際連合に所属する国々はロベミライアへとアフリカ侵略を即刻停止するように交渉したが、ロベミライアはこれを拒否。強力な機械兵『オートマータ』と転移という技術を用いて各地へと送り込み、瞬く間にアフリカ全土を制圧。続いてヨーロッパへも攻撃を行い、現在ではアジア及びアメリカとの戦闘が行われている」
「この島が平和な理由は?」
「ロベミライアもオキシデリボ社の顧客の一つであり、ロベミライアとオキシデリボ社は不可侵協定を結んでいるから」
ちょうどそのとき、授業の終わりを告げるチャイムが大きな音で鳴り響く。ミシェルは小さく舌打ちすると、開いていた教科書を閉じた。
厳しい様子で、それでいて大いなる慈悲をたたえたまま、彼女はレンに言った。
「リサに感謝しなさいね」
悪戯っぽく笑う少女。彼はバツが悪そうにぼりぼりと頭を掻く。その様子を見て、ミシェルはようやく微笑みを浮かべた。
「では、これで授業を終わります。日直さん、礼」
「ありがとうございました」
ぼさぼさの黒髪。この少年を形容する言葉としてこれ以上当てはまるモノがあるだろうか。少年の名はレウォン。名字はない。なぜなら、彼には元々名前がなかったからだ。友人達は親しみを込めて彼をレンと呼んでいる。
自分の出身がどこか、自分の親が誰か、それを彼は知らない。なぜなら、オキシデリボの孤児院に勤める者達が黙して語らないからだ。それは彼に限らず他の子供達も同じである。
だが彼はそれを不思議に思ったり、それどころか興味すらない。ただ今を見据え、そして未来を静かに見つめる彼の視線に、過去のモノは映らない。
今も彼はどのように今を楽しみ、そしてどのような自分になるか、それしか考えてはいない。
彼の隣には、一人の少女がいた。可愛らしい金髪のおさげを下げ、綺麗なコバルトブルーの目を持つ、恐らく美人と形容されるであろうその少女の名はリサイアといった。彼女もレンと同じ孤児院の院生である。友人達は彼女をリサと呼ぶ。
彼同様過去のことに興味はなく、自分が何者なのかなど考えたこともない。彼と違うのは、今をどう生きるかしか考えていない点だろう。彼女のモットーは、明日は明日の風が吹く、である。
元気いっぱい天真爛漫を地で行く彼女は、他人に対する言葉もやや厳しい。思った通り、素直に言葉を述べ、思った通り素直に行動する。その言動は傷付けられることを恐れる者達からはやや敬遠されがちである。おかげで、彼女と行動を共にしようなどという変わり者はレンを除いて他にいない。
教室の昼寝の件で大恥をかかされたレンは、ぼんやりと見えていた夢などもはや忘却の彼方へと吹き飛び、その昼寝の件をからかわれないようにすることで必死だった。
「それにしても、アンタが昼寝なんて珍しいわね。……昨日、何かよからぬことでもやっていたのかしら?」
「なんで悪い方向に考えるんだよ……。たまには夜更ししてもいいじゃないか」
リサは悪戯っぽい笑みを浮かべる。それに対し、レンは不服そうな表情を浮かべた。
「へへー、アンタでもそういうこと考えるんだー! うふふ、面白いこと知っちゃった」
「ば、なんでリサはそういう方向に持っていきたがるんだ!」
「さぁーねっ! あははは!」
リサは両手を大きく広げて駆けずり回る。乙女らしからぬそんな行動にレンは眉をひそめつつも、うっすらとした笑みも浮かんでくる。
今年、ついに彼らは記念すべき、そして嘆くべき年を迎えることとなる。ついに18歳になったのだ。生まれも親も知らないが、誕生日と生まれた年だけはなぜかはっきりとしていた。なぜわかるのかを人に尋ねても教えてはくれないが、きちんと毎年一回祝ってもらえるだけで彼らには十分だった。
そして、今年18歳になったということは、ある一つのことを意味する。このヘヴンを出なければならないということだ。
外の世界では第三次世界大戦なるものが繰り広げられているらしいが、そんなことはこの島には関係なかった。けれども、この平和な楽園を出れば、彼らには間違いなく厳しい世界が待っているに違いない。
そんなことを考えると、レンには目の前で繰り広げられている平和な光景がとても貴重なもののように思えてくる。
リサはしばらくの間走り回っていたが、やがてレンの元へと戻ってくると、ふにゃっと座り込んだ。
「あ゛ーづーい゛ー! 疲れたよ~」
レンは頭上で輝く太陽を見上げる。空には晴天が広がり、一点の混じりもない青がどこまでも広がっていた。
「レン、アイスクリーム! ノート見せてあげたんだからオゴりなさいよね!」
そう言って、リサは公園で売られているアイスクリームの屋台を指さす。涼しげな風鈴を下げた屋台では、老婆がアイスクリームを子供達に売っていた。無論、この島の中で営業している以上、中の老婆も製品も、オキシデリボに所属するものである。
「貸し一個消化じゃダメ?」
「あれだけじゃもったいないわよ。もっといいことに使いなさいよねー!」
リサはわけのわからないことを言いながら、早速屋台のおばちゃんにアイスクリームを注文する。レンはしぶしぶ財布を取り出した。とはいうものの、その財布からは小銭特有の重さというものは感じられない。
「おばちゃん! シーソルトアイス!」
「はいはい、カードをいただきますね」
「ほらほらレン、さっさとカード出す!」
レンは財布から一枚のカードを取り出した。老婆は差し出されたカードを受け取ると、カードリーダーで読み取った。
「職業番号9111、住民番号7074、レウォンです」
「はい、確かに」
カードは個人の身分を示すものであり、そして財布代わりのクレジットカードの役割を果たす。カードを使用する度に、使用した金額が銀行の残高から引かれていくというシステムだ。普段から現金を持ち歩く必要はなく、安心して生活できるという優れ物である。だが、中には不心得な拾得者や、盗人というものも存在する。そのため、使用時には自身がどのような職に就いているかを示す職業番号、自身が島に住む人間であることを示す住民番号、そして名前を毎回申告するようになっている。また、ある一定金額以上の高額な買い物をするためには手続きが必要となる。紛失した際も役所へ申告すれば、カード利用停止や再発行も行うことが可能となっている。
「おばちゃん、アイス二つね!」
「はいはい、少々お待ちを」
老婆はなれた手付きでレジスターを操作する。こうして、レンの口座からアイスクリーム二つ分の金額が引き落とされたというわけだ。
老婆はレンへとカードを返却する。レンはカードを受け取り、財布へとしまった。
そして、ほぼ同時に出てくる二つのアイスクリーム。ミントブルーの水晶のようなそのアイスは、爽やかな潮の香りを放ちながら、リサのサファイアのような双眸を釘付けにする。
中心にはミントブルーのアイスクリーム。その表面を覆うクリスタルのような層。これは特殊な塩を結晶化させたものだ。
「はい、レン」
「サンキュ」
すぐ近くのベンチに腰を下すと、さっそく舐め始めるリサ。途端に表情が恍惚としたものへと変化する。
「ほわわわ……爽やかでほんの少し香るような海の味と、後からやってくるあまぁーいミントが口の中で弾けて……し あ わ せ ☆」
レンも頷きながらアイスを口に含める。
「メロンに生ハムとか、スイカに塩とか、甘いものにしょっぱいものを合わせると、より甘さが引き立つって、不思議だよね」
「それに加えて、ウチのアイスはオキシデリボ社特製の品種改良されたミントを使ってるから、香りが違うよ。潮料も使ってるから、海の風味もばっちしさ」
潮料とは、その名の通り海の香りを疑似的に作り出した塩である。ただの塩ではなく、海の香りをそのまま凝縮したものなので、海に行かなくとも海の気分を楽しむことができる。これがこの、水晶のような層の正体である。
「まあ、海なら背後に大きく広がっているけどね」
言葉通り、彼の背後にどこまでも広がる大海。このヘヴンは絶海の孤島という表現がまさに正しい。太平洋上に浮かぶこの島の半径数百キロの範囲内に島はなく、船舶も定期的にやってくる物資運搬船と、一年に一回やってくる孤児渡航用船舶のみで、他に島の外へ出る手段は、未だ実験段階の“曰く付きの転送装置”しかない。
「けれども、数カ月後にはこの海を超えて外に行くんだよね……」
レンはアイスクリームを舐めるのをやめて、背後に広がる海を見渡す。リサもその言葉を聞いて、同じように視線をやる。
「そんなこと言ったってしょうがないじゃん。このまま私達みたいな孤児が島にいたら、この島はパンクしちゃうわよ。もともと研究員と、その家族しか住むことができない島なんだし、18年間平穏に過ごせるだけありがたいのよ」
一応は渡航先の住所を用意し、一定期間は働かなくとも生活できるだけの資金を提供されると彼は聞いていたが、それ以降は企業へ恩返しをしなければならないわけである。要するに、今まで18年間生きてくるのに使った分のお金の一部を返さなければならないのだ。ヒトを一人成人させるということは非常に金銭のかかることである。だが、企業としてもただ孤児にタダ飯をくわせているわけではない。新しい教育用のプログラムや教科書、それから食品、衣料品、家具、住居、その他ありとあらゆる新しい商品の実験台として彼らは利用されている。そのため、自分が生きるために使われたすべてのお金を返却しろとは言ってこないのである。もっとも、それを差し引いても返さなければならない金額は莫大なものとなるだろう。レンはこれからの生活の厳しさを想像しながらも、今という心地良い平和に逃避する。
「ともかく、今は今を楽しみましょ。楽しくて、平和な日常を享受できる今を、ね。……あ! アイスが溶けかかってるっ!」
綺麗な水晶のような形状だったアイスクリームは、いつのまにか滴が垂れ落ち、不気味な様相を呈していた。そのことに壮絶なショックを受けたリサは、急いでアイスを舐める作業を再開する。そんな彼女の様子に、レンはもう一度笑みを浮かべて彼女同様アイスクリームを舐め始めた。
リサは一人で先に寮に戻ると言い出した。レンはリサを一人寮へと返すと、海からやってくる涼風を楽しみながら夕方の公園を散歩していた。
視界の端では真っ赤な夕日が海上に浮かび、とても眩しい。
そんなとき、レンは不思議な様子の女性を見かけた。街中では滅多に見ることもない白衣を身にまとったその女性は、公園と海を隔てる柵から身を乗り出し、遥か下方を見つめていた。
その女性が気になったのか、レンは何の気なしに声をかけてみる。
「こんにちは」
「はいっ!? こ、ここ、こんにちわっ!」
突然声をかけられたことでとても驚いたのか、かなり上擦った口調で女性は返事をした。その様子に一瞬驚いたが、レンは続けて質問をする。
「あの、なんだか困っているように見えたんですけど、どうかしました?」
「ああああの、ここ、こんなことを見ず知らずの人に、たた、頼んでいいのかわかりませんが……たた、助けてください!」
桃色がかかった美しい金髪のその女性は、おろおろと落ち着かない様子でレンに頭を下げる。何のことかわけがわからないレンは、とりあえず女性をなだめようと、ゆっくりとした口調で言った。
「とりあえず落ち着いて。何がどうしたんです」
「ご、ごめんなさい! そ、その、知らない人に話し掛けられるのは、なな、慣れてなくて!」
大きく何度か深呼吸をしてようやく少し落ち着いたのか、先ほどと比べてゆっくり、それでもかなり早い口調でわめき散らす。
「ああ、あの、そこから下を見下ろすとわわわかるんですけど……」
レンは女性の指差す方へと視線を下す。下方に広がるごつごつとした岩が広がる海岸に、何かきらりと光るものが見えた。
「ろ、ロケットをおお落としてしまって……」
そこまでなんとか言葉をひねり出すと、女性は肩を震わせながら泣き出してしまう。
「うぇ……ひっく……だだ、大事な……ひっく……写真が入ってるんです……ぐすっ……」
「わ、わかりました! ぼ、僕が取ってきますから泣かないで!」
突然泣き出した女性にレンまで慌てだすも、ともかく女性を落ち着けようとレンは柵を乗り越える。
柵の向こう側はほんの少しの高さがあったが、なんとか着地すると、岩の間に挟まっていたロケットを拾い上げ、ポケットにしまうと柵を乗り越える。
「はい、取ってきましたよ」
やや汚れてしまったが、レンは金色に光るロケット差し出した。彼女はそれをがしっと掴むと、今度は外れないようにしっかりと首にかける。
「ああああありがとうございます! なななんとお礼を言っていいのやら!」
「そんなお礼だなんていいですよ。そんな難しいことでもないですし」
女性は泣きながら何度も何度も頭を下げる。レンはその勢いに辟易し、落ち着くように諭す。
「あの、えっと、その……じじ、自己紹介がまだでしたね。わ、私は桜木ユイと言います。あ、英語の場合はユイ桜木でしたね! と、ともかくユイです。えっと……その、オキシデリボで研究員をしていて、研究の内容は……あ、これはダメです! ぜぜ、絶対に言ってはいけないんです!」
縁の太いメガネをかけ直しながら、ユイは簡単な自己紹介を済ませる。そんな慌てふためくユイの様子に、レンは苦笑いを浮かべながら頷いた。
「僕はレウォン。レンって気軽に呼んでね」
「れ、レン……さん? ……よ、よろしくです……!」
どこかで聞き覚えがあったのか、しばらくの間何かを考えていたが、ぎこちない動きで再び頭を下げる。世の中に人見知りをする人間がいることを彼は知っていたが、これほどまでに酷いものだとは彼も知らなかった。
「どこかで会ったことあるかな?」
「いえいえ、絶対にないです! そ、そんなこと、私は知りません!」
やけに強く主張することに軽い違和感を覚えたレンだったが、きっと知り合いに似た人や同名の人がいたのだろうと思い、笑顔を浮かべた。
「よろしく、ユイ」
「よ、よろしくお願いします!」
二人は同時に頭を下げる。おかげで、ごつりとぶつかり合い、派手な音を響かせた。
「はぅ~……めーがーまーわーるー……」
「いたた……だ、大丈夫!?」
ふらふらと揺れるユイをレンは急いで抱き支えた。しばらくの間焦点の合わない視線を泳がせていたユイだったが、徐々に視線がはっきりとしてくる。
「れれれれレンさん!?」
男性に抱きしめられることに慣れていなかったのか、ユイの頬が夕日のように真っ赤に染まる。ふっと視線をそらすと、もじもじしながら何かゆっくりと口を動かした。
「あの……その……えっと……」
「あ、ご、ごめん!」
レンは慌ててユイから手を離す。ほっとしたような表情を浮かべたのは安堵だろうか、未だ頬は赤いままだが小さく頭を下げた。
「ありがとうござぃ……」
最後の方は聞き取れないほど小さな声でそう呟く。レンはきまりが悪いような表情を浮かべて頭を掻いて、もう一度謝った。
「あの! わ、私、研究所に戻りますね!」
そう言い残すと、ユイはその場から逃げるように走り去った。
そんな桃色の軌跡を見つめながら、レンはしばらくの間、ぼんやりとそこにつっ立っていた。
日が完全に落ち、散歩を終えたレンは、自分の住まいを置く男子寮へと向かう。
十八階建てのマンションのような形をした建物が横に二つ並んでいた。片方は男子寮、そしてもう片方は女子寮である。
贅沢な造りの建物であるが、その上から下までぎっしりと院生が詰まっている。
一階から五階は幼児を扱う階層である。0歳から5歳までの初等教育を受ける以前の子供達が収容されている。ここの部分では男女の区別がなく、隣り合っている寮も一本の廊下で繋がっている。
六階から十二階までは初等教育を受けている子供達が収容されている。十二階までは大部屋に複数人の子供達が生活しているため、自分の部屋というものがない。この階層を含むここより上の階層は完全に女子寮と分離し、非常時用の高架通路で一応は繋がっているものの、基本的には行き来することはできない。
そして、十三階から十五階は中等教育を受ける子供達が入っている。この階層はツインルームとなっており、二人で一部屋となっている。
最後に十六階から十八階が高等教育を受けている子供達が収容される。ここでは一人一部屋となり、完全に私室を持つことが許される。部屋の広さはなかなかのもので、ダイニングとキッチン、そしてリビングともう一部屋、つまりは1LDKという一人暮らしには豪華すぎるほどのものである。しかし、それだけの広さであるにもかかわらず、物なんてあってないようなもので、最低限の衣類や私物を除けば備え付けの調度品の類以外何も残りはしない。
レンの部屋も、筆記用具や衣類、そしてわずかな思い出の品だけである。
レンはテーブルの上に置かれた写真立を手に取った。ややブレてはいるが、そこには四人の友人達に囲まれて笑っているレンの姿を収めた写真が飾られていた。
リサの他に、二人の少年と一人の少女が楽しそうな笑いを浮かべている。彼らはレンと同じ歳の18歳の孤児達だった。18歳の孤児は彼らを除いて他にはいない。
そのとき、ドアからノックの音が響いてくる。
レンは写真立を机の上に戻すと、玄関の方へと向かう。そして、閉じたドアを通して来客に声をかける。
「誰?」
「おいおい、せめてドアくらいは開けてくれよ」
その声を聞いて誰かわかったのか、レンは扉を開いた。そこには予想通り、よく見知った人物の姿があった。
「いよっ」
程よく焼けたこげ茶色の肌は日焼けによるものだが、もともと彼の肌は黒い。かといって、黒人のように真っ黒なわけではない。もっとも、生まれも両親もわからない身なので、彼の血管を黒人の血が流れいているのか、それとも白人の血が流れているのか、あるいは黄色人種の血が流れているのかわからない。
彼の名はアラウィン。友人達からはアランと呼ばれ、親しまれている。
誰に対しても気さくな態度を取り、性別や年齢を問わず人気が高い。好奇心旺盛で、やりたいことはとりあえず試してみる。そのためならば、規律に反することもしばしば。だからといって他人を疎かにせず、しっかりとフォローしたり、あるいは歩む速度を合わせることもある。
彼はレンとは違い、将来に希望を抱いている。第三次世界大戦という地獄を目の前にしても、それがどんな世界か知りたくてうずうずしているのだ。それは無知ゆえに浅はかさなのか、好奇心ゆえの無謀か。だが、それが時には良い結果を生み出すこともあるだろう。
対照的な未来観を持つレンとアランだが、実のところリサとの関係よりも親しい間柄かもしれない。
レンにとっては希望の象徴。アランにとっては自分とは違う考えを持つという未知への興味。これが二人の関係を密接なものにしていた。
お互いに、相手ならば自分とは違う考えをするだろう。だから、行き詰まったときには相談すれば良い。二人はそう考えているのである。
「アランか。何か用かい?」
レンは親友の顔を見て表情を和らげる。それは思い出の写真を見ていたときの表情と比較的近いものだった。
アランも嬉しそうな表情を浮かべながら、けれどもちょっと困ったような表情を浮かべながら一枚のカードを提示する。
「ほれ、職業カード。将来どんな仕事をして、どんなふうに生活したいかってのを書くアレだ。お前はもう書いて出したんだっけな」
アランはレンの許可が出ていないにもかかわらず、彼の隣をすり抜けて部屋の中へと入っていく。レンもそのことを咎めたりはせず、一緒に自宅のリビングへと向かう。
アランは近くのソファに腰かけ、レンは小さな椅子に腰かける。これが二人のいつものスタイルだった。
リビングに置かれた小さなテーブルへとカードを投げるアラン。レンはそのカードの内容に視線を移す。
「まだ真っ白じゃない。アランのことだから、もうやりたい職種とか決まってると思ってたよ」
「いやな、やりたい仕事はあるっちゃあるんだけどよ……。……絶対に笑わないって約束するか?」
あまりにもアランが真剣な表情で尋ねるので、思わずレンも背筋をピンと伸ばし、顔を強張らせる。
「わかった、約束するよ」
それを聞いて安心したような表情を浮かべるアラン。他に人がいるわけでもないのに、こっそりとレンの耳元へ自身の口を近付け、小声で何かを呟いた。
「ぶ、冒険家だって!? あはははっ、アランらしいや!」
「わ、笑わないって約束だろ!?」
「ご、ごめん! でも、あまりにも子供らしくて、それでいてアランにはぴったりだったからついね」
レンは腹を抱えて椅子から転げ落ちる。それに不服なのか、アランはいじけたような表情を浮かべてそっぽを向く。
「はいはい、俺はどうせまだガキのままですよ」
「ごめん、アラン。でもなんだかおかしくって……」
「いくらなんでも笑い過ぎだろ?……?」
ようやく笑いが収まったレンだったが、その目の端には未だ涙の粒がこびりついていた。レンはそれを指先で拭う。
「でも、アランらしいとは思うよ。世界中を見て回りたいって言ってたしね。でも、もうあらゆる場所が開拓されしつくして、ほとんど冒険できるようなところは残ってないと思うんだよね」
「ん、まあそりゃそうだが……」
笑顔で説明するレンに、アランは唇を尖らせる。反論したいのだが、レンの言っていることがあまりにも正しかったため、反論することができないでいるのだ。
「もう五百年早く生まれてきたらよかったのにね」
「ちぇ、なんとでも言えよ」
すっかりいじけてしまったアラン。レンは仕方ないなというような表情を浮かべながら言葉を続けた。
「だからさ……アランはジャーナリストをやったらどうかな? あまり言い方はよくないと思うけど、今はちょど世界規模で戦争が起こっている。ジャーナリストなら、このことを記事にしながら世界中を巡ることができるでしょ。もっとも、とっても危険なことだと思うけど、アランならきっとできると思うんだ」
「ほう……その根拠は?」
「アランだから」
レンは笑ってそう答える。そこには人を小馬鹿にするような嘲笑は含まれていない。純粋に、アランだから大丈夫という絶対の信頼と思いが込められた、彼を信じているからこそできる笑顔だった。
「なんだよそれ。まあ、そう言われて悪い気はしないけどさ」
そう言って、ぽりぽりと頭を掻くアラン。親友に褒められることは嬉しいことだが、羽毛の先で触れられるようにくすぐったいことなのだろう。
「照れてる」
「照れてねーよ」
「いいや、照れてる。口では違うって言ってるけど、本当は嬉しいんでしょ?」
「嬉しくねーよ。気色悪いからやめろって」
そう言って、迫り来るレンを追い払う。無論、二人に同性愛の嗜好はない。ただ、こうやってからかうことはレンにとっての楽しみであり、そしてアランにとっての楽しみでもある。要するに、二人にとっては自然なコミュニケーションなのだ。
「それはともかく置いといて……リサとはどうなんだ、レン? 今日もまたデートしたんだろ?」
アランはいやらしい笑みを浮かべてレンに尋ねる。途端にレンは都合の悪そうな表情を浮かべた。
「で、でーとなんかじゃないよ。彼女とはなんていうか、腐れ縁なだけで……」
「何言ってんだよ。あんな弩級ストレート女、好んで一緒にいるのはお前くらいだぜ?」
「ただ、なんて言うか……彼女は寂しいだけなんだよ。けれども、つい思ったことをそのまま口に出しちゃうだけなんだ。素直だけど、素直に言葉にできない。そんな女の子なんだよ」
「つまり、アレか。素直に好きって言えない女ってことか」
レンは顔を真っ赤に染めて噴き出す。それを見て、アランはさらにニヤニヤ度をアップさせる。
「そんな、言えないってのはそういうことじゃなくて……」
「いやぁ、お前はもっと控えめなヤツかと思ってた。それがある日突然、あいつは俺に惚れてるんだ。それが素直に言えないだけさ、なんてキザ男になるとは思ってなかった。本当に成長したなレウォン。あのなよなよしい頃が懐かしいぜ」
「だ、誰もそんなこと……」
「俺はお前の親友だからわかる。だからな、言葉はもう不要なんだ。あとは心と心の対話だけで十分なんだよ」
「むー……違うって言ってるのに……」
今度はレンがいじけ始める。そんな様子を見て、さすがにイジメ過ぎたと思ったのか、アランはレンのおデコを指先で弾く。
「ばーか、んなこと本気で考えてるわけねーだろ。わかってるよ。あいつが友達欲しいって素直に言えないってことを言いたいんだろ?」
「うー……アランの意地悪」
「さっきの仕返しだぜ?」
「う……」
レンがこんな風にスキだらけになることは滅多にない。彼がこんな面を見せられるのも、相手がアランだからという安心感があるからだろう。それほどまでに二人は強い絆で結ばれていた。
「ま、ともかくカードには書くことができそうだ。これに関しては礼を言わせてもらうぜ。ありがとな」
「ううん、どういたしまして。よくアランに助けられてるもん。たまには恩返しをしないとね」
「その通りだ。俺をもっと称えろ崇めろそして敬え」
「それは却下」
即答で答えるレン。予想通りの答えだったが、アランは苦笑いを浮かべる。
「ともかく、もっと恩返しをしてほしいもんだぜ」
「それって、普通自分で言うことじゃないよね」
レンも苦笑を浮かべる。
……レンはいつも以上に“恩返し”にこだわるアランに何か違和感を感じていた。それは軽い警鐘程度の感覚。危険というより、面倒なことになるだろうという程度である。第六感が何かを知らせようとしていた。だが、友人のためと思い、レンはそれを無視してアランの言葉を待つ。
「いやー……実はもう一つ“恩返し”してほしいんだわ」
「アラン、それは“頼み事”でしょ?」
額から一筋の汗が流れ落ちる。もはやレンの勘は確実なものとなっていた。
「ああ、そうとも言うな。いや、むしろそうとしか言わないな」
いつもと比べてどこか弱気なアラン。確実に厄介事に巻き込まれることを覚悟した上で、レンはアランをに続きを話すよう促す。
「あー……カード書き終わったらさ、提出に付いてきてほしいんだわ。確か面談あるんだろ? 俺、そういうの苦手でさ……」
予想通り面倒事が舞い込んできたことにため息をつくレンだったが親友のためと思うと不思議と不快な気分にはならなかった。
「OK、わかったよ。面談っていっても、そんな大したことはないし、そこまで緊張するようなものじゃないよ」
「ああ……面談なんてしたら俺の未来イメージがボケまくりなのがバレちまうぜ。そんなこと言われたって、緊張するったらありゃしない」
「大丈夫、大変なことじゃない。二、三質問に答えるだけでいいんだよ」
「ホントか? ホントなんだな? 絶対だな?」
レンに問い詰めるように確認をとるアラン。そんな様子に気圧されながらも、レンは大丈夫だと頷く。
「絶対だよ。僕を信じてよ」
アランはさっそくカードへの記載を開始する。職種、志望理由、簡単な小論文。そういったことをカードに書き込み、レンの言う通りにあまりよくない場所を直し、カードを仕上げていく。
「できた……」
アランは完成したカードを眺める。どこを見ても、おかしいところはないように感じられた。絶対の出来だった。
「うん、これなら大丈夫だと思う。さ、出しに行こう」
二人はレンの部屋を後にすると、ミシェルが待つであろう孤児院へと足を向けた。
「ついに来た……。」
アランは、職員室と書かれたプレートを見上げながらごくりと生唾を飲み込む。傍から見ればただの扉だが、彼から見れば遥か天まで届く巨大な扉とも等しい。
ゆっくりと手をかけると、しかしすぐに引っ込める。
「ああ、ダメだ。緊張して力が出ねぇ」
アランは大げさに胸に手を当てると、うずくまってカードを抱え込む。
「そんな大げさな……。僕が言ってあげるよ」
レンは扉に手をかける。だが、アランはそれを止めさせる。
「待て! あと……そうだな、86400秒待ってくれ!」
「何時間待たなきゃいけないの……。もう、開けるね」
レンはアランが止めるのも無視して、こんこんと扉をノックし、開いた。
中にはたくさんの机が並べられ、本や教科書、その他雑多なものが転がっている。
「すみませーん、レンとアランです。ミシェル先生はいらっしゃいますか?」
「あら、こんな遅くに何かしら」
ミシェルは二人に手招きする。アランは意地でも動かないと座り込んでいたが、レンに首根っこを掴まれて引きずられていった。
「アランの職業カードの提出にうかがいました」
「あら、レンも一緒に来たのね。本当にあなた達は仲が良くていいわね。他の皆もこれくらい仲がいいと助かるんだけどね」
レンはアランからカードを奪い取ると、ミシェルへと手渡した。
「どれどれ……」
しばらくカードを眺めていたミシェルだったが、すぐさま表情が険しくなっていく。
せっかく提出されたものだからと、とりあえず最後まで内容に目を通したようだったが、その表情は恐ろしいを通り越えて呆れを表していた。
「何これ、冗談?」
彼女の第一声はそれだった。その言葉に、レンとアランの表情からすっと血の気が失せる。
「戦場を巡るジャーナリストって、何よ。こんな命をに関わるような職業を選んだ理由がわからないわ。それに、志望理由も全然適当だし。まあいいわ。なんでこんな職を選んだのかは知らないけど、一応面談はしてあげる」
くいっと度のキツそうなメガネを持ち上げると、ミシェルは厳格な口調でこう言った。
「さあアラン。そこの椅子にす わ り な さ い」
「……ハイ」
アランは厳しい口調のミシェルに恐縮しながら椅子に座ると、ピンと背筋を伸ばして、しかし目を合わせずに視線を泳がせる。
「はい、第一の質問。なんで?」
そう、ミシェルは簡潔かつ簡素、至極平明単純明快シンプルイージーに三文字で尋ねる。
「えっと……その……世界を見て回りたい……から」
「だからなんで? なんで戦場なのかしら?」
反応速度コンマ0.2秒で尋ねる。そのあまりの回答速度にレンは閉口する。
「えっと……なんつーか、前線のヤバイ状況を知って……」
「なんで知りたいのよ。いらないでしょ、普通」
相変わらずの反応速度、否、アランの言葉が終わることを待つこともなく尋ねる。このあまりにも厳しい状況にレンはうっすらと冷汗を浮かべる。
「死ぬ気? ねえ、死にたいの? なんなら私が今ここで殺しましょうか?」
どこからか白板で使うような巨大なコンパスを取り出し、ばっちんばっちんと開いては閉じる。その様子を見て、アランは口をぱくぱくとさせる。
「シニタクアリマセン」
「なら書き直しね。ああ、新しいのをあげた方が早いかしら。はい」
そう言うと、ミシェルは新品の真っ白いカードをアランへと差し出す。アランはそれを受け取ると、刹那の時間で回れ右をする。
「し、失礼しました……」
「ああ、レン。あなたのは大丈夫だから。夢に向かってまっすぐ邁進しなさい」
「あ、はい。わかりました」
そう言うと、半ば硬直しきっているアランを引き連れて職員室を後にする。
この後、アランにじくじくと小一時間に渡って文句とも言えない、かといって愚痴ともいえないような苦情を述べ続けたのは言うまでもないことである。
こうして、今日もレンにとって平和で貴重な日常が終わっていくのだった。
課外活動のキャンプ。
「起きなさいッ!」
そこには空鍋を持って仁王立ちするリサの姿があった。
前夜、ついアランと話しこんで夜更かしをしていたレンはうたたねしていたところをリサに叩き起こされる。
だが、リサが真に怒っている原因は他にあった・・・。
次章、第2章 Discovery Story