後編
続きです!
誤字報告ありがとうございます!
信じられないほど間違えていて、自分のポンコツっぷりが如実に。
報告、本当に助かります!
ウィステリアの花が満開を迎えた頃、アヴェーヌ王宮の王妃の私室へと向かう国王陛下と近衛の姿があった。ノックもせずに扉を開けさせる。中にはマルゴ王妃は居らず、無言のまま手を上げ指示を出す。壁の窪みに手を入れ、装置を作動させる。備え付けの棚がカチリと動き、隠し通路が現れる。ここに限らず、王宮には有事の際に備えて、至る所に秘められた通路が存在する。足音をさせないように気配を殺し、先へと進む。通路の突き当りには扉があり、近衛が一気に蹴り開けた。
中に居たのは、男女が二人。寝台の上で抱き合ったまま、驚きの表情をこちらに向けて固まっていた。
「っな…!陛下、こっこれは違うのです…。そうです、騙されて…わっ私は…」
言い訳を始めたのはマルゴ王妃。よりによって王家の隠し部屋に、見知らぬ男を連れ込み、それを陛下に見つかってしまうとは。アヴェーヌ王家始まって以来、前代未聞の出来事だった。
「…マルゴよ、何が違うと申すのか。男女が二人きり、密室にいたという事だけで、十分だろう。見苦しい、もう何も言うな。追って沙汰あるまで待て。…連れて行け」
重々しい覇気を放つ、その言葉通りにマルゴ王妃はその場から連れて行かれた。残された男は、ヘラリと笑いながら悠然と逞しい身体に服を纏った。
「この国の法で私を裁くことはできませんよ。………を呼んで下さい。話はその者から、させましょう。私にはその権利がある…」
そう言い残すと、別室へと連れて行かれた。
執務室へと国王が戻ると、先ほどの捕物帳を指示した人物が立っていた。
「全て、御主の申した通りであったな」
深いため息と共に、陛下が俯いた。
「…彼、シュヴァリエ王国の男娼だと報告が上がっております。マルゴ王妃は本人の仰る通り嵌められたのだと推測します。…が、あの程度の甘い罠を回避出来ずして、一国の王妃とは言えません。陛下、ご決断を」
「…あぁ、分かっておる。この時を以てマルゴから王妃の座を剥奪。北のゴーティエ修道院にて生涯、神に仕える事を命ず。直ちに彼の地へ護送の手配を。……これで良いのだな?」
「御意」
俯いて、そう答えた形のいい唇が僅かに笑みを湛えていた。
―――まずい事になった…。
連行される王妃を横目に、慌てた様子で王宮を後にする影が一つ。宰相、ルーセル公爵であった。急いで公爵家の馬車に乗り、屋敷へと向かう。王妃の思惑に乗ったのが間違いだったか…。
チッと舌打ちをして、口元を歪める。そもそも王位継承権1位だったにも関わらず、その座を更に確実なものとする為に王妃が画策した事だった。黒髪の悪魔を恐れ、奴を王位継承の舞台から引きずり下ろすべく、アドリアンをシュヴァリエ王国との橋渡し役にと後押しした。勿論、ルーセル公爵にも旨味が無かった訳では無い。愚息を自身の後釜に推薦してもらう、という確約を取り付けていた。出来のいい息子であれば、こんな危ない橋を渡らずとも済んだのに…今更の後悔に歯噛みした。
その時、座席が跳ね馬が嘶いた。激しく揺れる馬車に、しがみ付く事しか出来なかった。次にやってきた、大きな衝撃と共に記憶が飛んだ。
「ルーセル公爵は災難でしたね…」
「…なんでも急に馬が暴れ暴走し、馬車が横転したそうですよ。命は取り留めたものの、歩く事も話をするのも、御出来にならないんだとか…」
「回復されるとよろしいのですが…」
「えぇ、本当に…」
それ以降、行政官長が臨時的に宰相代理を担う事になった。
◇◇◇
「…そう。で、持ち帰った証拠は、どこかしら?」
「こちらです、どうぞ」
そう言いながら麻布の包みを取り出し、ヴィクトリアへと献上する。差し出された手を扇子で叩くと、包みが床に落ち、薄紫色の毛束がハラリと散らばった。
「聞いていた通りの色ね。……汚らわしい、さっさと処分してちょうだい。…いいわ、残りの報奨をこちらへ」
翡翠色の瞳を煌かせながら、ヴィクトリアは指示を出す。対価を確認した後、刺客は返事をする。
「…確かに。それでは、これで失礼させて頂きます」
「待ちなさい、祝杯くらい付き合うのが礼儀というものよ」
嫌とは言えない圧を感じ、仕方ないとばかり一杯付き合う事にする。祝杯と謳いながら紅茶が差し出された。肩を竦めながらカップを持ち上げたその時、目の前の雇い主が視界から消えた。すぐに身構えたが、次の瞬間に息が途切れた。
ヴィクトリアは、戻り来る意識の中、重くのしかかる瞼を徐々に開けようしていた。何とか目を開けると、見慣れぬ壁に蝋燭が一つだけ灯る、薄暗がりの部屋の中だと分かる。ぼんやりと視界に慣れてくると、身体が思うように動かせない事に気付いた。声を上げようとした…が。
「ううがううあう…(何がどうなって…)」
唸るような、くぐもった音が喉の奥から響き焦るばかり。僅かに口の中に苦みと、独特な香りが鼻を衝いた。状況が理解できず、無理やり起き上がろうと藻掻くも何も進展はしなかった。
ガチャリと、不意に戸が開いた。左手側の、やや離れた所から音が聞こえた後、コツコツと冷たい足音がヴィクトリアの方へと向かって来る。様子を窺いたくても、首を動かす事さえ儘ならない。薄暗がりの逆光の中、黒い人影が一つ浮かび上がる。
「気が付いたみたいだね。気分は、どう?あぁ、悪くても返事はしなくていいよ」
聞き覚えのある声がした。温もりの欠片もない声色に、ヴィクトリアは背筋がヒヤリとして身震いする。
「…そう言えば、もう返事は出来ないか。煩いのは嫌いだから、喉を潰しておいたんだ」
悪戯が成功した子どもみたいに、くすくすと嗤いながら更に歩を進め、ヴィクトリアの真横で足を止めた。
「今から君はガルシア帝国へと行って貰う。まぁ、任務と思えば苦にならないんじゃない?目的地は帝国辺境の鉱山、そこで死ぬまで労働に励むんだよ」
ヴィクトリアが、体を捩りながら呻き声を上げると、影は小刻みに肩を震わしながら、嗤い続ける。
「…ふふっ、大丈夫。鉱山の労働と言っても、採掘したり荷を運ぶ事はない。そこで働く労働者の世話をするんだ…分かるよね?慰みを担当して貰うから、奴隷としてさ」
それを聞いた途端、ヴィクトリアは仰け反って、言葉にならない奇声を発した。貴族令嬢として生きてきた彼女は、未だ純潔のままであり、それを散らすのは婚姻後の初夜だと信じてきた。幾ら相手が最高の男だとしても、自分の許し無く交わるなんて在りえない。ましてや平民、よりにもよって罪人に捧げるなんて、以ての外。ならばいっそ…。
「あんな事しておいて、簡単に殺して貰えるなんて考えてないよね?あそこまで大胆に動いて、気付かれないと思うなんて侮られたものだ。そんな君……名前は…まるで覚えてないや。…まぁ、安心して。死にそうになっても、最低限の治癒魔法をかけてあげるから、何度もね。君が私にしようとしてた事を、存分に彼等に奉仕し楽しむといいよ」
声の主は、徐にヴィクトリアの髪を掴んだ。逃げなくては…、頭では分かっているのに、ピクリとも動けない。すぐ耳元でジャキリという不快な音がして、それと共にパサリと何か舞うように落ちていく。何度も何度も繰り返されるうちに、漸く髪の毛を切られているのだと気付く。一日たりとも欠かす事なく丁寧に手入れがされ、美しいと称された自慢の輝く淡い金色の髪。茫然としている間に肩にも付かない長さに切り落とされ、毛先はバラバラになっていた。
「次の任務先は、今と違って毎日湯浴み出来る環境ではない。こんな物は邪魔だろう?…不要な物は片付けなくては…ね?」
はっと息を飲んだヴィクトリアは、己の発言が俄かに甦った。蝋燭の弱い光を正面に浴びる位置に、黒い影が移動した。ヴィクトリアを見下ろす赤い眼差しは、冷ややかに輝き微笑を湛えていた。
(どこで間違えたというの…)
屈強な男達が労働上がりの薄汚れたまま、ヴィクトリアを蹂躙していく。すぐに助けが来るだろうという甘い考えは、とうに捨てた。彼らの欲望は尽きず、毎日途切れる事無く数多の男に制圧される中、答えの出ない問いを繰り返し微睡んでいった。
◇◇◇
アナイスは、フワフワとした浮遊感を感じていた。夢の中なのか現実なのか境目がハッキリしない、漠然とした記憶の中にサラリと流れる黒髪を見た気がした。
(ここにアドリアン様が居る訳がないわ、きっと夢ね…)
ならば…と、そのまま意識を手放した。
次に気が付くと、見慣れない天井が視界に入った。辺りを見渡せば、流線形をした蔓植物柄の壁紙が美しかった。一人で寝るには広すぎる寝台に、アナイスは寝かされていた。ふと窓を見ると、日が赤く射していて数刻毎に暗くなっていく様子から、これから夜になる事が窺えた。徐々に記憶を辿っていくにつれ、アガタと茶会の最中だった…と思い出す。だが、ここがゲラン伯家邸内なのかすら分からない。身体を起こすと、すぐ傍にテーブルがあり、その上に呼び鈴と一枚のカードを見つけた。
"目が覚めたら呼び鈴で人を呼ぶといい"
懐かしさを感じる文字に、俄かに胸を躍らせて、何の躊躇いもなくチリンと鳴らした。
◇◇◇
アドリアンとヴィクトリアの正式な婚約から一ヶ月、忽然とヴィクトリアが姿を消した。
アヴェーヌ王国だけでなく、彼女の祖国シュヴァリエ王国でも大がかりな捜索がされたが、手掛かりすら見つからなかった。それでもなお、献身的にヴィクトリアを探すアドリアンに、人々は哀れみの目を向けた。美しい婚約者を無くした、憐れな許嫁として、王都中に噂が広がった。そんな中、後釜に入り込もうとする野心溢れる令嬢もいたが、後添えを箝げる事なく静かに過ごす彼の姿は、純愛を貫く物語の主人公の様に映った。
更に追い打ちをかける様に、悪い事は続く。ヴィクトリアを調べているうちに、ある事が発覚した。ダンテス公爵がアドリアンの名義で、ガルシア帝国から武器を大量に手配していたという情報だ。それを使い、アヴェーヌ王国へと攻め入ろうという筋書きのようだった。幸運にもシュヴァリエ王国へと渡る前に発覚した。友好とは名ばかり、婚約さえもが策略であった。つまり、ヴィクトリアすら、ダンテス公爵を始めとするシュヴァリエ王国の手の平で踊らされていた。勿論、始まりはヴィクトリアの恋慕であったが。
それを知った一番の被害者であるアドリアンは、当然怒り狂った。そうなった彼を止める事は誰も出来ず、アドリアンはシュヴァリエ王都へと一人突き進む。無尽蔵な魔力は、あらゆる攻撃魔法を繰り出し、瞬く間に降伏させてしまった。
その様子を間近で見た者は、一様に顔から感情が消え去っていた。ある者はこう言った。
「赤い目をした、漆黒の魔王の様だった」
またある者は、絞り出す様に呟いた。
「赤い閃光を放つ、黒き流星」
どの答えも抽象的で、漠然としていた。詳しく聞こうとすれば、落ち着きなく目が泳ぎ、震え出す。中には頭を抱えて泣き出す者もいて、それ以上深くは追及出来なかった。
一国が滅んだというのに、他の隣国はシュヴァリエの身から出た錆と、静観を決め込んだ。どの国も対岸の火事に巻き込まれるのは避けたいようだった。ガルシア帝国でさえも、事情は知らなかったで通した。武器調達に関わった複数の貴族を家ごと潰す事で、国自体の潔白を主張した。開戦を望む国は無く、それ以上追及されなかった。叩けば埃が出るのは、どこも同じという訳だ。アヴェーヌ王国もアドリアンが納得するなら、と合意に至った。こうして国を跨いだ婚約騒動は幕を下ろした。
アヴェーヌ王国の国王陛下の執務室に、二つの人影があった。人払いがされており、他には誰も居なかった。
「流石、漆黒の魔導師と言わざるを得ない手腕だったな。慕い合う婚約者に知らぬうちに裏切られ、愛の大きさ故に怒り、神を降臨させた…と専ら美談にされておる。…だが、御主は知っておったのだろう?始めからダンテス公爵の画策を」
薄っすら微笑みを湛えながら答える。
「陛下、私は未だ傷心の身ですので」
「まぁ、言うておれ。そのうち吟遊詩人が詩にして、恋愛英雄譚として広がるだろうて」
国王が揶揄うように言えば、心の底から嫌そうな顔をする。
「あぁ、もう一つ。忘れぬうちに伝えておく。やはりラファエルから王位継承権を剥奪する事にした。マルゴのした愚策のせいで、ラファエルまで巻き込まれる羽目になったわ。天罰が下ったルーセル公爵は、もう何も出来ぬ、あれで許してやれ。…一族全て焼き尽くさねば気が済まないという顔をするな。…それでだ、まだ4歳の第二王子が15歳になったら立太子させる予定にした。王太子になるまでは今のまま王として治めるつもりではあるが、その前に私に何かあれば、間の事は任せるぞ…」
「あと10年程です、陛下には益々のご健勝をお祈り申し上げます」
それを聞いた国王は、苦虫を噛み潰したような顔で返事をする。
「…食えない奴め…。希望を最大限に聞いたのだから、国の防衛は頼んだぞ」
「えぇ、お任せください」
にこやかに答える様子を見る限り、一人で国を滅ぼした人間だとは到底思えなかった。かたや、一国分の領地が手に入ったにも関わらず、不愉快きわまりない表情をしていた。
折り合いが付いたはずなのに、二人の模様はあまりにもかけ離れていた。
◇◇◇
呼び鈴を鳴らした途端、鍵を開ける音がして扉が開き、足早に人が駆け寄って来た。あのメッセージの文字は、やはり彼だった。と同時に、何故此処に彼が…?と思わずアナイスは声を上げたが、長い事眠っていたようで、喉がはり付き思うように上手く話せなかった。
「アドリアンさ…ま……、どう、して…?」
テーブルにある水差しからグラスに水を注ぎ入れ、アナイスに手渡した。
「ずっと寝ていたんだ、喉が渇いているだろう?まずは飲むといいよ」
言われるがままグラスを受け取り、コクリと水を飲む。冷やりとした感覚が喉から身体へ染み渡った。漸く、ゆっくりと息が吐けた気がした。
「毒を盛られたんだよ、ゲラン伯爵とのお茶会で。でも大丈夫、解毒は済んだし、首謀者も裁きを受けたから。ただ、倒れてから10日程眠っていたんだよ」
「毒…、裁き…?」
アドリアンは、空になったグラスを受け取り、脇のテーブルに置くと、すぐにアナイスの元へと戻り寝台に腰を下ろした。アナイスの手を掌で包み込み、手の甲に唇を落とすと更に続けた。
「アナイス、なんで何も言わずいなくなってしまったの?…そんなに嫌だった?」
「嫌……とは…?」
アナイスは起き掛けに、色々な事を聞かされて、更に今までされた事のないアドリアンの甘い行動に、頭の中が雑然とした。聞いた事を断片的に繰り返すのが精一杯だった。
「時間はあるんだ、ゆっくり説明するよ」
アドリアンが柔らかな笑顔を向けた。アナイスが知っている彼と、本当に同じ人なのだろうかと、増々混乱させられた。
◇◇◇
初めて目にした瞬間、引き寄せられる感覚がした。それはまるで、香り高い花に集まる蝶のように。抗う事が出来ない運命だったんだと、今は思う。
退屈な毎日を過ごしていたアドリアンに、一人の少女が紹介された。一目見ただけで心が惹かれたのは、大好きな花の色と同じ髪色をしていたからだろうか。しかもその子は他の子と違って、自分を怖がらず瞳を見て話してくれる。家族以外では初めてであり、彼女から目が離せなくなった。知りたいという強い気持ちが通じたのか、アナイスと名乗った彼女の方から色々話してくれた。最近読んだ人の言葉が話せる猫を描いた絵本、初めて刺した刺繍の図柄は薄紫の花だった事、そして自分の好きな甘い紅茶と読書について。一つも取り零す事が無いように、無我夢中で記憶に焼き付けた。集中し過ぎたせいで、自分がどう見られていたかなんて気を配る余裕なんてなかった。
とても有意義な時間は、あっという間に終わりを迎えた。
「また、近いうちに」
アドリアンが、そう言うと可愛らしく淑女の礼をして帰って行った。アナイスが乗り込んだ馬車が見えなくなるまで、じっと見送った。止んでいた雪が、またちらつき始めていた。
その後の行動は、自分でも驚くほど早かった。父であるレイ公爵へ、アナイスと結婚したいと素直に話した。両親共に、とても喜び、すぐに国王へ婚約の申請をする。季節が一年最後の月でなければ、もっと早く事は進んだであろう。焦る気持ちを抑え、確実に土台を調えていった。
二人が出会ってから最初に迎えたアナイス5歳の誕生日には、大粒のルビーが燦然と輝くネックレスを贈った。アナイスは微笑みながら受け取ってくれ、その場で着けてくれた。穢れの無い満開のウィステリアに、ぽとりと落ちた一滴の鮮血のように、それはそれは美しかった。何とも言えない悦びが湧いてきて、もっともっと自分の色で染め上げたいという欲望が心を支配した。それから毎年、ウィステリアが咲き乱れるアナイスの誕生日には、アドリアンの瞳を連想させる、ピジョンブラッドの宝飾品を渡す事に決めた。
ある時、その様子を見た母が小さく呟いた。
「あらあら、アディも相当なものね」
幸運にもアナイスには聞こえていなかったようだが、何を余計な事を言ってくれるのだと、それ以上何も言わせない牽制を込めて睨みつけた。それでも尚、くすくす笑いながら母はその場を後にした。
それからも順調に愛を育んでいった。
アナイスは何時でも積極的に話しかけてくれる。口下手なアドリアンにとって、その気遣いは心地良く、更にアナイスを深く知ることが出来る掛替えのない時間になっていた。会えない時でも必ずアナイスは手紙をくれた。年月と共に膨れ上がるアドリアンの想いを文字に綴るのは難しく、何度も何度も書き直した。結局、返事は簡単な定型文になってしまっていた。
そこへきて、齎された第一王子誕生の知らせ。
何やら慌ただしくなる周囲をよそに、アナイスとの恒例の茶会だけが憩いの場となっていた。アナイスしか目に入らないアドリアンには、増えた護衛など、取るに足らないものだった。
彼女が笑っていたら、それで良かった。
彼女さえいれば、何も要らない。
それから2年と半年程した時に、父が亡くなった。流行り病を拗らせて…と表向きはなっているが、実際は違う。毒を盛られて殺された。誰が首謀者なのか、怪しい者の名前や噂を色々聞いたが、恐らく王位継承絡みのごたごたに巻き込まれたのだろう。アドリアン程ではないものの、かなりの魔力を持つ父を討つとはそれなりの実力者だろうと推測した。事実を知った母は、恐怖のあまりに部屋から出られなくなっていた。レイ公爵家を守ろうと、頭を巡らせていたアドリアンにとっては都合が良かった。
「必ず守れ」
それだけ言うと、弟に母を託した。
「アドリアン様…!」
不意に声がして振り返る。あぁ、幻聴ではなかった。一番会いたかった人の声だと分かる。アナイスが此方へ足早にやってきた。
予定されていなかった再会に、誰にも気づかれないように悦びを噛みしめた。
「私に出来る事は、ありますか?」
アナイスは優しく自分を慮ってくれた。それだけで今後予想される面倒事も乗り越えられる、ならば早く終わらせてしまおう。そうすれば、この狂おしい程愛しい人と緩やかに過ごせるのだから。一度進路が決まれば、すぐに取り掛からねば。徐に口を開く。
「特にはない。だが、これから少しの間、忙しくなる。茶会を中止にする事も、出てくるかもしれない」
本当は会いたいけれど、と続けそうになる。けれど言ってしまえば折角決断したのに、あっという間に歯止めが効かなくなりそうで飲み込んだ。
「…わかりました、くれぐれもお身体にお気を付け下さい。私の方は、いつでもアドリアン様に合わせる事が出来ますので、お気になさらず」
アナイスも同じ気持ちなのだ…自分が頑張らねばと改めて心に誓う。アドリアンは力強く頷くと、その場を後にした。
正直、公爵家という地位に興味はなく、いざとなったら弟が継げばいいとさえ思っていたが、アナイスを手に入れるのに、この立場は都合が良かった。その年の誕生日を迎えると同時にアドリアンは、まだ13歳という年齢でレイ公爵となった。
未だ恐怖する母親を、静養の意味も込め、弟と共に王都から少し離れた領地へと送った。聡明なアドリアンは、公爵家としての責務を淡々とこなし、同時にアナイスを迎える準備に取り掛かる。一日も早く婚姻の儀を行いたいが、アナイスを他の誰にも見せたくない…という矛盾を伴う欲望が膨らんでいた。本来、公爵家として社交の場での駆け引きは不可欠だろうが、アナイスを参加させるつもりはなかった。アドリアンは王族と結んだとある契約があり、その任さえ遂行すれば地位は確約されていた。他の貴族との交流など、アナイスに要らぬ虫を寄せ付けさせるだけで利益が一つもない。だから夫婦になった暁には、アナイスを公爵家の敷地から出さなくていいいとさえ思っていた。それ以外なら希望を何でも聞いてあげよう、そう思っていた。
それだというのに。
釦を掛け違えるかのように、アナイスとすれ違いが生じ、いつの間にかアナイスとの婚約すらないものになっていた。その陰に見え隠れするのは王妃に宰相。国王を睨みつければ、申し訳なさそうな表情で僅かに顔を背けた。元凶はシュヴァリエ王国使者の女、しかも此奴が何故か許嫁になったという。慌ててデマレ侯爵家へ赴けば、既にアナイスは王都を離れた後だった。
訳が分からない。言伝も手紙も、何も無く自分の前から消えたアナイス。しかも、どこに行ったかすらも聞き出せなかった。想いの分だけ、苛立ちが増していく。アナイスとの関係は、こんなにも脆いものだったのか?そんな事あるはずがない、長い年月掛けて築いてきた…。思索する程、歪んだ感情が黒く湧き上がっていくのにアドリアンさえ気づかなかった。
「…その程度の絆だったんだ」
言葉にしてみると、するりと頭に入り込んできた。
(でも、諦められないんだ。ごめんね)
「少しだけ待ってあげる、今は自由を謳歌すればいいよ…。だけどもし、手に入らないのなら…この手で…、あぁ…」
アナイスを想い作らせたアメジストの指輪にキスをする。まずは兇徒の駆除から始めよう、でも一番はアナイスを保護しなくては。それでもだめなら…、くつりと嗤い、指輪に付いた冷たい石を舌で舐めるアドリアンの瞳に赤い閃光が走った。
得体の知れない女との時間は正に地獄のようだった。茶会には色とりどりの菓子や季節の花、淹れたての紅茶が入った美しい茶器がテーブルに並んでいた。アドリアンも眼前の女も、手を付けず、それどころか会話すら生まれない不毛な空間が広がった。苦痛ではあったが、アドリアンから話をしようとは微塵も思わず、ただこの拷問が終わるのをじっと待ち続けた。
「私にとって両国の思惑なんて、どうでもいいの。あなたなら、私の横に並ばせてあげてもいい。…それだけの事よ」
静寂を切り裂き、不遜な様子で女が言った。お茶が冷めている…と侍女を叱責し、茶器毎全て交換させた。最高の状態じゃないなんてあり得なくてよ、という呟きを聞いたが、一つの気持ちしか浮かばなかった。
(これは、要らない…)
女が何を話していても、適当に相槌を打ちはしたが、頭に入って来なかった。それからも何回か顔を合わせたが、視線に入れるのも憚られた。そして遂に自分の思う通りにならない状況に、業を煮やした女が行動に出た。アナイスに手を下したのだ。アドリアンは、この時を待っていた。同時にアナイスの無事に加え、首謀者を捕縛したと影から報告があった。救護したアナイスは既に此方に向かって来ている。彼女が到着するまで、あと少し。やる事が残っている、逸る心を宥めながら行動に移った。
我が子を確実に次期国王にする為、アドリアンからアナイスを引き離した王妃。隙の多い王妃を取り込もうと、表向きは協力していたシュヴァリエ王国ですら策を巡らせてきた。国王陛下との不仲が噂される王妃に、男を宛がった。ダンテス公爵が仕向けた男娼であり、アドリアンもこれ幸いと利用した。既に篭絡されたと聞いている。流石に手が早い。次期国王の母であれば何をしても許される、と勘違いしている愚鈍なさまに、最早何の感情も浮かばなかった。後は陛下に直接見せつけてやるだけでいい。厭々ながらも重い腰を上げた国王に突き付けられた現実は、信じていた王妃と見知らぬ男が裸で交わるという酷いものだった。結果として、全てを失った元王妃は、アヴェーヌ王国で最も厳しい北のゴーティエ修道院にて生涯、神に仕える事を命じられた。
もう一人は、今にも逃げ延びようとする黒い人影、宰相ルーセル公爵だ。こいつだけは本当に許さない。アドリアンは右手に握り締めていた手紙に目を向ける。何もなくアドリアンの前から居なくなったと思っていたアナイスが残したものだと分かった。あくまでも義務的な内容ではあったが、普段のアナイスが書く温かな美しい文字とは少し違っていた。ほんの少し震え、心持ち弱々しい。これをしたためた時の心情が、痛い程伝わってきた。自分宛の手紙を宰相が持っていた、影から受け取った時のアドリアンの心中は穏やかではなかった。王宮からルーセル公爵家へ向かう者しか通らない道に、小さな細工をさせた。通常の馬車や歩いて通るには何も問題も起こらない、僅かな変化。但し、かなりの速度で通過すれば車体が跳ねて傾く。ただそれだけ。
ルーセル公爵は一命を取り留めたが、歩く事はおろか会話も出来ない身体となった。
最後は元凶の女だ。そいつが仕向けた刺客と手先の侍女は、既にこの世から消した。公爵令嬢には薬液を飲ませ喉を潰しておいた。更に女の命ともいえる髪を無造作に刈り取った。アナイスの神聖な髪を切り取らせた罰だ。罪を償わせるために、ガルシア帝国辺境の鉱山へ奴隷として送り、欲望渦巻く労働者の群れへ放り込んだ。純潔を失い、繰り返し男達に嬲られればいい。
そう、首謀者は誰も殺させはしない。そんな優しい罰では贖えない。永遠とも思える苦しみの中、絶望と共に這いつくばればいい。お前らがアナイスにした事は、それ程の事だから。死んだ方が楽だ、殺してくれと、すぐにそう思うだろう。
◇◇◇
呼び鈴が聞こえた。悦ぶ気持ちをどうにか抑え、愛しい人を閉じ込めた部屋へと急ぐ。長い事眠っていたアナイスは、少し困惑している様だった。
「アナイス、なんで何も言わずいなくなってしまったの?…そんなに嫌だった?」
本当は手紙を残してくれていたのを知りつつ、自らの意思でアドリアンから遠ざかったアナイスへ少し意地悪を言ってみる。案の定、困惑した様子でこちらを見ていた。そんな表情も、背筋がゾクゾクする程、堪らない。
「時間はあるんだ、ゆっくり説明するよ」
もう誰も邪魔する者は居ない。誰に咎められる事もなく、アナイスへと笑顔を向けた。彼女は増々混乱していたようだが気にしない。ずれた釦を戻すべく、丁寧にお互いの気持ちを確かめたかった。
よくよく聞けば、驚く事にアナイスはアドリアンに嫌われていると思っていたという。しかもそれは出会った当初からのようで、流石のアドリアンも落ち込んだ。けれど、少なからずアドリアンの事を好いている事が分かり、心の底まで行きかけた精神が一気に浮上する。
「少し予定より早いけれど、婚姻の儀を済ませたい」
そう真っすぐ、アナイスのアメジストの様な目を見つめた。
「…本当に私で良いのでしょうか…?」
絡んだ視線を逸らさず、けれど自信なさ気に口を開いた。そんなアナイスを後ろから抱え込み、右の頬に唇を落とす。ピクリと反応した後で、固まった様に動かなくなる。
「アナイスでなければだめなんだ。…まだそんな事を言うの?ここ数日で、たっぷり伝えられたと思っていたんだけど…。足りないようだね。
…分かった。二度とそんな考えに至らない様に努力するから、覚悟してね?」
長い婚約期間では、無暗に触れないように注意してきた。それは繊細な雪の結晶を守る精霊に与えられた、辛い試練のようで。だがアナイスが目覚めてから、事ある毎に好きだ愛してると伝え、手を握り、抱き寄せ、手の甲だけでなく額や頬にキスを落とした。それだというのに。
(そうか、わかった…)
続けて唇同士が触れるだけのキスをする。アメジストの瞳が大きく見開かれた。きっとまた驚いて動かなくなるんだろう、と思っていたアドリアンをいい意味で裏切ってきた。
「…私もアドリアン様をお慕いしております。…漸くちゃんと伝えられました」
少し頬を紅く染めて、ふふと笑った。
次の瞬間、唇を奪っていた。最初は啄み、徐々に呼吸をするのも惜しいように、それはどんどん深くなっていった。薄紫の淡い光が彼らを包み込んでいた。
その日のうちに手続きを済ませ、晴れて二人は夫婦となった。大らかで優しく妖精のように可憐な妻と、圧倒される覇気を纏った神々しい美貌の夫。皆が羨み、とても幸せそうであったが、誰もが知らない秘密があった。
大層心配性の旦那様は、余程の事が無い限り妻を公爵家の敷地から出さなかった。彼女の私室は、窓に格子が嵌め込まれ、ドアの外からも鍵が掛けられるようになっていた。他人が付け入る隙など微塵もない仲にも関わらず、念には念を入れて囲うように守っていた。一見歪んだ愛とも取れるそれを、奥様も喜び受け入れているのだとか。
何ともお似合いな二人のお話。
おわり
ご覧いただき、ありがとうございます。
ヤンデレを書きたかったのですが、大分ソフトに仕上がりました。
もっと精進します!
後から後から微修正が見えてくる症状にかかりました。
※第二王子の年齢間違ってました!年子の設定で4歳です。
見つけて下さった方、ありがとうございます!