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前編

ご覧いただきありがとうございます!


沢山の方に見て頂けて、嬉しくて震えております。


誤字報告ありがとうございます!ありがたすぎます。

それはもう死ぬほど間違ってて、お恥ずかしい限りであります。


いとも簡単に、婚約が白紙に戻された。




15歳のアナイスにとって、9年という人生の大半を占める期間、公爵子息アドリアンの許嫁であったというのに。走馬灯の様に、アドリアンとの思い出が頭を駆け巡る。レイ公爵家からの打診ではあったが、長い年月をかけて、アナイスはアドリアンを慕うようになっていた。


だからこそ、だ。



少し長めの溜息をつくと、アナイスは心を決めた。黄色いミモザが、夕暮れの空に溶けて消えていた。




◇◇◇




出会いはアナイスが6歳の頃。冬の、とても寒い日だった。風が少し強めに吹き、促されるがままに乗った馬車から降りる時、思わず毛皮の衿に顔を埋めた。


デマレ家より豪奢(ごうしゃ)なレイ公爵家の邸宅は、象牙色に金色の縁取りがされた壁と天井が印象的だった。優雅な曲線と彫りの深い装飾に囲まれたシャンデリアも金色に統一され輝いている。落ち着きながらも、質の良い調度品が並んでいた。行き届いた手入れと、代々受け継がれてきた年月が創り出したそれは、幼いアナイスも思わず見惚れる程だった。


案内された部屋では、一人の男の子がアナイスを出迎えてくれた。艶めく漆黒の髪、白磁の肌に真っ赤な瞳が燃えている美しい少年。神の化身かと見間違う姿に、思わず見とれていた。



レイ公爵は濃い灰色がかった銀髪、夫人は蜂蜜の様な艶やかな金髪をしていた。父親の血筋を色濃く受け継いだのだろうと思いを巡らせる。夫妻が、アナイスの両親に話しかけた後、少年に指示をした。



「我々は、こちらで。アドリアン、デマレ嬢をご案内して差し上げなさい」



「はい、父上」



そうしてアナイスの方へと進み出た。



「はじめまして、デマレ嬢。レイ公爵家アドリアン・ド・レイです。アドリアンとお呼び下さい。お名前をお聞きしても?」



緊張しながらも、アナイスは日頃の教育を思い出し淑女の礼をする。



「はじめまして、アドリアンさま。デマレ侯爵が娘、アナイスともうします。アナイスとお呼びください」




「よろしく、アナイス嬢。お茶の用意をしてあるんだ、こちらにどうぞ」



そう言って、アナイスへと手を差し伸べた。ドキドキしながら、そっと手をのせる。少年の手は少しひんやりとしていたのに、繋いだ手から熱が伝わってくるようだった。


その後は、素晴らしい香りの紅茶と美味しい焼き菓子を楽しみながら、取り留めのない話をした。最近読んだ絵本、初めて刺した刺繍の図柄、そして自分の好きな物について。アナイスの一方的な会話に微笑み頷き、静かに話を聞いてくれるアドリアン。彼からは何も聞けなかったし、笑っていても楽しそうではなかった。チクリと胸が痛んだが、気づかないふりをして沈黙を避けるように色々な話を沢山重ねた。





「また、近いうちに」



別れ際にアドリアンは、ニコリともせずそう言った為、本気にはしなかった。期待通りにならない方が辛いと、幼いアナイスでも知っていたから。



だから驚いた。翌月の新しい年の始まりには、公爵家から手紙が届き、とんとん拍子で婚約が決まってしまった。両親から聞いた話によると、レイ公爵家とデマレ侯爵家は領地が隣接していて、代々深い親交があったという事だ。現在も家族ぐるみで仲が良く、年に数回公爵家へ招かれていた。両家の子どもが大きくなったら、会わせようと決めていたようだ。



(アドリアンさまの気持ちで、決まったわけではないのだわ)



妙に、しっくりとくる理由に悲しくなったが、また彼と会えると思うと、(わず)かに顔を上げた。






◇◇◇





それから毎年、春のある時期になると、レイ公爵家の庭園にある東屋で、アナイスの誕生会を兼ねたお茶会が開催された。満開のウィステリアの花が、薄紫色のカーテンを作り、同じ色の髪を持つアナイスは花の精のようだった。その会で、必ずアドリアンはプレゼントをくれた。最初は大粒のルビーが()め込まれたネックレス、次は髪飾り…と鮮やかな赤いピジョンブラッドの宝飾品が増えていった。


それを見たレイ公爵夫人は、くすくすと笑いながら



「あらあら、アディも相当なものね」


と小さく呟いたが、そちらを(にら)んでいたアドリアンに気付き、アナイスは聞こえないふりをした。



(やっぱり、わたしの事が嫌いなのね…)



貴族の婚姻は、本人たちの好き嫌いで結ばれるものではない。物心ついた頃から教わっていたから、結婚に夢や憧れは持たないようにしてきた。けれど、どうせなら慕い合う人と…と思うのは自然の事。それだというのに、アナイスの場合は最初から好意を持たれていない、(むし)ろ先ほどの様子から察するに嫌われているのは間違いなかった。



せめて、わたしの心だけは…と幼い婚約者を想い、報われない気持ちを育んでいった。積極的に話しかけたし、会えない時は手紙をしたためた。返事はいつでも素っ気なかったけれど、最初から期待しなかった分、落ち込む事も少なかった。


けれど不意に訪れる、心がキュッと痛む時、アナイスはデマレ邸の庭園へと足を運んだ。季節ごとに咲き乱れる色とりどりの花、青々とした生命力あふれる草木に触れると、傷ついた気持ちが温かくなった。



(うん、まだ頑張れる…)



そう言い聞かせ、自分を奮い立たせた。






アナイスは珍しい髪色をしている。生まれ持った色は母に似て白に近かったが、年を追う毎に少しずつ瞳に近い色を帯び、アドリアンと出会った頃には薄紫色になっていた。花の精霊に愛されていた為の変化だが、明確に気づいたのは3歳の頃だった。



この国では3歳の誕生日を迎えると、神殿にて儀式が行われる。それによって魔法の属性が分かり、向いている役目や適した職業が判断できる。アナイスの魔法適正は目立ったものが無かったが、(ほとん)ど現れない精霊の加護持ちである事が分かった。中でもウィステリアの精霊の加護が強く、髪色にもその影響を受けていた。どうりでデマレ領の植物は、他と比べて成長著しく見た目も品質も良いのだと皆が頷いた。



そうと分かる前からデマレ家は庭園を調えるのに、とても力を入れていた。庭師ジョセフは、デマレ家に仕えることが出来、内心とても喜んでいた。ジョセフが一流だったのは勿論だが、通常育成に難しい植物も、ここではいとも簡単に育てる事ができた。園芸師冥利に尽き、増々彼の腕が上がっていった。アナイスは花や木から活力を貰うことが出来た為、相乗効果でデマレ家の庭園は勿論、狭いながらも領地の木々は、以前にも増して勢いよく繁栄していった。




◇◇◇




そんな折に、国に吉報が(もたら)された。



第一王子ラファエル・アヴェーヌ殿下の誕生である。アドリアンと婚約を結んでから3年後、アナイス9歳の時だった。国中が沸き、お祭り騒ぎがひと月も続いた。だというのに、レイ公爵家の周囲は俄かに騒がしくなっていた。今までいなかった所にまで、見慣れない護衛が付き、恒例の二人の茶会でも物々しい雰囲気が立ち込めていた。けれど、当事者であろうアドリアンは、無口なまま澄まして茶を飲み、時折相槌を打つだけ、と…いつもと何ら変わらず、アナイスはホッと胸を撫で下ろした。



後に分かった事だが、レイ公爵は王弟であり王位継承権1位であった。しかし、国王夫妻に第一王子が生まれ、継承権に変化が生じた。公爵が2位に、アドリアンが3位に繰り下がった。生まれたばかりの王子殿下を守る為、監視の意味も併せて、王家から護衛が付いていたというのが事の真相だった。






王子誕生から数年を経て、詳しくは2年半後にレイ公爵が亡くなった。壮健であったにも関わらず流行り病で呆気なく、と人々が口にしているのを聞いた。アナイスは心配になり公爵家へと参じたが、公爵夫人は塞ぎ込み部屋から出て来る事はなかった。それでも、アドリアンとの面会は叶った。



「アドリアン様…!」


傍に寄り、声を掛ける。予定を曲げて来訪したからか、驚くように僅かに目を見開き、アドリアンがこちらを見やる。



「私に出来る事は、ありますか?」



アナイスの問いにアドリアンは間を置かず答えた。



「特にはない。だが、これから少しの間、忙しくなる。茶会を中止にする事も、出てくるかもしれない」



「…わかりました、くれぐれもお身体にお気を付け下さい。私の方は、いつでもアドリアン様に合わせる事が出来ますので、お気になさらず」


アドリアンは小さく頷くと、その場を立ち去った。




葬儀から二か月後、アドリアン・ド・レイは公爵の座を引き継いだ。




◇◇◇




それから三年後の春、ラファエル第一叔王子殿下5歳の誕生祭が、盛大に執り行われた。隣国からも貴族が招待され、国交を結ばんと様々な顔合わせがなされた。当然、アドリアンも駆り出され、各国要人の接待や案内を任されていた。現在、目の前に立つのは隣接する帝国の軍団長。彼が(おもむろ)に口を開く。


「…しかしながら、レイ公爵殿の魔力は見事なものですな。お若くして爵位を継がれたと聞いておりますが、それ程までの魔力があれば何者も足元にも及びますまい、いや実に羨ましい」



アドリアンを真っすぐ見つめ、いやその先にある漆黒の髪を瞳に映して、そう言った。この世界では魔力量に応じて、髪色に影響が出る。魔力が多ければ多いほど、黒に近づいていく。混じり気のない黒い髪は、悪魔にも匹敵する膨大な魔力を持ち、世界をも滅ぼすとされている。更に、ここ数百年程は存在を確認すらされておらず、故に恐れの対象ともなっている。つまり眼前の御仁は、言葉で賛称しつつ、恐怖し警戒している訳である。



正直、この手の反応にアドリアンは飽き飽きしていた。



「…えぇ、(わず)かに力を篭めるだけで誰も私の前には立てませんからね。楽でいい」



どうとでもない様に答え魔力を操れば、顔を青ざめさせ、挨拶も程々に屈強な軍人は、そそくさとその場を後にした。




その様子を、少し離れた場所から見ていた一人の令嬢。隣の王国を代表の一人として、やって来ていたのはヴィクトリア・ダンテス公爵令嬢であった。口元を扇子で隠し、ニヤリと弧を描くように(わら)った。



「彼なら私の横に並んだとしても、遜色なく耐えられるのではなくて?」



ヴィクトリアは、自分を担当していたアヴェーヌ王国の侍女に問いかける。



「濡れ羽色の髪を持つ、彼の名前は?」



侍女は、示された人物であるアドリアンを畏れるように見ると、少し顔を強張らせた。



「レイ公爵アドリアン様でございます」



「…そう、ありがとう。では早急にアヴェーヌ王国陛下へ、ご挨拶に参りましょうか。その後、直ちに帰国しますわ」



王子殿下誕生の祝いを王族へ届けるべく、優雅に歩を進めた。





◇◇◇





アナイスは王宮へと招集され、マルゴ王妃や宰相といった、錚々(そうそう)たる人々に取り囲まれていた。髭を蓄えた口元を動かし、沈黙を破ったのは宰相であるルーセル公爵だった。



「シュヴァリエ王国から、とある婚約の打診があった。今でこそ両国に国交はあるものの、日はまだ浅い。より強固なものとすべく、是非ともこの話を(まと)めたいというのが国の方針だ」



アナイスは自分が何故、この場に呼ばれたか分からず、戸惑いを隠せなかった。が、話を聞いた直後、すぐに理解した。



「…アドリ…いえ、レイ公爵は、この件をご存じなのでしょうか?」



「あぁ、勿論だとも」



宰相が即答し、えぇ、そうねとマルゴ王妃も頷いている。



「これが王国の総意という事で、お間違いありませんか?」



「でなければ王宮にて、このような話をする訳がなかろう?君さえ、レイ公爵夫人の座を諦めてくれれば、全てが上手く収まる」



王妃と宰相を交互に見やる。二人の様子に、迷いは無いように思えた。



「ご下命、しかと拝しました。最後にレイ公爵と、お話する事は叶いますでしょうか?」



目を伏せ小さく頭を左右に振り、宰相が答える。



「彼の国とのやり取りで、時間の調整が付かない。すまないが面会は諦めて欲しい。どうしても、と言うのなら書面を預かり渡す事は可能だが、どうする?」



「そう、ですか…。では手紙を、お渡し頂きたいと思います。この場でしたためても宜しいでしょうか?」



「あぁ、構わない。すぐに用意させよう」




―――こうして9年に渡る婚約が、いとも簡単に白紙に戻された。






然程長くなく、何の変哲もない別れと御礼の手紙を書き、帰宅の途に就いた時には大分日が傾いていた。自室へと戻ると、我慢を自覚していなかった涙がポロポロと零れた。好かれていなかったのは確かだが、アナイス自身はアドリアンの事が好きだった。無口で自分の事をあまり話さないくせにアナイスの話はちゃんと聞いてくれる所、二人の茶会を忘れずにいてくれる事、闇夜の髪を幾ら畏れられても折れない心、どんなに自分が辛くても必ずやり遂げる強さも。数えたらキリがないくらい、沢山上げる事が出来た。1つとして、本人に直接伝えられなかったのが、今になって悔やまれた。



だからこそ、だ。




この9年間、アナイスに付き合ってくれたアドリアンに感謝を込めて、潔く身を引こう…そうアナイスは決めた。…だがこの王都に居る限り、折角覚悟を決めた後もアドリアンが目に入る事もあるだろう。新しい婚約者が気にならないと言えば嘘になるが、二人が寄り添う所を見るのは、正直まだ辛いものがある。心が狭いと言われようとも、今のアナイスは、自らが離れる事を選択した。



決断してしまえば、後は早かった。涙を拭き、頬を軽く両手で叩き気合を入れた。



先程より少し軽い足取りで、デマレ侯爵の執務室へと向かって行った。








「信じてないわけでは無いが、それが我が国の意見で間違いはないんだな?」


重々しい口調でデマレ侯爵が口を開いた。



「はい、マルゴ王妃とルーセル公爵から、言質を頂いております。彼の国との繋がりを強固にするため、と」



「そうか…、分かった。報告を受理しよう。…さぁ、侯爵としての対応はここまでだ。これからは父として話をさせてもらうよ。アナイス、よく一人で戦ってきたね。辛かったろう」


そう言う父は、アナイスよりも悲しそうな顔をこちらに向けた。泣くまいと決めていた心は、あっという間に崩れ去り、目の前の父に駆け寄り、声を上げて泣いた。淑女として到底褒められるものではなかったが、その時ばかりは誰も咎めはしなかった。



「っぅ、…お父様…私、当分の間、王都を離れたいと思います…」



「…あぁ、それがいい。…そうだな、アガタ姉さん、ゲラン伯爵の所で過ごすのはどうだい?あそこなら王都から大分離れているから、噂すら中々届かないだろう。伯母さんも喜ぶに違いない。すぐに手配をしよう」



「えぇ、私もその様にお願いしようと思っておりました。お願い致します」



ゲラン領はデマレ侯爵の姉が嫁いだ伯爵家であり、国境を守る辺境伯だ。周りを木々に覆われた山深い場所であり、瑞々しい大気が心地良く、アナイスが好きな場所の一つでもある。王都から馬車で最低半月は掛かる為、流行りの情報などは1年以上遅れて入る程だ。このように不便な立地であったが、今のアナイスにとっては逆に好都合。部屋に戻った途端に、王都を離れる準備に取り掛かった。




翌日、王宮より伝令がやってきた。王国指示による婚約撤回と、両国同意の元に新たな婚約が結ばれたという内容だった。デマレ侯爵と共に、二つの正式な書面を確認した後、アナイスはゲラン辺境伯の元へと旅立った。






◇◇◇






ヴィクトリアはシュヴァリエ王国に仕える、ダンテス公爵家の令嬢として生まれた。白金に近い金髪に、翡翠色の瞳。彫刻と見間違うばかりの、つるりとしたきめ細やかな白い肌。誰もが羨む、美しさを持っていた。6つと3つ差の兄がおり、公爵家初の女児として、非常に甘やかされて育てられた。充てがわれるもの全てが一流品で統一され、最上級でなければ物も人も近づく事すら許されなかった。その為か貴族の令嬢であるにも関わらず、15歳にしても尚、婚約者が決まっていなかった。決まってなかったというのは、少々語弊があるかもしれない。幾多の候補者がいたが、ヴィクトリア自身が誰一人として認めず、烙印を押され消えていったというのが事実である。



そこへきて漸く、彼女のお眼鏡に適う相手が現れた。それがアドリアンであった。しかし彼には婚約者がおり、普通なら諦めなければならなかった。常人なら…だ。しかし、彼女はそれとは縁遠かった。ヴィクトリアは生まれてこの方、全て自分の思う通りに叶えてきた。欲しい物、場所、人でさえも。だから今回だって例外ではない。それが他国の要人だろうと、何ら躊躇(ためら)いはなかった。しかもアドリアンの相手は、ただの侯爵令嬢、ヴィクトリアの足元にも及ばない。あらゆる権力を駆使し、婚約を白紙に戻し、両国の国交をチラつかせ見事許嫁の座を勝ち取った。やはりヴィクトリアは勝利の女神、この名前に偽りはなかった。



世界を手中に収めたような、恍惚とした痺れに一人酔いしれていた。





それから少しして、両国の王族立ち合いの元、正式な婚約が結ばれた。ラファエル・アヴェーヌ王子の誕生祭から1週間程度しか経っていなかったが、ヴィクトリアにとって、(かつ)てない程待たされたと感じていた。少々不満を募らせていたが、アドリアンを目にした途端、その気持ちも吹き飛んだ。彼とちゃんと目を合わせるのは初めてであったが、一筋の光も許さない暗黒の髪と、意思の強さを表すような赤く燃える眼に満足した。現在、地上に居る全ての生き物の中で、最も高い魔力を持つアドリアン。彼こそがヴィクトリアの隣に並ぶことを許される、唯一の存在だと再認識した。





婚約後、レイ公爵邸にて親睦を深める為の茶会が催された。侍従達を除けば、アドリアンとヴィクトリア2人だけの初めての時間。湯気が立ち込めていた真っ白な茶器から、熱が消え去っても尚、会話は無く護衛が息をするのも戸惑う程の静寂が流れた。最早、我慢比べの様な時間に、終止符を打ったのはヴィクトリアの方だった。



「私にとって両国の思惑なんて、どうでもいいの。あなたなら、私の横に並ばせてあげてもいい。…それだけの事よ」



居丈高(いたけだか)にそう言うと、手を付けていない冷めた紅茶を茶器ごと交換し淹れ直させる。ヴィクトリアの言葉を聞いたアドリアンの目から、生気が消え失せたのに気づきもせずに。



「18歳になるまでに婚姻の儀を行うわ。場所はアヴェーヌ王国で、一番の中央神殿ね。シュヴァリエ王国でもお披露目をするわね。……ドレスは生地から作らせたいの、完成までに最低でも半年かしら。私に見合う最高の品でなくては、いけなくてよ」



宝飾品は、靴は…と後から後から湧いて出る要望を、あれこれと連ねた。






婚姻に向け、ヴィクトリアは様々な準備の最終決断を行っていた。本来、婚約者二人が同席して決めなくては、ならない様な事案もヴィクトリア一人で行った。最初は自分を尊重しての事だと思えていた。だが、そんな状況が重なり続けると、ヴィクトリアと言えども一つの不安が湧き上がった。婚約者であるアドリアンの気持ちが、自分にあるのか…という疑問。一度気づいてしまえば、懸念は徐々に現実味を帯びてきた。



そこで、アドリアンの日常を(うかが)う事にした。特におかしな行動は無く、そつなく仕事をし、ヴィクトリアと過ごす時間もきちんとある。だが、気になる点を見つけた。ヴィクトリアと一緒に居ても、顔を赤らめる素振りがない。話を振っても殆ど返事はなく、あったとしても相槌を打つ程度。更には、一瞬たりともヴィクトリアと赤い目を合わせない。



これまで好意を向けられた事しか無かった彼女にとって、初めての体験だった。美貌、家柄、財産…どれを取っても申し分ないヴィクトリアが今まで出会った者達は、縁を結びたがり(つど)って来た。ヴィクトリアが許せば、狂喜乱舞して。



それが、どうだ。折角こちらが認めてやったというのに…、無礼ではないのか。



わなわなと震え出す。だらりと下された両腕は、(にわ)かに力が籠められる。



(何だというの?何故こちらを見ないのかしら。まさか…)





つまり、ヴィクトリアの事を愛していない。


「いえ、そんな事がある訳ないわ。ならどうして…」



今回の婚約について思索し、はたと気づく。彼には確か少しばかり面倒事があったな…と。そう、以前の婚約者の存在を。優しいアドリアンは、その者を思いやり、新しい愛の対象へ全力をぶつけられないに違いない。流石我が未来の夫、そんな取るに足らない者にまで心を砕くだなんて。しかし、ヴィクトリアを優先しないとは何事か。仕置きをしなくては…と、薄紅色の唇が弧を描き、少し嗤った。




「不要な物は片付けなくては…ね」




静かに侍従を呼びつける。言伝を頼み、礼をして部屋を出ていく後ろ姿を、氷のような笑みで見送った。






◇◇◇






アドリアンは、眠れぬ日々を過ごしていた。大事なものが掌から零れてしまった。逃げ出すだなんて思いもよらなかっただけに、対応が遅れてしまった。気づいた時には、大分遠くに行ってしまった後だった。



「…その程度の絆だったんだ」




灯りも付けずに、部屋の窓から空を見上げる。左手の中指に輝く、大粒のアメジストが(はま)った指輪を目の前に(かざ)す。新月の夜空は、アドリアンの髪と同じ漆黒に染まり、石の色も同化している。暗闇の中でそれを見る、赤い双眸(そうぼう)が熱を帯びる。



「少しだけ待ってあげる、今は自由を謳歌すればいいよ…。だけどもし、手に入らないのなら…この手で…、あぁ…」





宝石にキスを落とし、そのまま真っ赤な舌で、つーっと舐めた。






◇◇◇






辛かった婚約撤回が嘘の様に、アナイスは穏やかな日々を過ごしていた。





ゲラン伯爵家は息子ばかりが3人おり、夫人のアガタ伯母は常々娘が欲しいと言っていた。事ある毎にアナイスを領地へ招待し、いっその事こちらに移り住めばいいと言い、デマレ侯爵を呆れさせていた。今回、アナイスがやって来るのを一番待ち望んでおり、その喜びようは凄まじかった。



「アナイス、よく来てくれたわ、馬車は辛かったでしょう?さぁ、こちらでゆっくりして。足りない物があれば何でも言って頂戴、…忘れないで、私はあなたの味方だから」



なんとか泣くのを堪えたアナイスだったが、悲し気に少し俯きながらも気丈に振舞う様子を見たアガタに優しく抱きしめられた。



「改めて、ようこそ辺境ゲランへ!息子共は学園の寮に入っているし、旦那様は砦に居る事が多いから、女同士楽しみましょ」



コロコロと笑いながら、アナイスを迎え入れてくれる伯母に礼をする。



(こんなにも温かな人が、私には居るのね…)



一人一人の顔を思い出し、心の中で感謝をする。最後に黒髪の青年が脳裏を(かす)めたが、どうにかそれに蓋をした。




ゲラン邸に用意されていた部屋を、一目見て気に入った。扉をくぐって右手側に、大きな本棚が備え付けられていた。革張りの装丁がされた本が、ぎっしりと詰まっていた。



「アナイスは本が好きでしょう?ここは簡易的な私的図書室だったんだけど、そのままあなたの部屋として整えさせたの。外に出たくない時もあるでしょう…そうそう、この部屋のバルコニーから見る庭園も、なかなかのものなのよ」



そう言いながら、南側に面した窓を開け放つ。繊細な意匠が施された、白い手摺りの向こう側にシャクナゲの浅紅色(あさべにいろ)が目に入った。思わずバルコニーへと歩を進めると、眼下には水仙やチューリップ、勿忘草にアネモネが色彩豊かに咲き乱れていた。庭園の端に位置する東屋には藤棚があり、開花を控えた沢山の蕾が(ひし)めき合っていた。綻ぶ前のウィステリアは、房が穂先の様に集まっていて、見方によっては芋虫や触手にも感じる人もいるという。植物にだって、様々な面がある。ただ美しいだけのものなんて、一つも地上にはありもしないのに。取り留めのない事を考えながら、春の生命力に溢れる庭を眺めていると、ささくれ立った心が癒されていった。




アガタはアナイスに起こった事を聞こうとはしなかったし、無理やりどこかに連れ出そうとも何かをさせようともしなかった。アナイスは誰にも会う事なく、好きな時に好きなだけ本を読み、気分転換に刺繍を刺したりした。Aの頭文字入りのハンカチが、何枚か出来てしまった。無意識というのは…と苦笑したが、自分も同じだから使えるわ…と強引に納得した。



アガタとは毎日三回食事を共にし、良く晴れた日に庭の東屋で二人だけの茶会をする。その程良い距離感が、アナイスには心地よかった。そんな日々が続けば、きっとアドリアンの事も素敵な思い出に変わる…そう頭の片隅で思って過ごすのだった。






◇◇◇






その者は苛立っていた。中々敷地外に姿を現さない、標的のせいだ。視界に入っても、一人になる事がまず無かった。遠路遥々やってきたのに、ここでも足止めされるのか。割に合わない…、ギリリと歯を食いしばるも、即座に気持ちを切り替える。そう、焦っていては物事は上手く運ばない。そうして下手を打ち、表舞台から消え去った同胞が何人いた事か。気持ちを切り替え、入念に獲物の周りを調べる。



今日のように青空が広がる日には、午後から庭にて茶を嗜むのは把握している。媚薬を使い、飼いならした侍女をゲラン邸へ送り込んであり、本日決行する。抜かりはない、さっさと終わらせて、こんな詰まらない場所から早々に立ち去るとしよう…。







恒例となった茶会には、アガタが選りすぐった上質な茶器が並ぶ。アナイスは毎回、それを楽しみにしていた。今日は白地に金縁、端を薄紫に色取られ、赤いバラと白いリボンが散りばめられた華やかなものであった。伯母曰く、



「大好きな、ウィステリアの色に近い物を選んでみたの」



との事。そんな心配りが、じんわりと嬉しかった。二人のカップに紅茶が注がれ、(きらめ)く琥珀色の液体をゆっくりと見ていると、家令が俊敏な動きでアガタの元へとやって来て口を開く。



「お(くつろ)ぎの所、失礼いたします。奥様、旦那様からの言伝が早馬で来ております。(しば)し邸へお戻り下さい」



普段は顔色一つ変えず、何でもそつなくこなす彼が見せた焦りの色を、瞬時に察したアガタは席を立ちながらこう言った。



「ちょっと行ってくるわね。アナイス、あなたはここに居て頂戴。すぐ戻ります」



アナイスが頷くと、アガタは速やかに、その場を後にした。不安からか、鼓動が中々収まらない。目の前に置かれた薄紫のカップを手に取り、冷めた紅茶を一気に流し込んだ。




その途端、全身が焼ける様に熱くなり、指の先が痙攣(けいれん)した。言葉を発する間もなく、アナイスの意識は途切れた。




離れた所から様子を窺っていた、お仕着せ姿の侍女が目に涙を浮かべながら、震える手でアナイスの髪を一房切り取り、駆け足で消えていった。


















次で終わります!

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