< 肆 >
こんな食器、我が家にあったっけ? と思うような色とりどりの皿の上に、唐辛子を多く使った肉料理や、酸味のある卵の湯、川魚と青菜の煮込みなど、見た目にも豪華なご馳走が盛られていた。
ふわ、と湯気とともに食欲をそそる花椒のにおいが部屋いっぱいに広がっている。日頃から月が長旅から帰宅した際は、腕によりをかけて大好物を作ってくれる義祖母だが、今夜の量はいままでにお目にかかったことがないほど多い。
――だってそりゃ、沢山食べてくれそうな人間が多ければその分こっちも張り切るってもんだよ。
と、彼女はいっていたが、実際そんな理由でないことは痛いほど月自身が誰より一番わかっている。
所狭しと料理の置かれた桌子は、側面に飾り格子が彫られており、全体的な印象は重厚だが細部には繊細さが感じられる意匠である。勿論、ものとしてはそれなりに古いため、至る所に経年による劣化が見て取れるが、それでもまぁ悪い品でないことは確実だ。
ほこほこと、おいしそうなにおいが立ち上がるそこから睫毛を持ち上げると、向かい合わせに座るのは祖父母の姿。さらに、ツ、と視線を流していけば、格子の衝立で仕切られたその奥に茶器棚や薬棚、青磁の花瓶などが視界に入り込んでくる。
そのどれもが、目玉が飛び出すほどのものではないが、不注意で壊せばきっと祖父の怒りの鉄槌は間違いないと思えるほどには価値のあるものだ。――少なくとも、この廟では。
月の視線が遠くに這う中、ごく近くではカチャカチャという食器が小さくぶつかる音や咀嚼音など食事ならではのものが響いている。作法違反というほどでもなく、ごく常識の範囲内での音だというのに、何故、自身の神経に絶妙にチリチリと触れるのだろう。
「答え。私の大好物の棒棒鶏が根こそぎそこの悪人ヅラに奪われたから」
「……あ?」
最初から聞かせるつもりで呟いたその恨み言が、どうやらきちんと少年の耳に届いたようで、皿を抱え担々麺を貪りつつ少女へと意識を傾けてきた。彼の視線が自身へ落とされたことを受け、月は遠くに伸びていた視線を引き寄せると、眉尻をキッと持ち上げ隣に座る少年――狼を睨めつける。
しゃくしゃくと青菜を咀嚼する彼の面は、日頃よりお世辞にも褒められた人相ではないというのに、月のそれに合わせてさらに険悪なものへと変えていた。
「せっかく環さんの棒棒鶏楽しみにしてたのに、目の前で根こそぎガーッって取られた私の気持ちが、アンタにわかるっ!?」
「あァ? んなもんわかるわけがねェだろ」
「わかりなさいよ! 空気読みなさいよ……! ってか、普通、こういう場では遠慮するってのが筋じゃないの……!?」
こういう場――。
つまるところ、結婚の祝いの席。
饗宴と呼ぶには、当事者の他客が祖父母しか見当たらないが、祖父秘蔵の酒が出ており、室内の至る所に結婚を意味する赤の布が敷かれている。
(結婚は勢い、ってよく村の小姐ちゃんたちがいってるけど、絶対こういうことじゃない……)
都からの帰宅後――ひと眠りしたあとの昼過ぎに、明後日の方向に話を持っていく祖父とひと悶着があったわけだが、とりあえずその誤解はさて置くとして、出身地不明な狼の故郷をこの西白省・皙慶村に指定しようという話になった。
基本的に、故郷を変えるというのはよほどのことがない限り、取らない手段だ。勿論、故郷がわからない孤児である場合、望郷の念があるわけでもなく、死亡率が成人よりも高い乳幼児ならばとっととその日の内に儀式を行い、「魄」の情報を書き換えるということはよく聞く話ではある。
しかしそれが自我を持った年になると、例え故郷を知らずともなんとなく見知らぬ故郷に想いを馳せ、心の準備が必要だったりするものなのだが、狼はこちらが拍子抜けするほどその辺りに興味を示さなかった。
ならば、忘れないうちに済ませてしまおうと、狼を月の部屋へ投げ込んだその足でそのまま正房にある儀礼用の部屋へ赴き、とっとと彼の魂魄情報を書き換えてしまった。
そして――。
(でもまさかそのまま、勝手に結婚手続きまでされるとは思わなかったよねー!!)
宗派にも寄るのだろうが、この集落では全ての住民の冠婚葬祭を虎が取り仕切っており、当然その中に孫娘である月も含まれる。とりあえず誤解は追々解いていけばいいか、と、この暴走癖のある祖父を野放しにした自分が愚かだったといまは思う。
覚悟も自覚もなにもないままに、気づけば人妻と呼ばれる立場になっていた。
(まぁ被害者っていうなら、コイツも同じっちゃ同じだけどっ!)
月は大皿から、ひき肉と共に唐辛子で炒めた茄子を取ろうと箸を伸ばす。けれどその茄子は既のところで隣に座る少年の箸に掻っ攫われた。
「ちょ……! それはいま、私が食べようと思ってたいい感じの茄子……っ!!」
「あァ? 知るか。他にもまだ茄子残っとんだろうが」
「だってその茄子が一番おいしそうだった!! お肉いっぱい乗ってたしっ!!」
「はっ、相変わらず食い意地張ったでこっぱちだな、オイ」
「でこっぱちっていうなっつってんでしょ、この悪人ヅラ!!」
「大体、道士っつーのは肉魚食わねぇもんじゃねぇんか」
この粗野な外見からは想像もしていなかったが、意外にも丁寧な箸運びで口に入れた茄子をもぐもぐと食べる狼を、一度横目に睨みながら、月は少年のいう通りにまだまだ大皿に残されている茄子を掬い取る。
「あー。まぁ、なんか全体的にはそういう宗派が多いらしいけど……」
「宗派っつーことは、お前んとこは違うんか」
「ま、楊家は僵尸隊引き連れ、津々浦々歩き回っとる体力勝負の家業じゃからな。あれ食えんこれ食えんいうとったら、行く先々で飯食いっぱぐれるしの」
狼の疑問に、目元に大分酒気を帯び始めている虎が答える。どうやら昼間、環が村の酒屋で購入してきたそれなりにいい値段の白酒らしく、日頃浴びるように飲むくせに今日はちびりちびりと楽しんでいた。
「そういや月よ。さっき環さんに聞いたが、まだ仕事残っとるそうじゃの。お前、二か月近く前に出てったくせに、故郷にちゃんと送り届けんかったんかい」
「あー、うん。最初の依頼……陳さんは、ちゃんと送り届けたよ」
約二か月も前の話になるが、ここからさらに西へ五十里(約二十キロ)ほど離れた山村で、故郷を都・陽安付近に持つ陳という男が死んだという知らせが入った。死体の処理は、現地の巡捕(警察)と懇意にしているという道士がしてくれたらしいが、そこから先――故郷に送り届けるのは僵尸隊を家業にする者たちの仕事である。
至急、その山奥の村へ向かい、僵尸を受け取るとそのまま陽安近くの集落へ行き、遺族に引き渡したのだが――。
「ちょうど帰りに陽安に立ち寄った時に、偶然李巡捕長に会ってね」
「なんじゃあの飲んだくれ、まだ巡捕長なんぞに就いとるんか」
詳しいことは知らないが、どうやら陽安の巡捕長である李と祖父は若い頃からの知己であり、こうして住まう場所こそ離れてしまっているものの、腐れ縁でいまだになんやかんやと毒舌を交えつつも親交があるらしい。
「でね、突然急ぎの用だって連れていかれた場所が――、」
――すミませン。お客人ガお見えデす。
月の声が、その言の葉を結ぶ前に、格子扉の向こうから独特の抑揚からなる声がかけられた。桌子を囲む四名の視線が、瞬きと共に交わり、ほぼ同時に観音開きの扉が甲高い音と共に開かれる。
すぅ、と入り込んでくるのは冷たい外気。
開かれた扉の向こうには、藍色の旗装を身に纏う二十代前半の男がいた。その面は室内へと向けられているものの、視線は室内の誰に縫い止められているわけでもなく、ただ宙をぼんやりと見つめている。
「おや、こんな時分に誰だろね」と、もぐもぐ動かした口許を押さえながら、環が立ち上がった。そして、月たちに軽く目配せすると、青年を伴いながら閉めた扉の向こうへと去っていく。
「んだ、ありゃ? 使用人か?」
「あー、紹介してなかったっけ。あの人は、覇さん。うちで暮らしてる僵尸……みたいなもの、かな?」
「…………は? 僵……?」
狼の言の葉が俄に疑問符で染め上げられた。
(ま、そりゃそうなるよね)
どこかぼんやりとした印象こそ受けるものの、覇は一見普通の生者となんら変わりのない外見である。硬直した身体もなければ、制御するための額の符呪もない。当然その面には死に化粧など施されておらず、十人中十人がまさか僵尸だとは思わないだろう。
「僵尸って、『魂』が『魄』から抜け出した人間が、正しく埋葬されないとなるもの、じゃない? 基本的には」
「てめェは生きとる人間を嬉々として僵尸にしようとしてたけどな」
「……いい加減しつこいなー、もう。……まだ忘れてなかったわけ?」
「たりめーだ。つーか、忘れるかボケ」
「で、まぁ、そんなわけで普通は『魄』がこの世に残されるのが普通なんだけど――」
長くなりそうな恨み言をさらっと流すと、月は青磁の茶器を手に取り、その中の茶をズズ、と口へ含んだ。揚げた茄子と肉の餡の濃い味がいまだ残る口内に、ふわ、と茶の香りが広がる。
ちら、と見れば、狼の前には虎と同じく酒が置かれており、祖父ほどではないものの、それなりにイケる口らしい。いい酒を前に、それなりに機嫌がいいのか、月が話を無視したことを特に咎めることなく、ぐい、と七宝焼きの酒器が煽りながら、視線で続きを促してくる。
「私も詳しくはよく知らないんだけど、覇さんはなにがどう間違っちゃったか、『魂』だけがこの世に残っちゃったらしいんだよね」
「……んだ、そりゃ。んじゃ『魄』の方はどうしたよ」
「だから、死んじゃってるんだって。今ごろ故郷――まぁ、ここなんだけど。ちゃんと埋葬されてるよ」
「……普通、死んだら『魂』は天に昇るもんじゃねェのか?」
「普通はね。でも、覇さんの場合、死んだ後に『魄』が埋葬されても、いつまでもこの世に『魂』が残り続けたの」
その理由として考えられるのは、恐らく未練というものなのだろう。
道士として、強制的に「魂」を昇天させる方法がないわけではないが、けれど、本来ならば「魄」から離れた「魂」というものは勝手に天へ昇っていくものであり、その摂理を押し曲げてでも留まろうとする未練の鎖は、そう容易く断ち切れるようなものではない。
覇もまた、幾度も昇天を試してみたが、「魂」がそれを全て拒絶したという。
「でもまぁ、宿るべき『魄』を失った『魂』が、幽鬼になるのも自然の摂理ってやつなのよね」
「んじゃあの覇ってやつは、僵尸じゃなくて幽鬼だろ」
「ううん。僵尸だよ。幽鬼なら見鬼の眼を持っていないと見れないけど、環さんも、覇さん見えてたでしょ」
それに幽鬼ならば、実体が存在しないので触れることも触れられることも基本的には出来ないが、覇は先ほどのように扉を開けることも出来るし、彼へと触れることも可能だ。
「ま、それでもそのままでいたら幽鬼として皆に迷惑かけることは見えておったからの。儂が俑(人形)に覇の『魂』を入れて、動く死人にしてやったんじゃ」
ちびりちびりとひとり、酒を楽しんでいた虎だったが、どうやら月たちの会話が聞いていたらしく、とろりとした視線を向けてくる、
「俑……か。だから、あいつ目線がどこ向いてっかわかんなかったんだな。それでも、僵尸と違って『魂』があるから、会話が成立するっつーことか」
「そうそう。身体が『魄』じゃなくて俑だから、陽の下も歩けるしね」
それでも何かの拍子に俑から「魂」が抜け出てしまう可能性もあるため、ひとりで外出などはさせることは出来ないが、環の買い物などに荷物持ちとして付き合ってくれたり、月不在の折には虎の儀礼の手伝いなど嫌な顔ひとつせず――正確には、俑にはそんな細かな表情が出来ないということなのだが――やってくれるため、楊家において欠かせない存在である。
「あ、そうだ」
ふと思い出したように声を零しながら、少女は、器に入った点心を散蓮華で掬う。豆乳を固めたものに甘い蜜の絡め、クコの実や小豆などが乗せられたその点心は、この地域で人気の豆花と呼ばれるものだ。
つるん、と白いそれを吸い込むと、口内に広がるのは幸せの甘さ。この地方の料理は基本的に辛いものが多いが、箸休めにもなる点心は対極にある甘いものが好まれる。
月はこく、と滑らかなそれを嚥下すると、面を持ち上げた。
「私、明日の晩にでも僵尸連れて旅に出るつもりなんだけどさ、アンタはどうせ行くとこもないし、ここに残るでしょ? だったら多分、覇さんの手伝いすることになるから、戻ってきたら挨拶しとけば?」
「あ?」
「ちゅーか、月。話逸れとったが、お前結局まだ仕事残っとるんかい」
「あー、そうだ。そもそも話の途中だったね」
それで、どこまで話したっけ。
少女が思い出すように視線を宙へと彷徨わせたその直後――。
「あー、ちょっと皆、いーい?」
来客に出向いていた環がどうやら戻ったようで、扉の向こうから声がかかった。誰となしに是と答えると、観音開きの格子扉がゆっくりと押し開かれる。
す、と入り込むのは、先ほど覇が訪ねたとき同様、冷たい空気。
ふわ、と切りそろえられた少女の前髪が、額の上で小さく揺れる。
月の睫毛が一度上下し、開かれた瞳がその先に見知った顔を見つけ出した。
「月月……」
絞り出したような苦しげな声音が、冷たい空気に滲む。
「え、礼礼!?」
驚きに、語尾を持ち上げた少女の声が、突然の来訪者に冷える室内に響いた。