< 参 >
ふわ、と頬を掠める風が、先ほどよりも冷たさを増していた。
落とした視線の先にある自身の影は、昼間よりもその頭身が伸びており、つ、と視線を持ち上げ西の空を見遣れば、端の辺りに橙色が滲んでいる。どうやら気づかぬうちに、大分時間が過ぎていたらしい。
「秋、そろそろ店じまいしようか」
「おや。もうそんな時間ですか。はい、礼令郎ちゃん」
くるりと踵を返しながら、店の中にいる中年の男へ声をかけると、桃包(桃饅頭)のような顔が向けられた。礼と呼ばれた少年は唇に弧を描くと、地面に置いていた甕をふたつ、両腕に抱える。
軽く編まれた髪を背で揺らしながら立ち上がると、陶器の甕の中にある酒がちゃぷん、と波立った。重心が左右に振れるのを御し、少年は慣れた足取りで店内にある棚へとそれらを順に収めていく。
甕にはそれぞれ酒名と価格が書かれた札が貼られており、すべて彼の実家の酒蔵で蒸留された白酒である。
ここ、西白省の片田舎にある皙江村は、近くに大きな河が流れており、昔から酒造りが盛んな地域だ。礼の実家も古くからこの地で酒造りをしており、その初代はなんでも時の皇帝より「杜」の姓を与えられたという言い伝えが家に残っているほどだ。
(まぁ、当時のことなんてもう誰も知らないし、好きなこといえるだけだと思うけど)
ともあれ、故郷を転々と出来るわけでもなし、礼の家は先祖代々、この地で暮らしてきていた。この村での酒屋は礼の家のみなので、お蔭様で商売は繁盛しており、父は酒屋の管理を去年から息子に預け、自身は新たな酒造りに挑戦すべく雇っている職人たちと共に酒蔵に籠りっぱなしである。
石畳の路を挟んだお向かいもそろそろ店じまいをするようで、店の前に吊っていた乾物を次々に店主がしまう姿が見えた。日々の生活に困るほどの限界集落でもなければ、きらびやかな豪邸が立ち並ぶほどの都会でもないこの村の唯一ともいえる名物は、村のやや外れにある廟に住む道士だろうか。
少なくとも、少年が生まれたころにはすでにこの村での儀礼一切を取り仕切っていた熟練者の道士であり、また僵尸隊を率い、故郷へ戻すという家業も持っている人物だ。
(月月が出かけたのが、秋の終わりくらいだったっけ……)
すでに高齢ということもあってか、家業である僵尸隊の引率を譲られた彼の孫娘の名を心で呟きながら、礼は笑みを描いた唇のまま小さくため息を吐く。仕事に出かける際は必ず挨拶に寄ってくれる彼女だが、かれこれもう二月近くその姿を見ていない。
基本的に人の多い都市には、死んだ人間をすぐに処置するために巡捕(警察)直轄の道士がいるらしいが、彼らがその僵尸を連れて故郷に連れていくわけではなく、その役目はかつて国から僵尸隊を率いるように命じられた末裔が行うものらしい。
件の道士一家もまさにその末裔であり、主に都心部の道士から連絡を貰い、死体を譲り受け、その故郷に届けることが生業だ。故に、時によっては一度出かけ、そのまま他の仕事を請け負うために何ヶ月も戻ってこないもよくあるのだが。
(元気にしてるかなぁ……。月月、すぐにお腹すかせちゃうけど……ちゃんと食べてるのかな)
この村から一度も足を踏み出したことのない自分にとって、街から街へ、都市から都市へと渡り歩く彼女の生活はなにもかもが未知数で出来ている。幼いころは毎日のように同じ時間を過ごしていた彼女が、いまや自分だけの世界を持ち歩き出していることが、どうにも信じられない。
「あ、そういえば……、いい忘れておりましたが。令郎ちゃん」
「んー?」
「いま、月ちゃん帰ってきているらしいですよ」
「っ!?」
ちょうど彼女を思い浮かべていたせいか、秋の言葉にビクッと肩が大きく揺れた。驚きのあまり危うく腕に抱えた甕を落としそうになり、少年は慌ててそれを抱え直す。
胸の前で、カチ、と陶器の重なる音が小さく響いた。
中で酒がたぷんたぷんと揺れているようだが、どうやら大惨事は免れたようだ。礼は、はーっと先ほどとは意味合いの違う長いため息を吐きながら、その場へ蹲った。
長衫の裾が、石畳の上でぱたぱたと風を孕み揺れている。
「あぁ、吃驚した。落とすかと思った……」
「良かったですねぇ」
幼いころより自身を見守ってくれていたこの主管人(番頭)のこの言葉は、甕を落とさなかったことか、それとも件の少女が戻ってきていることを指しているのか。いままで特に月への自身の想いを指摘されたことはないが、彼は一体どこまで知っているのだろう。
礼は頬の高い位置に熱が集まるのを感じながら、胸の内側の鼓動が落ち着くのを待って、す、と立ち上がり、何事もなかったかのように再び抱えた甕を棚へと収めた。
「で、月月、帰ってきてるって?」
「えぇ。さっき令郎ちゃんが老公さまの酒蔵に行かれてるときに、環さんがお見えになりましてね」
「あぁ、今晩の楊老師の晩酌用か」
高齢の割に――というか、むしろ酸いも甘いも知り尽くした高齢だからこそ、か。彼の道士は、度数の高い酒ばかりを好んで飲むのだ。
「えぇ。それだけでなく……なんでも客人? がいる……とかで……」
「客人?」
礼は瞼を上下させながら、秋を見遣る。あの老人がどこからともなく孤児を連れて帰り、養子とすることはよくある話だが、その場合、秋は「客人」といういい方をするだろうか。
「楊老師がどっかからまた養子貰って来たってこと?」
「いえ、環さんから軽く聞いただけの話なんで、よくは知らないのですが。どうやら、今回は月ちゃんが、迷子を拾ってきたみたいですよ」
「……迷子ってことは、まだ幼いのかな。どこで拾ったの? 巡捕には相談したのかな?」
「いや~、どうやら、月ちゃんと変わりない年齢って聞きましたけどね」
「はぁ?」
月は自身と同い年だから、十六のはずだ。
仮に道に迷っているにしても、流石にその年頃の人間を「迷子」とは称さないだろうし、なにより、恐らく会話が取れるような相手をわざわざ家まで連れ帰ってくるものだろうか。
(よっぽど、家が遠いとか?)
否。
きっと違う。
(なにか……)
ワケありの人物に違いない。
そう。
例えば、どこぞの家出娘を拾って帰ってきただとか。
(あぁ……もう。だとしたら、ほんと、お人よしだなぁ)
でもきっと、彼女がそうしたのならば、放って置けないだけの事情があったのだろう。
礼は頬に滲んだ苦笑を食みながら、腕に抱えた最後の甕を棚へと置くと、手をパンパンと叩き、埃を落とす。そして、今日の売り上げについての帳簿を捲る秋へと面を向けた。
「じゃあ僕は、月月帰ってきてるなら、これからちょっと挨拶してこようかな」
恐らく明日にもなれば、彼女の方から帰宅したことを伝えるために訪れてくれるとは思うが、もしかするとそのまままた新たな旅に出る可能性もある。
「あ、月月が連れてきたその人ってお酒飲めるかな?」
月はまだ子供舌のようで酒を好まず食べ物ばかりに目が行くようだが、同じ年頃ならばそろそろ酒のうまさを知っていてもおかしくはない。
礼が棚を端から追っていくと、女性から飲みやすいと評判の白酒の甕が見つかった。製造年は、月と自身の生まれた十六年前。かなり重厚な深い香りが楽しめるその酒は、それでも甘さがかなり強く、この村の若い女性に人気があるものだ。
(あ、これちょうどいいかも)
よいしょ、と手を伸ばし、礼がその甕を手に取った、その瞬間――。
「あぁ、環さんが結構イケる口っぽい師哥さんだ、といっていたので、大丈夫じゃないですか」
ぺら、と帳簿を捲りながら秋の声が少年の背へとかけられた。
「え」
どこか他人事のように疑問符ばかりが宿った声が、少年の唇から零れ落ちる。
同時に、彼の手にあったはずの甕がすとん、と落下し、鋭い音と共に床の上に芳醇な香りが散らばった。